前日譚<1> 方伶世の回想

 人は一人では生きていくことの出来ない生き物だ。なのに、いつも自分と相手とを比べてしまう。比べて、真っ直ぐに答えを受け入れられるものは少なく、大抵の場合は劣等感か優越感を抱く。そして勝手に好きになったり嫌いになったり、認めたり見下したりする。
 そうして自分の居場所を見つけて守っていく。
 ただそれだけのことだと分かっていたのに、方伶世の胸中は悲しみと悔しさと情けなさで満ちていて、今すぐにでも逃げ出したい。それだけが何度も何度も繰り返しやってくる。
 この国では十五の歳から始まる三年間の儀礼を終えると成人として扱われるようになる。今はその成人の儀――中科の一年目が終わったばかりで、伶世が一人前になる為にはまだ半分以上の期間が残っていた。中科では三年にわたって見習いの官吏として過ごす。十五の春に受けた試験で伶世は女官の適性がある、と判断されていた。
 年頃の少女にとって女官は憧れの職業で、華々しい衣装や、社交界の雰囲気から志望欄に「女官」と書くものが後を絶たない。それでも枠の数は決まっているから、尚書――人事を担当する役所の官吏が適性を最優先に考えて結果を出す。伶世は人気の高い女官を志望するような勝気な性格ではなかったから、どこか難しくない府庁の文官にでもなれたらいいと思っていた。なのに尚書が発した通達の文には、はっきりと大きな字で「少初位下 茶房」と書かれていて、伶世は何度も通達文を見直す。
 茶房、というのは女官の位階の一つだ。その名前が示す通り飲み物を供するのが主な仕事で、上手く行けば府庁の衣食住のうち、食に関わる官吏として昇進していくことが出来る。ただ、中科は三年しかなく、茶房よりも上位の位階を得ることは難しいだろう。
 だから、この通達文が持っている意味合いはそれほど重くはない。人から羨まれる要素も少ない。
 そこまでをどうにか理解して、伶世の茶房としての人生が始まった。
 筈だったのに、現実はそれほど甘くはなかった。
 伶世が配属されたのは右官府兵部警邏隊戦務班という部署で、上官は思っていたより穏やかだった。右官府は武官府だから気性の荒い官吏が大半を占める。その中で、戦務班を取り仕切っている劉子賢という校尉は文官出身ではないかと思うほど温厚さだ。その穏やかさに伶世の緊張も解れていく。
 毎日、朝午夕の三度、程よい熱さの茶を班の全員に配った。左官府――文官府には休日という概念があるが、右官府に固定された休日はない。全員が不定期に休みを取る。見習いの官吏だが伶世もその制度は例外ではなく、方家の両親が女官になった娘を誇っていたのは最初のうちだけで、不定休の生活を半年ほど続けると不安そうな顔をしていた。
 大丈夫だから。右官府というのはそういうところだから。茶を出すだけの仕事だから困難はないから。
 何度も何度も両親にそう説きながら、その実、自分自身に言い聞かせてきた。
 実際の「茶房」の仕事は茶を煎れることだけではなく、茶を煎れる為の水を買い付けに行ったり、茶器を洗う為の水を井戸から汲んだり、茶と一緒に出す菓子を餡から作ったりと力仕事から調理まで幅広く、豪農の一人娘として育った伶世には中々つらいものがあった。それだけでも十分に心が折れてしまいそうだったのに、茶房の仕事は、戦務班の隣に位置する警邏隊本部や反対隣りの軽歩兵隊の茶房たちと協力しなければならなかった。
 伶世が方家の娘であると知った他の茶房たちは敬遠して話しかけてこない。こちらから声をかけても無視をされる。偶に言葉を交わす機会があれば、それは仕事を伶世に押し付ける為で、最初の三か月でここから逃げ出したい。心の底からそう思った。
 一年目はそうして耐えてどうにか終わった。中科は一年ごとに配属される場所が変わるのが普通だ。次の配属先ではもっと上手くやろう。そうすればこんなにつらい思いはしなくてもいい筈だ。
 そう、思っていたのに。

「嘘……」

 三月が終わる頃、伶世に宛てて出された辞令を見て、彼女の意識はどこかに飛んで消えそうになった。方伶世、安堵。それだけしか書かれていない通達文は伶世に絶望しか与えなかった。安堵、すなわち現状維持だ。今年も伶世は警邏隊戦務班の茶房として務めなければならない。上官が悪いとか、与えられた仕事が難しいとか、そんなことは思わない。ただ、別の場所に行けば楽になれるかもしれないと願っていた。その、小さな願いが打ち砕かれて伶世の目の前が真っ暗になる。
 もう駄目だ。
 それしか伶世の中にはなかった。
 一人で三部署の水瓶を満たすのも、大路まで出て水や食材を買うのも、夜半まで続く菓子の仕込みも何もかもがまた一年間続く。
 絶望で塗り潰された心を抱えて、それでも出仕しないという選択肢がなくて、四月の戦務班に顔を出した。
 そこに、生まれて初めて見る本物の希望がいた。
 彼の名前は戴文輝――豪農である方家など結局は農民だと思い知らされる、本物中の本物の貴族だった。文輝の生まれである戴家はこの国では九品と呼ばれる特別な家柄で、生まれながらにして文輝には高官になる道が用意されている。生まれて初めて見る本物の貴族の少年は人生のつらさなんて一つも知らないような底抜けの笑顔で戦務班の執務室にいる。存在を望まれ、受け入れられ、苦労をしたこともない。そんな印象を抱いた自分に気が付いて、伶世だってほんの一年前までそうだったじゃないかと否定する。
 それでも。
 三年間の中科を終えれば、婚姻の約束を交わした相手のもとへと嫁すことが決まっている伶世と違って、彼の人生は素晴らしい展望に恵まれているのだろう。その最後の一年に伶世の存在は必要ではない。いてもいなくてもいいような立ち位置を得て、そうして苦痛を耐え忍ぶしかない。
 そう、思っていたのに。

「伶世。水拭き、終わったぜ」
「小戴殿はいつもお早いのはよろしいのですが、仕上がりが少々雑ですね」
「どこがだよ」
「華軍殿の机の上に綺麗な筋が付いておりますよ」
「あっ!」

 文輝が伶世の仕事を手伝いたい、と言い出したのはひと月ほど前のことだ。
 早朝、いつも通りに出仕すると執務室の前の回廊に文輝が立っていた。武官見習いというのも存外大変なものだなと思いながら、朝の挨拶を口にすると文輝は太陽の笑顔を伶世に向けて、そして思ってもみなかった一言を口にする。

「伶世、俺にも手伝える仕事はないか」

 この方は何を言っているのだろう。文輝の言葉の意味を上手く咀嚼出来なくて伶世はしばらくの間ぽかんとした顔をしていた。なのに、文輝はそれを嘲ることもなく、太陽の笑顔のままでもう一度同じことを尋ねてきた。
 慌てて伶世は文輝の軽挙妄動を留めようとするが、それも彼には伝わっていないらしい。

「小戴殿は武官見習いであられるのではないですか?」
「同じ中科生のお前が俺よりも朝早く来て、俺よりも夜遅く帰るのはおかしいと思わないか」
「それが茶房と庶務官の違いなのではありませんか」
「俺はそうは思わん」
「では小戴殿はどうなされたいのですか」
「だから、言っているだろう。お前の仕事を手伝わせてほしい」

 自分の主張の正当性を少しも疑っていない、少年らしい愚直さで文輝はそう言う。
 そう言うのだが、文輝の主張を容れると世間の――他の府庁の茶房からは去年の比ではない程度の嫌がらせを受けるのが目に見えている。だってそうだろう。伶世に今、手を差し伸べているのは三男とは言え、九品の直系男子で伶世の身分からすれば雲上の相手だ。その、九品の文輝が伶世の手伝いをしている、と知れば他の茶房たちは伶世が文輝に取り入ろうとしていると思うのはもう目に見えている。
 そのぐらい、伶世の一年は多くの負の感情を彼女に与えた。
 なのに。

「伶世、つらいときにはつらいと言え。一人で背負い込みすぎだ、お前は」
「何のことでしょう、小戴殿」
「いいか、よく聞け伶世」

 警邏隊戦務班の水瓶は全部で三つある。伶世の細い腕では水瓶を一つずつ運ぶのが精一杯で、文輝が見ているだけでも非効率的すぎる。三往復を終えた後の伶世は疲労困憊でしばらくの間、休まなければならない。しかも、それを三部署分だ。だから。文輝がそれを手伝えば伶世の負担は減る。
 手伝わせてほしい。文輝が真っ直ぐにそう言うのを聞いて、伶世は一年ぶりに人の優しさに触れた気がした。
 ただ。

「お気持ちだけで十分です。水瓶の水を満たすのは私たち茶房の仕事。小戴殿のお力をお借りするまでのことではありません」
「伶世、お前も中々強情だな。だが、覚えておけ。俺は一度言い出したことを簡単に引っ込めるつもりはない」
「小戴殿のお手を煩わせていると知れば、生家の両親は縮み上がります。私にしても同じです。ですから、小戴殿はどうかゆっくりと武器の手入れをなさっていてください」

 それが文輝の武官としての務めではないのか。そう含ませて少し早口で言い切った。
 火中の栗を拾うような度胸は伶世にはない。万事十人並み。それでいいと思っていたし、今も思っている。去年は少し失敗してつらかっただけだ。今年はもう少し上手くやれる。だから、誰かの――文輝の施しなど不要だ。
 そう自分に言い聞かせた。
 なのに。
 文輝は太陽の笑みのまま、眼差しだけがすっと鋭さを帯びる。

「伶世、人が怖いか」
「何を、仰っておられるのですか」
「人目を憚って、誰の目にも留まらず、ただ俯いて一人で耐えるのはそれほど楽しいのか、と聞いている」
「なっ」

 何を言うのだ。侮蔑にもほどがある。伶世の気持ちも、立場も何も知らないで適当に自分の正義感だけで生きていることを許された文輝には一生わからない。分かり合えない。
 誰も好き好んで一人で耐えているわけではない。両親に正直に全てを話してしまおうかと思った日が何度もある。方家の後ろ盾があれば、戦務班を通り越してもっと上の役職者に告げ口をすることは決して不可能ではないだろう。
 それでも。
 伶世にも矜持がある。結局は親に頼るのか。そう言われるのは別の意味で屈辱だ。だから、耐えた。中科の三年を耐えられないような人間のその後の人生など高が知れている。だから、耐えた。耐えようと思った。今も、耐えている。
 なのに。
 文輝はその辛抱をよしとしない。

「伶世、世界というのは人だ。人が怖いやつの居場所なんてどこにもない」
「あなたに私の何がわかるというのですか」
「わかるさ。お前も知っているだろう。俺は九品だ」
「存じております。よく、存じております。私とは本来無縁の方。ですから」
「なら、話は早い」

 伶世、俺には友人がいないんだ。俺の友人になってくれないか。
 前後の脈絡から跳躍した言葉が聞こえて、伶世の思考は瞬間、停止する。何を言っているのだ、この方は。友人という言葉が聞こえなかったか。誰が誰の友人だ。自分が文輝の友人になる、というのはどんな妄言だ。だってそうだろう。文輝には同い年の九品の子息がいる筈だ。確か、程家の晶矢とかいう才女だ。その、才女を差し置いてどうして伶世のような凡庸な少女が文輝の友人になれるのだろう。そんなことは天と地がひっくり返りでもしない限りあり得ない。
 だから。

「小戴殿、お身体が優れないのでしたら医務班へご案内いたしますが」
「いい。一人で行ける。じゃなくて」
「お身体はよろしいのですか」
「よろしくなけりゃ出仕などしない」
「では」
「だから、何度も言わせるなよ。ここの中科生は俺とお前の二人じゃないか。上手くやっていこうって思うのの何が悪いんだ」

 それとも、お前も俺を遠巻きに差別したいのか。
 問うた文輝の顔面を思わず凝視した。嘘も偽りも阿りも何もない。ただ、手傷を負った獣のように酷く悲しそうな色の瞳が揺れながら伶世を見つめている。そこに不安を見出した。九品で出世街道が約束されていて、太陽の笑顔を持っている文輝にも不安という感情があるのだと知って、気が付いたら伶世は文輝の頬に手を伸ばしていた。

「伶世?」
「あっ。失礼を。お許しください、小戴殿」

 文輝の見た目よりずっとごつごつとした男性らしい手のひらが伶世の手を上から覆う。節くれだっている。でも、優しい手だ。そんなことを思って、文輝の体温に触れていることを実感した瞬間、伶世の中に焦燥と後悔が湧き上がる。今、自分がしたのは何だ。成人とみなされていないとは言え、男性の頬に軽々しく触れるなど女性としてあってはならないことだ。慌てて手を引っ込めようとしたのに、文輝の大きな手のひらが伶世を捕まえて離さない。
 そして。
 文輝は不意に真剣な顔をして言った。

「何だ、この指は」

 無礼だとか、女官としての品位を問う言葉だとか、そう言ったものが飛んでくるのを覚悟する。なのに、そんな硬質なものは一つも聞こえずに、文輝は柔らかく言う。

「伶世、女性はそんな風に手を荒れたままにしておくものじゃない。小姉上がいい薬を持っている筈だから明日、持ってきてやろう。約束だ。な?」

 そうして文輝は一点の曇りもない太陽の笑顔を伶世に向けると、そっと二人分の手を彼の頬から遠ざけた。そこに怒気が微塵も感じられなくて、伶世は戸惑う。雲上人、だなんて線を引いたのは誰だ。この方だって人間なのではないか。伶世が方家の娘だということで傷付いたのと同じぐらいか、それ以上の苦しみをこの方は背負ってきたのではないか。
 そんな感触が伶世の中に生まれた。
 多分、無意味だろう、と思ったが、その感触を幻にしたくはなくて言葉を紡ぐ。

「お怒りに、なられないのですか」
「なぜだ? 人の思いに寄り添ってくれる相手にどうして腹を立てる必要があるんだ」
「ですが、私は今――」
「女性に触れられるのが嫌だという男がどこの世界にいるんだ。しかも、その女性が俺の友人になってくれるかもしれない相手ならなおのこと腹など立つまい」

 そうだろう。伶世。
 その悪戯げな微笑みに、伶世の中でわだかまっていたものが霧散する。なるほど、九品というのは確かに別格の存在だ。自らの道を見出し、その道筋を信じ、貫くことに何の躊躇いもない。多分、文輝というのはその九品の中にあっても別格の存在なのだろう。女性に軽薄そうな口ぶりと真っ直ぐな笑顔。その落差で恋を錯覚する女性は多いに違いない。それでも、多分、文輝は恋愛の情を知らない。ただ、女性の扱いという知識を先達から教わっているだけで、その意味を深くは考えていないのだろう。
 それでも。
 そうだとしても。
 文輝は伶世を一人の人間として扱ってくれた。だから、次は伶世が答える番だ。

「小戴殿、茶房の仕事はあなたが思っておられるよりずっと大変ですが、それでもよろしいのですね?」
「無論。男に二言はない」
「では、まず、手順をお話します。こちらへ」

 文輝が本当の本当に茶房の仕事を手伝ってくれるというのなら、その好意を受け入れるのもまた好意だ。他の茶房たちからの風当たりはきっと強くなるだろう。両親に告げ口をするものだって現れるに違いない。
 それでも。
 伶世の人生で生まれて初めて「友人」になってくれる相手がいるのに、その気持ちを否定して拒絶することにどれだけの価値があるだろう。多分、どちらもが傷付いて何も得られない、最低の選択肢だ。
 だから、伶世は腹を括った。何なら本当に文輝の手つきになって、両親が決めた婚約を破棄することになっても構わない。そのぐらいの覚悟をした。
 だから。

「ありがとう、伶世」

 聞こえてきたとても小さな呟きのことは聞こえなかった振りを通す。
 伶世と文輝の友人ごっこは、やっと始まったばかりなのだ。しかも、期限が最初から決まっている。次の春まで。それまでの間に本物の友人になれるかどうかは二人の肩にかかっている。
 だから。
 この方の友人であれることを誇ろう。俯いたまま、この優しさを踏みにじる自分からは別離しよう。
 そんな風に心の持ち方を変えた。
 それからひと月が経った。茶房の仕事を一つずつ文輝に教えて、手伝ってもらううちに九品といえどもやったことのないことは出来ないのだ、とか、向き不向きという言葉には意味があったのだ、とかそんなことを体感する。今も、そうだ。机の水拭きを文輝に教えたのは七日も前なのに、彼は今も雑巾の使い方で四苦八苦している。九品も人だ。その結論を知るのが怖くて、自分の内側に閉じこもっていたことが愚かにすら思える。
 いつか。
 いつかでいい。
 この方が守る国の一部であることを誇れる。そんな自分になりたい、だなんて新しい目標を胸の中に掲げて伶世の今日がまた始まろうとしていた。
 

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