前日譚<2> 陶華軍の回想

 陶華軍の視界はもう何年も前からずっと色褪せていた。
 生まれたその瞬間から「読替」の罰を背負って、それだけでも十分つらかったのに才子としてただ研鑽を積むだけの毎日。育ての親である祖父母は華軍を劉子賢の手元に繋ぎ止める為だけに命を奪われた。
 二人の死を知ったその日から、華軍の世界には色がない。
 一人前の官吏として用いられ、首から下げた環に箔押された色が白から赤へと変わったが、それも華軍にとってはどうでもいいことだった。才子などと呼ばれても所詮、流民は流民。人に上手く使われて、そうして一生を終えるだけだ。そのことを苦しいとも思わないぐらいには、華軍の心は感覚を失っていた。
 季節の移ろいも日々の職務も、どうでもいい。華軍は子賢の駒なのだから、自らの感情など必要ない。求められるがままに才を使い、国主への謀反に協力した。華軍の世界に価値のあるものは一つも存在しない。自らの命ですら、どうなろうと構わなかった。だから、これは命果てる瞬間までの盛大な暇つぶしだ。大義も正義も関係がない。道に悖ることも平気でやった。明日、世界が終わるなら。もしそんな日が来たら心の底からやっと笑えるだろう。
 そんな華軍の世界に小さな明かりが灯ったのは首府での務めに慣れてきた、反逆のその日まで指折り数えるだけになった最後の春のことだった。

「華軍殿! 華軍殿!」

 不愛想で無口で業務だけを淡々とこなす華軍の戦務班での評価はそれほど高くはない。関わってくるのは上官であり、諸悪の根源である子賢だけで十分だったから、そういう貧しい人間関係を悔いたこともなかった。
 なのに。

「華軍殿! 桜が美しい庭院(にわ)を見つけたんです!」

 この少年――戴文輝は十日前、戦務班に配属されてきてからというものずっとこの調子だ。鶯が鳴いた、だとか季節外れの雪が珍しい、だとかそう言った華軍にとってはどうでもいいことで一々華軍に関わってくる。そういう煩雑なことは他の班員にでも話せ、と十日で何度言ったのか、もう数えきれないほどだった。
 声をかけてくる度に、今は職務中だと返せば、午の休みだとか終業の鐘が鳴った後だとかに話しかけてくるようになり、煩わしさが加速度的に増した。戦務班を預かる長である子賢には当然のことだが、この少年の監督義務がある筈なのに、いっこうに注意をする気配もない。寧ろ、華軍に話しかけることの後押しをしているような雰囲気さえあって、子賢が何を考えているのか、ますますよくわからなくなった。
 今日の話題は桜らしい。
 色彩を失った華軍の世界では淡い色の桜の美しさは認知されない。ただ、ぼんやりと霞んでいるだけで美醜など考えたこともなかった。それでも、執務室の中で交わされる談笑の中に何となく四季の移ろいを知る。桜か。それもそうだ。中科生が配属されてくるのは必ず春で桜の頃だ。事実の羅列としてそのことを理解しているだけの華軍には特別な意味などない。

「八条大路の白帝廟ならば既に知っている」
「違います! 左官府の、刑部の書庫の塀の向こうです!」
「小戴、正気か? 右服を着てぞろ、左官府へ花見などどうかしている」
「いいじゃないですか! 左官府だって中城の一部です! 美しいものは皆で共有するべきだと俺は思います」

 ね、戦務長もそう思われますよね?
 言って何の曇りもない眼で文輝は上長である子賢に話題を振った。この流れになるのはもう五度目だ。今回も子賢は文輝に付き添って問題が起きる前に戻ってこい、という指示を出すだろう。
 華軍は胸の内でそっと溜息を零す。
 九品の子息、というのはそれだけ特別な存在なのだろう。国家転覆を企んでいる子賢ですら、適当に扱うことをしない。建前上の問題だろうというのは理解していたが、ここは学舎ではない。馴れ合いがしたいのならば修科に進んでから好きなだけやれ、と思うと同時に、文輝の人生から修科を奪うのは自分だ、と思う。子賢は今年のうちに計画を実行すると決めていた。成功すればこの少年の未来は完全に失われる。その最初の一手を下すのは華軍だ。
 罪悪感などというものとは十年以上も前に別離した。
 だから、別段、文輝の将来を潰すことに口を差し挟むつもりもない。
 その筈なのに、文輝が声をかけてくる度、押し殺したものが少しずつ起き上がってこようとするのを感じる。本来の自分、とでも言うのだろうか。本当に馬鹿馬鹿しいのに、そういう感覚があるのは事実で、華軍自身がこの状況に一番戸惑っていた。
 子賢はそれを知っているのだろうか。見抜いていて、それでもなお華軍を傷付ける為に敢えて文輝をけしかけてくるのだろうか。
 そんな疑問すら抱く。疑問を抱いて、それを言葉にすることは許されていないと改めて知って、自分の人生など女官が使う雑巾よりも価値がないと痛感する。
 
「華軍。左服どもに煩く責め立てられる前に戻ってこい」

 想定の範囲内の指示が聞こえて、頭痛が華軍を襲う。溜息を零しながら、子賢に不本意である旨を伝えるとこの十数年ですっかり見慣れた上っ面だけの苦笑いが返ってきた。溜息がもう一つ零れる。

「行かない、という選択肢はどこへ行ったのですか」
「その選択肢がほしいのなら、お前が小戴を説得するのだな」
「俺の話などあれは何も聞いていないのに?」

 文輝の頭の中にあるのは華軍と花を見に行くことばかりで、華軍の否定や拒絶は見えていない。
 十七の中科生にしては幼すぎる。九品の一つ、戴家の三男に生まれ甘やかされ、慈しまれ、何の不自由もなく育ってきたのだろうと簡単に想像出来た。華軍の人生とはまるで様相が違う。華軍の人生が月夜を歩く道だったのなら、文輝の道は快晴の春の庭院を眺めるだけの道だ。穏やかで暖かで傷付くこともなく、願って叶わないことなど何一つもない。
 それを羨んでいるのか、と尋ねられると少しばかり返答に困る。
 文輝の道には華軍の道になかったものがあふれている。それでも、そんな夢物語を描いた自分などいない。本当に文輝が羨ましいのかと問われると、実際問題、望外すぎて羨む気にもなれない。そう返すのが精一杯だ。
 子賢と華軍のやり取りを双眸を輝かせて見守っている文輝の世界には不安などないのだろうか。どうして華軍にだけこうも執拗に絡んでくるのか。標的を変えてほしい。話し相手がほしいだけなら、他にも年若い庶務官はいる。どうして、華軍なのだ。華軍は心など要らない。人として認められたいとも思わない。人生の美しさも正しさも全部どうでもいい。そして。このつまらなくてごみ同然の人生も今年で終わる。
 だから。
 茶番を演じることを子賢が望んでいるのなら、致し方あるまい。
 華軍の才を見出し、磨き、そして最大限用いて、十数年にもわたる悲願を達成しようとしている子賢には当然何かの心算があるのだろう。そう割り切らなければ、子賢の駒でいることなど出来ない。感情などは邪魔だ。期待などするだけ無駄だ。
 わかっている。わかりきっているじゃないか。

「では諦めろ。小戴、華軍を半刻ほど貸してやろう。花を愛でて帰ってきたらお前に頼みたい仕事がある。いいな?」
「はい! では華軍殿、行きましょう!」
「校尉、お恨み申し上げる」
「華軍、くれぐれも左服どもには注意しろ」
「心得ております」

 そんなやり取りを経て、文輝は華軍の先を歩き始める。華軍よりも背が高く、全体的に細身だが決して華奢ではない。しっかりと鍛えられた武人の背中だ。なのに、文輝からは威圧感のようなものをあまり感じない。
 華軍が知っている他の九品は皆、傲慢だ。不遜と言ってもいい。自分たちが特別な存在であることを知りながら、それを振りかざして優位に立とうとする。生まれながらにその優越感に浸っている九品など、人として最低の部類だと思っている。
 なのに。
 文輝の背中は温かく、そしてきらきらとした輝きを持っていて、色褪せていた華軍の視界にほんの少しだったが彩りを与えた。不思議なやつだ、と思う。文輝が関わってくることには煩わしさしか感じなかった筈なのに、彼の背中を見守っているといつの間にか華軍自身の胸の内に小さな明かりが灯っているような感覚がある。小さな、小さな明かりで一息で消えてしまう。そんな明かりだが、華軍の人生に明かりが灯っているのは十数年ぶりのことだ。祖父母がまだ生きていると思っていた頃。才子として立身出世をすれば二人を喜ばせると思っていた少年の頃。あの頃はまだ世界に彩りがあった。
 このまま文輝と過ごせば、華軍の世界は再び輝きを取り戻すのではないか。とっくの昔に捨てた筈の、そんな希望が喉の奥にせり上がってくるのを感じて、華軍は無理やりやり過ごす。この世界に希望などない。期待なんて裏切られるだけだ。
 なのに。

「華軍殿。華軍殿は桜はお嫌いですか」

 子供っぽさを残した太陽の笑顔が華軍を振り返る。太陽の笑顔、と感じるのは文輝の周りだけがほんのりと色づいているからだ。そう気付いて、華軍の胸の内はざわついた。彩りなど要らない。この世界はもうすぐ平和とは別離する。華軍はその駒として果てる。今更、彩りがあったところで何の意味を持つというのだ。全くの無意味だ。わかっているのに、華軍の両目は文輝の右服の色彩を伝える。
 その現実を疎んで、視線を無理やりに逸らした。太白通に出たのだろう。戸部戸籍班の書庫が林立するのが見えた。そこはいつも通りの白黒の風景で安堵する。この書庫に火を放つのは誰の役割だったか。華軍ではない、共謀者の顔も思い出せないが、この岐崔には既に多くの共謀者が潜んでいる。
 太陽の笑顔はそれを知らない。知ったときには軽蔑の眼差しに代わるのだろうか。答えを知りたいような、命を手放すその瞬間まで絶対に知りたくないような複雑な気持ちの間で揺れる。揺れる自分が残っている甘さに苦笑しながらも、無表情を貫いて文輝の会話に応じる。この少年は華軍が無視をしても話を続けるだろう。

「何だ、唐突に」
「華軍殿は何の花がお好きですか? 俺は梅も桃も桜も好きですが、藤も好きです」
「そういう話がしたいのなら、女官でも捕まえて好きなだけ続けるといい」

 花の美しさなどとうの昔に忘れた。とは言えずに話の矛先を戦務班で預かるもう一人の中科生へと振った。方伶世。表向きは方家の一人娘ということになっているが、実際のところは公主――国主の娘だ。そのことを本人すら知らないまま終わらせる方法もどこかにあっただろう。それでも、子賢はそれを選ばなかった。何も知らない伶世までもを巻き込んで、世界に復讐しようとしている。華軍はどちらかと言えば子賢の側の主張を支持していたが、当の本人を目の前にするとどこか哀れさのようなものを感じ始めていた。
 文輝は伶世についての真実も、華軍の躊躇いも、子賢の憤りも知らないだろうに毅然と首を横に振った。その理由を知りたい、と思う。そんな感情も久しく忘れていた。

「伶世は駄目です」
「見込みがない、と言うことか」
「違います」
「では何だ」

 文輝の答えを待つ。待ちながらも足は止まらず、戸籍班の横を通り過ぎて左官府の大路へ入った。
 この少年の目に映っているのは何なのだろう。太陽の笑顔は崩さずに、眼差しだけがほんの少し憂いを帯びる。酷く傷付いた。そんな顔をさせたのが華軍自身だということに、胸の奥がつきと痛む。まだ痛む胸が残っていることに滑稽さを禁じ得なかった。
 
「俺は九品です」
「今更自慢か」

 どれだけ表面を取り繕っても、無邪気さを纏っても、結局のところは他人など侮蔑していたのか。華軍が小さな落胆を覚えたのを察したのか、文輝は張りのない声のまま首を横に振る。
 違います、と言いたいところですがそうなのかもしれません。
 と初めて見る気弱さを滲ませて文輝の足が止まった。顔は上を向いているが、その双眸は必死に何かを耐えようとしているのが見て取れた。

「九品の直系に生まれた以上、俺の言動には多くのものへの影響力があります」

 望んでも望まなくても文輝は多くのものと関わり合う運命にある。その運命の一つがまさに華軍だ。子賢が国に復讐を望んだからこそ、九品である文輝は戦務班へとやってきた。国威に傷を付ける為の仕掛けの一つだ。九品を地に落とす。貴族になど何の価値もない。それを示す為だけに文輝は傷付けられることが決まっている。
 そのことに気付いているのか、と思う。ただ、その懸念は文輝の言葉がすぐに否定した。

「出来ることなら、俺は伶世と個人的な話をしてみたい、と思っています。多分、伶世は興味深い話を聞かせてくれる。でも」
「でも?」
「俺と関わるということは、伶世に茨の道を歩かせるというのと同義です」

 文輝が伶世に声をかけて、答えが返ってきたのならそこには人間関係が成立したことになる。九品は雲上人だ。その、雲上人から声をかけられて人間関係が成立するなど、大半の庶民にとっては望外中の望外だと広く認知されている。そんな奇跡を手に入れたものは羨望の対象になり、他の中科生からは妬みを買うことになるだろう。
 実際、伶世は公主なのだから文輝の方こそ声をかけられる立場にないのだが、そのことは当事者である二人ともが知らない。知らないがゆえに二人は形の整った笑顔を向け合って、そうしてお互いに距離を保とうとしている。滑稽だ、と思うと同時にどこか人としての美しさを感じた。そんな自分が最も滑稽で、なのに今更彩りを取り戻しつつある心が叫ぶ。二人の背中を押してやれ、と。それぐらいなら計画には何の支障もないし、寧ろ真実を知ったときに二人揃って想定よりもずっと傷付いてくれることだろう。子賢も文句を言ってはこない。
 そう、思って無理やりに答えを導き出そうとしている自分がどこへ辿り着きたいのかが見えなくて、華軍は十数年ぶりに途方に暮れる、という感覚を味わった。
 そもそも、だ。
 そもそも、文輝自身が自らの道を茨の道と認識しているという事実が想定外だ。この純朴な少年にそういった認識などないだろうと高を括っていた。太陽の笑顔としか称しようのない屈託のなさ。大らかに振舞う豊かさ。人としての自負に満ち溢れた威風。何一つを取っても、不自由なく満ち足りた環境だと認識していると思っていた。
 なのに。

「小戴、お前はその道を降りたいのか」
「えっ?」

 気が付くと短い問いは口から零れ出ていた。
 しまった、と思う。文輝は目を白黒させながら、彼に向けて放たれた「華軍の感情が載った言葉」に戸惑っている。載った感情を短い言葉で表現するのなら「労り」だろう。無表情を貫いてる華軍からそういった言葉が飛んでくる、というのが文輝にとってどういう風に作用するのか、わからないほど華軍は愚かではなかった。
 だから、後悔する。後悔とは後で悔いると表現する。人は後になって悔いることしか出来ない。だから、いつも後で悔いる。理屈はわかっているが、華軍にとっては自分の大失態をどうやって取り繕うべきかという問題の方が大きかった。
 善後策を必死に講じる華軍の沈黙を何だと思ったのか、文輝は榛色の瞳をゆっくりと細めながらいつも通りの太陽の笑顔に戻って言う。

「華軍殿はやっぱり俺の思った通りの方ですね」
「どういう意味だ」

 侮られているのか、見透かされているのか、それとも揺さぶりをかけられているのか。
 いずれにしても、華軍は隙を見せてしまった。上手く取り繕っておかなければ、子賢の計画が破綻するかもしれない。緊張感を纏いながら、華軍は出来るだけ平静を装う。
 華軍が返答したのがよかったのか悪かったのか、いつの間にか憂いを手放した文輝は悪戯げに笑った。

「華軍殿がお作りになる鳥は俺が知っている限りで、一番美しい造形をしています」
「伝頼鳥の造形になど何の価値もないだろう」
「俺は、ある、と思います」

 俺の屋敷の通信士は取り敢えず鳥の形をしているだけで、ちっとも美しくないんです、と文輝は言う。それがどうした、と先を促すと太陽の笑顔は若干の気恥ずかしさを伴って、それでも真っ直ぐに華軍を射た。

「通信士、というのは国が誇る英才でしょう? 陛下から賜った才を使うのに造形の美醜などどうでもいい、と仰る方がおられるのは俺も理解しています。でも、そういう方にはきっと見えておられないだけなのでしょう」
「何が、だ」
「鳥の造形はそのまま通信士の質を物語る、ということです」

 才を使うのに手一杯で造形にまで拘る余裕のない通信士がこの国にはごまんといます。華軍殿の鳥はいつでも美しく、そして細やかな気遣いに満ちています。それは華軍殿が鳥の美醜にまで拘ることが出来るほど、優れた通信士だということでしょう。
 違いますか、と文輝は問うた。違う、と答えればいい。否定して、桜を見るだけ見て、そうしていつも通りの日常に戻ればいい。それが一番合理的な選択だ。そう思うのに、華軍の胸の奥がつきつきと痛む。
 華軍の才を見出した子賢ですら気付いていないことに文輝は踏み込んだ。
 九品という存在を少し甘く見ていたのだということと、この国も存外まだ腐りきってはいないということを同時に知る。
 今更そんなことを知りたくもなかった。知らないまま、この国に報復してそうして人生を棄てたかった。
 白帝はいつも華軍には非情だ。才を与え、人としてのささやかな幸福を奪い、そして過酷な道の向こうに小さな希望を与える。突き落とされても突き落とされても這い上がってこいとでも言うのか。そうして這い上がった先にどれだけの幸福が待っているのか。そんな小さな約束すら交わしてくれないくせに、生きることを強いる。
 
「本当に、九品というのは茨のような存在だな」
「お気を悪くされたのでしたら、申し訳ありません。言葉が過ぎました。俺の勝手な価値観を華軍殿に押し付けるつもりはなかったんです。ただ」

 ただ、俺は華軍殿のお作りになる鳥が好きなだけなんです。
 その駄目押しに華軍の心は一番奥で落涙した。祖父母と別離して以来初めて、人として当たり前に持っている筈の自尊心が満たされたのを感じる。その充足が華軍の視界をぼやけさせる。無表情を繕って、何の感慨もなかったような顔をして、そうしてどうにか「そうか」と答えると文輝は照れ臭そうに「是」とはにかむ。
 今まで一度だって思ったことがない感情が華軍の中に湧きあがった。羨ましい。この自分の感情に正直で、自分の道に誠実である少年がこの上なく羨ましい。
 もっと早くに出会えていたら。そうしたら、華軍の人生は何か別の展望を得ていただろうか。
 その答えは知りたくもないし、求めるつもりもない。ただ、文輝の笑顔はどうみても太陽の笑顔で、彼に名を与えたもの――つまりは九品戴家の家長はそれなりに人を見る目と育てる術を知っているのだと知った。

「小戴、俺は躑躅の花が好きだ」
「えっ」
「行くぞ。いつまでもこんなところで立ち話をしていては左服どもに捕まる」

 文輝の一番最初の問いに答えだけを放る。そうして切り離してしまわなければ、温かい感触がずぶずぶと華軍を溶かして決意が霧散してしまいそうだった。
 無理やりに前を向いて足を動かしていると石畳の上を追ってくる足音が聞こえる。そうだ。それでいい。人としての好悪だとか、人徳だとか、そんなものは今更華軍に必要ではない。必要ではないが、邪魔にならなければあってもいい。そんな小さな心境の変化に気付いて心の中でそっと苦笑を零した。
 太陽の笑顔は華軍の隣へあっという間に追い付いて、そして気色ばむ。

「華軍殿! 躑躅は何色がお好きですか? 俺は薄桃色が一等好きです」
「お前は淡い色の花が好きらしいな。春が好きか?」
「好きです。戦友で宿敵で、唯一無二の同士が生まれた季節ですので」

 それは多分、文輝と同い年の九品の子息のことを言っているのだろう。確か程家嫡子――晶矢とかいう名の娘だ。女だてらに武芸の腕は男に引けを取らず、弓を取っては文輝にも勝る。
 そういう季節だから、文輝は春を好きだと言ったが、その実、文輝に嫌いな季節などないだろうという予感がある。
 だから。

「そうか。俺も春は嫌いではない」

 そういう無垢な感情はとっくの昔に捨てたと思っていた。白黒の世界に淡い色は飛んで消えて認知すら出来ない。失ったものは戻らないし、別に必要でもない。そういう類のものだと思っていた。
 冷たさがまだ残る春の風が吹いている。その中に僅かに温もりが混じっていて、季節の移ろいを告げる。
 小戴、伶世に声をかけてやれ。
 その、文輝の背を押す言葉が口から零れ出てしまう予感がある。傷付ける為にではない。華軍は自分の道からは離れられないから、結局は傷付けてしまうだろう。それでも、僅かに色味を取り戻した華軍の視界が持っている意味までもは手放したくない、という気持ちが華軍を動かす。
 茨の道でも、一人きりでないのなら耐えることが出来るだろう。
 お互いがお互いを思いやる気持ちがあるのなら、外野の言葉などでは決して傷付かないだろう。
 だから。

「小戴――」

 文輝が華軍の心を溶かすのが早いか、子賢の計画を実行するのが早いか。それはまだ華軍にはわからない。わからないがゆえに華軍は言葉を口にした。
 十数年ぶりに見た小さな希望はどこまで大きくなってくれるのだろう。
 その答えを見る頃、華軍はこの世にはいないがそれでもいいと思った。
 人生で最後に見る桜のその色を知覚することが出来るのだから、それでいいではないか。そんな風に自分に言い訳をして華軍は石畳の上を歩き続ける。
 次の角を曲がれば刑部の書庫に辿り着く。そこで華軍を待っている美しい色彩を彼はまだ知らない。

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