番外編<1> 黄玉英の回想

 こんな家の娘として生まれたくなんてなかった。
 初科生だった頃、伯父に対してその言葉を発してしまったあと、玉英はこれ以上ないほどの後悔に襲われた。
 具体的なきっかけが何だったかすらもう覚えていない。多分、素行とか礼儀作法とか将来の話だとかいう大人たちのよくある説教話の一つが発端だったような気がする。十代の小娘である玉英に向かって伯父――黄碌生が正論を説くのは特に変わったことでもないし、今なら彼の判断はある程度仕方がなかったのだと理解出来た。
 それでも。

「主上――ではなくなったのですね。朱氏殿を政の世界に引きずり込んだ責任を取る為に、と貞潔を貫いた叔父上のことを私は少し疎ましいと思っておりました」
「今は違うのか、玉英よ」
「違いますとも。よき伴侶に恵まれ、子も授かり、義理とは言え大切な弟たちとも巡り会いました」

 今は戴伯日(たい・はくじつ)の妻であることを誇りに思っておりますよ。
 その言葉を心の底から言える自分、を知って玉英の日々は充実している。筈だったのに岐崔は動乱の舞台になってしまった。
 両官府どころか城下をも巻き込んだ動乱が起こったのがつい七日ほど前のことだ。岐崔の復興はまだまだこれからで、傷跡は生々しさを残している。
 国主――だった朱氏景祥は動乱の首謀者である劉子賢と共にその天賦の才を白帝へ奉還した。白帝はそれを受け入れ、次の国主を選定する。誰もが太子が選ばれると思っていた。国政において太子以上の適任者はいないだろう。幼き頃より国を治める為の教育を受けており、人の上に立つ為の気概も備わっている。
 なのに。
 白帝は太子を次の国主に選ばなかった。
 選ばれたのは景祥と正室との間に生まれた唯一の公主――伶世で、彼女の細い肩にその荷を載せるのは些か酷だと玉英も思った。
 それでも。

「伶世殿の治世が始まることに微塵も反発しなかったのは、伯父上、あなたお一人でございましたね」

 伶世の父親であり、先代の国主である景祥は顔色を失くしていた。王妃である正室は伏して泣いていたし、腹違いの兄である太子は憤慨した。臣下の多くも、何の後ろ盾も持たない伶世が国主の座を継ぐことに反発していた。いや、今も、その反発は続いている。
 その中で、たった一人。碌生だけは何の感慨も見せずに伶世に対して叩頭した。
 その情景が今もまだ玉英の網膜に焼き付いている。
 畏怖するべき相手で、強権的な存在だった碌生が臣下の誰よりも先に叩頭した。その事実があまりにも意外過ぎて玉英の中にあった碌生の威厳が音を立てて崩れ落ちる感覚があった。
 今も。その印象と実像の間にある軋轢は残っている。
 どちらが本当の碌生なのだろう。玉英が戸惑っていることぐらい、碌生は見通しているだろう。それでも彼は平静そのもので露台の向こうの景色を見守っている。

「国主などその程度の存在であろう」
「白帝陛下がお選びになった。それ以上に強い手札はございません。それでも、伯父上は朱氏殿の治世を手放すことにもう少し反発されるのかと思っておりましたよ」

 元をただしていくと、黄家というのはそれほど秀でた家柄ではない。
 九品三公――今後は朱氏が加わって四公と呼ばれていくのだろう。その範疇に黄の家はない。今後はもう意味を成さない「環」に埋め込まれた貴石も小さく、希少価値もない。郭安州で代々受け継がれてきた文官の家系。ただそれだけだ。
 碌生の出世が前代未聞なだけで、黄家には誇るべき歴史などない。
 それでも。
 碌生が景祥を見出し、国主の座に就けた。景祥から全ての自由を奪う代わりに、碌生もまた全ての自由を投げ打った。そういう関係の二人の間には目には見えない信頼があり、国政は滞りなく進んだ。
 齢四十を越えてなお妻帯もせず、貞潔を保っている。恋情や劣情が碌生の中にはないのかと思わせるほど、彼の言動は終始、宰相然としていた。
 その、碌生が国主を軽んじるような発言をした。そのことが少し意外で、同時にどこまでも碌生らしくて、玉英は苦く笑う。

「玉英。今少し妄言を吐くが聞き流せ」
「是」

 妄言と自覚しながらも音にしたい思いがある、という碌生の思いは何となくだが推し量れる。伯日の妻となり、子の親となり、二人の無鉄砲な義弟を持った今の玉英にも大人としての分別があった。それを与えてくれたのは戴家のものたちと妄言を口にしたい碌生であるのは間違いなく、その碌生が思いを吐露したいというのを否定するだけの理由がない。
 玉英もまた露台から中城を見下ろして碌生の言葉を待った。

「景祥に無理を強いたうえにあれの娘にまで同じ道を歩かせるのは正直胸が痛んだ。その程度の良心は持ち合わせておる。それでも」
「それでも?」
「景祥ですら敵わなかった運命という宿敵と戦えるだけの強さを持った娘だとは思わなんだか」

 その言葉に玉英は軽く目を見開いた。
 碌生が誰かを掛け値なしに褒めるのを初めて聞いたからだったからかもしれないし、彼が穏やかに微笑むのを初めて見たからだったかもしれない。それは同時に碌生の中には朱氏景祥にまつわるもの以外、何も存在していないということを改めて強く示しただけで、玉英は無力感に近いものを覚える。
 碌生の世界に、玉英など最初からいないのだ。
 それでも。玉英は新しい家族を得て人を許すということを覚えた。十五年前の自分が認められなかったことを、今なら受け入れられる。そんな気がした。
 だから。

「伯父上はもう運命と戦うのはおやめになるのですか」

 敢えて問いを投げかけてみた。
 優しい顔つきのまま、碌生が答える。そこには慈愛が満ちていて、碌生の優先順位を雄弁に物語った。

「私が宰相のままでおる、ということは旧態依然ということだ。私にはもう表立ってあの娘を助けてやることは敵わん」
「では今からでも遅くはございません。妻を娶り、お子をなされてはどうですか」
「玉英、そなたも中々悪辣な冗談を言えるようになったのだな」

 余生を過ごすのにはまだ早い。そう含ませると碌生が苦く笑った。
 冗談で済むのならそれはそれで構わない。
 まさか巷間で噂される通り、景祥のことを思慕していたわけではないだろう。本当は碌生にも人並みの人生を欲した時期もあっただろう。それを思い返すと苦しい思いをするかもしれない。後悔をするという概念が碌生の中にもあるのだとしたら、その感情を味わってほしい。
 そんな思いを込めて、玉英は言葉を続けた。

「伯父上。お子をなすのがお嫌ならば無理は強いませんが、それならばいっそう、伶世殿をお助けして差し上げるべきと存じます」
「私にはその資格などないだろう」
「いいえ、寧ろ、伯父上にはその義務があると私は思います」
「景祥を祀り上げ、景祥の我がままを受容してきた償い、とでも」
「いいえ。そのような些末なものではございませんでしょう。親、兄弟、親族。学友や知人の一切を失って伶世殿は国主の位を継がれます」
「景祥と同じように、か」
「ええ、そうです」
「それは、実につらかろうな」

 露台の向こうを見ている視線が憂いを帯びる。彼の眼下に広がっているのは中城だ。そこに玉英たちがいることを碌生は意識していない。玉英たちはあくまでも景色の一部でしかないのだろう。
 それでも。

「伯父上」
「どうした、玉英」
「『こんな家の娘に生まれたくなどなかった』と私はいつか申し上げましたね」
「そのようなことがあったか」
「ええ、ございました」

 それがどうした、と碌生の双眸が語る。
 彼には彼が整えた黄家の息女という枠にとらわれていた玉英の痛みなど理解出来ないし、するつもりもない。それでも、彼が無視した筈のその痛みを教えることが出来る、と思った。だから、敢えて玉英は口を開く。

「伶世殿は今、私が思った以上にその思いにとらわれておいででしょう」

 その思いを知っているから、玉英は可能な限り伶世の力になりたいと思う。こんな家の娘に生まれたくなどなかった、と嘆いても現実は決して覆らない。もしも、万に一つ。それを覆したいのなら全てを棄てて、海の向こうにでも逃避するしかない。それでも運命から逃げきれるかどうかは誰も保証してくれない。
 玉英にその覚悟はなかったし、強いられた運命の先で出会った戴伯日は政略の一つの駒ではなく、玉英のまま慈しんでくれた。
 それはただの幸運だと玉英は知っている。
 それでも。
 そうだとしても。

「伯父上もおっしゃられた通り、あの方はそのつらさと戦えるだけのお強さをお持ちだと私も思います」
「ならば」
「ですから、敢えて申し上げます。小義弟――文輝殿を失わないでくださいませ」

 多分、文輝は伶世にとってのただ一つの希望だろう。医師である玉英自身の見立てでは文輝は一命を取り留めているが、いつ目覚めるかは定かではない。玉英よりも上位の御典医ですら確かな診断を下せなかった。文輝は今も死線を彷徨っている。伶世の運命も、程晶矢の最後の願いも知らずに生と死の狭間にいる。
 その文輝が命を失えば二つの命が路頭に迷う。
 小戴殿をお救いください。消え入るような声で伶世が玉英に懇願した声はまだ鼓膜に残っている。小さな、小さな新しい主は医師である玉英にそう願うことしか出来なかった。勅命と言えば必ず助けてくださいますか。泣くことを許されていないことを察して、なのに胸の奥が張り裂けてしまいそうな不安を湛えて、それでも伶世が必死に紡いだ言葉だ。
 最善を尽くします。と玉英は答えた。伶世が文輝にどれほどの思い入れがあるのかは明瞭ではない。ただ。文輝は玉英にとっては義弟で大切な家族の一人だ。失えば玉英もまた別離のつらさを味わう。己の無力さを嘆くことにもなるだろう。そんな痛みを味わうものを一人でも減らしたくて医師を志した。人の親として、人生の先達として玉英が文輝にかけた言葉がこの悲劇を招いたのかもしれない。その痛みから逃げたかった自分がいる、というのは否定しない。
 それでも。

「伶世殿にとっても、この国にとっても必要なものです」
「そのようなことはわかっておる」
「いいえ、伯父上は文輝殿のことを少しも理解してはおられません」

 文輝のことも、彼の兄である仲昂のことも、玉英の夫である伯日のことも何もわかっていない。
 戴家のものは皆、太陽の笑顔を持っている。その太陽の笑顔で人の心を照らし続けてきた。その輝きはこの国に必要なものだ。家族に、世間に、時の流れに傷付いた玉英の心を癒し、育み、慈しんでくれたのは伯日だけではなかった。
 碌生はそこまでを見越して玉英に嫁すことを命じたのではないと知っている。
 それでも。
 玉英は今、確かにその采配に感謝している。
 だから。

「伯父上、文輝殿が目覚めるまで、どうか伶世殿の小さな我がままをお許しいただけないでしょうか」
「玉英。そなたには私がそれほど狭量に見えておるのか」
「そうでございましょう。戴の両親を抑えつけてまで伯父上が我が子の名付けに口出しをしてこられたことは未だにお恨みしております」
「それでも、そなたは受け入れなんだではないか」
「当然ではございませんか。宰相閣下といえども、我が子の名は二つとございません。その大切な名を一方的に決められるのはこれ以上ないほどの無礼にございますよ」

 それでも。
 碌生が玉英と伶世の小さな願いを受け入れてくれるのなら。そんな過去の遺恨を水に流してもいい。
 そう、仄めかすと碌生は苦く笑って言う。

「そなたは強くなったものだ」
「ですから、申し上げているではございませんか」

 人は親になり、守るべきものを持つと強くなれる。そうでなければ、子を育てることなど出来ない。
 だから。

「伯父上。よいではございませんか。伯父上と朱氏殿のお二人ならば今からでも『父親』をやり直せましょう」

 それでも、伶世は国主の座を継ぐ。先王である景祥は公族へ臣籍降下するから、たとえ実父といえども伶世の道をともに歩くことは困難だろう。だとしても。景祥と碌生の二人には伶世の人生を支える義務がある。
 それが、伶世に対する唯一の贖罪だと含めると碌生が玉英を見たが、その視線の先はどこか遠くを見ていた。

「私と景祥が『父親』か」
「お力添えが必要であれば我が夫をお貸しいたしますが、お二人ならば乗り越えていけましょう」
「そなたは本当に強くなったものだ」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
「褒めてはおらぬ」

 だが、そうだな。
 言って碌生の瞳が玉英を射た。その土くれの色の輝きの中に、今、確かに玉英が映っている。
 その事実に息を呑んでいると碌生の右手がすっと伸びてきて玉英の頭をそっと撫でるのを感じた。

「『娘たち』の小さな願いぐらい、幾つでも叶えられよう」

 あのものが目を覚ますまで。それまでのことは私が引き受けるとお伝えして差し上げるように。
 言って碌生の手のひらが二度、軽く玉英の頭を撫でて、そうして彼はゆっくりと立ち上がって歩き出した。
 伶世だけではない。今、碌生の中には玉英も娘の一人として認識されている。
 こんな形でしか思いやりを表現出来ない碌生も、玉英も不器用で無骨な黄家の血統なのだと思い知って、それでも、まぁそれでも満更悪いことでもないかと一人納得した。
 碌生と同じ土くれ色の双眸に露台の向こうの景色を映す。
 そうして、玉英もまた立ち上がり、王府の中へと戻る。
 行こう。まずは新しい小さなあるじを安堵させてやらなければならない。
 文輝が目を覚ますまで、残りふた月。その未来まで碌生が言葉の通り、陰に日向に伶世を支え続けるということを玉英はまだ知らない。

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