それは、風のように<四>

四.
 文輝(ぶんき)が初めて陶華軍(とう・かぐん)に出会ったのは半年前のことだ。
 中科三年目の辞令が下りて警邏隊の戦務班に登庁したその朝に戦務長から通信士の一人として紹介された。通信士だというだけでも畏敬の念を抱くのに華軍はまだ二十代前半だという。中科生、修科生を除けば戦務班では一番年が近い。自然、文輝は彼と言葉を交わす機会が多くなった。
 通信士というのは西白国でも特別な職の一つであり、国府、地方府、九品(きゅうほん)、三公(さんこう)――王族から臣籍降下した貴族三氏の総称であり、九品といえども三公に謁見するには煩雑な手続きが必要だった――のそれぞれに配置される。官吏として必要最低限の教養、技術を持ち合わせているのが大前提で、後天的に習得することが不可能な「まじない」の才が求められることから、出身は貴賤を問わない。地方出身者が国官へ昇進出来る数少ない職位であるがゆえに、内府(ないふ)典礼部(てんれいぶ)と並んで試験の出願率が桁違いだった。
 二十代で地方府の下級官吏。三十代で州都の上級官吏。四十代でようやく国府に配属されはじめるのが一般的な通信士の生涯で、国府にいる間に九品三公のいずれかの目に留まればその家筋の通信士としての道が開けるが、僅か十二のその枠を争うのは職位を得るより余程困難であることは自明の理だった。
 華軍のように二十代前半で国府の配属になった例は僅かしかなく、英才中の英才であることは疑うまでもない。通信士は二年に一度、御史台(ぎょしだい)の査定を受けることが義務付けられており、一度でも不合格の結果を残せば二度と官吏としては登用されないことになっている。文輝が物心付いた頃からずっと戴(たい)家に仕えている老通信士が査定の度にやつれていることからも、その苦しさがいかばかりのものか、何とはなしに理解していた。
 通信士であるというのはそれだけの重責を負う。軽挙妄動を慎むのは当然のこと、官吏としての規範であることも求められる。文輝は半年しか華軍のことを知らない。それでも、戦務班の他の官吏を見ていれば華軍が信頼に値するかどうかはわかる。華軍は紛れもない英才で、武官としての徳も矜持もきちんと持ち合わせていた。
 その、華軍に造反の嫌疑がかけられている。劉校尉――文輝の上官である警邏隊の戦務長もそれを承知の上で文輝を伝(てん)として左官府への牽制に使った。
 そんなことを唐突に言われて混乱しないものがいるとしたら、それはきっと九品三公の当主だけなのではないだろうか。彼らにしてもそれなりには困惑するだろう。実際、九品の六位孫家当主である棕若(しゅじゃく)は文輝の運んだ薄紅の文に目を通して顔色を変えた。顔色を変えたが、その動揺に振り回され、狼狽することはなかった。十七の文輝にそれだけの才覚はない。経験の差だ、と心中で言い訳をする。
 言い訳をしながら、文輝は自らの肩にとまった猩々緋(しょうじょうひ)の紋の小鳥の処遇を必死で考えた。この伝頼鳥(てんらいちょう)の中身が何であるかは今の文輝には推し量れない。誰の主張が真実なのか、判断するだけの材料もないのもまた事実だ。
 それでも、文輝は選ばなくてはならない。
 文輝の前方で晶矢(しょうし)が彼女に課された問いへの結論を今もまだ探しあぐねている。文輝の知るもう一人の英才中の英才ですら棕若の問いに即答することが出来ない。英才も人なのだ。文輝と同じように生きて、苦難に立ち向かうときもある。全てを容易く乗り越えてきたわけではない。晶矢の苦難を目の当たりにして、それが逆に文輝を励ました。
 戦務長――劉校尉の主張の通りなら警邏隊の英才――華軍は反逆者だ。戦務長がそれを文にしたためたところで華軍がそれをそのまま飛ばす筈がない。だが、安易に棕若が抱いている嫌疑を否定する内容の鳥を飛ばすのは逆に華軍への不信感を募らせるだけだろう。今文輝の肩にとまっている鳥は偽りだと一刀両断されて終わる。英才の華軍にその未来が読めていない筈がない。では鳥は何の為に飛んできたのか。次は左官府で事件を起こす、という脅迫文なら文輝に宛てる必要はどこにもない。棕若に宛てた方が余程効率的だ。
 だから。
 棕若の言う「伝頼鳥を読み解くことで嫌疑が確信に変わる」ような内容がしたためられている確率は限りなく低い。もしかしたら英才の気の緩みで華軍は彼の落ち度を明らかにしてしまうのかもしれない。
 それでも。
 戦務長と通信士、そのどちらの言葉を信ずるのが武官としての規範であるかは問うまでもない。火のないところに煙は立たないという。華軍には何らかの落ち度があるのだろう。或いは戦務長の杞憂である可能性も幾らかは残っている。
 どちらにせよ、棕若は右官府を疑っている。晶矢が左官府を疑っているのと根源は同じだ。自分に非がないと思いたい。責めを負うのが自らでない結論を選びたい。どちらも同じ目的の為に違う言葉を紡いでいる。
 責任を押し付け合って、現実から目を背け、結論を出さずに堂々巡りをするだけの無駄な時間が残っているのか、と自問する。答えは否だ。
 だから、文輝は脂汗の滲んだ手のひらをゆっくりと解き、無礼を承知で顔を上げた。部屋の一番奥に棕若。その顔には冷酷な余裕が浮かんでいる。その両脇に左尚書の高官たちが並ぶ。彼らの顔も一様に勝利を確信していた。文輝の斜め前に晶矢。彼女の表情を覗き見ることは出来ないが、それでも背中が窮していることを何よりも雄弁に語る。
 晶矢の隣まで一歩半。その距離を詰めた。
 肩にとまる尾羽に猩々緋の紋を刻んだ小鳥をそっと左手の人差指に移す。
 そして。

「『百官に説く。力は武に非ず。威は官に非ず。すなわち武官とは私(し)に非ず。武官とは至誠を旨とし、利を分かち、弱きに沿い、強きを戒めるものなり。常に自らを一振りの刃として努めよ。その刃は己に非ず。もし過ちて刃を振るわば我ら進みてその首を刎ねん。百官に説く。武官は私に非ず。何時(なんどき)も忘るることなかれ』」

 伝頼鳥を復号する為の手順はそれぞれの府庁で独自の取り決めがある。
 警邏隊の役所や官吏に届いた伝頼鳥を復号する為にはこの長い口上を一言一句違わずに既定の時間内に読み上げる以外の方法はない。間を省略することは不可能だ。唯一の救いは、どれだけ多くの伝頼鳥が届いていても復号の手順は一度で全ての鳥に効力がある、という取り決めがされていることだけだろう。
 文輝の口上が終わると桃色の小鳥は糸のように解け、そして一通の同じ色の文の形を成した。表紙(おもてがみ)の押印が差出人を雄弁に物語る。これは戦務長からの文ではない。渦中の陶華軍その人からの私的な文だ。
 その文を開くより早く、文輝の隣で晶矢が口を開いた。

「『武官諸志(ぶかんしょし)』か」
「俺にもお前にも必要だっただろ?」
「よりにもよってこの場面で『武官諸志』とは実に恐れ入る」

 呆れたような感心したような、或いはそのどちらでもないような口調で晶矢が微苦笑を浮かべた。淡々とした物言いに彼女が本質を取り戻したのが見て取れる。
 「武官諸志」というのは所謂「五書(ごしょ)」の一つで武官の心構えを説いた書物だ。文官の心構えを説いた「文官諸志(ぶんかんしょし)」と対を成す書で、五書の範疇には通常どちらか片方だけが含まれ、「諸志」という名で認識される。両方を含む場合には「六書(ろくしょ)」になるが、その呼称が使われることは殆どない。
 文輝が読み上げたのは「武官諸志」の前文にあたり、武官見習いは軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)一年目の課程で必ず暗唱させられる。業務で用いるからとはいえ、文輝ですら諳んじられるのだから、晶矢も当然知っているだろう。
 その当たり前の知識と前提が先ほどまで彼女の中から抜け落ちていた。
 武官は特別な存在ではない。文武官そのどちらもが国を支える柱であり、自らの感情の好悪でどちらかを否定するようなことがあってはならない。
 晶矢は多分今、やっとそれを思い出した。
 武官がなすべきことは文官を責めることでも捕縛することでもない。武官が護るべき「国」の一部には文官までが含まれている。
 華軍の飛ばした伝頼鳥を開封する手順が晶矢の中に響く。文輝もまた初志を思い出した。
 だから、もう華軍の文の中身に怯えることはない。
 文輝の隣で晶矢の榛色が強く輝いた。
 晶矢はその眼光の鋭さのままに棕若に応える。

「私(わたくし)が何を求めているのか、と左尚書令殿は問われました。その問いに謹んでお答え申し上げたく存じます」

 勢いが戻った晶矢の態度に、棕若は少しつまらなそうな顔をしたがそれでも彼女の返答を拒みはしなかった。

「聞こう」

 文輝の両側が棕若の回答にどよめく。否定の言葉が幾つも飛び交ったが、老翁は動じることなく静かにそれを制した。

「僕が『聞こう』と言っているのが聞こえないのかな」

 それともこの場に僕以上の権限を持つ方がおられるというのなら僕は礼を失したことを詫びよう。どうかな、おられるのなら早く名乗っていただきたいものだね。
 棕若はたったそれだけの言葉で彼の両側に控える高官たちから事実上、発言権を剥奪し、そして再び晶矢と相対した。

「阿程殿、君の返答を是非聞かせてもらおう」
「では」

 と前置いて晶矢ははっきりと言葉を紡ぎ始める。

「私たちが護るべきはお互いの立場や府庁の面子ではありますまい。『国』を護るのが我々の本懐であれば、このような駆け引きで徒(いたずら)に時を失するべきではないと存じます」
「なるほど、一理ある。それで? 君は僕に何を求めるのかな?」

 晶矢は改めて問われたその「本質」に対する答えを見つけていた。九品でも程将軍の愛娘でも後継でもなく、阿程でもなく、ただの晶矢として彼女は淀みなく希望を告げる。

「つきましては、左尚書令殿にお願い申し上げます。私どもと共に内府、御史台へ出頭していただきとう存じます」

 その希望が言外に含むのは互いに痛い腹を探り合うのをやめにしようというこの世の中で最も難しい類の提案だ。内府は右官府にも左官府にも属さない中立の機関だ。その中でも御史台と言えば監査の役目を負っている。右官府にも左官府にも反逆者がいるのならお互いにそれを探り合っていても何も始まらない。その任に相応しい役所に報告するのが本筋だ。
 十七の晶矢だから言える。世間を知らないから言える。一人前でないから言える。そんな否定が一斉に紛糾した。その一番奥で棕若が満足そうに眦を眇めたのを文輝と晶矢だけが知っている。この答えを誰よりも求めていたのは棕若だ。一杯食わされた、と晶矢が苦虫を噛み潰した顔で文輝に視線を送ってくる。文輝もまた棕若と晶矢に上手く利用されたのだということを知って苦笑していたが、文輝には文輝の役割がある。
 それを今、果たさなければならない。
 文輝は復号した桃色の文を開封することなく両手でそっと包み込んで部屋の中央を真っ直ぐに進む。華軍の印が押されたその表紙を開きもせずに文輝は棕若の机の上にそれを置いた。
 棕若は意味ありげに文輝を見上げ、問う。

「中を確かめなくてもいいのかな?」
「構いません」
「君にとって不利なことが書いてあるかもしれない」
「構いません。私は上官も同僚も信じています」

 あなたがそうしたように。最後の一言は口にしなかったが棕若には伝わったのだろう。「大した自信だ。実に羨ましい」言って文輝には元の位置に戻るように指図して棕若が桃色の文を持ち上げる。
 そして。
 彼は相変わらず慣れた手つきで文を開いた。
 表紙と同じ色の本文を開いた棕若は渋い顔で左右の文官たちに中を確かめさせるべく手渡す。隣に座った副尚書令が一番最初にそれを読んでやはり苦く笑った。

「これでは何の証左にもなりませぬな」
「流石は右官府の通信士だね。中々にしぶとい」

 そんな会話が上座で交わされるうちに末席にまで桃色の文が回覧される。
 文輝の隣で晶矢が不思議そうに尋ねてくるが文輝にはそれに応える術がない。

「首夏(しゅか)、あの文には何が書いてあるんだ」
「知らん」

 正直にその旨を告げると晶矢の表情が曇る。
 小声だが訝った音が文輝を言外に責めた。

「『知らん』だと? 通信士殿か校尉殿かと打ち合わせがあったのだろう?」
「その二人の間ではあるかもしれねぇけど、俺は知らん」
「何も知らないでおまえは孫翁に文を渡したのか」
「そうだ」

 晶矢がそうして工部(こうぶ)の役所を出てきて、この場の裁量を委ねられるのと同じように、文輝も謀略を持っているのだろうと問われたがないものはない。文輝は先に晶矢が皮肉った通り「何の文を運んでいるかも知らない伝」だ。それ以上も以下もない。
 文輝に緻密な駆け引きをしろというのは到底無理な話だ。
 何の根拠もなかったが文を棕若の手に委ねたとはっきりと肯定すれば、晶矢は呆れ返って言葉にもならないようだった。

「『そうだ』って、おまえ、何かあったらどうするつもりだったんだ」
「孫翁に御史台へ出頭しろとか言うやつにとやかく言われたくねぇ」
「この、大馬鹿ものが」

 言って棕若たちからは見えない角度で背中を強か殴られる。女とはいえ、武官見習いの殴打はそれなりに痛みを伴う。文輝は小さく呻き声を上げて堪えたが殴られた場所は鈍痛と僅かな熱を持っている。
 何をするのかと文句を言おうと晶矢を見やると随分とすっきりした顔をしていて、苦言が喉もとで霧散した。

「暮春?」
「実際、おまえは大したやつだ」

 華軍の文の中身は未だにわからない。それでも、華軍の文を復号することで文輝と晶矢は自らを取り戻した。回廊を巡る途中で文に復号していたら、と考えてぞっとする。文輝に出来るのは開封だけで、もしも華軍に連絡を取りたいのなら左尚書の通信士に返答を依頼しなければならない。
 棕若の謀略がどういう段取りになっていたかは判然としないが、それでも、文輝の選択が場の流れを変えたのは確かめるまでもない。だから、文輝は漠然と思うのだ。華軍は文輝と晶矢が左官からの反撃を受けることまで見越して鳥を送ってきたのではないか、だとか、文輝の性格で言えばすぐに鳥を復号したりしないことも計算ずくなのではないだろうか、とか。
 そんなことを考えているうちに桃色の文は文輝たちの手元へまで回ってくる。
 棕若の「それは君たちにお返ししよう」という言をきっかけに、文輝と晶矢は華軍の文を見た。そこに書かれていたのはたった一行「お前を信じろ」の文字だけが綴られていた。

「左尚書令殿、これは」

 その簡潔で明瞭な文に晶矢は弾かれたように顔を上げて棕若と相対する。

「僕たちは何の細工もしていないよ」

 右官というのは僕たちには到底理解出来ないことをするね。でも、どうしてかな。ほんの少し羨ましいと思ってしまう。
 言って彼は心底愛しそうに武官見習いの二人を映した。

「阿程殿、君は僕に内府へ出頭してほしいと言ったね」
「是(はい)。確かにそのようにお願い申し上げました」
「ときが許すのであれば君たちが内府へ上ることを各々の役所へ伝えなさい。僕の通信士を呼ぼう」

 香薛(こうせつ)、と棕若が従臣の名を呼んだ。

「通信士を僕の部屋へ」
「ただいま呼んで参ります」

 言って従臣が踵を翻すのを見届け、棕若が立ち上がる。文輝と晶矢は慌てて叩頭した。左右の違いはあれど、棕若は文輝たちよりずっと位が高い。緊急事態だからこそ相対していられたのであって、話が一段落してなおも頭を上げているという非礼までは許されないだろうということを思い出したからだ。
 棕若はそんな二人のばつの悪さなど知らぬ態度で好々爺の笑みを浮かべる。

「阿程殿の言には一理あることは皆も理解しただろう。僕にはやましいことは何もない。それでも糺すべきことがあるというのなら内府へ出頭することは決して吝かではない。僕はそう思うのだけれど皆はどうかな?」

 棕若の問いに室内は俄かにざわめいたが、結局は尚書令が決めたことに従う、という結論になった。異口同音に賛成の声が上がる。
 それを見届けて、棕若は上座を離れ、叩頭した二人の傍らに寄り沿って肩を叩いた。

「では参ろうか」

 緑の扉を押して棕若が回廊へ降り立つ。文輝たちも立ち上がり室内の左官たちに一礼して棕若の背を追った。回廊を歩く足音を聞き届ける空気が幾ばくか柔らかいものになっていたことを二人は知らない。
 回廊を戻り、左尚書令室で報告書をしたため、それに棕若が一筆を添え通信士が鳥を飛ばす段になる。左尚書の通信士は文輝たちが見たところで真似が出来ることではない、と惜しげもなく暗号の過程を見せてくれた。二つの土鈴を両手に持ち、足踏みと鈴の音を背景に謡曲を歌い、華麗に舞うその姿は質実剛健を旨とする右官府では決して見られないもので二人はしばし見入る。文官府は典雅だ、と漏らせば内府の方がもっと典雅だという棕若の返答があり、文輝は素直に感心した。
 二通の文がするすると細い糸に変わり、そして二羽の小鳥の姿になる。小鳥は歌い終えた通信士の肩にとまり、そして彼の指示に従って右官府へと向けて飛び立った。通信士はそれを見届け、一礼して尚書令室を出て行く。
 通信士の背を見送った棕若が香薛に後のことを指示し、内府へと向けて発つ準備を始めた。文輝と晶矢もそれに倣い、身支度を整える。香薛が気を利かせ、三人分の遅い昼食を用意してくれたのを食べた。岐崔らしい、素材を活かした薄味の肉饅頭を頬張りながら食事には文武の別がないことに心のどこかで安堵した。

「香薛、何か進展があれば気兼ねなく内府まで鳥を飛ばすのだよ」
「心得ております」
「阿程殿、小戴殿。食事はもう終わったかな?」

 その問いに「是」が唱和した。棕若が穏やかに笑う。
 そして三人は揃って左尚書を後にした。ここから内府・御史台の役所まではほど近い。中城(ちゅうじょう)の南半分に左右官府が、北半分に内府と禁裏とが配置されている。左官府では北端にあたる左尚書から内府に向かうには一旦大路(おおじ)に出るしかない。大路を北上すると内府の正門があるので、それを潜る。内府の中は武装が禁じられており、文輝と晶矢は自らの佩(は)いていた刀剣を預けた。文輝は内府の内側に入るのは今が初めてだ。首府である岐崔(ぎさい)は原則的に石を用いた舗装が施されているが、内府の中は別格だった。磨き上げられた石畳が寸分の狂いもなく続いている。歩むべき場所とそれ以外の場所が区別され、道の両脇には玉砂利が敷かれていた。右官府でも左官府でも明け方に積もった雪が道端に残っていたがここではどこにも見当たらない。手の入れ方が違うのだ、と直感的に察した。
 畏怖すら感じる静謐な空気に文輝は思わず生唾を呑みこんだ。ここにいてもいいのか、と本能が自問する。棕若と晶矢との様子を窺えば、二人とも泰然としていた。自分一人が場違いだ、と文輝は胸中で思う。御史台に着けばこの気持ちはいっそう募るだろう。わかっていて、それでも右官府へ逃げ帰るという選択はしなかった。分別があったからではない。良識が責任を感じさせたからでもない。何の力も持たないかもしれない。それでも、顔見知りの二人の行き着く先を見届けたいと思った。それぐらいの願いなら許されるだろう。
 勝手に決めたその答えを胸中に抱いて文輝は二人に続く。内府の中は役所と言うよりは神殿めいていてひっそりとしている。正門から続く石畳が最初に枝分かれした地点で二人は迷うことなく東を選んだ。そこからしばらく歩いた先にその建物が見える。荘厳な門の扁額に「御史台」の文字。門に扉はなく、代わりに門兵が二人立っている。三人の姿を視認した門兵が長槍の穂先を向けて構えた。
 警戒の域を超えた敵意に文輝は反射的に腰帯に手をやるが、そこに剣はない。先刻、内府の正門で預けたことを思い出し、苦笑する。普段腰にあるものがないというのがこれほど不安を生むのだということを痛いほど感じた。隣の晶矢も同じことをしたのだろう。棕若の後ろで武官見習いが二人、ありもしない刀剣を構えようとしていた。
 棕若は衣擦れの音でそれを察したのか、諸手を挙げて門兵に闘争の意思がないことを表現する。文輝の目の前で左手、晶矢の目の前で右手が揺れる。それを視認して二人ともが慌てて攻撃姿勢を解いた。御史台の門兵が長槍を構えたまま問う。

「左尚書令・孫棕若殿とお見受けするが、当地に何の用件か」

 内府の官は必ず左右官府の英才から引き抜かれる。というのは知識として文輝も認知していた。英才である彼らには文武官の要職にあるものの識別が出来る、ということも知っている。それでも、目の前で迷うことなく棕若の名を言い当てるのを見ると驚かざるを得ない。
 文輝が棕若の姿かたちを知っているのは九品の子息だからだ。
 だから、文輝には九品の出身でない府庁の長官の顔と名前を一致させることが出来ない。
 感嘆の息を吐く。隣で晶矢が呆れ顔で嘆息したから、多分彼女の中では全ての府庁の長官の顔と名前が一致するのだろう。
 背中の向こうで起こっていることを完全に無視して、棕若は門兵に応える。

「貴殿らに確かめていただきたい儀があって参った次第。大夫(たいふ)にお目通り願いたいのだが?」
「随身(ずいしん)をお間違えのようだが?」

 皮肉めいた笑みを浮かべた門兵の指摘に、棕若は「おや? 内府に赴くのには随身が必要なのかな?」と皮肉で応酬する。随身というのは高官が外出する際に警護として同伴する武官を指す。棕若は随身を伴えるだけの高官ではあるが、文輝も晶矢も護衛官に任じられるだけの位ではない。そのことを嘲っているのだと知っていて棕若は皮肉を返した。禁裏の表玄関に立地し、その正門で刀剣の類を必ず回収する内府で心身の危険があるのならば、今後は剣を持って入らねばならない、と言外に含めることで門兵は閉口した。
 沈黙を肯定とみなし、棕若は言葉を続ける。

「それに、彼らは随身ではないよ。共に大夫にお聞かせしたいことがあると申すので同道しただけのこと」

 随身でもそれが叶うのなら、そういうことにしておいても僕は構わない。
 どうかな、と棕若が問い返したところで門兵は二人揃って穂先を収める。

「その物言い、確かに左尚書令殿であらせられる。阿程殿、小戴殿にも非礼をお詫び申し上げる」
「大夫にご用向きとのこと。すぐにでもご案内申し上げますゆえ、取り敢えずは中へ」

 門兵の片方が一礼して中へ消える。言葉の通り、大夫――御史台の長官へ取次に出たのだろう。残った一人が身を引いて門の前を譲る。棕若は「そう」と返答をして泰然とその門を潜った。文輝が晶矢の後を追って門の内側に入ると残った方の門兵は敬礼の姿勢で三人を見送っている。
 門の向こうにはまた石畳が続いていた。紅葉した楓が両脇に並び、視界が赤に染まる。文輝の頭より少し高い位置の葉の上に薄っすらと雪が残っていた。
 赤と白の対比に文輝は城下にある戴家の屋敷の庭を不意に思い出した。今はもう亡くなったが工部の長官だった文輝の祖父は造園が殊の外好きだった。だから、戴家の庭は彼の趣味で季節ごとに美しい色彩を持っている。見慣れない御史台の役所の中に見慣れたその色があることが却って文輝を落ち着かせた。

「首夏、何をしている。置いていくぞ」

 晶矢の声が聞こえて文輝は自らの足が止まっていたことを知る。ああ、と生返事で答えてもう一度だけ雪を被った楓を見た。横風が吹いて葉が揺れる。その度に雪が水滴に変わって消えていった。
 その軌跡を追うことをやめて文輝も先を急ぐ。
 内府の中には国防の危機などないのだろうかと一人胸中で疑問を転がす。
 そして文輝は自らの出した答えに苦笑した。右官府にも国防の危機などなかった。ほんの数刻前まで、文輝もそんなものは認識していなかったのに随分と傲慢になったものだ。
 自省して石畳を先へ進む二人の背に続いた。
 顧みることは後でも出来る。今は、この背を見失わないように先へ進もうと決めた。  自省して石畳を先へ進む二人の背に続いた。  顧みることは後でも出来る。今は、この背を見失わないように先へ進もうと決めた。

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