それは、風のように<六>

六.
 息を吸った。内府(ないふ)御史台(ぎょしだい)正殿の中には静謐な空気が満ちている。そのあまりにも平坦な感触に文輝(ぶんき)は居心地の悪さを感じていた。
 文輝だけが何も知らないという気後れと、棕若(しゅじゃく)や晶矢(しょうし)の見たことのない姿に直面した戸惑い。それから、国の根幹を揺るがす事態が起きているのに指を咥えて見ているしか出来ない自分へのもどかしさ。それらがないまぜになって文輝を襲う。
 それでも、文輝が御史台から逃げないのは分別があるからではない。この正殿に至るまでに異口同音に明言された文輝への信頼を裏切りたくはなかったからだ。過大評価かもしれない。ただの世辞だったのかもしれない。何か別の思惑があり、手のひらの上で転がす為の甘言だったのかもしれない。そうだとしても、二人はこの動乱を見届けるだけの器だと文輝を評した。だから文輝は耐えている。いつ来るかもわからない、文輝が必要とされるそのときに恥じ入る自分でない為だけに耐えていた。
 そんな文輝の緊張感を見抜いたのかどうかはわからないが、休みなく行われる筈だった審議が一旦中断している。四半刻と区切られた休憩が始まり、御史台の女官が出した茶を飲んでいる。左尚書(さしょうしょ)で飲んだ茶より苦みが強く、その分香りも高い。隣の晶矢に茶の銘柄を尋ねると彼女ではなく棕若が南方で採れたものだと教えてくれた。

「暮春(ぼしゅん)、お前も茶には詳しい方か?」

 美しい作法で茶を飲んでいる晶矢に問うてみる。その問いに先ほどまでの引き締まった能吏の相好を崩して晶矢が不敵に笑った。

「このわたしに不得手があると思うのか?」

 九品(きゅうほん)の二位、程(てい)家の嫡子で将来は国防の要たる存在である彼女が文輝に劣る要素は殆どない。軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)に属していた頃からそれは理解していたが、これほどまでに明確な差があるとは思ってもいなかったから本音で言えば少し悔しい気持ちがある。
 その悔しさを吹き飛ばすほどの笑みに文輝は目を瞠った。
 ああ、やっぱりこいつは別格なんだ。だなんて感想が胸中に湧いた。それぐらい、自信に満ちた笑顔で晶矢が答える。

「茶の良し悪しなどわたしにわかるわけがないだろう」

 それともおまえにはわかるのか?
 想定していない否定の言葉に文輝は思考停止した。回答の内容と表情が一致していない。その答えはもっと慎ましやかに告げられるべきだ。ぽかんと口を開けて固まっている文輝と堂々たる晶矢の落差に後ろ向きに胡床(いす)に座った棕若が笑う。

「してやられたようだね、小戴(しょうたい)殿」
「孫翁(そんおう)、今のは嘘でも『わかる』という場面でしょう?」

 同意を求めて身を乗り出す。勢い込んで晶矢への非難を求めたが、棕若は笑ったままどちらの肩も持たなかった。

「という既成概念の価値を奪う。阿程(あてい)殿らしい切り返しだね。手としては古い部類だけれど、実際にそれを使う方には長らく会っていなかったから懐かしさを覚えるほどだ」
「わたしは別に孫翁を懐かしがらせたかったわけではない」

 首夏(しゅか)、おまえのその間の抜けた顔が見られたからわたしは満足だ。
 茶の良し悪しがわかるわけがないと言ったのとは対照的に切なげに細められた目元が彼女の本音を語る。晶矢は評判だけが人の口を渡り歩き、彼女のあずかり知らないところで神格化されていくのに辟易しているのだ。
 その弱音を吐く相手として選ばれた。文輝を驚かせて、晶矢にも出来ないことがあると打ち明けて彼女は安堵している。話している相手の感情の機微がわからないほど文輝は愚鈍ではない。
 だから、敢えて文輝は口を噤んだ。
 代わりに棕若が晶矢に受け答えする。

「存じているよ。君が旧いという非難でもない。十七にして茶に通じている方がおられるのなら是非僕の副官に推挙してほしいとすら思っている」
「なるほど、わたしはまんまと孫翁の副官になり損ねたわけだ」
「小戴殿、君が今から左官府(さかんふ)に異動して僕と一緒に茶の道を学んでくれる、という選択肢も残っているけれど、どうだろう」

 孫棕若という老翁を知っているものは彼の暴言がただの冗談では済まないということもまた知っている。言葉遊びと侮って迂闊に彼の要求に応じようものなら痛い目を見るのは明白だ。文輝は慌てて白旗を挙げる。

「勘弁してください、孫翁。俺に武官以外は務まりません」
「では君も将軍位を目指すのだね? ならばなおのこと二人に老翁の説教が必要だ。戦には直接関係しないことも望んで学びなさい。君たちにならそれが出来る、と僕は信じている」

 それが九品の子息として生まれた二人の運命だと棕若は強く言い聞かせていた。
 棕若が敢えて改めて訓告したことに文輝と晶矢は顔を見合わせる。そしてどちららともなく表情を緩めて彼の信頼に応えた。

「孫翁、ご心配には及びません」
「そうとも、孫翁。その覚悟がないのならこの首夏がここにいられるはずがないし、あなたもそれを認めなかったはずだ。そうだろう?」

 晶矢の言葉は言外に彼女自身の処遇を棚上げしているが、短時間の間にこれだけ意識と実力の格差を見せつけられれば反論をする気もなくなる。文輝は微苦笑を浮かべることで晶矢の言葉を肯定した。
 その二人の反応を見ていた棕若が悪戯に微笑む。

「おや? 君たちは齢十七で一人前に九品の矜持を語るのだね。ではその将来が明るい未来の将軍たちにお聞きしようか。小戴殿、君は阿程殿に聞きたいことがある筈だ。違うかな?」

 非難ではない。叱責でもない。棕若は文輝たちの強がりを正面から受け取って認めた。そして文輝たちへの評価に見合う対応として挑発を選ぶ。岐崔(ぎさい)に二人しかいない人事最高官という肩書きに見合う言動だった。
 棕若の言う通り、文輝は晶矢に尋ねたいことが幾つもある。
 その中の一つ、一番訊いてみたかったことを選び、文輝はゆっくりと椀に視線を落とした。

「暮春。お前、どうして爆発事件が起きた場所がどこか、だなんて即断出来たんだ?」

 左尚書の控室。文輝と晶矢はその場所で事件の発生を受けた。左尚書は左官府でも最も北に位置し、右官府の様子を窺うことは難しい。文輝が事件の現場を右官府の中央辺り、と見当を付けたが、晶矢は更に詳しい位置がわかっているようだった。
 彼女は工部(こうぶ)の案内官だから右官府(うかんふ)の配置についてはこの中の誰よりも詳しい。それでも、晶矢が把握しているのは工部のみのはずだ。右尚書(うしょうしょ)や兵部(ひょうぶ)の配置は素人も同然で、そして右官府は役所ごとの配置が定まっていない。一体何を根拠に彼女が事件現場を断定したのか。

「まさか、お前、右官府全部の配置を覚えてるとかそういう――」
「首夏、おまえはわたしを一体どういう存在だと思っているんだ。おまえの大兄上でもあるまいし、流石にそれはあり得ん」

 文輝の長兄は今、別の任で岐崔を離れているが本来は右官府の区画配置が担当だ。工部造営班(ぞうえいはん)の最高責任者である彼はこの春の配置転換を終えた後、西白国(さいはくこく)東部の都市計画指南が必要だという要望に応え赴任した。中城の造営班の方は長兄の副官と通信士で切り盛りしている、と次兄が言っていたのを何とはなしに思い出す。
 九品である程家の嫡子、晶矢と戴家の嫡子である文輝の長兄は立場上求められているものが似ている。持っている素養と自覚も似通っているから、いずれは晶矢も文輝の長兄のようになるのだと勝手に思っていた。
 いずれ、の定義が「中科が終わったら」あるいは「修科(しゅうか)が終わったら」ぐらいの認識だった文輝には晶矢の発言が予想外で言葉を失う。同時にその答えに納得をした自分もいた。それもそうだ。三十何年も生きている長兄と十七の晶矢が対等であれば長兄の立場がない。文輝もまた知らず知らずのうちに晶矢を神格化しようとしていたことに気付いて恥じ入る。
 それを態々謝罪する方が彼女の心象を悪くするということにも気づいたから釈明を控え、新たな質問を口にした。

「工部で何の取り決めがあったんだ」

 晶矢の頭の中に中城の見取り図が入っていない以上、彼女が事件現場を割り出せる理由は幾つかしかない。工部が何らかの事態を受けて何らかの取り決めを施した。その取り決めの範囲内で事件が起きた。
 そう考えるのが妥当だ、と自分で答えに見当をつける。
 晶矢は「おまえにしては割とまともな切り返しだな」と言って薄く笑った。

「首夏、薬科倉が何かはおまえも知っているな?」

 知っている。薬科倉という種々の薬物を管理する施設が工部――ひいては中城だけに限らず、峻険な山々の向こうにある十二州にも必要に応じて設けられていることは軍学舎で学んだ。中科二年目で衛生班(えいせいはん)の下働きをしていたときに自らの足で兵部の薬科倉を訪ったこともあり、そこでどういった手続きがされるのかも一応は知っている。

「俺が知ってるのは兵部の薬科倉だから工部のはどうなってるか詳しくは知らねぇけど」
「概ね一緒だ。薬科倉には危険度に応じて段階的に分けられた薬物が保管されている。その点に兵部も工部も左右も関係ない」
「そういや、お前言ってたな。薬科倉の場所を尋ねたのに当地に現れなかった緑環(りょくかん)がどうたら、とか」

 晶矢が左尚書で諳んじた薄紅の中身だ。確か、そんなことを言っていたとぼんやり思い出せば彼女は不思議そうに眉を顰める。

「そこまで覚えているのに結論が見えないか。おまえは相変わらず『小戴』だな」
「文句なら修科で聞いてやる。だから、さっさと説明しろよ」
「その台詞は修科の入学試験に受かってから聞こうか」
「抜かせ。俺が入学試験に落ちる筈がないだろ」

 可もなく不可もない。その点だけに関しては文輝は自信を持っている。
 修科の入学資格は中科の成績と筆記、実技の試験結果で決まる。九品の子息として生まれた文輝には必要最低限の知性と持って生まれた天性の戦闘能力が備わっている。今更入学試験に怖じる理由はどこにもなかった。
 その自信に裏打ちされた確信で文輝が言葉を返すと晶矢は大きな溜め息を吐く。
 顔中で呆れていると表現しているのに、それでも彼女は説明を拒まなかった。

「薬科倉に関する律はもう忘れたのか。『倉に用向きのあるもの、須らく当日中に現地を訪うべし。日を改め、訪いたきものはその旨案内所で述べよ。この律破りしもの、再び倉に訪うこと許さじ』」
「『またその名と環、内府へ申し送る。監査を受け、降格或いは免職の処分を受くるものと心得るべし』、だったか?」
「覚えているのなら最初から思い出せ」

 晶矢が冒頭の三行を諳んじたのがきっかけとなり、思い出したのだと反駁するのは格好がつかなかった。文輝の記憶力とは大体にしてこうだ。今朝も陽黎門(ようれいもん)の守衛と似たような会話をしたばかりなのを思い出す。
 自らの不徳を顧みて、反省と今後の対策を考えるのも必要だろうが今はそのときではない。
 薬科倉に関する律が遵守されているとすれば、工部案内所で薬科倉の場所を尋ね、当地へ足を運ばなかった十五名はそれだけで処分の対象になる。それもまた彼らが律令を把握していない「環の偽造者」であることを裏付けた。まともな文官が律令を知らぬ筈がない。

「薬科倉の管理官の一人が最初に違和感を覚えたのが七日前だ。人数で言えば三つめの緑環にあたる」
「その管理官以外は何も気づかなかったのか?」
「結論を急ぐな、首夏。無論、他の管理官も気付いていた。気付いていたから自部署の通信士に総務班(そうむはん)に伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばせた。だが」
「だが?」
「総務班に鳥は一羽も届いていない。結局返答が来ないのに焦れた管理官が直接総務班に文を運んで事態が発覚した」

 伝頼鳥による通信はこの国のどんな伝達手段よりも優れている。即時性、確実性、追尾性。どれをとっても伝頼鳥による通信に勝るものはない。
 転送中の伝頼鳥を第三者が捕獲することも出来ない。
 鳥が届かなかった理由を最大限好意的に解釈したとしても、総務班の通信士が見落としていたか、或いは最初から鳥が飛んでいなかったかぐらいしか思いつかない。
 思いつかないことに文輝は一抹の不安を抱く。

「なぁ暮春、それってまずくないか?」
「そうだな大事件だ。総務班の通信士が反逆者に加担している、という状況証拠が揃ってしまったわけだからな」
「薬科倉の通信士は大丈夫なのか?」
「最初から鳥を飛ばさなかった通信士もいる、というふうにわたしの上官は判断した」

 だから、晶矢は上官の命で伝達効率の劣る伝(てん)として左官府へ遣わされた。多分、文輝が伝として遣わされたのも同じものに起因しているだろう。
 その筋道が見えたとき、文輝は思い出してしまった。
 文輝の運んだ薄紅に戦務班の通信士を糾弾する中身が記されていたことを。
 その事実を思い出し、硬直した文輝の代わりに棕若が興味深そうな顔で話の続きを促した。

「阿程殿、結論を聞こう。十五の緑環に場所を尋ねられた薬科倉は幾つあったのだい?」
「工部だけで四つ。一昨日兵部から来た伝の話が正しければ更にもう二つあるそうだ。上官たちが協議して昨日のうちにその六つの薬科倉には防災班が特別な処理を施した」

 だから、どの薬科倉で事件が起きたとしても被害は最小限で食い止められる。また、六つの倉の位置は程よく離れているから、左尚書の控室にいてもどの薬科倉で事件が起きたのか把握することも出来る。
 そんなことを晶矢は訥々と答えた。

「薬科倉への案内は今も続けているのかな?」
「三日前に打ち切り、現時点では誰にも薬科倉への案内は出来ないことになっている」
「通常の業務に差し障りがある、という反論はどう説き伏せたのだい?」
「通常の業務で薬科倉を使用するものはこの春の配置転換で既に場所を覚えている筈だ。そう出来ないものは能力が不足している。というのを薄紙に何重にも包んで柔らかくした表現で伝えた」
「その薄紙は時々破れているんだろう?」
「時と場合と相手による」

 不敵に笑う晶矢に、彼女であれば本当に時と場合と相手によれば全く歯に衣着せない物言いをしたのだろうと想像出来て文輝は焦燥と不安を握りしめていた手のひらからそっと力を抜いた。

「それで? 君の私見でいい。爆発事件が起きたのはどこの薬科倉なのだい?」
「右官府の中央、中五条(ちゅうごじょう)の農務班農薬庫で間違いない」
「規模は?」
「農薬庫だから薬科倉の中でも大きな部類だ。ただ、本来そこで備蓄している農薬は全て別の薬科倉に移動させてある。爆発炎上が起きても人的災害は発生しないが、一応派手に爆発するように仕掛けてあった」
「なるほど、魚釣りというわけだ」

 右官府の次の配置転換の時期は明確にされていないが、年明け頃だという風説が飛び交っている。不審者に狙われている、というだけではその時期を早めることは出来ないし、何より担当官である文輝の長兄がまだ遠方に赴任中だ。赴任先から彼が決裁することはまずないだろう。
 その前提条件の上で工部と兵部が取り得る最上の選択が、備蓄している薬物を一時的に移動させ、相手の標的として残しておくという措置だった。
 工部上層部の判断通りに事件が起きた以上、嫌疑は限りなく確証に近づいた。だから、晶矢は実権のある伝として振る舞っている。
 それは文輝も理解した。
 それでも、ぼんやりと思う。人的被害が出ないのは不幸中の幸いだ。事件現場には防災班が駆けつけ、事後処理をしているだろう。
 それでも。
 この場所でこんなにもゆったりと言葉を交わしていていいのかだけがわからない。棕若は将軍位を得るには必要な経験だと言う。文輝の思う将軍位と棕若の言う「本当の」将軍位の間に何らかの落差があるとしか考えられないが、それはまだ文輝の中に答えとして存在しない。
 晶矢はどうなのだろう。相変わらずぼんやりとした頭で同輩を見た。
 相変わらず凛として取り乱すこともなく、整然と言葉を紡いでいる。ただ、よく見ると眦の端に憤りが宿っていた。その理由が文輝と同じものなのかはわからない。わからないが彼女も彼女なりに現状を打破しようともがいている。それだけがわかれば今は納得していられるような気がした。
 
「他の五つの薬科倉も大体似たような処理が施されている。ただ」
「『環の偽造があれば、誰にどの情報が伝わったかは正確に把握出来ない』でありまするか」

 棕若の背後からその抑揚のない声が聞こえてきて、三人は一様に音源を見た。
 正殿の上座、この部屋のあるじであることを意味する豪奢な椅子を離れ、大夫(たいふ)が棕若の二歩手前に立っている。てっきり、文輝たちの主張はともかく、雑談になど興味を示さないと思っていただけに文輝は驚いた。よく見れば椋の扉が半分開き、そこに先刻部屋を出て行った副官の一人がいる。事態が何か進展した、というのを間接的に知る。大夫が審議の再開を言外に促す。三人は音もなく傍らに寄った御史台の女官に茶の椀を返し、正面を向いた。大夫は上座に戻らず、文輝たちと同じ高さの床に胡床を用意させる。大夫のものと合わせて都合三つの胡床が並べられた。

「程案内官殿。貴官の言う通り、先の爆発は中五条、農薬庫で起きたと確認いたしましたぞ」
「御史台が派兵してくださったので?」
「御史台よりも中城に詳しいものがおりまするゆえ、少しばかり人を借りた次第」
「というと?」
「大仙(たいぜん)、これへ」

 大夫が晶矢の言葉に応え、椋の扉を振り返る。入口に立っていた副官が道を譲り、二人の男が後ろから姿を見せた。文輝はあまり人の顔を覚えるのが得意ではないが、その片方には見覚えがある。間違える筈がない。中科が始まってから二年半、毎日のように見ている顔だ。

「進慶(しんけい)殿」
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするんじゃない。小戴、お前は一応は九品なのだからな」

 進慶――という名の陽黎門の守衛の登場に文輝は動揺する。陽黎門からの報告も上がっていたのだから守衛が出てくるのは想定していたが、まさか顔見知りが出てくるとは思わなかった。自身の目算の甘さを呪いながら、文輝は進慶でない方の男を見る。
 年の頃は二十代半ば。服装は内府のお仕着せで、襟の色からして近衛部(このえぶ)の所属だとわかる。雰囲気や表情からは無骨さを感じさせるから武官上がりだろう、と見当を付けたところで文輝は今朝方、進慶から受けた説教を思い出した。
 近衛部の官吏の中には人数はそれほど多くはないが間諜がいる。間諜は何ものにも姿を変える。雰囲気で惑わされてはならない。本当に大仙が武官上がりなら手のひらは刀剣だこが出来ている筈だ。大夫の招請に応じて正殿の中に入ってくる大仙の手のひらをじっと見つめた。
 そしてその奇妙な符合が文輝の中に降りてくる。
 似ている。似すぎているほどに大仙の手のひらの相が今朝の商人を装った間諜のそれに酷似している。文輝が思うに、あれは刀剣だこの中でも暗器使いの相だ。文輝のように直刀、あるいは長槍を使う相でも、晶矢のように短刀、あるいは長弓を得手とする相でもない。並の武官で暗器を使うものはいない。戦の中では暗器は何の役にも立たないからだ。だから、大仙は武官上がりだが「特殊な」武官だということになる。
 大仙が今朝会った間諜だ、という直感的な結論をどう裏付ければ証明出来るだろう。刀剣だこだけでは説得力が弱い。香も似ているが、武官が好んで使う香はそれほど多くない。偶然の一言で一刀両断されるだろう。大仙が今朝の環を持っていれば勝機が残るが、国主の間諜がそんな愚を犯すとは思えない。
 黙礼して胡床に二人が座る。
 この二人を呼び出して大夫が何をしたいのか、を先に考えた。
 右官府での事件は調査が進んでいる。晶矢の言った通り、中五条の薬科倉で爆発が起きたのなら人的被害はない、と信じる他ない。幾ら有事で御史台の権限が強まっているとはいえども、調査以上のことを采配する権利を大夫は持っていない。
 となると今から始まるのは右官の背信についての審議だ。
 文輝の運んだ薄紅の中に警邏隊戦務班の通信士・陶華軍(とう・かぐん)を糾弾する内容がしたためてあった。先の晶矢の話からも背信の疑いのある通信士が他にも存在することが予想される。それでも、名指しで糾弾されたのは華軍だけだ。だから、大夫は華軍を糸口に順を追って審議を進めていくしかない。それを省きたいのであれば、手は幾つかしかない。内府の権限を行使して右官の人事府である右尚書(うしょうしょ)に任用責任を問う。伝頼鳥に頼ることは出来ない。鳥を飛ばす通信士に嫌疑がかかっているのだから、どれほど通信効率が悪くとも、伝を使うだろう。
 右官府は今、爆発事件の後処理で上を下への大騒ぎの筈だ。右尚書から伝が出るのを待っていれば陽が落ちる。
 だから。

「大仙殿、中科生の審査の後は伝。近衛部というのは存外暇な役職であられますな」

 確信も確証もない。それでも、文輝は先手を打った。大夫が口を開いてしまえば右官の審議は確実に大夫の誘導尋問になる。何も知らない伝の文輝だが、右官としての矜持はある。同輩を守るのもまた武官として必要な心構えだと自身に言い聞かせた。
 文輝の発言に晶矢は物言いたげに睨み付けてきたが、止めるつもりはないらしい。前に座った棕若の背中には喜色が僅かに浮かぶ。思うようにやってみろ、と言われているような気がした。
 二人の黙認に背中を押されて、文輝は言葉を続ける。

「大仙殿、今朝は貴官が国主様の間諜だと存じ上げず、失礼をいたしました」
「君はさっきから何を言ってる。己(お)れは君とは今が初対面だが」

 大仙が文輝の言葉を正面から否定する。否定したいのならばするだけすればいい。文輝は弁舌に長けているわけではないから、自らの言葉で大仙や大夫を論破しようとは思っていない。適材適所。この中で最も口の上手い棕若が状況を把握し、反論をしてくれるだけの材料を提供出来ればいい。
 棕若ならば右官の罪科(つみとが)に対しても公正に接してくれると信じていた。

「秘密裏に中科生を審査しているのでしょう。ご安心ください。審査があることは決して後輩たちには漏らしません」
「だから何の話だと言っている。君もわからんやつだな」
「大仙殿、貴官とこうして顔を合わすのも何かの縁。そう邪険になさらないでください。考えてみれば簡単な話ではないですか。鳥の飛ばない岐崔で、あなた方が最も安全な伝であることは間違いありますまい」

 近衛部の官吏は国主に忠誠を誓う。一生を国主の為だけに生きて、中城の為だけに尽くす。中城の中が動乱の現場であろうと、武に長けた間諜が行き来するのには何の支障もない。安全かつ確実に文を運ぶだろう。
 今、御史台が文を欲しているとすればそれは右官の裁定に関する情報だ。右尚書は東の外れにあり、中五条の薬科倉の付近を経由しなければ辿り着くことは出来ない。
 大夫が大仙に命じたのは恐らく右尚書への伝であり、薬科倉の件は立ち寄った程度だと考えるのが妥当だ。ということは大仙は今、右尚書からの文を携えている。その文が大夫の手に渡るまでが勝負だ。
 棕若の応戦が始まるのを今か今かと待ち侘びる。情報はまだ足りていないのか。気持ちだけが焦った。

「君はどうあっても己れを間諜に仕立て上げたいと見えるな」

 大仙が溜め息を漏らす。子守に疲れた、と顔中で表している彼の手前に見えている棕若の背中はまだ動かない。まだ機ではないということだ。ならば文輝はもう少し大仙の言葉を引き出さなければならない。

「事実の指摘にすぎません」
「そうだな、仮に己れが君の言う間諜なのだとして、肯定すれば君は満足するのか?」
「肯定していただけるのであればお聞きしたいことがあります」
「……何だ。聞くだけは聞こう」

 多分、大仙が間諜であるという前提のうえで問えるのはこれが最初で最後だ。
 何を問うべきかの取捨選択をした。
 そして一つの大きな仮定が文輝の中で輝きだす。問うべきはこの一つだ。確信がある。
 だから。

「国主様は今朝の段階でこの動乱をご存じだったのですね」

 国主の間諜である大仙が態々文輝の登庁時刻を見計らって審査に出向いた、という可能性も残っている。それでも、文輝は自らにそれだけの価値がないことを知っている。九品の三男。成績は上の中。特別に試されなければならないほど優秀な人材ではないだろう。程家を継ぐ晶矢ですら審査を受けたのは服務中だったと聞いた。彼女以上の待遇で文輝が試される筈はない。
 だから。

「貴官が今朝、陽黎門を通られたのは私の審査の為だけではありますまい。寧ろ逆だ。貴官は国主様からの密命を受け、城下へ戻る途中で偶然私と出会われた。つまり『ついでに』私を試された、そうですね?」

 そう考えると納得のいくことが幾つかある。
 中城で事件が起きているのに内府だけはいつも通りの静謐さを保っている。それは予め内府がこの動乱を予期していたからではないか。想定外の出来ごとなら御史台はもっと騒然としてもいいはずだ。
 大夫が落ち着き払っているのも、彼に有利な情報を持っているから、だとすれば納得がいく。そしてそのうちの一つは明らかに大仙の存在だ。
 そこまではわかる。なのにそこまでしかわからない。今朝、進慶に言われた忠告が耳に蘇る。真実まで残り僅かだが手の届かない自分がもどかしくて、悔しかった。
 国主は岐崔の動乱を知っている。知っていて右官府にも左官府にも通達しなかった。それがどういう意味なのか。理解を文輝の頭が拒んでいる。
 真実に辿り着けない文輝を嘲笑うかのように大仙が皮肉に笑った。

「君は随分と自らを卑下しているな。九品の子息なのだろう? 矜持はないのか」
「自らを守る為の矜持など何の価値もありません」
「立派な心がけだな。だが、それを聞いて己れがほだされるとでも思ったのか? 君が言っているのはただの空想に過ぎない」

 そしてその空想を延々と聞いてやる時間はもう残っていない、と大仙が言外に締め括る。大夫がすっと瞼を伏せた。一歩届かなかった。無力を悔いる文輝の耳にその力強い声が聞こえる。一陣の風が吹いた気がした。

「大夫、僕は君に言わなかったかな? 『君は君の矜持にかけて君の任務を遂行するように』と」

 強く厳しい声が正殿の中に響く。文輝は目を瞠った。棕若がちらと振り向いて眦を細める。文輝の無謀な挑戦は届いていた。そのことだけを告げると棕若は相対するものへ向き直る。棕若は左官府の官吏だが九品の家長だ。中城を守るのは武官だけではない。棕若もまた岐崔を守る為に戦う意思を持っている。
 そのことを彼は文輝の前で自ら示した。
 内府が左右を蔑ろにするのであれば、抗う。それが棕若の矜持だ。左官だからとか右官だからだとかそんなことはこの際関わりがない。
 遺憾の意を呈した棕若の肩へ頃合いを見計らったかのように若草色の小鳥が舞い降りる。それをそっと開封して棕若の戦いが始まった。
 棕若の正面に座る大夫はそれでもまだ顔色を変えない。

「左尚書令殿、何のお話かわかりかねまする」
「近衛部の衛士(えじ)まで呼んで盛大な自己保身をしているから気が付かないのではないかな? 大仙、と言ったね。君がどうしてここに呼ばれたか僕が当ててみせよう」

 その言葉に反応したのは大仙一人ではなかった。進慶の顔色が曇る。文輝の位置からは棕若の表情が読めないが、多分、進慶の目には見えているのだろう。
 中城に二つある城門の守衛は持ち回りだ。文輝の通る陽黎門だけではなく、棕若が登庁する宮南門に立つことも勿論ある。進慶の三十余年にわたる近衛士(このえじ)としての人生の中で、彼は棕若の持つ様々な表情を知っていた。今の棕若の顔が何を意味するのかも知っている。だから彼にはわかっているのだ。
 この勝負の軍配は老翁に上がっていると。

「左尚書令殿まで空想がお好きとは」

 大仙が棕若の余裕を一刀両断しようとする。切り捨てようとした刃は棕若にまで届かず、赤子の手を払うように容易くかわされた。
 棕若が怒気を孕んだ声で一喝する。

「戯言はもういい。君が持ち運んでいる重要な情報。右尚書からの調書ともう一つ。そうだね、中城で二つ目の事件が起きた。違うかな?」

 場所は今度は左官府だね。戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)の書庫が現場だ。
 そこまで断定して反論を求める。大夫は落ち着いて問いに問いを返した。

「何の根拠があって申さるるのでございまするか」
「僕の優秀な通信士がたった今、その報告をくれたよ。包大夫、君も見たらどうだい? それとも別の根拠がほしいのなら一から十まで述べることも吝かではないよ」

 さぁ、大夫。選ぶといい。君はどの道を行くのかな。
 棕若の堂々たる宣戦布告が正殿に鳴り渡った。
 秋の日は落ちるのが早い。正殿の外では空の端に色が滲み始めている。御史台の庶務官が室内に明かりを灯し始めた。そのことが時間の経過を告げ、文輝の気持ちが急く。それでも、大夫の表情だけが変わらないのだけが薄気味悪かった。

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