それは、風のように<十二>

十二.
 文輝(ぶんき)は走っていた。
 華軍(かぐん)を見つけた白帝廟(はくていびょう)から内府(ないふ)の正門までは全力で駆けても半刻はかかる。夕方頃から駆け通しの上、華軍との戦いもある。文輝の体力は既に尽きようとしていた。それでも、文輝はなお走った。喉の奥に鈍い味が広がる。肺腑は休息を求めていた。息が上がる。
 文輝が受け取った椿色の書状の内容は既に内府御史台(ぎょしだい)へ転送した。戦務長(せんむちょう)――劉子賢(りゅう・しけん)が望んでいるのは国家転覆だ。郭安州(かくあんしゅう)で立った新王と名乗る男を擁立し、自らは宰相(さいしょう)の位を望んでいる。その望みを果たす為に、戦務長は現在の国主と宰相を弑(しい)するつもりだ。
 だが、標的の二人は内府・王府・禁裏と三重の守りの向こうにいる。平時であれば、それだけでも心強いが、謀略で何人もの内通者を送り込まれた内府は防壁としての機能を失っている。それどころか、中城から王府へ救援を送るのを遮る障壁として利用されるのは明白だ。
 御史台の部隊を中城の方々へ派兵したのも、戦務長の目論見の一部だったと知り、文輝は自らの預かり知らぬところで起きている動乱の大きさに眩暈がする思いだった。内府三部のうち、武力として計算出来るのは御史台と近衛部(このえぶ)の一部――衛士(えじ)だけだ。それらを内府の外へ放出する為に中城で事件を起こした。戸籍班(こせきはん)の書庫を焼き、証拠隠滅を図るのは「ついで」だった、と華軍は白墨で記している。戦務長の目的が果たされたなら、戸籍簿は大きな意味を持たない。戸籍簿は本来、環(かん)という仕組みの根幹にある。環を撤廃するほどの改革を行うのであれば、現存する戸籍簿などただの紙束だ。どの道、破棄される。
 それと知らずに、文輝たちは内府に駐屯していた御史台の部隊を中城へ派兵し、中城のあらゆる官吏に下城を禁じた。どこまで計算されているのか。それを考えると文輝は猜疑心に支配されてしまいそうだった。
 御史台を飛び出す前に、大仙(たいぜん)が口にした言葉が耳に蘇る。第三の事件は城下で起きる。華軍の書状にもその旨を肯定する一節があった。城下の北端は公地(こうち)であり、岐崔に三つしかない津(みなと)の一つを擁している。三公(さんこう)と国主の一族だけが使うことを許されたゆえに、津は禁裏に通じていた。
 公地と官舎街は高い外壁で隔たれている。公地の門では関を通るのと同程度の検査を受けなければならないから、御史台の部隊や右官府の部隊が立ち入るまでに時間がかかる。
 その立地を戦務長は利用するつもりだ。
 戦務長自らは何らかの手段を使って――おそらく典礼部に紛れ込ませた内通者を媒介として公地に入り、東部街道沿いの官舎街で火災を起こす。そうすれば中城から駆け下りてきた部隊の足止めが出来、公地の住人は防災の為に門扉を閉ざす。皮肉にも、公地に住まう三公自らが戦務長を守ることになるのだ。
 そうなる前に文輝たちの誰でもいい、誰かが国主を守らなければならない。
 でなければ、戦務長の擁立した新王が国主の座を簒奪してしまう。
 だから、文輝は両の手足が千切れそうになっても必死に駆けた。御史台はまだ陥落していないが、これ以上、部隊を派兵することは叶わないだろう。大夫と通信が出来るうちに、誰かと協力して禁裏まで押し通る必要がある。
 中城のどれだけが内通者なのかもわからない。最悪の場合、中城が戦場に変わる。そのときに、文輝一人では心許ない。一刻も早く通信士を伴った誰かと合流しなければならないのは自明だ。だから駆けた。
 その肩にひらりと朱色の鳥が舞い降りる。伝頼鳥は暗闇の中では宛てられた相手にだけ光って見える。ゆえに鳥の尾羽に刻まれた紋の判別で困ることはない。文輝の肩に停まった伝頼鳥の尾羽には八弁の花。昼間に晶矢(しょうし)の肩で見たのとは少し違う、戴家の花紋だった。
 その紋に心が揺れる。それでも、鳥は復号すればただの料紙に戻ってしまう。明かりのないこの場所で文を読むことは出来ない。揺れる心を必死で押さえつけて走った。
 次の角を曲がれば大路に出る。大路に出れば、正面が内府の正門だ。誰かが待っている保証はない。寧ろ、内通者が守備を固めている可能性の方が高い。それでも、心当たりもなく小路を駆けるよりずっと建設的な方策だと思えた。
 最後の角を曲がるより少し早く、その声は文輝を捉えた。

「小戴(しょうたい)」

 声の主を探して周囲を見回した。塀の切れ目から三つの人影が出てくるのが映る。暗がりに慣れた目で、相手を見定めようとする。警戒感を発したのが相手にも伝わったのだろう。不意に明かりが灯った。

「孫翁(そんおう)、大仙殿」

 文輝の名を呼んだのはどうやら大仙らしい。ということがわかって張りつめていた気を緩める。通信士が松明を「まじない」で灯したのだと確かめ、文輝は肩の鳥を指先へ移した。棕若(しゅじゃく)の肩にも緑色の小鳥が停まっている。最悪の事態が胸によぎった。

「小戴殿、君にも八弁の鳥が届いたということは僕たちは覚悟しなくてはならないようだね」

 その言葉に文輝は深く頷いて「諸志」の前文を諳んじる。姿を現した朱色の文の内容に目を走らせれば、城下で火災が発生したことと眉津(びしん)が使用不能になったことが端的に記してあった。棕若の文も同じような内容だったのだろう。悔しさと憤りとでないまぜになった眼差しが文輝を射る。

「これで今、機能しているのは公地の津だけということになるね」
「江(かわ)伝いに禁裏へ向かうのは事実上不可能だ、ということですね」
「そもそも、己(お)れたちが公地の津に上陸することが不可能なのだから、要らん期待が減っただけありがたいと思わねばならんだろうな」

 大仙の愚痴とも激励とも取れる呟きが聞こえる。

「内府から禁裏へ行くのはやはり不可能ですか?」
「不可能だろうな。己れが様子を見に行ったが、右服(うふく)どもが長槍を携えて陣取っていた」

 御史台もいつ陥落するかわからん。と大仙が苛立ちも顕わに言い放つ。
 正面突破の可能性は失われた。背面から禁裏へ乗り込むことも叶わない。
 残る可能性は何だ。思考する文輝の傍らで、棕若が言う。

「大仙、君は王陵に入ったことはあるかな?」
「ない」
「では王陵に入ったことのあるものに心当たりは?」

 何でもいい、王陵についての知識があるものがいないかと棕若が問う。
 その問いに大仙が難色を示した。文輝はこの問答の着地点を茫洋と察したが、双方の見解のどちらを支持すればいいのか困惑する。

「左尚書令殿、王陵に典礼部の許可なく立ち入ることは何人たりとも許されていない」
「それも主上のお命あってのことではないのかな? 王陵の衛士は近衛部だろう。近衛部は典礼部の下部組織ではない筈だ」

 内府三部は対等な権限を持ち、鼎立している。内府の中に上下の別はない。だが、左右の官府は内府と比べると権限が一段階劣る。九品の六位、孫家の当主であることを加味しても、棕若が彼の一存で典礼部の許可なく王陵へ立ち入ることは出来ない。
 大仙は近衛部に所属する国主の間諜だ。彼自身は国主の駒であり、政治的判断を下す権利は殆ど持っていない。
 そのことは棕若も知っているだろう。
 それでも、棕若は問うた。普段の大仙ならば、その意図を決して見落とすことはなかっただろう。棕若の焦りと大仙の焦りが噛み合わずに空回りをしていた。
 大仙が苛立たしさを隠しもせずに吐き捨てる。

「だが、近衛部も一枚岩ではない。誰が劉子賢と内通しているかもわからん状況の上、己れの一存で決済出来る範囲を超えている」

 王陵は無理だ。それならば中城に散らばった御史台の部隊を集め、内府を突破していく方がまだ現実的だと大仙は重ねて主張した。棕若がらしくもなく、苛立ちを顕わに嘆息する。

「なるほど、君は真実近衛部の狗だったというわけだ」
「それは度を越した侮蔑だと受け取るが?」
「おや? こちらは最初からそのつもりなのだけれど?」

 そのまま、売り言葉に買い言葉で応酬が泥仕合に発展していく気配を察知した文輝は慌てて二人の間に飛び込んだ。
 大人げなく真剣に噛みつこうとしている横顔が、通信士の持つ松明に照らされている。二人の眼差しには余裕がない。文輝もまた焦燥感と緊迫感で余裕などなかったが、だからこそ、二人が意味のない口論を繰り広げようとしているのを黙って見ていられなかった。

「孫翁! 大仙殿! 待ってください!」

 お二人の悪口は後で俺が聞きます。今は主上の御身のことをお考えください。
 威勢よく言い切ると同時に、両側の二人が一瞬だけ呆けた顔を見せて、示し合わせたように苦笑した。

「小戴、案ずるな。何も本気でこの老獪と口論をするつもりはない」
「すまないね、小戴殿。少し遊びが過ぎたようだ」

 結局のところ、二人ともが口論の体をなした毒抜きをしていたのだと知り、文輝は安堵する。それと同時に「小戴」に仲裁をされるのは不本意だという言外の主張を受け取り、釈然としない思いをした。
 その程度の感情の機微を、今、二人に放り返して得るものなどない。
 今すべきことを思う。

「左尚書令殿、本当に王陵を通るつもりか」
「君の一存では決められないのなら、僕の独断専行だということにしてくれても構わない」
「己れが同行してその言い訳は通用せんだろう」
「では君はここに残るといい」
「話の通じん爺だ。誰も責任を負いたくないなどとは言っていない」

 その程度の覚悟で国官になどなるものか。
 棕若を睨み付けて断言した大仙の瞳には強い意志が宿っている。大仙もまたこの動乱の前では一人の国官なのだろう。国主を売った偽りの官吏とは違う。国主の真偽を疑うことはしない。それを理由に岐崔に火を放つことを正当化する、賊にはなり下がらない。

「何も無条件にあるじを奉戴せよとは己れは言わん。だが、己れは知っているぞ。主上は真実、己れのあるじだ。あるじを守れぬ武辺になど何の価値もない」

 己れは自らの価値を棄てるほど、まだ生には飽いていない。わかるだろう、左尚書令殿。
 言い切った大仙に棕若が苦々しく笑う。

「先ほどの言葉を撤回しよう。君は真実、九品の子息たる男子だ、楊子靖(よう・しせい)殿」

 そうだね?
 問いの形をした確認に、文輝と大仙は別の理由で、だが一様に目を瞠った。
 生きた年月の長い大仙の方が、一拍早く正気を取り戻して自虐気味に笑う。

「知っていたのか」
「大仙、人事官を甘く見ないでほしいものだね。岐崔に住まう九品の顔を僕たち人事官が見誤るはずがないだろう?」
「その割には随分と酷評してくれたものだな」
「君が『大仙』などと名乗っているから付き合ってあげたのだよ。寧ろ、感謝してもらいたいほどだね」

 目の前で繰り広げられる真実の暴露に文輝の脳漿が混乱を極めた。それでも、彼らの他愛のない「じゃれあい」は続く。こめかみの辺りがつきつきと痛む感覚が生まれて、文輝は心底、溜息を吐きたくなった。
 棕若の発言が間違っていないのなら、大仙は九品の五位、楊家の生まれだということになる。大仙というのは多分、間諜としての偽名だろう。それでも、文輝はまだ彼から「楊子靖」としての名乗りを受けていない。名乗られもしない名を呼ぶのは無礼だと判断し、結局、彼は「大仙」であると認識し直した。

「孫翁、大仙殿。それで、その、王陵の件はどうなさるので?」

 その判断に基づいて文輝は戸惑いながら、二人の会話を遮る。
 大仙、と呼ばれた楊家の子息は無表情を貫いたままだから、判断は間違っていなかったのだろう。
 棕若が殊更明るく言う。

「押し通らせていただこう。大仙、構わないね?」
「不承不承。だが、それが一番現実的だろう」

 王陵とは国主とその妻が眠る場所だ。静謐を好み、無暗に人が立ち入ることを許さない。棕若をして、その内部へ入ったことがないことがそれを暗に物語っている。
 岐崔の西部の殆どを占める王陵に何の計画もなく踏み入ったところで、禁裏に辿り着くのにどれだけの時間を要するかもわからない。
 棕若の表情が引き締まる。

「では細かい方策を考えよう。小戴殿、戴将軍と黄(こう)将軍に鳥を送りたいのだけれど、君から伝えることはあるかな?」

 将軍位を持つ、文輝の身内二人の名前が挙がった。二人が下城出来ずに中城に留まっていることは、華軍(かぐん)の文の内容を御史台の大夫(たいふ)へ転送したときに一言添えている。情報共有で棕若にもそれが伝達されていたとして何の不思議もなかった。
 使える手は全て使う。棕若が暗にそう言っている気がして、文輝の表情もまた引き締まった。
 次兄と大義姉に文輝から伝えるべきことは何だ。状況報告は棕若が論理的に記せばいい。次兄の指揮する師団と、御史台の部隊に内通者はいないだろう。中城で戦力として無条件に信用出来るのは彼らだけだ。棕若がその戦力を何かに使おうとしているのだけが理解出来た。深手を負った文輝が次兄の役に立つとは思えないから、彼に伝えるべきことはないだろう。大義姉にしてもそうだ。彼女はまだ戸籍班で治療に当たっているだろう。軍医である彼女にその場を見捨てろとは、文輝にはとても言えない。王陵を抜けて禁裏に辿り着いた後で、彼女の医術を欲する場面があるかもしれない。それでも、それは最悪の事態だ。そうならないように文輝たちは今から王陵に踏み入る。
 だから。

「俺がまだ生きている、とだけお伝えください」

 それしか言わなかった。文輝の右隣で大仙が束の間、驚いた顔をするが数瞬もすれば再び無表情に戻る。彼の中では意外性を持った言葉だったらしいが、棕若の眦がうっすらと細くなった。文輝は知っている。孫家当主の老翁のこの表情は相手を認める顔だ。

「助けてほしいとは言わないのだね」
「小兄上(あにうえ)も大義姉上(あねうえ)も将軍位を持つ国官です。国の大事に立ち向かう志は孫翁と何ら変わりはないでしょう。ですから、俺が何か言葉を添えねば動いてはくださらない、などということはないはずです」

 寧ろ、孫翁が二人を頼ってくださることを誇りに思ってくださると信じています。
 言い切れば棕若は瞼を伏せた。彼の中で思考が巡っているのだろう。束の間、沈黙が続く。
 そして。

「戴将軍には内府を正面から攻囲していただこう」

 次兄が指揮する兵部の師団は一大隊十二班だ。一班は十五部隊、一部隊は十五名だから、御史台の部隊も次兄が指揮するなら、内府を攻囲する兵は三千に届く。全てを動員することは出来ないだろうが、今は数が重要だ。一定の数さえ揃えば、内通者が内府の門を守っていても十分、抑止力として働くだろう。
 次兄の他にも下城し損ねた将軍が何名かいるはずだが、棕若はそのうちの何人を信ずればいいのか、判断の根拠を持たない。右尚書(うしょうしょ)が今、必死に反逆者の洗い出しを行っている筈だが、この時点でその裏付けを待つ暇(いとま)はないし、もし間に合ったとしても今度は右尚書に内通者がいないことを証明しなければならない。
 その手間を考えれば九品の三位、戴家の次男を用いるのはそれほど合理性からも外れていないだろう。
 大仙が棕若の提案を受けて深く頷いた。

「陽動か。基本中の基本だな」
「向こうが先に使った手を、こちらも返してくるとは思わないだろう」

 城下は今、戦務長の謀略で混乱のさなかにある。
 東西の街道を焼き、公地の門扉を閉ざさせ、その向こうで安全に計画を遂行する。内府の門を内通者で固めることで禁裏への到達を一刻でも長く遅らせるのが造反者たちの目的だ。
 王陵を通る可能性を考慮していない、と安易に考えることは出来ない。
 ここまで用意周到に長い年月をかけて計画された動乱だ。
 王陵の関係者にも内通者はいるだろう。
 それでも、兵部の将軍が一大隊を率いて内府の門を攻囲すれば気は散じる。内府が突破されれば、次の標的が王陵へ向かうかもしれない。という不安を植え付けることが出来る。
 棕若に必要なのはその不確定要素であり、後手を選ばされている以上、圧倒的優位など望むべくもない。それほど岐崔は偽りの安寧に慣れすぎていた。
 大仙が棕若へ静かに問う。

「城下はどうする」

 一連の事件は午(ひる)の薬科倉(やっかそう)が爆発した件に端を発した。兵部、工部(こうぶ)ともに動員出来る人員は都合二つの事件の解決に奔走している。戸籍班の火災で左官府(さかんふ)も上を下への大騒ぎになっているだろう。
 中城は混乱を極めている。
 御史台の命で内通者が確定するまで、官吏の下城は禁じられた。城下にいるのは非番の官吏だけだ。その数は決して多くない。
 その、僅かな官吏だけで城下の大規模な火災の処理をするのは事実上不可能だ。
 棕若はそれをどう解決するのか。城下だけで解決が難しいのならば、御史台の命を覆し、中城から工部の師団を派兵するのかと大仙は問うている。
 大仙の問いに棕若は静かに首を横に振った。

「内通の疑いのあるものについては、今、僕の息子たちが調べている。右尚書も同じだろう。それが終わるまでは中城の解放は出来ない」
「では城下は見捨てるのだな?」
「右府(うふ)様が偶然にも城下におられる。内府様も未だ公地においでと聞き及んでいるから、あとのことはお二人にお任せするしかない、と僕は考えているよ」

 それを君の言葉で表せば「見捨てる」という表現になるのなら、僕は謹んでその悪評を受けよう。言って棕若は一度、瞼を伏せた。
 そして、再び彼の目が開かれたとき、その双眸には決意が浮かんでいた。

「黄将軍には王陵を共に進んでいただく」
「その王陵内部の情報はどこから仕入れる。己れに心当たりはないぞ」
「香薛(こうせつ)を走らせるしかないのだけれど、間に合うかどうかは賭けになるね」

 棕若が彼の副官の名を挙げる。その返答を聞いた大仙が渋い顔をした。多分、彼も文輝と同じことを思ったのだろう。香薛はただの副官だ。内府の管轄である王陵の情報を持っている論理的な根拠はないし、何より、彼は左官だ。文輝や大仙のような、体力勝負の右官と同じに考えることは出来ない。無事、情報を手にしても香薛が棕若にそれを手渡すことの出来る可能性を考慮すれば結論は概ね絶望と同じ意味になる。
 それでも、棕若は香薛を用いると言った。
 事態がそれだけ逼迫しているのだと察する。
 大仙が呆れているのが雰囲気で伝わってきた。九品の当主だの、左尚書令だのと言っても結局は人ひとりだ。超人的な解決方法などどこにもない。だのに棕若は「九品の品格」を手放そうとしない。何も言わないが、どうしてそこに拘泥するのだ、と大仙は瞳で詰る。手助けが必要なのならば素直に言えばいい。
 そうすれば。
 大仙も望んで棕若の手助けを出来る。
 今、この場に必要なものの正体を察して、それでも文輝は一瞬躊躇った。自意識過剰ではないか。自らには過ぎる言ではないか。余計なことをしなくとも、棕若と大仙は分かり合えるのではないか。
 胸中に去来したそれらの問いを生唾と共に飲み下す。
 叱責を恐れて何になる。必要なものと知りながら見過ごすことの方が罪ではないか。
 導き出された答えが、文輝の口をついて出るのにそれほど時間は必要ではなかった。

「孫翁、香薛殿では間に合いません」
「では君は王陵の中を闇雲に駆けるとでも言うのかな」

 棕若の中に文輝の提示しようとする方策がない。そのことを反論の言葉から察した。
 何から説明するのが最短距離だろうと思案して、結局、文輝にそれだけの弁舌がないことを知る。遠回りでも、自らの言葉で説明するしかない。この件に関しては大仙の助力も望めないから、文輝は腹を括った。

「小兄上が内府に相対してくださるとしても、中城にどれほどの内通者がいるかもわかりません。内府、その正門。その更に背後から攻めを受ければ小兄上といえども難儀する筈です」
「言いたいことが見えないね。戴将軍が後背を攻められたとしても、捕縛されるにはときがかかる筈だ。その猶予のうちに僕たちが王陵を駆ければ、という話だっただろう」
「それは承知しております。小兄上のことは俺も信じています。ですが、無為に過ごす時間はより短い方が得策ではないでしょうか」

 猶予を伸ばす為に次兄を使う。その方策が受け入れられるのになぜ。言葉を急ぎそうになって、その気持ちを精一杯抑えた。暗闇の中、松明に照らされた棕若の眼光が鋭く文輝を射る。棕若は今、要領を得ない文輝の反論に憤っていた。
 無為に過ごす時間を増やしているのは文輝の方だ。そう言われている。わかっている。年長者に反論するのは僭越で、序列を無視している。
 それでも、文輝は今、自ら退くべきでないことを知っている。

「香薛を待たない別の方策があるのなら聞かせていただこう」
「孫翁、大仙殿は主上の間諜であられます」

 今、大仙は王陵に関する知識を何も持たない。その問題に関してはこの場にいる四人、誰もが等しく無知だ。棕若が名指した香薛もまた同様だから、可能性を託す相手として突出した存在はいないことになる。
 劇的な解決策などない。
 その中で、ただの左官である香薛を選ぶより、近衛部の間諜である大仙を用いるのに何の矛盾があるだろうか。百の顔を持ち、兵と共に戦う為の力を備えた大仙にこそ、この任が適しているのではないか。
 そう言えば棕若は苦々しい顔をした。
 多分、今、棕若の中では「九品の品格」を放棄した大仙を用いることに抵抗が生まれている。文輝も次兄も大義姉も、持っていて当然だと思っている品格を棄て、大仙はあるじだけを選んだ。大仙に「楊子靖」としての品格があればもっと話は簡単だったが、それを今、望むことは無為に他ならない。
 文輝の提案に棕若は沈黙で答える。大仙が大きな溜め息を一つ零すことでそれに終止符を打つ。

「小戴、己れはどこへ駆ければいい」

 大仙は文輝の提案を受け入れた。
 自らを用いるのが官吏見習いの中科生であることを拒む気配はない。
 棕若の言葉はまだ返らないが、それを待っている時間はない。
 文輝は棕若を置いて自らの中にある提案を続ける。

「王府までは駆けられますか?」
「内府を抜けろと言うのか」

 混乱を極め、内通者の多くが集まる内府を抜けろと言うのがどれだけ過酷な要求なのか。想像を絶するが、文輝は大仙の問いに躊躇いなく首肯する。
 文輝にも棕若にも香薛にも出来ない。
 それでも、大仙ならどうにかするだろうという確信があった。
 大仙が王府に辿り着きさえすれば希望が残る。文輝の中にはそれ以外の希望が残っていないが、決して荒唐無稽なことを言っているつもりもなかった。

「無理ではないでしょう。王府には銀師(ぎんし)がおられる筈です。程晶矢の母上ならどうにか王陵の地図を手配してくださるかもしれません」
「心当たりがあるのならば、最初から鳥を飛ばせばいいだろう」

 危険を冒して人が駆けていく必然性はあるのかと問われる。
 伝頼鳥はどこへでも飛ぶ。場所も距離も関係ない。人が駆けるよりずっと確かに用件を届けられるのが伝頼鳥だ。だからこそ「まじない」の才を持つものは優遇され、重用される。
 それでも、文輝は首を振った。

「国主様の正当性を覆す謀反が起きているのです。『国主様を守る』為の銀師がどちらか一方に加担してくださるとはとても思えません。程将軍ともあろう方が鳥を用い、公平性を失した判断をした証左を残される筈はないでしょう」
「己れが途中でしくじれば結果は同じだが?」
「主上の命運を預けるのです。大仙殿はしくじらない、と俺は信じております」

 断言すると大仙はふっと息を吐いて、そして穏やかに笑った。

「左尚書令殿。鳥を飛ばせ」

 陽動作戦が始まればすぐにでも大仙が王府へ向けて駆ける。
 王府まで駆けられるのなら、そのまま禁裏へ駆けることも出来る。大仙が文輝と棕若を見捨てて、自らの価値観だけを優先させる可能性もあった。あったが、文輝は大仙がそうしないことを疑っていない。
 大仙にそれが伝わった感触がある。その証拠に彼は小さく鼻を鳴らして鷹揚に笑った。
 必ず帰ると固く誓う。お前は己れだけではなく小戴も信じられないのかと煽られて、沈黙を貫いていた棕若がようやく折れた。
 長い息が漏れる。心底呆れた顔で、彼は文輝へ賞賛の微笑みを向けた。

「小戴殿、君は不思議だね」

 九品の品格を持ちながらそれに縛られることもない。軍学舎(ぐんがくしゃ)にあって、孤独を味わいながら人を容れる。人が人を信ずる理由を求めない。そしてその信を人に届ける為に心を砕くことを厭わない。
 万能ではない。全知でもない。それでも、文輝は人と生きる道を選んだ。その道程で文輝は多くのものと出会う。
 棕若の生き方の中にはない。大仙の生き方の中にもない。
 若輩だからこそ選びうる。その答えが棕若と大仙の二人の心を照らした。

「全く、君が言えば実現可能そうに聞こえるのだから困ったものだ。それで? 鳥は三羽でいいのかな?」
「是(はい)、お願いします」
「大仙、君はここへ置いていこう。僕たちは王陵の手前で待っているよ」

 必ず帰ると信じている。だから暗闇の中、明かりを消したまま待つ。
 棕若の言葉に大仙は表情を引き締めて黙って頷いた。通信士が明かりの下、三通の書状をしたため鳥が飛ぶ。
 それを見送った大仙が切なさを帯びた眼差しで文輝に問う。

「小戴、右将軍(うしょうぐん)を持つ新王に従わなくていいのか」

 右将軍というのは神話と現実の境目にある存在だ。白帝の右腕であり、国主が統治者と認められた証として現れると言われている。先代の国主は右将軍を伴っていたと史書にあるが、文輝は当代の国主しか知らない。棕若は右将軍を知っている筈だが、何も言わない。それを無言の肯定と受け取る。
 物心ついた頃からずっと「右将軍を伴わない国主」の統治を受けてきた。だからかもしれない。その感情すら与えられたものなのかもしれない。疑えばきりがない。偽りの国主を敬ってきたという不安と向き合いたくないだけかもしれない。真実を知れば自らが罰せられることを恐れているだけかもしれない。
 それでも。
 文輝は正面から大仙の眼差しと向き合った。

「俺は国主様を信じます」
「その根拠を聞こう」
「では大仙殿にお尋ねします。あるじをあるじと定めるのに合理的な根拠は必要ですか?」

 少なくとも文輝にそれは必要ない。遠回しにそう言えば大仙はばつが悪そうに瞼を伏せた。そして再び開いた彼の眼差しには慈しみが浮かんでいる。

「武運を祈る」

 言って大仙が踵を返し、暗闇の中へと駆け出した。
 背中が遠く、見えなくなるのに時間は必要ではない。視界から完全に大仙が消えたのを境に文輝と棕若もまた駆け出す。
 目指すのは王陵の手前だ。そこで大仙の戻りを待つ。信じているのは大仙一人ではない。次兄、大義姉、そして程将軍。多くの信の上で成り立ったこの方策に命運を預けて文輝は中城を駆ける。体力が尽きかけ、傷を負った文輝の直刀一本で守らなければならないものの重みに耐えるのに必死だった。
 暗闇が冷たさを帯び始める。東から吹く風が今も城下で火災が起こっていることを伝えた。数えきれないほどの「なぜ」と「どうしよう」を抱えたまま文輝は駆ける。今は駆けることしか出来なかった。

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