それは、風のように<十六>

十六.
 視界は黒一色で埋め尽くされている。自分の四肢も見えないが、特に不安を感じるわけでもない。暗闇の中をただ浮かんでいるような感覚に浸っていると、どれだけの時間が経ったのかもわからなかった。
 ここがどこだとか、そういった現実的な疑問は不思議と持たなかった。何かに例えるのなら、生まれる前に母親の腹の中で似たような感覚を味わったような気がしている。
 その、安堵すら覚える空間に辿り着くまでの経緯はかろうじて覚えていた。正論という名の暴力で文輝(ぶんき)は大人たちを煽ったのだ。その結果、退くに退けなくなった大仙(たいぜん)が凶行に及ぼうとしたのを何とか防いだ。大仙が標的とした戦務長(せんむちょう)の身こそ無事だったが、力の足りない文輝には全てを守ることは叶わなかった。大仙の短剣が胸に突き立ったときの衝撃をぼんやりと思い出した。
 思い出して、やっと、文輝はこの暗闇の正体に心当たりがついた。

「死んだのか、俺」

 光は射し込まない。文輝の両目はもう二度と開くことがないからだ。
 人の身体には精神を司る魂(こん)と肉体を司る魄(はく)が宿っている。文輝の意識がここにあるということは魂はもう身体を抜け出たのだろう。魂と魄が別離した以上、四肢が目に映らないのも当然だ。文輝の魂はもう魄とは別の場所にある。肉体は早晩朽ちゆくだろう。
 魂は巡るという。このまま無限にも近い暗闇を彷徨って、そのあとどこに辿り着けば、終わりになるのかは知らない。死んだ人間が再び起き上がったという話は聞いたことがなかったし、多分、文輝はその一人目になれないだろう。神は――白帝(はくてい)は如何なる場合においても自らを投げ出すものを祝福しない。戦務長を庇う為とはいえ、文輝は大仙と刃を交えることなく、自らの身体を「鞘」にした。武官としては勿論、武官見習いとしても最低の選択だ。
 奇跡が自らの身に起きる可能性は皆無だったし、怪異の類には興味がなかったから、経典でしか死後の世界について知っていることはない。
 それでも、何とはなしにここが終焉の在処なのだと察する。
 西白国では生まれた年を無事に過ごし、新しい年を迎えられたことを祝って年齢とする習慣があった。夏の初めに生まれた文輝はあとひと月半、無事に生きていたら十八になれた。それが叶わないことを茫洋と知って、自分の十七年を振り返る。それが長かったのか短かったのかすら文輝にはわからない。
 過ぎ去ったものは戻らない。形あるものはいつか失われる。
 そのあとで悔いるのは、虚しいだけだ。
 わかっている。それでも、虚しさを抱えてでも守りたいものがあった。その為に命を賭したことまで否定するのだけは嫌だった。
 そんなことを一人で考えていた。どのぐらいそうしていたのかはわからない。
 眠っているのか起きているのかも判然としない闇の中から、不意に文輝を呼ぶ声が聞こえた。

「小戴(しょうたい)」

 どこか聞き覚えのある声だった。呆れているような、感心しているような何とでも言えるような声音に、文輝は四方を見る。自分の身体すら見えないのに、相手の姿が見つかる筈もない。わかっているが、それでも探してしまった。
 聞きたかった声だ。この声の持ち主に、尋ねたいことがある。そう直感するのに記憶は回答を示さない。もどかしさを抱えながら、文輝はもう一度四方を見渡した。
 そうこするうちに、一度目よりも近くで声が聞こえる。

「小戴、俺を探しているのか」

 目で探そうとするな。と声の持ち主が言う。言葉の意味がわからなくて困惑した。それでも、答えを知りたくて声の忠告をどうにか噛み砕く。文輝の目に映るのは黒一色だ。どうせ何も見えないのだから、と瞼を閉じる。肉体から離れた魂に瞼という概念があるのかはわからなかったが、今までそうしてきたように、そっと目を伏せた。暗闇の世界は変わらない。
 三度目の声が聞こえる。

「小戴、俺はお前の目の前にいる」

 もう見える筈だ。声に導かれるように記憶が鮮明になる。この声は、この温かみは、この憂いは陶華軍(とう・かぐん)のものに相違ない。
 何もかも一人で背負って、何の説明もせずに壮大な遺書を残して、一方的に消えてしまった。華軍が何を思って手の込んだ自殺をするに至ったのか。遺書はそれを弁明したが、文輝は今も納得が出来たわけではない。
 数えきれないほどの不条理と憤りを残していった。
 それらの全てを解決することが不可能でも、文輝はまだ華軍に問いたいことが残っている。
 閉じていた瞼をゆっくりと開く。声が告げた通り、生前の姿をした華軍が暗闇の中で立っていた。

「華軍殿」

 ぽつり呟くように声が漏れる。警邏隊(けいらたい)戦務班(せんむはん)で過ごしていたときと何ら変わりない華軍の姿に、どうしてだかはわからないがひどく安堵した。胸につかえていたものがすっと消えるような感覚を味わう。憤りがなくなったわけではないが、それよりも安堵の方が大きかった。
 死者に再びまみえることは出来ない。
 だから、これは夢か幻か、文輝の願望だ。死してなお、何かを望むことがあるのだ、と思うと不思議なものだった。
 それでも。生きることが叶わないのなら、せめて尋ねておきたいことがある。

「小戴、そう身構えるな。俺は何もお前を殺しに来たわけではない」
「既に命のないものを再び殺めることが出来る、と思わない程度には俺にも学があります」
「死ねば巡る。幾度巡れば終わりになるかはわからんが、その流れから弾き出されれば終わりは二度と来ない」
「『礼経(らいきょう)』ですか」

 「礼経」というのは所謂「五書(ごしょ)」の一つで礼儀、作法を通して宗教観を著わしたものだ。葬儀についての作法を示した段に、死者を送る心構えとして華軍が先に言ったようなことが記されている。武官にはあまり縁がない内容であり、文輝は知識として理解しているが、信じているのかと問われると返答に困る。
 その、一般論を説いた本人も別段信じている風ではなかったから、世間話なのだと判断した。

「華軍殿、自ら命を投げ捨てたものも、巡ることはあるのですか」
「さてな。俺は、次に期待して命を捨てたわけではない。巡れずとも後悔もない」

 ただ、生きているというだけでつらかった。その気持ちから離れたかった。それだけだと華軍は訥々と語る。その途中で、手の込んだ自殺に文輝を巻き込んだことを詫びられる。
 謝罪の言葉が聞きたかったのではない。
 意図せず、同じような境遇に陥ったことに同情をしてほしいわけでもない。
 ただ。

「俺が十年早く生まれていれば、何かが変わりましたか」

 岐崔で起きた動乱をただ見ているしか出来なかった。もっと早くに華軍や戦務長と出会えていれば結果が変わったかもしれない。もっと穏やかな解決策があったかもしれない。
 そう思うと言葉が口から零れた。他意はない。仮定を積み重ねても結論は変わらないし、失ったものは戻らない。知っていたが、文輝がそれを思い出したのはありもしない耳朶で自らの声を聞いた後だった。
 文輝の短慮を聞いた華軍は複雑な表情を見せる。

「お前は何も変わらないんだな」

 文輝が華軍に初めて出会ったのは十七の春だ。警邏隊戦務班に配属になって、そのときに通信士として紹介されたのが華軍だった。利発そうな風貌とやや寡黙なところが釣り合っていて、二十代で岐崔の通信士を務めているの英才だけのことはある、と勝手に納得した。勝手に納得して、その日以来、文輝は寡黙な華軍の言葉を引き出そうとあれこれ話しかけた。文輝が一人で語ることの方が多かったが、それでも必要最低限の相槌は返ってきたのだから、会話は成立していた。今でもそれは疑っていない。
 国の未来、国官のあるべき姿、九品として背負う重み。女官たちが用意する昼食の好悪、日々色を変える天候や風の表情。
 会話の一つひとつを覚えているわけではない。それでも、数えきれないほどの言葉を交わした。
 その全てが偽りだったとは思いたくない。
 それでも。
 華軍は文輝と同じものを見ても、同じようには感じていなかったことを知ってしまった。
 悲哀と憐憫と侮蔑と憤怒を矛盾なく孕んだ華軍の声色が語る。文輝の浅慮な問いが、また一度、華軍を傷付けてしまった。

「小戴、お前はいつもそうだ」
「何のことでしょうか」
「自覚がない、というのが最も残酷な罪であることをお前は知らない。正しさがそんなに大切か」

 身を切るような切実さを帯びた声が文輝に届く。何を問われているのか上手く咀嚼出来ない。
 正しさとは不変のものだ。十七年間、そうであると信じて文輝は生きてきた。
 物事は多面的な要素を持っているが、正否だけは変わることがない。
 だから、正しくあるように自戒することを自身に強いている。そうしているのは、文輝だけではない。九品に生まれたのなら等しくそうあるように教育される。

「無知が罪であるのなら、それは俺の不徳です。正しさを守ることとは矛盾していない、と思うのですが違うのですか」
「ならばお前に聞こう。正しければ誰かを傷付けてもいいのか。正しさというのは人の思いよりも大切なものか」

 突然に提示された命題の証明に戸惑う。正しくあるべきだと育てられた。偽りだらけの「五書」を真剣に信じてきた。その価値が揺らいでも、文輝の中には正否の基準だけが寸分違わずに残っている。
 だから、正しいことと誤っていることとの線引きは行われて当然だ。
 人の思い、というのが何を指すのかは判然としないが、正しいものは報われ、誤りは正されるべきだ。

「不正を肯定する感情などない、と俺は思います」

 華軍の双眸が文輝を射る。そのあまりにも鋭い輝きに文輝は息を呑んだ。それぐらい、華軍は真剣に文輝と対峙していた。
 辛辣な言葉が、戸惑う文輝を更に襲う。

「ではお前は飢えた貧しい子どもに『金がないのは自らの不徳。それを受け入れ、飢えたまま死ね』と言えるのだな?」
「いいえ。そのようなことは言いません」
「では何とする」
「感情の好悪に拘らなければ、日銭を稼ぐ方法がある筈です。それをしないで、飢えるのはただの怠惰ではないのですか」
「怠惰、か。やはりお前は何もわかっていない」

 何もわかっていない、と頭ごなしに否定されるつらさをわかっていないのは華軍の方だ。そう反論したかったが、華軍の眼差しがそれを許さない。否定されて、悔しい思いをしているのは文輝の方なのに、華軍の方がずっと傷付いた顔をしている。

「小戴、お前は飯を食うのに困ったことなどないだろう」

 今宵の寝床がない不安と対峙したことは? 寒さに凍える夜を過ごしたことは? その今日が明日も明後日もいつまでも続く絶望を知っているか。
 矢継ぎ早に問われる言葉に返す答えがない。九品に生まれた文輝は十七年間、衣食住に何一つ困ることなどなかった。
 それでも、市井のことは知っている。知っていると思っていた。
 文輝が知っていた市井は岐崔の城下だけだ。岐崔の安寧が作られたものだとわかった時点で、その知識には不足がある。
 この世界には文輝の知らないことの方が多い、ということを動乱を経てやっと知った。
 遅すぎるのはわかっている。文輝の持論に照らせば、知ったのなら今から現実と理想との間にある隔たりを埋める努力をしなければならない。
 文輝の顔に今、何が映っているのかを文輝自身が知ることは、今までは勿論、これからもない。向き合った相手だけがその答えを知っている。
 だから。
 文輝の表情から華軍が何を受け取ったのかは推して図ることしか出来ない。文輝の持論を通すのならば、それが最低条件だ。
 自らの至らなさを知った文輝に、華軍が鋭い声を浴びせる。

「もう一度聞く。小戴、正しければ何をしても許されると思っているのか」

 この世界の全てを善と悪の二つに分けて、少しでも悪の部分があれば反論をすることすら許さないのか。それが、本当に正しいことなのか。心の底からそう思っているのか。
 何度も、華軍自身へすら確かめるように問いが重ねられる。
 何かを答えなければならない。胸に去来した感情を口にしようとして、それが正しい答えなのか、と自問する。それもまた自己満足と知って、文輝は自らの小ささを知った。

「わかりません」
「わからないということはないだろう。お前のしたことだ。お前が、どう思っているのかぐらい、お前にもわかるだろう」
「本当に、わからないのです」

 軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)で習ったことの多くは偽りだったと知った。岐崔の外の世界は美しく整っていないことも知った。
 文輝の世界を満たしていたことの多くが真実ではなかったと知って、それでもなお、持論を曲げずにいることが正しいのかどうかがわからない。
 わからない、と答えるのが精一杯で真実なのに、華軍の声は追撃でもするように、曖昧な答えを許さない。
 そして、また一つ、文輝は知った。
 正論で人を詰るのは、無抵抗の相手を刃で斬りつけるのと何ら変わりがない。血は流れない。身体は何も失われない。それでも、感情は――心はひどく傷つけられる。正論を浴びせた相手が、自らの不徳を知りながら、それでも現実と折り合いをつけていたのなら、その程度はなおさら酷いだろう。
 文輝が自らの信じた正しさを押し付けた二人の君主もまた、傷付いていたということをやっと知って、その罪深さの前で蹲ってしまいたい衝動に駆られる。
 反論をしないのではない。出来ないと知っていながら、言葉を重ねた。自らが正しいと信じていたから出来た。文輝の振りかざした正論の中には人の感情が欠如していた。相手を思いやる気持ちが足りなかった。
 後悔が少しずつ文輝の中に満ちてくる。
 自らの思う正しさを、そのまま相手に求めるのは本当に正しいことだったのだろうか。
 表情が曇っていたのだろう。華軍が語気を緩めた。

「小戴、これで最後だ。本当に、正しければ何をしても許されるのか。それはお前の言う悪と一体、何が違う」

 何も変わらない。寧ろ、文輝が裁いた悪よりも性質が悪いとすら言える。

「信じるものが違っているだけ、なのでしょう」
「お前の十七年には全てが揃っているのか」
「いいえ。足りないものばかりでした」

 若かっただとか、青かっただとか、言い訳は幾らでも出来る。その余地を許さずに一方的に詰った文輝がどれだけ人としての徳を欠いていたのかは、これ以上華軍に指摘されずともわかる。
 何が九品だ。何が国官だ。何が理想だ。
 文輝はその土台に立つことすら出来ていない。まず、人として不全だった。
 そのことを、全てが終わった後に知っても何も出来ない。後悔をするのさえ自己満足だ。次に活かす機会すら与えられていないのだから、何も取り返すことなど出来ない。
 あまりの不甲斐なさに囚われて、呆然と華軍を見た。
 多分、今、姿が見えているのなら、文輝は泣き出しそうな顔をしているだろう。
 華軍の眼差しから鋭さが消えないまま、声色が不意に優しさを帯びる。

「小戴、お前はお前がしたことの報いを受けるべきだ」
「永遠に巡るな、とでも仰りたいのですか」

 今の文輝にはそれぐらいの罰しか思い浮かばない。
 この暗闇の中を永遠に漂え、と言われたのだと受け取った。
 その文輝を華軍は鼻先で嗤う。

「寝言は寝ているときだけにしろ。次の命など本当にあるのか、俺は信じていない」
「でも、華軍殿は確かに亡くなられたのに、こちらにおいでです」
「そうだな。魂という存在が本当にあったことには俺も驚いている」

 あのとき。夕暮れの白帝廟(はくていびょう)で文輝の直刀は確かに華軍を刺し貫いた。その感覚をまだ忘れてはいない。
 それでも、華軍は言う。

「俺はもう手遅れだが、お前はまだ間に合う。それに」
「それに?」
「俺はお前に生きて、苦しんで、悩ませる復讐を望んでいる。その身でお前がしたことを一生悔いながら、現実と向き合え」

 だから、お前はもうここにいてはならない。
 言って華軍が一歩、二歩と文輝に近づいてくる。
 そして、華軍の手が文輝の胸をとん、と押した。身体が後ろに傾いたと思ったら、どこか高い所から落ちるような感覚が生まれ、華軍があっという間に遠ざかる。
 待ってほしい。
 まだ話していたい。文輝の何が至らなくて、何をどう直すべきなのかを尋ねたい。
 そう思うのに華軍の姿は闇の中に消えた。
 そして。

「華軍殿!」

 地面に叩きつけられる感覚と共に文輝は華軍の名を呼ぶ。視界が明るさを取り戻す。ただ白かっただけの世界が、不意に焦点が合うように実像を結ぶ。見たことのない天井が視界に映った。
 ここはどこだろう。
 四方を見渡そうと首を動かす。先ほどまでとは違い、思うように視界が回らない。難儀しながらも、文輝は横を向いた。
 白い布が敷かれた寝台の上に横たわっている、と気付くと同時に、視界に流れるような黒髪が映る。黒髪越しに白んでいく空が見えて、朝焼けだ、とぼんやり思った。黒髪の持ち主は文輝が横たわる寝台に突っ伏して眠りの中にいる。誰だろう、と思うと黒髪が床に流れ落ちた。
 そして。

「首夏(しゅか)?」

 薄っすらと開いた榛色の双眸が文輝の視線と交錯する。「暮春(ぼしゅん)」と呼んだつもりが声にはならなかった。それでも、文輝がそこにいることを見て取った晶矢(しょうし)の榛色がこれ以上ないほど見開かれて、そして弾かれたように彼女が部屋を飛び出していく。視界の片隅に美しく弧を描く平服の袖が焼き付いた。ぱたぱたと軽い足音が廊下に出て、あっという間に遠ざかり、そして音の数を増して戻って来る。

「文輝殿!」
「文輝、目が覚めたんだな!」

 晶矢に先んじて長兄の妻である玉英(ぎょくえい)医師と次兄が部屋に飛び込んできた。
 玉英は持参した道具で、手際よく文輝の診察を始める。呼吸、脈拍、心音。それらが整っていることを確認して、彼女は寝台に投げ出された文輝の右手を握った。人の体温に触れて、その温かさに懐かしさを感じる。握られた右手を、文輝もまた握り返した。

「大義姉上(あねうえ)」

 唇を動かすと、今度は掠れながらも音が出る。それを聞いた玉英が文輝の右手をそっと解く。そして、彼女は後ろに控えていた次兄に「もう大丈夫ですよ」と言って立ち位置を入れ替える。文輝の枕元に立った次兄は顔中を安堵に染めて、そして、一切の遠慮なく、文輝の頬を平手打ちした。乾いた破裂音が部屋中に響く。文輝は衝撃やら、痛みやらで何が起きているのかよくわからない。晶矢が慌てて次兄の名を呼んだ。それでも、次兄は穏やかな顔のまま静かに檄している。将軍位を持つ武官の平手打ちが痛くない筈がない。口の中に鈍い味が広がっている。その痛みを必死に堪えたのは何も分別があったからではない。表情一つ変えずに激怒している次兄を見るのが初めてで、言葉では表せないほど怖かった。

「文輝、お前は自分が何をしたのかわかっているな?」

 平静そのものの声が聞こえて、文輝は自らの失態を振り返る。国主と宰相に対して礼を失した行動を取った。それが九品、戴家の公式見解になるが構わないかと問われて、次兄が責任を請け負ってくれた。請け負ってくれたのをいいことに、文輝は思う通りにした。
 正しいと思うことをしたが、それは文輝の独善だったと闇の中で華軍に諭された。
 だから、戴家に迷惑がかかったのだ、と察する。
 どれだけの影響があったのだろう。
 次兄がこれだけ怒っているのだから、相当のものだ。もしかしたら、家名断絶ぐらいの罰が下ったのかもしれない。
 返答を待っている次兄に、恐る恐る、文輝は答えた。

「独善で、国のあるじたる方に無礼をはたらきました」
「違う」

 平坦に否定される。次兄が答えをくれる様子はない。痛みを噛み締めながら次の答えを紡ぐ。

「武官見習いの領分を超えた言動をいたしました」
「それも違う」
「では、大義姉上のお立場を考えておりませんでした」
「文輝殿、それも違います」

 自分の立場などどうということもない、という答えが玉英から返る。では何だ。これ以上答えは思いつかない。苦しくなって口を噤む。次兄がすっと右手を上げた。もう一度平手打ちを受ける、と思い瞼を強く閉じる。
 だが、痛みはやって来ることなく、温もりが文輝を抱え込んだ。
 文輝の肩口が不意に湿度を帯びる。冷徹な将軍の顔を捨てた次兄の目元から次から次へと涙が零れている。潤んだ声が、文輝の耳に正解を伝えた。

「この馬鹿弟! どうして自分から死ににいくような真似をしたんだ! 義姉上(あねうえ)がどんなお気持ちでお前の治療をしたと思ってるんだ! ふた月もお前が目を覚まさなくて、母上がどれほど苦しまれたと思っている!」
「小兄上(あにうえ)、俺は」
「正しさの為に命を棄てて、その結果は誰が引き受けるんだ! 人を助ける為にお前が死んて、それで誰かが救われるのか!」

 俺はそんな正しさはいらない。涙声が訴える。
 その段になって、自分がしたことの大きさを知った。華軍の言葉が不意に耳に蘇る。お前がしたことを一生悔いながら、現実と向き合え。聞いた時には意味が分からなかった。その意味が少しずつ身に染みる。
 文輝の身勝手な正しさが、文輝が思っている以上に多くのものを巻き込んでいた。国を守る為の武官が、命を投げ出して命を守ることを否定されるとは思わなかったが、文輝の肩口で嗚咽する次兄の姿もまた現実なのだろう。多分、この国の武官の家族は誰しもこの思いと背中合わせなのだ。失われていい命などどこにもない。
 その人として当たり前の感情の機微を、脆弱と切り捨てるのは武官である以前に人として大切なものを欠いている。それを欠いた武官に、何かを守る資格はない。自らの背に乗ったものを守ってはじめて、誰かを守れる。

「戦務長はどうなったのですか」

 文輝が命を懸けて守った相手は救われたのだろうか。文輝が助かったと聞けば安堵してくれるのだろうか。
 そんな期待を込めて次兄に問う。
 抱え込んでいた両腕が解かれ、寝台に横たえられる。距離を取った次兄が目元を袂で拭って答えた。

「劉子賢か。ひと月半以上に亘って不正の証言をし終え、七日前に自刃することが許された」

 それは戦務長がもうこの世界のどこにも存在しないということだ。死罪――それも斬首の罪を科せられる筈だったが、不正を詳らかにすることで減刑が認められたのだろう。自刃が認められたのなら、戦務長は自らの尊厳を保ち、人として死ぬことが許されたということだ。斬首されれば墓を作ることも許されない。野晒しにされ、朽ちていくのを待つだけだ。だが、自刃ならばいずれ墓が作られるだろう。今すぐでなくともいい。いつか、その墓前に参りたいと思った。
 そんなことを考えていると、怒りの表情を消した次兄が苦笑する。

「目が覚めて、真っ先に聞くのが上官の安否か」

 ここがどこか、とか、母上がどうされている、とかそういうことは聞かなくていいのか。暗に問われた内容に、ではお聞かせください、と返す。

「城下の大火で戴家の屋敷は半焼した。お前の部屋も荷物も焼失した。妻が至らず、すまなかった」
「小義姉上(あねうえ)の所為ではございますまい」
「東部から兄上が戻ってこられ、今は屋敷をはじめとした城下全体を復興している途中だ。中城も荒れ、右官府(うかんふ)の医務班(いむはん)はどこも満床でな。ある方のご厚意で王府(おうふ)の一室をお借りしている」

 見覚えのない天井の正体はそこで知れた。王府に立ち入ることが出来るのは国主や宰相(さいしょう)などを除けば、国主の私兵である銀師(ぎんし)だけだ。晶矢の母が銀師の将軍を務めている。彼女の口添えなのだろう。でなければ、文輝の縁故でない晶矢がこの部屋にいられる理由がない。
 聞き間違えでなければ、文輝はふた月の間眠り続けていた、と次兄は言った。
 そのことをぼんやりと理解して、綿入れが掛けられていることにようやく気付く。
 窓向こうに寒梅がぽつぽつと花を咲かせていた。

「母上はご無事ですか?」
「ご無事でなければ、俺はここにいない」
「なるほど、その通りですね」

 次兄の妻の気配りもあり、軽度の火傷一つ負っていない、と告げられて文輝は胸を撫で下ろす。戴の屋敷には思い入れのあるものが数え切れないほどあった。それらが失われたのは残念だが、命あっての物種だ。家族が無事であれば、物品はいつかまた別の思い入れが出来る。
 今は誰一人命を失わなかったことを喜ぶべきだ。
 そう思い、気持ちを切り替える。

「大仙(たいぜん)殿はどうしておられますか」
「朱氏(しゅし)殿が主位を奉還された。それに伴い、新たな主上が即位された、と言えばお前にもわかるだろう」
「間諜の職を辞された、のですか」
「主上は引き続き仕えてほしい、と仰られたが、激情に流されたとはいえ、王弟に刃を向けた罰は負わねばならない、と頑なだったぞ」

 自らの使命に忠実で、盲目的に朱氏景祥(けいしょう)を崇拝していた。大仙らしい幕引きだ、と思うが同時にどこか勿体ないという印象を受ける。誰が新しい国主になったのかはわからないが、国主として未熟であれば、熟練の配下を望むだろう。大仙がそれを理解していないとは思わない。思わないがゆえに、文輝は大仙の言外の望みを知った。彼は、この国が一から出直すことを望んでいる。旧態の一部である大仙が居残ったのでは、意味がない、と思ったのだろう。

「今はもう、西白国(さいはくこく)を出て、東へ向かったと聞いている」
「そうですか」
「他にも聞きたいことはあるだろうが、お前が目覚めたら即時知らせよ、というのが主上の命だ。阿程(あてい)が今、知らせに行った。もうじき参られるゆえ、無礼のないようにな」

 言って、次兄は踵を返した。診療道具を手早く片付けた玉英が立ち上がり、その背を追う。二人が部屋を出ていくのと、ちょうど入れ違いで剛とした声が聞こえた。

「主上のおなりである」

 その声に条件反射で上半身を起こし、拱手する。小さな足音と衣擦れの音が響く。
 そして。

「小戴殿、ご無事でようございました」

 凛とした、聞き覚えのある声に驚いて顔を上げる。
 半年間、親しんだこの少女の声を間違える筈がない。

「――伶世(れいせい)」

 拱手が解け、ぽつりと字を呼ぶ。付き人から「主上の御名を呼び捨てにするとは何ごとか」と叱責が飛んだ。伶世がそれを手のひらで制する。付き人は不承不承という体で口を噤んだ。
 伶世が寝台の横までやってくる。
 よく見ると、伶世は戦務班にいた頃には見たこともないような美しい衣を纏っている。そのことが、文輝の知っている伶世をどこか遠くへ押しやってしまったかのような感覚を生み、僅かながら距離感を覚える。

「お前が新しい国主様か」
「朱氏殿と劉校尉(こうい)のお二人ともが、揃って土鈴を奉還されたことはご存知ですか?」
「小兄上の口ぶりから、そうなんだろうなとは思っていた」
「白帝(はくてい)陛下は土鈴をお受け取りになったそうです。それを聞いた皆、太子殿が後を継がれる、と思っておられたようなのですが、土鈴を授かったのは私でした。何の前触れもなく、人の名が視えるようになる、というのはあまり心地のよいものではございませんね」

 苦笑交じりに伶世が言う。
 その苦笑いまで格式高いものであるかのように感じて、文輝は伶世に何を言えばいいのか戸惑う。伶世にとっては、このふた月で既に慣れたことなのだろう。若干の疲労感を滲ませながら、「戴耀(よう)殿」と名を呼んだ。「真実の証明」で土鈴の音が文輝の耳に響く。親以外に名を呼ばれたが、不快感はない。寧ろ厳粛な気持ちにすらなる。
 そこまでされて、文輝はようやく伶世が国主の位を継承したことを受け入れた。

「主上、と呼んだ方がいいのか」
「人目のあるところではそうしてくださいませ。今は、まだ「ただの伶世」でおりとうございます」
「そうか」
「ですから、私もまたあなたのことを小戴殿とお呼びします」

 嫌悪感がないとはいえ、鈴の音を常に聞かせたくはないのだと文輝は察した。そういう細かな気遣いの出来るところは何一つ変わっていないのだと知る。それでも、伶世はもう多くのものを失って、その代わりに別のものを両肩に載せている。

「城下には戻ったのか」
「いいえ。朱氏殿の娘であると知って、どんな顔をして父母に会えばいいのか、わかりませんでした」
「それでも、お前の十六年間は城下にあっただろ」

 物心がついた頃から見ていた景色は城下のものだ。景祥が得た唯一の娘を政略の駒として用いることを倦厭して、信頼出来る豪農の夫婦に預けた。そもそもはそれが誤りだったのだろう。国主は人であると同時に人ではない。平民の持つ、親としての感情で判断することは許されなかったが、景祥はその誤りを選んだ。
 字を視る目を失った時点で、景祥や宰相にはいずれ遠くない未来に動乱が起こることがわかっていた。わかっていたから、伶世を引き取るのではなく、ただの農家の娘として嫁がせるように指示した。
 それらのことの全てを知って、平然と育った家に戻ることなど出来ない、と伶世は言う。
 伶世が真実を知ったことは養父母にも伝わっただろう。十六年間、実の父母として慕っていた相手に叩頭される、というのがどれだけ伶世の心を傷付けるのか。文輝には想像することも出来なかった。
 それでも、伶世の十六年間は確かに城下にあった。
 それを否定するのは、景祥や戦務長が犯した過ちと何ら変わりがない。
 わかっている。文輝を育ててきた教養が音を立てて崩れたのより、伶世の受けた真実の暴露の方がよほど重大だ。十六の伶世に、国主の座を突然継ぐことになった彼女に、大局的な判断を完璧にしろというのは無理がある。
 それを求めても何にもならない。正しさだけでは人は救われない。
 文輝もまた、同じ過ちを繰り返そうとしていることに気付いて、慌てて口を噤む。
 伶世が、人というのはそう簡単に変われるものではありませんね、と苦く笑った。

「方(ほう)家で暮らした十六年間は、目を開けたまま見ていた夢だと思うことにいたしました」
「許嫁はそれで納得したのか」
「小戴殿。九品の子息であるあなたにはわかっていることではございませんか?」

 わかっている。環(かん)の色と貴石の大きさという尺度は身分と言う目に見えない隔たりを持っている。伶世が持つ、本当の環に見合うかどうか。だなんて考えるまでもない。岐崔(ぎさい)の城下でどれだけの力を持っていたとしても、黒環(こっかん)では国主と婚姻することは出来ないだろう。
 自由と実力主義を謳うこの国が、如何に多くのしがらみを持っているのか、ということを茫洋と知って、文輝は自らの無力さをまた痛感した。

「さて、小戴殿。私がこちらへ参ったのは何も思い出話をする為ではございません」
「俺の処遇を知らせる為、だろ?」
「臣下の処分を国主自ら通達するべきではない、と前宰相殿は仰られましたが、私は自らが下した賞罰をきちんとお顔を見て、お知らせしたい、と思っております」
「家臣の顔色窺い、じゃないならいいんじゃないか」

 誰の顔色も窺わず、誰を贔屓することもなく、それでも誠実でありたいと願うのなら、その道は決して容易いものではないだろう。
 それでも、伶世は自らの意志で自らの治世の方針を決めた。今の彼女にはそうすることしか出来ない。そして、その結論の持つ責任を負おうとしている。
 ならば、文輝はこれ以上、賢しら顔で意見を押し付けるべきではないだろう。
 伶世の言葉を待つ。
 不意に真名が呼ばれた。凛、と土鈴が鳴る。
 そして、沈痛な面持ちで伶世は告げた。

「戴耀(よう)。そなたには岐崔の修科(しゅうか)へ進むことを許さぬ。このまま、国官として中城に残ることも許さぬ」
「市井に下野せよということか」
「郭安州(かくあんしゅう)の新しい州牧(しゅうぼく)が、そなたの身を引き受けると申しておる。二年間、関の外で学ぶとよい。その後、国官に復帰することを望むのであれば、正当な手続きを経よ。そうすれば、官吏登用試験を一度だけ受けることも許す」

 そなたへの処罰は以上だ。
 確認したいことはございますか、と問うた伶世は国主の顔をしていなかった。文輝の知っている女官見習いの伶世のまま、眦が細められている。彼女は今、文輝の答えを待っている。未来が閉ざされて、歩いていく筈だった道のりを塞がれて、それでもなお志を折らない、そんな答えを待っている。

「もし、その一度で落第すればどうなる」
「戴の名とその環の両方を還してもらう、ということになりました」

 難しい道とは思いますが、どうされますか。今ならまだ、隣国へ亡命する手助けをすることも吝かではない、と私は思っております。
 厳しい道とそれよりは少し易い道が示された。どの道にも多かれ少なかれ苦難が待ち受けているだろう。
 だから。

「伶世、二年後にまた会おう」

 必ず帰って来る。栄誉がほしいのではない。俸禄がほしいのでもない。それでも、偽りだらけでもこの国を守りたいという気持ちはまだ消えていない。
 躊躇いはあったが、処遇を受け入れた。可能性が全て消えたのではない。文輝は努力しさえすれば、全ては失わない。
 だから、伶世に答えを返した。彼女はそれを見て、一瞬だけつらそうな顔をしたが、結局は穏やかに微笑んで、言った。

「では、小戴殿。二年後にまたお会いしましょう。そのときには、どうぞ心置きなく『主上』とお呼びください」

 そして彼女は踵を返し、衣を翻して部屋を出て行く。
 寒梅が窓の向こうで風に揺れた。

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