雑記

番外編<1> 黄玉英の回想

 こんな家の娘として生まれたくなんてなかった。
 初科生だった頃、伯父に対してその言葉を発してしまったあと、玉英はこれ以上ないほどの後悔に襲われた。
 具体的なきっかけが何だったかすらもう覚えていない。多分、素行とか礼儀作法とか将来の話だとかいう大人たちのよくある説教話の一つが発端だったような気がする。十代の小娘である玉英に向かって伯父――黄碌生が正論を説くのは特に変わったことでもないし、今なら彼の判断はある程度仕方がなかったのだと理解出来た。
 それでも。

「主上――ではなくなったのですね。朱氏殿を政の世界に引きずり込んだ責任を取る為に、と貞潔を貫いた叔父上のことを私は少し疎ましいと思っておりました」
「今は違うのか、玉英よ」
「違いますとも。よき伴侶に恵まれ、子も授かり、義理とは言え大切な弟たちとも巡り会いました」

 今は戴伯日(たい・はくじつ)の妻であることを誇りに思っておりますよ。
 その言葉を心の底から言える自分、を知って玉英の日々は充実している。筈だったのに岐崔は動乱の舞台になってしまった。
 両官府どころか城下をも巻き込んだ動乱が起こったのがつい七日ほど前のことだ。岐崔の復興はまだまだこれからで、傷跡は生々しさを残している。
 国主――だった朱氏景祥は動乱の首謀者である劉子賢と共にその天賦の才を白帝へ奉還した。白帝はそれを受け入れ、次の国主を選定する。誰もが太子が選ばれると思っていた。国政において太子以上の適任者はいないだろう。幼き頃より国を治める為の教育を受けており、人の上に立つ為の気概も備わっている。
 なのに。
 白帝は太子を次の国主に選ばなかった。
 選ばれたのは景祥と正室との間に生まれた唯一の公主――伶世で、彼女の細い肩にその荷を載せるのは些か酷だと玉英も思った。
 それでも。

「伶世殿の治世が始まることに微塵も反発しなかったのは、伯父上、あなたお一人でございましたね」

 伶世の父親であり、先代の国主である景祥は顔色を失くしていた。王妃である正室は伏して泣いていたし、腹違いの兄である太子は憤慨した。臣下の多くも、何の後ろ盾も持たない伶世が国主の座を継ぐことに反発していた。いや、今も、その反発は続いている。
 その中で、たった一人。碌生だけは何の感慨も見せずに伶世に対して叩頭した。
 その情景が今もまだ玉英の網膜に焼き付いている。
 畏怖するべき相手で、強権的な存在だった碌生が臣下の誰よりも先に叩頭した。その事実があまりにも意外過ぎて玉英の中にあった碌生の威厳が音を立てて崩れ落ちる感覚があった。
 今も。その印象と実像の間にある軋轢は残っている。
 どちらが本当の碌生なのだろう。玉英が戸惑っていることぐらい、碌生は見通しているだろう。それでも彼は平静そのもので露台の向こうの景色を見守っている。

「国主などその程度の存在であろう」
「白帝陛下がお選びになった。それ以上に強い手札はございません。それでも、伯父上は朱氏殿の治世を手放すことにもう少し反発されるのかと思っておりましたよ」

 元をただしていくと、黄家というのはそれほど秀でた家柄ではない。
 九品三公――今後は朱氏が加わって四公と呼ばれていくのだろう。その範疇に黄の家はない。今後はもう意味を成さない「環」に埋め込まれた貴石も小さく、希少価値もない。郭安州で代々受け継がれてきた文官の家系。ただそれだけだ。
 碌生の出世が前代未聞なだけで、黄家には誇るべき歴史などない。
 それでも。
 碌生が景祥を見出し、国主の座に就けた。景祥から全ての自由を奪う代わりに、碌生もまた全ての自由を投げ打った。そういう関係の二人の間には目には見えない信頼があり、国政は滞りなく進んだ。
 齢四十を越えてなお妻帯もせず、貞潔を保っている。恋情や劣情が碌生の中にはないのかと思わせるほど、彼の言動は終始、宰相然としていた。
 その、碌生が国主を軽んじるような発言をした。そのことが少し意外で、同時にどこまでも碌生らしくて、玉英は苦く笑う。

「玉英。今少し妄言を吐くが聞き流せ」
「是」

 妄言と自覚しながらも音にしたい思いがある、という碌生の思いは何となくだが推し量れる。伯日の妻となり、子の親となり、二人の無鉄砲な義弟を持った今の玉英にも大人としての分別があった。それを与えてくれたのは戴家のものたちと妄言を口にしたい碌生であるのは間違いなく、その碌生が思いを吐露したいというのを否定するだけの理由がない。
 玉英もまた露台から中城を見下ろして碌生の言葉を待った。

「景祥に無理を強いたうえにあれの娘にまで同じ道を歩かせるのは正直胸が痛んだ。その程度の良心は持ち合わせておる。それでも」
「それでも?」
「景祥ですら敵わなかった運命という宿敵と戦えるだけの強さを持った娘だとは思わなんだか」

 その言葉に玉英は軽く目を見開いた。
 碌生が誰かを掛け値なしに褒めるのを初めて聞いたからだったからかもしれないし、彼が穏やかに微笑むのを初めて見たからだったかもしれない。それは同時に碌生の中には朱氏景祥にまつわるもの以外、何も存在していないということを改めて強く示しただけで、玉英は無力感に近いものを覚える。
 碌生の世界に、玉英など最初からいないのだ。
 それでも。玉英は新しい家族を得て人を許すということを覚えた。十五年前の自分が認められなかったことを、今なら受け入れられる。そんな気がした。
 だから。

「伯父上はもう運命と戦うのはおやめになるのですか」

 敢えて問いを投げかけてみた。
 優しい顔つきのまま、碌生が答える。そこには慈愛が満ちていて、碌生の優先順位を雄弁に物語った。

「私が宰相のままでおる、ということは旧態依然ということだ。私にはもう表立ってあの娘を助けてやることは敵わん」
「では今からでも遅くはございません。妻を娶り、お子をなされてはどうですか」
「玉英、そなたも中々悪辣な冗談を言えるようになったのだな」

 余生を過ごすのにはまだ早い。そう含ませると碌生が苦く笑った。
 冗談で済むのならそれはそれで構わない。
 まさか巷間で噂される通り、景祥のことを思慕していたわけではないだろう。本当は碌生にも人並みの人生を欲した時期もあっただろう。それを思い返すと苦しい思いをするかもしれない。後悔をするという概念が碌生の中にもあるのだとしたら、その感情を味わってほしい。
 そんな思いを込めて、玉英は言葉を続けた。

「伯父上。お子をなすのがお嫌ならば無理は強いませんが、それならばいっそう、伶世殿をお助けして差し上げるべきと存じます」
「私にはその資格などないだろう」
「いいえ、寧ろ、伯父上にはその義務があると私は思います」
「景祥を祀り上げ、景祥の我がままを受容してきた償い、とでも」
「いいえ。そのような些末なものではございませんでしょう。親、兄弟、親族。学友や知人の一切を失って伶世殿は国主の位を継がれます」
「景祥と同じように、か」
「ええ、そうです」
「それは、実につらかろうな」

 露台の向こうを見ている視線が憂いを帯びる。彼の眼下に広がっているのは中城だ。そこに玉英たちがいることを碌生は意識していない。玉英たちはあくまでも景色の一部でしかないのだろう。
 それでも。

「伯父上」
「どうした、玉英」
「『こんな家の娘に生まれたくなどなかった』と私はいつか申し上げましたね」
「そのようなことがあったか」
「ええ、ございました」

 それがどうした、と碌生の双眸が語る。
 彼には彼が整えた黄家の息女という枠にとらわれていた玉英の痛みなど理解出来ないし、するつもりもない。それでも、彼が無視した筈のその痛みを教えることが出来る、と思った。だから、敢えて玉英は口を開く。

「伶世殿は今、私が思った以上にその思いにとらわれておいででしょう」

 その思いを知っているから、玉英は可能な限り伶世の力になりたいと思う。こんな家の娘に生まれたくなどなかった、と嘆いても現実は決して覆らない。もしも、万に一つ。それを覆したいのなら全てを棄てて、海の向こうにでも逃避するしかない。それでも運命から逃げきれるかどうかは誰も保証してくれない。
 玉英にその覚悟はなかったし、強いられた運命の先で出会った戴伯日は政略の一つの駒ではなく、玉英のまま慈しんでくれた。
 それはただの幸運だと玉英は知っている。
 それでも。
 そうだとしても。

「伯父上もおっしゃられた通り、あの方はそのつらさと戦えるだけのお強さをお持ちだと私も思います」
「ならば」
「ですから、敢えて申し上げます。小義弟――文輝殿を失わないでくださいませ」

 多分、文輝は伶世にとってのただ一つの希望だろう。医師である玉英自身の見立てでは文輝は一命を取り留めているが、いつ目覚めるかは定かではない。玉英よりも上位の御典医ですら確かな診断を下せなかった。文輝は今も死線を彷徨っている。伶世の運命も、程晶矢の最後の願いも知らずに生と死の狭間にいる。
 その文輝が命を失えば二つの命が路頭に迷う。
 小戴殿をお救いください。消え入るような声で伶世が玉英に懇願した声はまだ鼓膜に残っている。小さな、小さな新しい主は医師である玉英にそう願うことしか出来なかった。勅命と言えば必ず助けてくださいますか。泣くことを許されていないことを察して、なのに胸の奥が張り裂けてしまいそうな不安を湛えて、それでも伶世が必死に紡いだ言葉だ。
 最善を尽くします。と玉英は答えた。伶世が文輝にどれほどの思い入れがあるのかは明瞭ではない。ただ。文輝は玉英にとっては義弟で大切な家族の一人だ。失えば玉英もまた別離のつらさを味わう。己の無力さを嘆くことにもなるだろう。そんな痛みを味わうものを一人でも減らしたくて医師を志した。人の親として、人生の先達として玉英が文輝にかけた言葉がこの悲劇を招いたのかもしれない。その痛みから逃げたかった自分がいる、というのは否定しない。
 それでも。

「伶世殿にとっても、この国にとっても必要なものです」
「そのようなことはわかっておる」
「いいえ、伯父上は文輝殿のことを少しも理解してはおられません」

 文輝のことも、彼の兄である仲昂のことも、玉英の夫である伯日のことも何もわかっていない。
 戴家のものは皆、太陽の笑顔を持っている。その太陽の笑顔で人の心を照らし続けてきた。その輝きはこの国に必要なものだ。家族に、世間に、時の流れに傷付いた玉英の心を癒し、育み、慈しんでくれたのは伯日だけではなかった。
 碌生はそこまでを見越して玉英に嫁すことを命じたのではないと知っている。
 それでも。
 玉英は今、確かにその采配に感謝している。
 だから。

「伯父上、文輝殿が目覚めるまで、どうか伶世殿の小さな我がままをお許しいただけないでしょうか」
「玉英。そなたには私がそれほど狭量に見えておるのか」
「そうでございましょう。戴の両親を抑えつけてまで伯父上が我が子の名付けに口出しをしてこられたことは未だにお恨みしております」
「それでも、そなたは受け入れなんだではないか」
「当然ではございませんか。宰相閣下といえども、我が子の名は二つとございません。その大切な名を一方的に決められるのはこれ以上ないほどの無礼にございますよ」

 それでも。
 碌生が玉英と伶世の小さな願いを受け入れてくれるのなら。そんな過去の遺恨を水に流してもいい。
 そう、仄めかすと碌生は苦く笑って言う。

「そなたは強くなったものだ」
「ですから、申し上げているではございませんか」

 人は親になり、守るべきものを持つと強くなれる。そうでなければ、子を育てることなど出来ない。
 だから。

「伯父上。よいではございませんか。伯父上と朱氏殿のお二人ならば今からでも『父親』をやり直せましょう」

 それでも、伶世は国主の座を継ぐ。先王である景祥は公族へ臣籍降下するから、たとえ実父といえども伶世の道をともに歩くことは困難だろう。だとしても。景祥と碌生の二人には伶世の人生を支える義務がある。
 それが、伶世に対する唯一の贖罪だと含めると碌生が玉英を見たが、その視線の先はどこか遠くを見ていた。

「私と景祥が『父親』か」
「お力添えが必要であれば我が夫をお貸しいたしますが、お二人ならば乗り越えていけましょう」
「そなたは本当に強くなったものだ」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
「褒めてはおらぬ」

 だが、そうだな。
 言って碌生の瞳が玉英を射た。その土くれの色の輝きの中に、今、確かに玉英が映っている。
 その事実に息を呑んでいると碌生の右手がすっと伸びてきて玉英の頭をそっと撫でるのを感じた。

「『娘たち』の小さな願いぐらい、幾つでも叶えられよう」

 あのものが目を覚ますまで。それまでのことは私が引き受けるとお伝えして差し上げるように。
 言って碌生の手のひらが二度、軽く玉英の頭を撫でて、そうして彼はゆっくりと立ち上がって歩き出した。
 伶世だけではない。今、碌生の中には玉英も娘の一人として認識されている。
 こんな形でしか思いやりを表現出来ない碌生も、玉英も不器用で無骨な黄家の血統なのだと思い知って、それでも、まぁそれでも満更悪いことでもないかと一人納得した。
 碌生と同じ土くれ色の双眸に露台の向こうの景色を映す。
 そうして、玉英もまた立ち上がり、王府の中へと戻る。
 行こう。まずは新しい小さなあるじを安堵させてやらなければならない。
 文輝が目を覚ますまで、残りふた月。その未来まで碌生が言葉の通り、陰に日向に伶世を支え続けるということを玉英はまだ知らない。

前日譚<3> 孫棕若の回想

 人の成長を長く続く上り階段に例えるものもいるが、それは見当違いもいいところだ、と孫棕若は思っている。大小様々な経験を積み、蓄え、それがあるとき突然理解につながり、成果を導き出す。だから、同じ経験をしたとしても、成長の度合いは固有だ。決して誰かと等しくなどなりはしない。一様に育てたから一様に育つ、だとか考えながら人と接しているものがいるとしたら、それはただの馬鹿だ。人というものを少しも理解していない。人というのはもっと繊細で、緻密で、そして同じぐらい大胆なものだ。
 その棕若の論理を実証してくれる若人が虎吼にやってきたのは、まだ風の冷たさの残る四月。真円から少し月の欠けた夜のことだった。
 虎吼、というのは九品の身内だけで行われる宴の呼び名で、この国を象徴する獣――白虎にちなんで名付けられた、と棕若は先達から聞いている。国を護る獣と国を護る家臣をかけたのだろう。古来、この国では勇猛さと果敢さが重んじられてきた。九品においても、武官が上位を占めるのがその最たる例だ。どれだけ望んでも、孫家――文官の家流に生まれたというだけで棕若の位階が今より上がることはない。
 年若い頃はその不条理に憤ったりもしたが、一度そういうものだと受け入れてしまうと存外抵抗感は湧いてこないものだ。世間ではそれを順応能力と呼ぶと知ったとき、棕若は自らもまた平凡な存在であることを知った。「不条理に憤る」から「諦めて受け入れる」までが様式美なのだからどうしようもない。
 両親も祖父母も皆、同じような思いをしてきた。棕若一人が特別に不幸なのではないのなら、自らを美化するのは無駄だろう。
 そう思って四十年が経った。
 美しいわけでも、彩りに満ちているわけでも、特別な輝きを放っているわけでもない四十年だった。
 国官は一部の例外を除いて、六十の歳を最後に退官することが決まっている。棕若に残された任期は残り三年だ。成人の儀である中科を十五の歳に受けてから、修科に進むこともなくそのまま国官として残った。順調なときばかりではなかったが、妻を娶り、三人の男子と二人の女子に恵まれた。子供たちもまた育ち、親となり棕若は孫を得た。人として、親としてそれなりの人生だったと自負している。
 ただ。

「酒気はまだ早かったかな、小戴殿」

 今宵の酒宴の輪に入らず、壁に寄り添っている一人の少年に声をかけた。彼の名は戴文輝といい、九品では三位、戴家の三男にあたる。この春から中科が始まり、虎吼に顔を出すことが許された。その、幼さの残る顔立ちに刻まれた眉間の皺は深く、どこからどう見てもこの宴を不本意と感じているのがわかる。見習いとはいえ、官吏足ろうとするものがする顔ではない。一刀両断に切り捨てることは簡単で、だが棕若はその簡単な答えを選ばなかった。文輝の傍らに寄り、問う。虎の子は若人らしい鋭利さを伴った眼差しで棕若を射たが痛くもかゆくもない。これが齢を重ねるということか、と棕若は他人ごとのように感じながら文輝と対峙した。

「孫翁、これは何なのです」
「おや? 小戴殿ともあろう方がご存知ではないのかな? これは虎吼と言って――」
「そんなことはわかっています。俺は、この、くだらない騒ぎは何だ、と聞いているのです」

 ぶすっとした顔のまま文輝が問い返してくる。義憤に駆られた青い言葉だ。それでも、己が九品であるという気高い誇りを持っていなければこんなことを言えはしない。そして、その美しさは真実、評価するに値するものだと棕若も知っている。

「未知のものを君の狭い物差しで測るのはどうかと思うけれど?」
「なっ」
「それとも、君がこの宴よりも素晴らしいものを見せてくれるのかな?」

 敢えて煽るような物言いをした。心の底から、十五の少年に宴の華となることを求めていたわけではない。ただ、自分で何かを変えるつもりもないのに不服だけを口にするなと伝えようとした。文輝にその概念はまだ難しいだろうという感覚がある。それでも、自分で答えを求めようとしないものに九品を名乗ることは許されていない。
 そう、含ませれば大抵の虎の子は黙る。聡ければ聡いほど反論の言葉は紡がれない。
 なのに。

「四半刻いただけますか」
「うん?」
「四半刻と衣裳部屋をお貸しいただけたら、きっと皆さまに意味のある何かを見せてご覧にいれます」

 顔を上げて、胸を張って、双眸を自信の輝きで彩って文輝が言う。
 その、自信はどこから来るのか、だとか、九品の大人たちを黙らせるには並大抵のことではないが正気か、だとかそういった戸惑いの感情が棕若の中に生まれる。棕若が十五の歳を振り返った。それでも、十五の棕若は目の前の虎の子ほど無謀でも勇猛でもなく、どうしても文輝の強気の返答が理解出来なかった。

「小戴殿、本気なのかな?」
「孫翁がおっしゃられたのではないのですか」

 酒を浴びるように飲み、くだを巻くだけの一見無意味な集まりを有意義に変える機会を与える、とあなたがおっしゃられたのでしょう。
 だから、文輝は虎吼の現実と向き合い、決して逃げたり迎合したりしない。そう、はっきりと言い切る。
 その青さが眩しくて、輝いていて、羨ましいような微笑ましいような複雑な気持ちを棕若に与えた。
 世間のことなど少しも理解していない。誠実で真摯なだけでは世間を生きていくことは不可能だ。それを知った棕若は妥協という概念を手に入れた。文輝にはまだその諦めがない。若い、というのはそれだけで十分価値のあることなのだと文輝の存在が示している。その、挫折を知らない榛色がどんな理想を描いてくれるのか、棕若はその未来を見てみたい、と心の底から思う。
 だから。

「四半刻と衣裳部屋だけで十分かな? それ以外に必要なものがあれば僕が何とかしてあげよう」
「では暮春――阿程をお貸しください」
「本当にそれだけでいいのだね?」
「はい。暮春も多分、俺と似たような感想を持っている筈ですので、その感想を二人で覆してみせます」

 それが九品の子息として生まれた意味だと虎の子らしい強かさを伴って文輝が言う。
 生まれてこの方、ずっと親兄弟の言葉伝いにしか知らなかった虎吼。初めて招かれて実体を知って失望を手に入れた。それでも、文輝は心を折らずに前を向いている。戴家の直系、という前評判が決して誤ってはいないことを彼はその身で証明しようとしていた。戴家というのは代々そういう家流だ。彼の二人の兄もそれぞれの方法で自らの存在を証明し続けている。
 この若人は棕若に一体何を見せてくれるのだろう。
 そう思うと期待に胸が躍った。
 齢六十を目前にしてこんなにも高揚する気持ちを味わうことが出来るだなんて少しも期待していなかった。
 棕若の四十年はどこにでもある、ありふれた四十年だった。文輝が見せてくれるのは何なのだろう。四十年の間に手放した彩りともう一度出会うことが出来るのではないか。そんな楽しみが生まれる。
 文輝の三つの要求を飲むことを伝えると、若人の顔はぱっと輝いて「暮春! ちょっといいか」と阿程――程晶矢を捕まえに向かった。棕若もまた今日の虎吼の主催に話を通しに出向いた。主催――楊家の当主が文輝の条件を快諾すると広間にはちょっとした余興への期待感が高まる。ここまで要求の度合いが上がっていると文輝は想定しているのだろうか。もしも。もしも、文輝の興したものが期待外れだったら。そのときは棕若が庇ってやらなければならない。
 そんな段取りを考えていると四半刻などあっと言う間だった。
 酒と愚痴と雑談にまみれた広間の明かりが落ちる。
 そして。

「さあて皆さま、今宵ご覧じあれ。ときは百六十年の昔。未だ戦乱の続くこの大地を照らす一筋の光をお目にかけてしんぜましょう」

 文輝の朗々とした声が広間に響く。暗闇の中、ざわめきが止んだ。何が起きるのか。その好奇心が酒よりも愚痴よりも文輝と晶矢の生み出すものを楽しもうとしていた。
 酒杯を盆の上に置く音が続く。
 誰もが文輝の口上の続きを待った。その頃合いを見計らったかのように広間の中央、九品たちが円座した正面にぽっと明かりが灯る。そこには華麗な衣装を身に纏い、白塗りの艶やかな装飾を施された仮面を被った人影が浮かび上がった。体格から鑑みるにあれは晶矢の方だ。その認識を十分に与えてから、晶矢の低い声が紡がれる。

「あな情けなや。どなたもこなたも無頼と我欲ばかリ。嗚呼、民を思う志はいずこにあらんや」

 この口上は誰もに聞き覚えがある。この国に生まれれば幼い頃から何度も聞かされて育つ。これは白帝と初代国主の対話形式で紡がれる国生みの剣舞だ。通常は男の役者が二人で演じるものを文輝と晶矢は男女の対の形に編纂して舞おうとしている。文輝が国主、晶矢が白帝という配役がどう生きてくるのか。広間はその展開の先を想像して、ぐいぐいと引き込まれていく。晶矢――白帝の嘆きが終わると国主――文輝の舞が始まる。白帝とは違い、一見質素に見えるがその実白帝と同等かそれ以上の工夫の凝らされた衣装を纏った文輝が松明の明かりで広間に浮かび上がった。彼もまた白磁の面を被っているが、こちらにはあまり装飾はない。
 民を思うがゆえにただの武人だった初代国主が立ち上がり、その人望から人を集め、いつしか国の形を成していく。
 九品というのは蜂起した国主に仕えた九人の武人がそれぞれの家の祖となっている。一番最初に仕えたのが李閏進。仮面を変えた晶矢が閏進を演じる。文輝と晶矢が交互にその出会いを朗々と謳うと李家のものたちは食い入るように演者の二人を見つめていた。高祖と敬い誇りとしてきた閏進を晶矢が演じるのをどう評価するのだろう。そんな心配をしてみたが、国生みの舞は九人の武人との出会いを順に九度繰り返す。棕若にとっての高祖である孫万旦もまた演じられるのだ、と気付いて李家のものたちの心配をしている場合ではないことを理解した。
 ただ。

「孫翁、愚弟が突拍子もないことを始めてしまって大変申し訳ない」
「仲昂殿は阿程殿の演じる戴陽翰に不満でもあったのかな?」
「不満も何も。十五にして一人十役。十分すぎるほどの度胸と力量ですよ」

 あれらは役者にでもなりたかったのでしょうかね。
 言って文輝の次兄である戴仲昂が困ったように笑った。
 仲昂の言う、愚弟である文輝の演技力と表現力もまた十分すぎるほどで、その演舞を通じて彼らがこの演目に特別な思い入れがあり、そしてそのことを誇っているという事実を理解しようとしていた。豪奢な衣装を身に纏って、美しく舞う。剣舞だから二人がそれぞれ雌雄の剣を一振りずつ持っている。その捌き方一つを取っても、武官として十分すぎるほど美しい所作だ。

「孫翁、あれは愚直でまだ手加減という概念を持ち合わせてはおらんのです」
「だろうね。でも、微笑ましいし、頼もしい、とも僕は思うよ」

 十五にして九品の一部であることを自覚し、それを誇れるほど理解もしている。
 初代国主に仕えた九人の武人のうち、四人はのちに文官に転じた。その筆頭が孫万旦――棕若の祖だ。いつの頃からか孫家は武器を手放して、智謀を捧げるようになった。そのことすらも誇りに思っていた筈なのに、位階や肩書に主眼を奪われて、いつの間にか妥協と迎合の毎日をただ流すように消費していた。
 人と人の間で生きる為には必要で、棕若の妥協と迎合の毎日には価値がある。それとわかっていても、正しさを正しさとして認知し、振舞う若人を見ていると棕若が失ったものを突き付けられているような感覚が生まれた。

「仲昂殿。若さというのは実に無限の可能性を秘めているものだね」
「そうですね。俺も国生みの剣舞を弟があんな風に解釈出来るのだと知って、実際、少し羨ましいと思いましたね」
「おや? 仲昂殿も十分に若いのではないのかな?」
「三十も過ぎて妻帯して子を成そうかという歳なんですが」
「それでも、君たちは幾つの歳になっても僕からは若造にしか見えないよ」
「それは、実に、何というか。手厳しいですね」
「耄碌した爺の妄言だから気に留めることはないよ」

 ただ。

「ああいう若人がまだ虎吼にも残っている、というのは誇らしいことだと僕は思う」
「孫翁。そういう感想は孫翁の胸の内に留めておいてやってください」

 でないと、愚弟はきっと舞い上がって失敗しますので。
 冗談めかして笑って仲昂が棕若の隣で立ち上がる。
 その頃には剣舞は終盤に差し掛かり、初代国主が白帝と剣を交換する場面を迎えていた。

「あの二人なら、きっとこの国をもっとよくしてくれる。そんな予感がありますよ」
「おや? 君はこの国をもっとよくしてはくれないのかな?」
「俺は兄上と違って戴家を継ぐという覚悟もありませんし、文輝のように真っ直ぐに道を進む覚悟もありません。ただ」
「ただ?」
「俺の暮らすこの国が平らかであるようにと願う気持ちだけはちゃんと九品の標準の範囲内ですね」

 言ってはにかむように笑った仲昂もまた戴家の直系らしい温かさを持っていて、棕若は安堵する。
 棕若の五十七年の人生は決して彩りに満ちた道のりではなかった。
 苦しいこともつらいことも、投げ出したいことも数えきれないほどあって、なのにそれらを覆い隠してくれる幸福感を差し引きすればどんなによく見積もっても、正負どちらにも傾かないと思っていた。
 それでも。
 気持ちがどこを向くのかは自分の心ひとつで決めることが出来る。
 そんな当たり前で陳腐なことを棕若は忘れていたようにも思う。虎吼の若人――文輝と晶矢の二人が熱演した剣舞が盛り上がっているのは、ここにいる誰もがその忘れていた感情と再会したからだ。人の心に訴えかけるだけの熱量を持っている彼らの存在はきっとこの国の為に良い方向に作用するだろう。
 硬い金属音が広間に響いて、終幕を告げる。
 仮面を外した文輝と晶矢が一礼をした瞬間、広間がどっと沸いた。
 人が成長をする瞬間、というのに立ち会えた喜びを虎吼全員で共有している。長い長い道のりの途中で、こういった彩りがあるのは僥倖と言って差し支えないだろう。ただの子どもと思っていた文輝たちが一人前の官吏としての自負を持ち、その自負に負けないだけの研鑽を繰り返している。
 国官としての残りの三年間を文輝と同じ中城で過ごすことが出来る幸福と、その残りの三年間で何か有意義なことを残したい。
 そんな気持ちを棕若に与えてくれた一夜が更けていく。
 ときは四月。花霞の頃。少し欠けた月の下、棕若はよき朋輩を得たことを白帝に感謝した。

前日譚<2> 陶華軍の回想

 陶華軍の視界はもう何年も前からずっと色褪せていた。
 生まれたその瞬間から「読替」の罰を背負って、それだけでも十分つらかったのに才子としてただ研鑽を積むだけの毎日。育ての親である祖父母は華軍を劉子賢の手元に繋ぎ止める為だけに命を奪われた。
 二人の死を知ったその日から、華軍の世界には色がない。
 一人前の官吏として用いられ、首から下げた環に箔押された色が白から赤へと変わったが、それも華軍にとってはどうでもいいことだった。才子などと呼ばれても所詮、流民は流民。人に上手く使われて、そうして一生を終えるだけだ。そのことを苦しいとも思わないぐらいには、華軍の心は感覚を失っていた。
 季節の移ろいも日々の職務も、どうでもいい。華軍は子賢の駒なのだから、自らの感情など必要ない。求められるがままに才を使い、国主への謀反に協力した。華軍の世界に価値のあるものは一つも存在しない。自らの命ですら、どうなろうと構わなかった。だから、これは命果てる瞬間までの盛大な暇つぶしだ。大義も正義も関係がない。道に悖ることも平気でやった。明日、世界が終わるなら。もしそんな日が来たら心の底からやっと笑えるだろう。
 そんな華軍の世界に小さな明かりが灯ったのは首府での務めに慣れてきた、反逆のその日まで指折り数えるだけになった最後の春のことだった。

「華軍殿! 華軍殿!」

 不愛想で無口で業務だけを淡々とこなす華軍の戦務班での評価はそれほど高くはない。関わってくるのは上官であり、諸悪の根源である子賢だけで十分だったから、そういう貧しい人間関係を悔いたこともなかった。
 なのに。

「華軍殿! 桜が美しい庭院(にわ)を見つけたんです!」

 この少年――戴文輝は十日前、戦務班に配属されてきてからというものずっとこの調子だ。鶯が鳴いた、だとか季節外れの雪が珍しい、だとかそう言った華軍にとってはどうでもいいことで一々華軍に関わってくる。そういう煩雑なことは他の班員にでも話せ、と十日で何度言ったのか、もう数えきれないほどだった。
 声をかけてくる度に、今は職務中だと返せば、午の休みだとか終業の鐘が鳴った後だとかに話しかけてくるようになり、煩わしさが加速度的に増した。戦務班を預かる長である子賢には当然のことだが、この少年の監督義務がある筈なのに、いっこうに注意をする気配もない。寧ろ、華軍に話しかけることの後押しをしているような雰囲気さえあって、子賢が何を考えているのか、ますますよくわからなくなった。
 今日の話題は桜らしい。
 色彩を失った華軍の世界では淡い色の桜の美しさは認知されない。ただ、ぼんやりと霞んでいるだけで美醜など考えたこともなかった。それでも、執務室の中で交わされる談笑の中に何となく四季の移ろいを知る。桜か。それもそうだ。中科生が配属されてくるのは必ず春で桜の頃だ。事実の羅列としてそのことを理解しているだけの華軍には特別な意味などない。

「八条大路の白帝廟ならば既に知っている」
「違います! 左官府の、刑部の書庫の塀の向こうです!」
「小戴、正気か? 右服を着てぞろ、左官府へ花見などどうかしている」
「いいじゃないですか! 左官府だって中城の一部です! 美しいものは皆で共有するべきだと俺は思います」

 ね、戦務長もそう思われますよね?
 言って何の曇りもない眼で文輝は上長である子賢に話題を振った。この流れになるのはもう五度目だ。今回も子賢は文輝に付き添って問題が起きる前に戻ってこい、という指示を出すだろう。
 華軍は胸の内でそっと溜息を零す。
 九品の子息、というのはそれだけ特別な存在なのだろう。国家転覆を企んでいる子賢ですら、適当に扱うことをしない。建前上の問題だろうというのは理解していたが、ここは学舎ではない。馴れ合いがしたいのならば修科に進んでから好きなだけやれ、と思うと同時に、文輝の人生から修科を奪うのは自分だ、と思う。子賢は今年のうちに計画を実行すると決めていた。成功すればこの少年の未来は完全に失われる。その最初の一手を下すのは華軍だ。
 罪悪感などというものとは十年以上も前に別離した。
 だから、別段、文輝の将来を潰すことに口を差し挟むつもりもない。
 その筈なのに、文輝が声をかけてくる度、押し殺したものが少しずつ起き上がってこようとするのを感じる。本来の自分、とでも言うのだろうか。本当に馬鹿馬鹿しいのに、そういう感覚があるのは事実で、華軍自身がこの状況に一番戸惑っていた。
 子賢はそれを知っているのだろうか。見抜いていて、それでもなお華軍を傷付ける為に敢えて文輝をけしかけてくるのだろうか。
 そんな疑問すら抱く。疑問を抱いて、それを言葉にすることは許されていないと改めて知って、自分の人生など女官が使う雑巾よりも価値がないと痛感する。
 
「華軍。左服どもに煩く責め立てられる前に戻ってこい」

 想定の範囲内の指示が聞こえて、頭痛が華軍を襲う。溜息を零しながら、子賢に不本意である旨を伝えるとこの十数年ですっかり見慣れた上っ面だけの苦笑いが返ってきた。溜息がもう一つ零れる。

「行かない、という選択肢はどこへ行ったのですか」
「その選択肢がほしいのなら、お前が小戴を説得するのだな」
「俺の話などあれは何も聞いていないのに?」

 文輝の頭の中にあるのは華軍と花を見に行くことばかりで、華軍の否定や拒絶は見えていない。
 十七の中科生にしては幼すぎる。九品の一つ、戴家の三男に生まれ甘やかされ、慈しまれ、何の不自由もなく育ってきたのだろうと簡単に想像出来た。華軍の人生とはまるで様相が違う。華軍の人生が月夜を歩く道だったのなら、文輝の道は快晴の春の庭院を眺めるだけの道だ。穏やかで暖かで傷付くこともなく、願って叶わないことなど何一つもない。
 それを羨んでいるのか、と尋ねられると少しばかり返答に困る。
 文輝の道には華軍の道になかったものがあふれている。それでも、そんな夢物語を描いた自分などいない。本当に文輝が羨ましいのかと問われると、実際問題、望外すぎて羨む気にもなれない。そう返すのが精一杯だ。
 子賢と華軍のやり取りを双眸を輝かせて見守っている文輝の世界には不安などないのだろうか。どうして華軍にだけこうも執拗に絡んでくるのか。標的を変えてほしい。話し相手がほしいだけなら、他にも年若い庶務官はいる。どうして、華軍なのだ。華軍は心など要らない。人として認められたいとも思わない。人生の美しさも正しさも全部どうでもいい。そして。このつまらなくてごみ同然の人生も今年で終わる。
 だから。
 茶番を演じることを子賢が望んでいるのなら、致し方あるまい。
 華軍の才を見出し、磨き、そして最大限用いて、十数年にもわたる悲願を達成しようとしている子賢には当然何かの心算があるのだろう。そう割り切らなければ、子賢の駒でいることなど出来ない。感情などは邪魔だ。期待などするだけ無駄だ。
 わかっている。わかりきっているじゃないか。

「では諦めろ。小戴、華軍を半刻ほど貸してやろう。花を愛でて帰ってきたらお前に頼みたい仕事がある。いいな?」
「はい! では華軍殿、行きましょう!」
「校尉、お恨み申し上げる」
「華軍、くれぐれも左服どもには注意しろ」
「心得ております」

 そんなやり取りを経て、文輝は華軍の先を歩き始める。華軍よりも背が高く、全体的に細身だが決して華奢ではない。しっかりと鍛えられた武人の背中だ。なのに、文輝からは威圧感のようなものをあまり感じない。
 華軍が知っている他の九品は皆、傲慢だ。不遜と言ってもいい。自分たちが特別な存在であることを知りながら、それを振りかざして優位に立とうとする。生まれながらにその優越感に浸っている九品など、人として最低の部類だと思っている。
 なのに。
 文輝の背中は温かく、そしてきらきらとした輝きを持っていて、色褪せていた華軍の視界にほんの少しだったが彩りを与えた。不思議なやつだ、と思う。文輝が関わってくることには煩わしさしか感じなかった筈なのに、彼の背中を見守っているといつの間にか華軍自身の胸の内に小さな明かりが灯っているような感覚がある。小さな、小さな明かりで一息で消えてしまう。そんな明かりだが、華軍の人生に明かりが灯っているのは十数年ぶりのことだ。祖父母がまだ生きていると思っていた頃。才子として立身出世をすれば二人を喜ばせると思っていた少年の頃。あの頃はまだ世界に彩りがあった。
 このまま文輝と過ごせば、華軍の世界は再び輝きを取り戻すのではないか。とっくの昔に捨てた筈の、そんな希望が喉の奥にせり上がってくるのを感じて、華軍は無理やりやり過ごす。この世界に希望などない。期待なんて裏切られるだけだ。
 なのに。

「華軍殿。華軍殿は桜はお嫌いですか」

 子供っぽさを残した太陽の笑顔が華軍を振り返る。太陽の笑顔、と感じるのは文輝の周りだけがほんのりと色づいているからだ。そう気付いて、華軍の胸の内はざわついた。彩りなど要らない。この世界はもうすぐ平和とは別離する。華軍はその駒として果てる。今更、彩りがあったところで何の意味を持つというのだ。全くの無意味だ。わかっているのに、華軍の両目は文輝の右服の色彩を伝える。
 その現実を疎んで、視線を無理やりに逸らした。太白通に出たのだろう。戸部戸籍班の書庫が林立するのが見えた。そこはいつも通りの白黒の風景で安堵する。この書庫に火を放つのは誰の役割だったか。華軍ではない、共謀者の顔も思い出せないが、この岐崔には既に多くの共謀者が潜んでいる。
 太陽の笑顔はそれを知らない。知ったときには軽蔑の眼差しに代わるのだろうか。答えを知りたいような、命を手放すその瞬間まで絶対に知りたくないような複雑な気持ちの間で揺れる。揺れる自分が残っている甘さに苦笑しながらも、無表情を貫いて文輝の会話に応じる。この少年は華軍が無視をしても話を続けるだろう。

「何だ、唐突に」
「華軍殿は何の花がお好きですか? 俺は梅も桃も桜も好きですが、藤も好きです」
「そういう話がしたいのなら、女官でも捕まえて好きなだけ続けるといい」

 花の美しさなどとうの昔に忘れた。とは言えずに話の矛先を戦務班で預かるもう一人の中科生へと振った。方伶世。表向きは方家の一人娘ということになっているが、実際のところは公主――国主の娘だ。そのことを本人すら知らないまま終わらせる方法もどこかにあっただろう。それでも、子賢はそれを選ばなかった。何も知らない伶世までもを巻き込んで、世界に復讐しようとしている。華軍はどちらかと言えば子賢の側の主張を支持していたが、当の本人を目の前にするとどこか哀れさのようなものを感じ始めていた。
 文輝は伶世についての真実も、華軍の躊躇いも、子賢の憤りも知らないだろうに毅然と首を横に振った。その理由を知りたい、と思う。そんな感情も久しく忘れていた。

「伶世は駄目です」
「見込みがない、と言うことか」
「違います」
「では何だ」

 文輝の答えを待つ。待ちながらも足は止まらず、戸籍班の横を通り過ぎて左官府の大路へ入った。
 この少年の目に映っているのは何なのだろう。太陽の笑顔は崩さずに、眼差しだけがほんの少し憂いを帯びる。酷く傷付いた。そんな顔をさせたのが華軍自身だということに、胸の奥がつきと痛む。まだ痛む胸が残っていることに滑稽さを禁じ得なかった。
 
「俺は九品です」
「今更自慢か」

 どれだけ表面を取り繕っても、無邪気さを纏っても、結局のところは他人など侮蔑していたのか。華軍が小さな落胆を覚えたのを察したのか、文輝は張りのない声のまま首を横に振る。
 違います、と言いたいところですがそうなのかもしれません。
 と初めて見る気弱さを滲ませて文輝の足が止まった。顔は上を向いているが、その双眸は必死に何かを耐えようとしているのが見て取れた。

「九品の直系に生まれた以上、俺の言動には多くのものへの影響力があります」

 望んでも望まなくても文輝は多くのものと関わり合う運命にある。その運命の一つがまさに華軍だ。子賢が国に復讐を望んだからこそ、九品である文輝は戦務班へとやってきた。国威に傷を付ける為の仕掛けの一つだ。九品を地に落とす。貴族になど何の価値もない。それを示す為だけに文輝は傷付けられることが決まっている。
 そのことに気付いているのか、と思う。ただ、その懸念は文輝の言葉がすぐに否定した。

「出来ることなら、俺は伶世と個人的な話をしてみたい、と思っています。多分、伶世は興味深い話を聞かせてくれる。でも」
「でも?」
「俺と関わるということは、伶世に茨の道を歩かせるというのと同義です」

 文輝が伶世に声をかけて、答えが返ってきたのならそこには人間関係が成立したことになる。九品は雲上人だ。その、雲上人から声をかけられて人間関係が成立するなど、大半の庶民にとっては望外中の望外だと広く認知されている。そんな奇跡を手に入れたものは羨望の対象になり、他の中科生からは妬みを買うことになるだろう。
 実際、伶世は公主なのだから文輝の方こそ声をかけられる立場にないのだが、そのことは当事者である二人ともが知らない。知らないがゆえに二人は形の整った笑顔を向け合って、そうしてお互いに距離を保とうとしている。滑稽だ、と思うと同時にどこか人としての美しさを感じた。そんな自分が最も滑稽で、なのに今更彩りを取り戻しつつある心が叫ぶ。二人の背中を押してやれ、と。それぐらいなら計画には何の支障もないし、寧ろ真実を知ったときに二人揃って想定よりもずっと傷付いてくれることだろう。子賢も文句を言ってはこない。
 そう、思って無理やりに答えを導き出そうとしている自分がどこへ辿り着きたいのかが見えなくて、華軍は十数年ぶりに途方に暮れる、という感覚を味わった。
 そもそも、だ。
 そもそも、文輝自身が自らの道を茨の道と認識しているという事実が想定外だ。この純朴な少年にそういった認識などないだろうと高を括っていた。太陽の笑顔としか称しようのない屈託のなさ。大らかに振舞う豊かさ。人としての自負に満ち溢れた威風。何一つを取っても、不自由なく満ち足りた環境だと認識していると思っていた。
 なのに。

「小戴、お前はその道を降りたいのか」
「えっ?」

 気が付くと短い問いは口から零れ出ていた。
 しまった、と思う。文輝は目を白黒させながら、彼に向けて放たれた「華軍の感情が載った言葉」に戸惑っている。載った感情を短い言葉で表現するのなら「労り」だろう。無表情を貫いてる華軍からそういった言葉が飛んでくる、というのが文輝にとってどういう風に作用するのか、わからないほど華軍は愚かではなかった。
 だから、後悔する。後悔とは後で悔いると表現する。人は後になって悔いることしか出来ない。だから、いつも後で悔いる。理屈はわかっているが、華軍にとっては自分の大失態をどうやって取り繕うべきかという問題の方が大きかった。
 善後策を必死に講じる華軍の沈黙を何だと思ったのか、文輝は榛色の瞳をゆっくりと細めながらいつも通りの太陽の笑顔に戻って言う。

「華軍殿はやっぱり俺の思った通りの方ですね」
「どういう意味だ」

 侮られているのか、見透かされているのか、それとも揺さぶりをかけられているのか。
 いずれにしても、華軍は隙を見せてしまった。上手く取り繕っておかなければ、子賢の計画が破綻するかもしれない。緊張感を纏いながら、華軍は出来るだけ平静を装う。
 華軍が返答したのがよかったのか悪かったのか、いつの間にか憂いを手放した文輝は悪戯げに笑った。

「華軍殿がお作りになる鳥は俺が知っている限りで、一番美しい造形をしています」
「伝頼鳥の造形になど何の価値もないだろう」
「俺は、ある、と思います」

 俺の屋敷の通信士は取り敢えず鳥の形をしているだけで、ちっとも美しくないんです、と文輝は言う。それがどうした、と先を促すと太陽の笑顔は若干の気恥ずかしさを伴って、それでも真っ直ぐに華軍を射た。

「通信士、というのは国が誇る英才でしょう? 陛下から賜った才を使うのに造形の美醜などどうでもいい、と仰る方がおられるのは俺も理解しています。でも、そういう方にはきっと見えておられないだけなのでしょう」
「何が、だ」
「鳥の造形はそのまま通信士の質を物語る、ということです」

 才を使うのに手一杯で造形にまで拘る余裕のない通信士がこの国にはごまんといます。華軍殿の鳥はいつでも美しく、そして細やかな気遣いに満ちています。それは華軍殿が鳥の美醜にまで拘ることが出来るほど、優れた通信士だということでしょう。
 違いますか、と文輝は問うた。違う、と答えればいい。否定して、桜を見るだけ見て、そうしていつも通りの日常に戻ればいい。それが一番合理的な選択だ。そう思うのに、華軍の胸の奥がつきつきと痛む。
 華軍の才を見出した子賢ですら気付いていないことに文輝は踏み込んだ。
 九品という存在を少し甘く見ていたのだということと、この国も存外まだ腐りきってはいないということを同時に知る。
 今更そんなことを知りたくもなかった。知らないまま、この国に報復してそうして人生を棄てたかった。
 白帝はいつも華軍には非情だ。才を与え、人としてのささやかな幸福を奪い、そして過酷な道の向こうに小さな希望を与える。突き落とされても突き落とされても這い上がってこいとでも言うのか。そうして這い上がった先にどれだけの幸福が待っているのか。そんな小さな約束すら交わしてくれないくせに、生きることを強いる。
 
「本当に、九品というのは茨のような存在だな」
「お気を悪くされたのでしたら、申し訳ありません。言葉が過ぎました。俺の勝手な価値観を華軍殿に押し付けるつもりはなかったんです。ただ」

 ただ、俺は華軍殿のお作りになる鳥が好きなだけなんです。
 その駄目押しに華軍の心は一番奥で落涙した。祖父母と別離して以来初めて、人として当たり前に持っている筈の自尊心が満たされたのを感じる。その充足が華軍の視界をぼやけさせる。無表情を繕って、何の感慨もなかったような顔をして、そうしてどうにか「そうか」と答えると文輝は照れ臭そうに「是」とはにかむ。
 今まで一度だって思ったことがない感情が華軍の中に湧きあがった。羨ましい。この自分の感情に正直で、自分の道に誠実である少年がこの上なく羨ましい。
 もっと早くに出会えていたら。そうしたら、華軍の人生は何か別の展望を得ていただろうか。
 その答えは知りたくもないし、求めるつもりもない。ただ、文輝の笑顔はどうみても太陽の笑顔で、彼に名を与えたもの――つまりは九品戴家の家長はそれなりに人を見る目と育てる術を知っているのだと知った。

「小戴、俺は躑躅の花が好きだ」
「えっ」
「行くぞ。いつまでもこんなところで立ち話をしていては左服どもに捕まる」

 文輝の一番最初の問いに答えだけを放る。そうして切り離してしまわなければ、温かい感触がずぶずぶと華軍を溶かして決意が霧散してしまいそうだった。
 無理やりに前を向いて足を動かしていると石畳の上を追ってくる足音が聞こえる。そうだ。それでいい。人としての好悪だとか、人徳だとか、そんなものは今更華軍に必要ではない。必要ではないが、邪魔にならなければあってもいい。そんな小さな心境の変化に気付いて心の中でそっと苦笑を零した。
 太陽の笑顔は華軍の隣へあっという間に追い付いて、そして気色ばむ。

「華軍殿! 躑躅は何色がお好きですか? 俺は薄桃色が一等好きです」
「お前は淡い色の花が好きらしいな。春が好きか?」
「好きです。戦友で宿敵で、唯一無二の同士が生まれた季節ですので」

 それは多分、文輝と同い年の九品の子息のことを言っているのだろう。確か程家嫡子――晶矢とかいう名の娘だ。女だてらに武芸の腕は男に引けを取らず、弓を取っては文輝にも勝る。
 そういう季節だから、文輝は春を好きだと言ったが、その実、文輝に嫌いな季節などないだろうという予感がある。
 だから。

「そうか。俺も春は嫌いではない」

 そういう無垢な感情はとっくの昔に捨てたと思っていた。白黒の世界に淡い色は飛んで消えて認知すら出来ない。失ったものは戻らないし、別に必要でもない。そういう類のものだと思っていた。
 冷たさがまだ残る春の風が吹いている。その中に僅かに温もりが混じっていて、季節の移ろいを告げる。
 小戴、伶世に声をかけてやれ。
 その、文輝の背を押す言葉が口から零れ出てしまう予感がある。傷付ける為にではない。華軍は自分の道からは離れられないから、結局は傷付けてしまうだろう。それでも、僅かに色味を取り戻した華軍の視界が持っている意味までもは手放したくない、という気持ちが華軍を動かす。
 茨の道でも、一人きりでないのなら耐えることが出来るだろう。
 お互いがお互いを思いやる気持ちがあるのなら、外野の言葉などでは決して傷付かないだろう。
 だから。

「小戴――」

 文輝が華軍の心を溶かすのが早いか、子賢の計画を実行するのが早いか。それはまだ華軍にはわからない。わからないがゆえに華軍は言葉を口にした。
 十数年ぶりに見た小さな希望はどこまで大きくなってくれるのだろう。
 その答えを見る頃、華軍はこの世にはいないがそれでもいいと思った。
 人生で最後に見る桜のその色を知覚することが出来るのだから、それでいいではないか。そんな風に自分に言い訳をして華軍は石畳の上を歩き続ける。
 次の角を曲がれば刑部の書庫に辿り着く。そこで華軍を待っている美しい色彩を彼はまだ知らない。

前日譚<1> 方伶世の回想

 人は一人では生きていくことの出来ない生き物だ。なのに、いつも自分と相手とを比べてしまう。比べて、真っ直ぐに答えを受け入れられるものは少なく、大抵の場合は劣等感か優越感を抱く。そして勝手に好きになったり嫌いになったり、認めたり見下したりする。
 そうして自分の居場所を見つけて守っていく。
 ただそれだけのことだと分かっていたのに、方伶世の胸中は悲しみと悔しさと情けなさで満ちていて、今すぐにでも逃げ出したい。それだけが何度も何度も繰り返しやってくる。
 この国では十五の歳から始まる三年間の儀礼を終えると成人として扱われるようになる。今はその成人の儀――中科の一年目が終わったばかりで、伶世が一人前になる為にはまだ半分以上の期間が残っていた。中科では三年にわたって見習いの官吏として過ごす。十五の春に受けた試験で伶世は女官の適性がある、と判断されていた。
 年頃の少女にとって女官は憧れの職業で、華々しい衣装や、社交界の雰囲気から志望欄に「女官」と書くものが後を絶たない。それでも枠の数は決まっているから、尚書――人事を担当する役所の官吏が適性を最優先に考えて結果を出す。伶世は人気の高い女官を志望するような勝気な性格ではなかったから、どこか難しくない府庁の文官にでもなれたらいいと思っていた。なのに尚書が発した通達の文には、はっきりと大きな字で「少初位下 茶房」と書かれていて、伶世は何度も通達文を見直す。
 茶房、というのは女官の位階の一つだ。その名前が示す通り飲み物を供するのが主な仕事で、上手く行けば府庁の衣食住のうち、食に関わる官吏として昇進していくことが出来る。ただ、中科は三年しかなく、茶房よりも上位の位階を得ることは難しいだろう。
 だから、この通達文が持っている意味合いはそれほど重くはない。人から羨まれる要素も少ない。
 そこまでをどうにか理解して、伶世の茶房としての人生が始まった。
 筈だったのに、現実はそれほど甘くはなかった。
 伶世が配属されたのは右官府兵部警邏隊戦務班という部署で、上官は思っていたより穏やかだった。右官府は武官府だから気性の荒い官吏が大半を占める。その中で、戦務班を取り仕切っている劉子賢という校尉は文官出身ではないかと思うほど温厚さだ。その穏やかさに伶世の緊張も解れていく。
 毎日、朝午夕の三度、程よい熱さの茶を班の全員に配った。左官府――文官府には休日という概念があるが、右官府に固定された休日はない。全員が不定期に休みを取る。見習いの官吏だが伶世もその制度は例外ではなく、方家の両親が女官になった娘を誇っていたのは最初のうちだけで、不定休の生活を半年ほど続けると不安そうな顔をしていた。
 大丈夫だから。右官府というのはそういうところだから。茶を出すだけの仕事だから困難はないから。
 何度も何度も両親にそう説きながら、その実、自分自身に言い聞かせてきた。
 実際の「茶房」の仕事は茶を煎れることだけではなく、茶を煎れる為の水を買い付けに行ったり、茶器を洗う為の水を井戸から汲んだり、茶と一緒に出す菓子を餡から作ったりと力仕事から調理まで幅広く、豪農の一人娘として育った伶世には中々つらいものがあった。それだけでも十分に心が折れてしまいそうだったのに、茶房の仕事は、戦務班の隣に位置する警邏隊本部や反対隣りの軽歩兵隊の茶房たちと協力しなければならなかった。
 伶世が方家の娘であると知った他の茶房たちは敬遠して話しかけてこない。こちらから声をかけても無視をされる。偶に言葉を交わす機会があれば、それは仕事を伶世に押し付ける為で、最初の三か月でここから逃げ出したい。心の底からそう思った。
 一年目はそうして耐えてどうにか終わった。中科は一年ごとに配属される場所が変わるのが普通だ。次の配属先ではもっと上手くやろう。そうすればこんなにつらい思いはしなくてもいい筈だ。
 そう、思っていたのに。

「嘘……」

 三月が終わる頃、伶世に宛てて出された辞令を見て、彼女の意識はどこかに飛んで消えそうになった。方伶世、安堵。それだけしか書かれていない通達文は伶世に絶望しか与えなかった。安堵、すなわち現状維持だ。今年も伶世は警邏隊戦務班の茶房として務めなければならない。上官が悪いとか、与えられた仕事が難しいとか、そんなことは思わない。ただ、別の場所に行けば楽になれるかもしれないと願っていた。その、小さな願いが打ち砕かれて伶世の目の前が真っ暗になる。
 もう駄目だ。
 それしか伶世の中にはなかった。
 一人で三部署の水瓶を満たすのも、大路まで出て水や食材を買うのも、夜半まで続く菓子の仕込みも何もかもがまた一年間続く。
 絶望で塗り潰された心を抱えて、それでも出仕しないという選択肢がなくて、四月の戦務班に顔を出した。
 そこに、生まれて初めて見る本物の希望がいた。
 彼の名前は戴文輝――豪農である方家など結局は農民だと思い知らされる、本物中の本物の貴族だった。文輝の生まれである戴家はこの国では九品と呼ばれる特別な家柄で、生まれながらにして文輝には高官になる道が用意されている。生まれて初めて見る本物の貴族の少年は人生のつらさなんて一つも知らないような底抜けの笑顔で戦務班の執務室にいる。存在を望まれ、受け入れられ、苦労をしたこともない。そんな印象を抱いた自分に気が付いて、伶世だってほんの一年前までそうだったじゃないかと否定する。
 それでも。
 三年間の中科を終えれば、婚姻の約束を交わした相手のもとへと嫁すことが決まっている伶世と違って、彼の人生は素晴らしい展望に恵まれているのだろう。その最後の一年に伶世の存在は必要ではない。いてもいなくてもいいような立ち位置を得て、そうして苦痛を耐え忍ぶしかない。
 そう、思っていたのに。

「伶世。水拭き、終わったぜ」
「小戴殿はいつもお早いのはよろしいのですが、仕上がりが少々雑ですね」
「どこがだよ」
「華軍殿の机の上に綺麗な筋が付いておりますよ」
「あっ!」

 文輝が伶世の仕事を手伝いたい、と言い出したのはひと月ほど前のことだ。
 早朝、いつも通りに出仕すると執務室の前の回廊に文輝が立っていた。武官見習いというのも存外大変なものだなと思いながら、朝の挨拶を口にすると文輝は太陽の笑顔を伶世に向けて、そして思ってもみなかった一言を口にする。

「伶世、俺にも手伝える仕事はないか」

 この方は何を言っているのだろう。文輝の言葉の意味を上手く咀嚼出来なくて伶世はしばらくの間ぽかんとした顔をしていた。なのに、文輝はそれを嘲ることもなく、太陽の笑顔のままでもう一度同じことを尋ねてきた。
 慌てて伶世は文輝の軽挙妄動を留めようとするが、それも彼には伝わっていないらしい。

「小戴殿は武官見習いであられるのではないですか?」
「同じ中科生のお前が俺よりも朝早く来て、俺よりも夜遅く帰るのはおかしいと思わないか」
「それが茶房と庶務官の違いなのではありませんか」
「俺はそうは思わん」
「では小戴殿はどうなされたいのですか」
「だから、言っているだろう。お前の仕事を手伝わせてほしい」

 自分の主張の正当性を少しも疑っていない、少年らしい愚直さで文輝はそう言う。
 そう言うのだが、文輝の主張を容れると世間の――他の府庁の茶房からは去年の比ではない程度の嫌がらせを受けるのが目に見えている。だってそうだろう。伶世に今、手を差し伸べているのは三男とは言え、九品の直系男子で伶世の身分からすれば雲上の相手だ。その、九品の文輝が伶世の手伝いをしている、と知れば他の茶房たちは伶世が文輝に取り入ろうとしていると思うのはもう目に見えている。
 そのぐらい、伶世の一年は多くの負の感情を彼女に与えた。
 なのに。

「伶世、つらいときにはつらいと言え。一人で背負い込みすぎだ、お前は」
「何のことでしょう、小戴殿」
「いいか、よく聞け伶世」

 警邏隊戦務班の水瓶は全部で三つある。伶世の細い腕では水瓶を一つずつ運ぶのが精一杯で、文輝が見ているだけでも非効率的すぎる。三往復を終えた後の伶世は疲労困憊でしばらくの間、休まなければならない。しかも、それを三部署分だ。だから。文輝がそれを手伝えば伶世の負担は減る。
 手伝わせてほしい。文輝が真っ直ぐにそう言うのを聞いて、伶世は一年ぶりに人の優しさに触れた気がした。
 ただ。

「お気持ちだけで十分です。水瓶の水を満たすのは私たち茶房の仕事。小戴殿のお力をお借りするまでのことではありません」
「伶世、お前も中々強情だな。だが、覚えておけ。俺は一度言い出したことを簡単に引っ込めるつもりはない」
「小戴殿のお手を煩わせていると知れば、生家の両親は縮み上がります。私にしても同じです。ですから、小戴殿はどうかゆっくりと武器の手入れをなさっていてください」

 それが文輝の武官としての務めではないのか。そう含ませて少し早口で言い切った。
 火中の栗を拾うような度胸は伶世にはない。万事十人並み。それでいいと思っていたし、今も思っている。去年は少し失敗してつらかっただけだ。今年はもう少し上手くやれる。だから、誰かの――文輝の施しなど不要だ。
 そう自分に言い聞かせた。
 なのに。
 文輝は太陽の笑みのまま、眼差しだけがすっと鋭さを帯びる。

「伶世、人が怖いか」
「何を、仰っておられるのですか」
「人目を憚って、誰の目にも留まらず、ただ俯いて一人で耐えるのはそれほど楽しいのか、と聞いている」
「なっ」

 何を言うのだ。侮蔑にもほどがある。伶世の気持ちも、立場も何も知らないで適当に自分の正義感だけで生きていることを許された文輝には一生わからない。分かり合えない。
 誰も好き好んで一人で耐えているわけではない。両親に正直に全てを話してしまおうかと思った日が何度もある。方家の後ろ盾があれば、戦務班を通り越してもっと上の役職者に告げ口をすることは決して不可能ではないだろう。
 それでも。
 伶世にも矜持がある。結局は親に頼るのか。そう言われるのは別の意味で屈辱だ。だから、耐えた。中科の三年を耐えられないような人間のその後の人生など高が知れている。だから、耐えた。耐えようと思った。今も、耐えている。
 なのに。
 文輝はその辛抱をよしとしない。

「伶世、世界というのは人だ。人が怖いやつの居場所なんてどこにもない」
「あなたに私の何がわかるというのですか」
「わかるさ。お前も知っているだろう。俺は九品だ」
「存じております。よく、存じております。私とは本来無縁の方。ですから」
「なら、話は早い」

 伶世、俺には友人がいないんだ。俺の友人になってくれないか。
 前後の脈絡から跳躍した言葉が聞こえて、伶世の思考は瞬間、停止する。何を言っているのだ、この方は。友人という言葉が聞こえなかったか。誰が誰の友人だ。自分が文輝の友人になる、というのはどんな妄言だ。だってそうだろう。文輝には同い年の九品の子息がいる筈だ。確か、程家の晶矢とかいう才女だ。その、才女を差し置いてどうして伶世のような凡庸な少女が文輝の友人になれるのだろう。そんなことは天と地がひっくり返りでもしない限りあり得ない。
 だから。

「小戴殿、お身体が優れないのでしたら医務班へご案内いたしますが」
「いい。一人で行ける。じゃなくて」
「お身体はよろしいのですか」
「よろしくなけりゃ出仕などしない」
「では」
「だから、何度も言わせるなよ。ここの中科生は俺とお前の二人じゃないか。上手くやっていこうって思うのの何が悪いんだ」

 それとも、お前も俺を遠巻きに差別したいのか。
 問うた文輝の顔面を思わず凝視した。嘘も偽りも阿りも何もない。ただ、手傷を負った獣のように酷く悲しそうな色の瞳が揺れながら伶世を見つめている。そこに不安を見出した。九品で出世街道が約束されていて、太陽の笑顔を持っている文輝にも不安という感情があるのだと知って、気が付いたら伶世は文輝の頬に手を伸ばしていた。

「伶世?」
「あっ。失礼を。お許しください、小戴殿」

 文輝の見た目よりずっとごつごつとした男性らしい手のひらが伶世の手を上から覆う。節くれだっている。でも、優しい手だ。そんなことを思って、文輝の体温に触れていることを実感した瞬間、伶世の中に焦燥と後悔が湧き上がる。今、自分がしたのは何だ。成人とみなされていないとは言え、男性の頬に軽々しく触れるなど女性としてあってはならないことだ。慌てて手を引っ込めようとしたのに、文輝の大きな手のひらが伶世を捕まえて離さない。
 そして。
 文輝は不意に真剣な顔をして言った。

「何だ、この指は」

 無礼だとか、女官としての品位を問う言葉だとか、そう言ったものが飛んでくるのを覚悟する。なのに、そんな硬質なものは一つも聞こえずに、文輝は柔らかく言う。

「伶世、女性はそんな風に手を荒れたままにしておくものじゃない。小姉上がいい薬を持っている筈だから明日、持ってきてやろう。約束だ。な?」

 そうして文輝は一点の曇りもない太陽の笑顔を伶世に向けると、そっと二人分の手を彼の頬から遠ざけた。そこに怒気が微塵も感じられなくて、伶世は戸惑う。雲上人、だなんて線を引いたのは誰だ。この方だって人間なのではないか。伶世が方家の娘だということで傷付いたのと同じぐらいか、それ以上の苦しみをこの方は背負ってきたのではないか。
 そんな感触が伶世の中に生まれた。
 多分、無意味だろう、と思ったが、その感触を幻にしたくはなくて言葉を紡ぐ。

「お怒りに、なられないのですか」
「なぜだ? 人の思いに寄り添ってくれる相手にどうして腹を立てる必要があるんだ」
「ですが、私は今――」
「女性に触れられるのが嫌だという男がどこの世界にいるんだ。しかも、その女性が俺の友人になってくれるかもしれない相手ならなおのこと腹など立つまい」

 そうだろう。伶世。
 その悪戯げな微笑みに、伶世の中でわだかまっていたものが霧散する。なるほど、九品というのは確かに別格の存在だ。自らの道を見出し、その道筋を信じ、貫くことに何の躊躇いもない。多分、文輝というのはその九品の中にあっても別格の存在なのだろう。女性に軽薄そうな口ぶりと真っ直ぐな笑顔。その落差で恋を錯覚する女性は多いに違いない。それでも、多分、文輝は恋愛の情を知らない。ただ、女性の扱いという知識を先達から教わっているだけで、その意味を深くは考えていないのだろう。
 それでも。
 そうだとしても。
 文輝は伶世を一人の人間として扱ってくれた。だから、次は伶世が答える番だ。

「小戴殿、茶房の仕事はあなたが思っておられるよりずっと大変ですが、それでもよろしいのですね?」
「無論。男に二言はない」
「では、まず、手順をお話します。こちらへ」

 文輝が本当の本当に茶房の仕事を手伝ってくれるというのなら、その好意を受け入れるのもまた好意だ。他の茶房たちからの風当たりはきっと強くなるだろう。両親に告げ口をするものだって現れるに違いない。
 それでも。
 伶世の人生で生まれて初めて「友人」になってくれる相手がいるのに、その気持ちを否定して拒絶することにどれだけの価値があるだろう。多分、どちらもが傷付いて何も得られない、最低の選択肢だ。
 だから、伶世は腹を括った。何なら本当に文輝の手つきになって、両親が決めた婚約を破棄することになっても構わない。そのぐらいの覚悟をした。
 だから。

「ありがとう、伶世」

 聞こえてきたとても小さな呟きのことは聞こえなかった振りを通す。
 伶世と文輝の友人ごっこは、やっと始まったばかりなのだ。しかも、期限が最初から決まっている。次の春まで。それまでの間に本物の友人になれるかどうかは二人の肩にかかっている。
 だから。
 この方の友人であれることを誇ろう。俯いたまま、この優しさを踏みにじる自分からは別離しよう。
 そんな風に心の持ち方を変えた。
 それからひと月が経った。茶房の仕事を一つずつ文輝に教えて、手伝ってもらううちに九品といえどもやったことのないことは出来ないのだ、とか、向き不向きという言葉には意味があったのだ、とかそんなことを体感する。今も、そうだ。机の水拭きを文輝に教えたのは七日も前なのに、彼は今も雑巾の使い方で四苦八苦している。九品も人だ。その結論を知るのが怖くて、自分の内側に閉じこもっていたことが愚かにすら思える。
 いつか。
 いつかでいい。
 この方が守る国の一部であることを誇れる。そんな自分になりたい、だなんて新しい目標を胸の中に掲げて伶世の今日がまた始まろうとしていた。
 

それは、風のように<十七>

十七.
 伶世(れいせい)が部屋から出ていくのと入れ替わるようにして晶矢(しょうし)が入ってきた。彼女の母親が手配した部屋だとはいえ、平服を着ていることに違和感を覚える。ここは王府(おうふ)だ。正装である朝服(ちょうふく)を着るほどの必然性はないにしても、武官見習いなのだから右服(うふく)を着ているのが自然だろう。
 決まりごとに厳しい晶矢にしては珍しいな、とぼんやり思う。それを言葉に出来ずに、何となく口籠った。晶矢の方も黙って寝台の横まで歩いてきて、胡床(いす)の上に座った。
 沈黙が部屋を満たしている。
 一陣の風が不意に舞い込んで、寒さに身を固くした。
 多分、それがきっかけだったのだろう。「首夏(しゅか)」と晶矢が声を発する。晶矢らしくない、小さな声だった。

「首夏、まだ体調は万全ではないだろう。横になれ」
「ああ、うん」

 傷口は癒えたのだろうが、つい先ほど意識を取り戻したばかりの怪我人であるという自覚が晶矢の言葉によって生まれる。寝台の上に横たわり、綿入れを首元までかぶると、寒さが少し和らいだ。視線の高さが低くなり、文輝は枕の上から晶矢を見上げる形になる。晶矢は文輝より頭一つ分ほど背が低い。彼女を見上げるのは新鮮な感覚だった。

「暮春(ぼしゅん)、お前、ずっとここにいたのか?」

 こくり、晶矢が頷く。それしかすることがなかったからな。弱弱しく笑みが形作られて、文輝はまた小さな違和感を覚えた。
 それが一体、何に起因するのか。結論は何なのかがわからない。
 ただ。

「ありがとな」

 感謝の気持ちが自然と出てきた。眠っていたふた月の間に起きたことはわからないが、晶矢は文輝が再び目覚めると信じていたのだろう。彼女の大切な時間を文輝の為に使ってくれたことに礼を言わなければならないと思った。
 ただそれだけのことだったが、礼を聞いた晶矢の表情が不意に歪む。泣き出しそうだ。なんて晶矢の泣き顔を見たこともないくせに直感する。

「暮春、どうした」

 何か彼女を傷付けるようなことを言ったつもりはない。礼を言われて感動して泣くほど、晶矢は感傷的ではないだろう。それでも、晶矢は今にも泣きそうな顔をしている。
 文輝は困惑した。
 自分の何が悪いのかもわからずに、言葉を重ねるのは愚行だ。傷口を抉る可能性の方が高い。だから口を噤む。当惑が顔に出ていたのだろう。晶矢はぎゅっと唇を噛み締めて何かをやり過ごそうとしている。視線が床の上を彷徨っていた。

「暮春」

 泣くなよ、とは言えない。言えば彼女の矜持を傷付けるだろう。それぐらいのことはわかる。歪んでいた晶矢の表情が少しずつ落ち着くのを、文輝はただ待った。塞がっている筈の傷口がつきつきと痛む。胸が痛いのか、感情が錯覚しているのだけのかすらわからない。
 俯いた晶矢が、幾ばくかの沈黙の後で、ゆっくりと口を開く。

「おまえは、何も変わらないのだな」

 責めるような声音ではない。それでも、文輝はその言葉に自身が酷く傷付いたのを認知する。暗闇の中で華軍に同じことを言われた。同じことを言った華軍も、今の晶矢と同じような顔をしていたのを思い出す。
 どうしてだろう。
 不変のものには価値があると思っていた。真実は不変であるとも思っていた。
 なのに、晶矢も華軍も、文輝が変わらないことに傷付いている。そして、それを指摘することがまた、文輝をも傷付ける。何をどうすればいいのかがわからない。ただ、漠然と「変わらないこと」と「変われないこと」は別の問題なのだということを知った。

「首夏、お前には何の処罰が下った」
「郭安州(かくあんしゅう)で修科(しゅうか)を受けることになった」
「そうか」

 感情を押し殺した声に、文輝は不安を掻き立てられる。お前も似たような処罰だったんだろう。問えばいい。わかっているのに問えない。俯いたままの晶矢の姿を見るのが初めてで、どうしたらいいのかがわからない。
 胸中で感情を持て余し、言葉を口腔で転がしているだけの文輝と視線を合わせることなく、晶矢が訥々と語り始める。

「皆の処罰は聞いたか」
「いや、何も」

 今、文輝が知っているのは朱氏(しゅし)景祥(けいしょう)が国主の位を奉還したことと、戦務長――劉子賢(りゅう・しけん)が自害を許されたこと、次の国主の位は伶世が継いだことの三つだけだ。その三つの事実から推察されるのは、今回の動乱についての処罰を決定するのは伶世で、彼女なら一律に心無い判断をしないだろう、ということで、文輝はそれほど心配をしていない。
 だから、複雑な表情をしている晶矢の胸中がわからない。
 それでも、聞いておかなければならない。そんな直感が生まれる。

「暮春、教えてくれよ。皆はどうなったんだ」
「誰から話せばいい」
「お前が話しやすい順番でいい」

 問いに問いを返したが、試しているつもりはない。ただ、晶矢にも話しやすい順があるだろう、と気遣ったつもりだったが、彼女の表情は曇ったままだった。
 晶矢はしばらく、何かを思案していたが不意に顔を上げて話し始めた。
 伶世が「読替(よみかえ)」の罪科(つみとが)を廃止する、と定めた為、朱氏景祥は今後、新たな公族の一人になることで落着した。市井に下る、と当人は主張したそうだが、別の問題を起こすことが懸念され、臣籍降下に留まった。
 右将軍(うしょうぐん)は自らの主を失い、下野した。今後は人としての生を全うして、市井で暮らすそうだ。伶世の右将軍は彼女自身が見出すほかないというのが結論なのだそうだ。
 孫翁(そんおう)――左尚書令(さしょうしょれい)である棕若(しゅじゃく)は引責辞任。彼の副官だった香薛(こうせつ)も降格の上、他部署へ異動。左尚書令の役職自体は棕若の長男が引き継いだ。
 人事を司る部署でありながら、緑環(りょくかん)の動きを見落としていたことが主な理由で、内府・近衛部(このえぶ)に対して越権行為を行ったことについては棕若が一人で負った形になる。
 その、近衛部では長官である少監(しょうかん)が降格の上、異動。陽黎門(ようれいもん)の守衛だった進慶(しんけい)は地方官へ降格。既に岐崔(ぎさい)からは離れている。
 こちらは動乱への迅速な対応が出来なかったことが主に取り沙汰されている。近衛部でも、国主の間諜だった大仙(たいぜん)は職を辞し、東国へ向かった。残りの間諜も順次、国を離れるか自刃するかの判断を迫られるだろう。
 官吏の監査を司っている御史台(ぎょしだい)では更に強い責任が問われた。
 長官である大夫(たいふ)は降格、大夫の通信士だった志峰(しほう)は自主退官。そのほか、全部隊に対して一定の減俸が決定している。
 内府の残り一つ、典礼部(てんれいぶ)に所属する典礼官(てんれいかん)は一律、筆記と面談の再試験が課され、不適格者とみなされたものに関しては免職処分となることが決定した。環(かん)の偽造に関わったものは免職の上、国外追放となる。その際には白帝廟にて「まじない」の才の奉還を行うことも同時に命じられた。この処分に関しては、二人の国主が資格を奉還したことにより、白帝が「才」の奉還を認めることがわかった為、実施されることが決定した。
 ただ、不正に関わった典礼官の数が膨大すぎる為、一度に処分が下るのではなく、新たな典礼官の採用と並行して行われているそうだ。
 右官府(うかんふ)では右尚書(うしょうしょ)で尚書令が引責辞任。あまりにも多くの通信士が反逆に加担していたことを見過ごした罪が問われた。
 工部(こうぶ)、兵部(ひょうぶ)でも一度に全ての処分を行うことが不可能である為、反逆者以外の右官は一律の減俸、降格処分が順次行われることで決着している。動乱に加担した反逆者は官吏としての資格を永久にはく奪したのち、賦役(ふえき)が命じられた。

「戴(たい)将軍と黄(こう)将軍も、勿論降格、減俸の処分だ」
「降格って、具体的にはどのぐらいなんだ」
「概ね二位から三位と聞いている」

 次兄の位階は従五位下(じゅごいげ)だから、降格されれば将軍位を失う。決して軽い処分ではない。
 右官全体の責を問われているのだから、次兄だけが特別に不条理を味わっているわけではないが、それでも、将軍位を得る難しさを思うと気持ちの置き場所がよくわからなかった。
 棕若にしてもそうだ。彼が引責辞任を強いられたのは、正当な手続きなく王陵に立ち入ったからだ。それを提案したのは棕若ではない。文輝だ。
 結論を出したのが棕若なのだから、責任の在処はそれで正しいのかもしれない。
 それでも。

「お前は、どうなったんだ。暮春」

 九品(きゅうほん)の二位・程(てい)家の嫡子である彼女もまた何らかの処分を受けているだろう。一律に位階が下がっただけなのだろうか。中科生(ちゅうかせい)の位階などあってないに等しい。形式だけのものだ。厳重注意で済んだのだろうか。
 期待が胸を巡る。
 その答えを告げる瞬間、晶矢の表情がいっそう曇る。
 躊躇いの後に聞いた言葉が文輝に絶望を与えた。

「廃嫡された。わたしはもう程家の人間ではない」
「よせよ、そういう冗談は趣味が悪い」
「首夏、お前も見ただろう」

 わたしの左腕はもうないんだ。
 言われて晶矢の左半身を見る。そこにはだらりと垂れ下がった平服の袖があるばかりで、中身があるようには見えない。伶世を呼びに行くときに翻っていた袖が網膜に蘇る。
 あのとき――闇夜の津(みなと)で右将軍の長槍は晶矢の左腕を切り落とした。
 あの光景は見間違いではなかったのだ。晶矢の左腕は、本当に失われてしまった。玉英(ぎょくえい)や彼女よりも位階が上の御典医(ごてんい)もいただろうに、と思う。どれほどの技術をもってしても、取り戻せないものがあることを晶矢が示した。
 顔色をなくした文輝を見て、晶矢が複雑に笑った。

「弓を引けぬ程家の当主など必要ない。わたしはもう何の役にも立たぬ。籍を失うのも道理。わかるだろう、首夏」

 わかっている。それが九品だ。それが程家だ。それが家督を継ぐということだ。
 わかっているが、だからといって何も思わずに首肯することは出来ない。
 文輝は晶矢の言葉に必死に首を横に振った。

「だったら、お前の十七年間は何だったんだ!」

 軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)で首席であり続ける為に、晶矢が犠牲にしたものを知っている。文輝は九品だが三男で、求められるものが少なかった。それでも、ある程度の犠牲を払った。
 人として当たり前の感情の機微。友情を育む機会。好奇心を満たす無謀な挑戦や、大人たちを困らせる悪戯。与えられた多くはない小遣いでするささやかな無駄遣い。その結果、待っているだろう様々な経験。
 その小さな一つひとつを手に入れる権利を放棄して、それでも程家の嫡子たる為に晶矢は研鑽を続けた。
 だのに、努力が何の実も結ばずに、一度足りとも賞賛されることなく、切り捨てられる。
 わかっている。九品は飾りではない。他国との紛争、国内の騒乱。その軍事的困窮の場で力たる為に存在することが許されている。足手まといは必要ない。
 わかっている。
 それでも。

「どうして、お前なんだよ! お前の方が俺よりずっと価値があるじゃないか! どうして、俺が左遷でお前が廃嫡なんだよ! おかしいじゃないか!」

 思わず身を起こす。勢いで綿入れが寝台を滑り落ちた。晶矢が冷静な顔でそれを拾う。
 そして。

「おかしくなんかないさ」
「おかしいだろ!」
「ちっともおかしくなんかないんだ、首夏」

 だっておまえからは奪うべき価値のあるものがないのだから。
 言われた瞬間、文輝は瞠目する。晶矢の言っていることが理解出来ない。罰する価値もない、と言われたのだと気付くのにしばらく時間がかかった。無力さが胸中を満たす。まただ。また文輝は何も出来ないで、大切なものを失おうとしている。
 平静そのものの晶矢の眦が薄っすらと赤くなっていると気付いたときには、文輝の頬を滴が伝っていた。
 苦しくないわけがない。嘆かない道理がない。悔しくない筈がない。
 それでも、失った左手は二度と戻らないし、晶矢が程家を継ぐこともない。
 わかっているから、彼女は泣き濡れて、現実を受け入れた。その現実を掘り返して、文輝の自己満足の為にもう一度泣けというのがどれだけ業の深いことかをやっと察した。
 文輝が察したことを察した晶矢が、片方しか残らなかった腕で、綿入れを文輝に被せる。その、不自由に慣れ始めた右手に、文輝はふた月の時間を感じた。文輝が眠っていた間に、晶矢には色々な出来事があったのだろう。
 そして文輝は晶矢が平服を着ている理由を知った。晶矢はもう程家の嫡子ではない。武官見習いですらない。だから、右服を着ることは許されないし、職務に戻ることもない。そんな晶矢に許されたのが、目覚めない文輝を見守ることだけだった。その役目も、今、終わった。
 だから。
 詫びることはしない。求められてもいない助力をしない。彼女の境遇を憐れんだりもしない。ただ見送ることしか出来ない。
 それが、文輝に許された最大限の友情だ。

「行くあてはあるのか」
「この国にいてもわたしはつらいだけだ。北方諸国に医術に長けた国がある。そちらへ旅しようと思っている」

 そうすれば或いは望みがあるかもしれない。言外に含められた僅かな期待を否定するのは残酷が過ぎる。一縷の望みでも縋りたいのならば、失うべき価値のあるものを持たない文輝に何が言えるだろう。

「そうか。いつ発つ」
「おまえが目を覚ますまで、と主上とお約束した。明日の朝には発つ。準備はもう終わっているんだ」

 思い出の詰まった品は城下の火災で焼失したから、手荷物しか残っていない。そんな声が聞こえて文輝の視界は再び滲んでいく。

「首夏、おまえと過ごした十七年間は薄っぺらいが、わたしにはおまえぐらいしか友人がいない。明日の朝、もう一度ここに立ち寄る」

 そのときにはお互い笑顔で終わりたいものだ。
 無理やりに笑みを作る晶矢に首肯することで、同意を伝える。
 わかっている。文輝が晶矢にしてやれることなど何もないのだ。何かを守ったつもりで、何も守れていない。その現実に気が付いて、絶望の淵を覗いて、そして文輝も決意した。
 翌朝、晴れやかな笑顔で出立を告げる晶矢にきちんと笑顔を送れていたかは定かではない。それでも、晶矢は一人、見たこともない地へ旅立っていった。

 それからの二年はあっという間だった。郭安州の州都・江鈴(こうれい)の修科で必死に学んだ。ときに学生として、ときに武官見習いとして過ごす中で、決して多くはないが友人も出来た。修科の卒業試験で首席になったときには、やっと晶矢の十七年間の重みがわかったような気がしたが、多分永遠に気がしただけなのだろう。二年と十七年を同一視しないぐらいには文輝にも学がある。
 この二年の間に、世間では色々な動きがあった。
 伶世は「読替」の罪科を廃した後、環の持つ役割を少しずつ変えていった。「まじない」の才を持つ「才子(さいし)」たちに全てを委ねる危険性を知った国主の判断なのだろう。文武官の位階を示す記号としての意味だけが残り、それ以外の意味は徐々に失われつつある。
 「まじない」にも変化があった。「才子」が民間でも暮らせるよう、市井にも「まじない」の活躍の場を用意した。「環の作成」、「伝頼鳥(てんらいちょう)による通信」という公の役割はそのままに、技巧として「治癒の手助け」だとか、娯楽として「幸運を授ける」だとか、暗示として「将来を予測する」だとかいう用途が開発された。
 白帝から授かった「才」を娯楽の為に用いるのには反発もあったが、今では概ね受け入れられている。江府(こうふ)でも、民たちは好んで「まじない」の恩恵を受けようとしており、市井でも「才子」が暮らせるという理想は少しずつ浸透しようとしていた。
 二十の春を迎えて、文輝は国官の登用試験を受ける権利を得た。一度しかない機会だ。逃せば、文輝は戴の姓を失う。岐崔を発つに際して、環も失う、と約したが環にはもうそれだけの価値は残っていない。せいぜいが官吏としての人生と別離する程度のことだ。市井で生きるのに環は必要ではない。
 それでも。
 二つの関を越える為の割手形(わりてがた)を作ったのは「才子」で、彼の言う通りならこの手形は片道しか効力を持っていない。登用試験を受け、落第すれば文輝は流民になる。
 そのことに不安がなかったわけではない。
 それでも、文輝は自らの最善を尽くした。今更、怖気づいている場合でないのは自明だ。
 だから、選びうる権利が少なくても、可能性がどれだけ小さくても、文輝は自らの運命と戦うと決めた。その運命の岐路はもう目の前だ。
 岐崔へは正当な手続きで船に乗る。眉津(びしん)で環と手形の両方を提示した。工部治水班(ちすいはん)の官吏がそれを確かめ、迎えが来ている、と告げる。その言葉通りに、二年ぶりに見る次兄の姿があった。

「久しいな、文輝」
「小兄上(あにうえ)もお久しぶりです」

 登用試験を落第すれば、この次兄に会えるのも今が最後だ。感傷に浸るわけではないが、今まで押さえつけてきた不安と緊張が体を巡る。それを機敏に察した次兄に乱暴に頭を撫でられた。かつてはそうされることが当たり前だと思っていた。たった二年しか別離していなかったのに、永遠にも近い時間、次兄の顔を見ていなかったような気がする。

「母上が首を長くしてお待ちだ。親孝行と思い、嘘でも必ず受かるとお約束してさしあげろ」
「嘘にはいたしません。俺は、必ず受かる為にここにいます」
「言うようになったな。まぁ、お前は昔から口だけは達者だったか」

 闊達に笑って、次兄が石畳の上を歩き始める。その背を追って、岐崔の城下に足を踏み入れた。大火に見舞われて以降、復興した首府の姿を見るのは今が初めてだ。十八年の時を過ごした岐崔が、たった二年で別の都市のようになっていることに驚く。農家も商家も皆、真新しい様相で、文輝は時間の経過を感じた。
 次兄の案内で辿り着いた戴家の屋敷は、以前とは別の場所に建っていた。官街(かんがい)と呼ばれていた地区はなくなり、九品の屋敷は城下の方々に分散して建てられているのだと聞いて、新しい国主――伶世が首府防衛についても施策を巡らせていることを知る。公務の効率の面で言えば、九品の屋敷が密集している方が便利だ。だが、それは同時に、災禍に見舞われれば主要機能が停止することを意味している。一極集中の危険性を知った国主らしい施策だ、と文輝は思った。
 戴家の屋敷は真新しい風貌をしていたが、白木の香りは既に失われている。門をくぐり、表の間を経て回廊を歩く。戴家の当主はまだ父親から代替わりしていない。その正室である母親の居室は屋敷の奥まったところにある、というところは以前の屋敷と変わっていなかった。その道中で一つの空き部屋があることに気付く。倉庫として使われているわけでもなさそうなその部屋が誰の為に用意されているのか、ということは割合すぐ見当が付いた。
 これは文輝の部屋だ。
 新しい戴家を建築する為に図面を引いたのは、工部造営班(ぞうえいはん)の所属である長兄だろう。都市計画や建築については長兄の本職だ。国の方針は長兄が反映させる。それでも、建築の許可を出すのは家長である父親だ。その二人が決裁した図面に文輝の部屋がある。自らの存在を望まれているのだと知って、文輝は胸を熱くした。まだ、文輝には戻る場所がある。

「小兄上」

 ありがとうございます。空き部屋を通り過ぎ、自らの中で結論が出たところで次兄に声をかける。振り向いた次兄は複雑な表情だったが、それでも笑みを見せた。何に対して礼を言ったのか、明言はしなかったが次兄には通じていたらしい。

「お前は変わったな」

 自分で答えを出すことが出来る。もう子どもではないのだな。
 言った次兄の声色には後悔が僅かに滲んでいた。十七の文輝を守ることが出来なかった後悔と、成長期の二年を見守れなかった後悔だ。
 その言葉に、文輝は郭安州に左遷になった後も、次兄が文輝の心配をしていたことを知る。そうと知って、何も感じないほど、文輝は自らを殺していない。瞼が熱を帯びる。それでも、涙を流す瞬間はまだだ、という理性がそれを留めた。
 返す言葉に詰まった文輝に、次兄は更に笑みを深くする。

「今のお前になら、渡せそうだな」
「何を、でしょうか」
「『まじない』の使途が増えたのはお前も知っているな」
「是(はい)、存じております」
「岐崔では昨年の春頃から、娯楽の『まじない』が流行していてな」

 官吏登用試験を受ける際に、異性の装飾品を持っていると合格の可能性が上がる。そんな「まじない」だ。言った次兄は効果を真実、信じている風ではなかったが興味は持っているようだった。

「母上がその『まじない』を受けたものを持っておられる。受け取ってさしあげるといい」
「それで母上のお心が休まるのであれば、そうさせていただきます」

 「まじない」などに頼らずとも合格するだけの研鑽を積んできた。その自負がある。それでも、文輝の為に何かをしたいと願う母親の気持ちを否定してまで、自らを肯定したいと願うほど、文輝はもう青くはなかった。
 次兄が苦々しく微笑む。

「本当に、お前は変わったな」

 変わらないものを必死に求めていた。変わらないものに価値があると思っていた。
 それでも、今の文輝は知っている。変わっていくものにも、変わらないものと同じぐらい重要な意味がある。そして、人は移ろう生き物で、何一つ変わらずにときを過ごすことなど出来ない。
 変わらないと評された過去を思い出す。今の文輝が華軍に出会ったらどんな評になるのだろう。その答えは一生わからないが、それでも文輝は生きて、前へ進んでいる。
 前に進み続けて二年が経った。
 ときの流れというのは無慈悲だが、それに抗う術はない。
 だから。

「小兄上もお変わりになられましたよ」

 正六位下(しょうろくいげ)に降格された後、昇進試験を受け続け、この春からようやく従五位下――将軍位に復帰する。と風の噂で聞いた。動乱の処分で殆どのものが降格になった。その中でも格別の昇進であることは間違いない。
 前を向いて走っているのは文輝一人ではない。
 そのことに勇気付けられたと言外に告げると次兄は気恥ずかしげに後頭部を掻いて、先へ進むことを促した。
 そして、文輝の帰着を待っていた母親から一本の簪(かんざし)を受け取る。母親が使うには若すぎる意匠で、文輝は母親の持ち物に「まじない」を施したのではなく、「まじない」を施した新しい簪をわざわざ買い求めてくれたことを知った。
 その簪を懐に仕舞って、文輝は二日後の筆記試験に臨む。
 試験内容は決して易くはなかったが、それでも郭安州の修科で首席を修めた文輝には難しすぎるということはなかった。筆記試験の五日後、試験場の正門に掲げられた高札の前から二列目に文輝の名はあった。
 筆記試験に合格すれば、次は実技だ。右官府の中で、武官を目指すものと事務官を目指すものとが二人一組になるように抽選され、模擬戦闘が行われる。
 合格発表の後、午後に右尚書の広間で抽選のくじを引く。文輝の割札(わりふだ)には「五」と記されている。事務官志望者の中から同じ「五」を持つものを探した。向こうも文輝を探しているのだから、お互いが出会うまでにそれほど時間は必要ではない。
 広間の中にその相手はいた。
 西白国では見ることのない、青みがかった黒髪の持ち主で、一見して白氏(はくし)ではないことを知る。朱氏(しゅし)の血を引く、国主――伶世ともまた違う。青は東の貴色だ。そこまでを一拍で理解して、文輝はこの黒髪の男もまた、登用試験に懸けているのだということを知った。
 素性はわからない。目的も知らない。それでも、文輝は直感した。多分、文輝はこの男を信じてもいいのだ。紫水晶のような美しい瞳に文輝が映っている。その肖像がどんなものかはわからない。わからないから、文輝はこの異国の志願者を理解することを望んだ。
 不安に蓋をして、笑みを浮かべる。そして、文輝はその男の肩を叩いて言った。

「なぁあんた。緊張しているのか? 俺は二回目の試験だが、うん、やっぱり緊張するもんだな」

 文輝が着ているのは郭安州の修科の制服だ。中科生だった三年間で着慣れた右服も、厳粛な場で着る朝服も、今の文輝には着る資格がない。だから、せめて公的な服をと選べば制服しかなかった。
 右肩に郭安州の徽章が付いているから、文輝がどこから試験を受けに来たのか、わからないものは流民ぐらいだ。岐崔の修科に進んだものは、動乱の記憶と共に文輝の顔を覚えている。
 郭安州の田舎者か九品の子息かのどちらか。どちらにしても進んで親しくする理由はない。だから、文輝はこの試験場にあって敬遠されていた。
 だのに、緊張した異邦人は生真面目な顔で応える。
 
「そうだな、これは文字通り私の命運がかかっている試験だからな」

 異邦人の顔色には真実、試験に対する緊張感しかない。彼は本当に文輝のことなど何も知らないのだ。そのことを理解した瞬間、文輝の胸中に希望が灯った。
 彼なら。この異邦人なら。
 文輝を敬遠することも軽蔑することもない、この相手なら文輝の最善を引き出してくれるのではないだろうか。
 そんな勝手な希望を抱く。
 だから。
 母親が託した簪を懐の中で握る。この簪に込められた思いを考えれば、今から文輝がすることは間違っているのかもしれない。それでも、文輝もまたこの簪に願いを託したいと思った。
 腹を括って簪を懐から引き出す。そして。

「そうか、だったらいいものを持っているんだ」
「何だ」
「試験に必ず受かる『まじない』だ」

 文輝は異邦人の右手にそっと簪を握らせた。房飾りが彼の手のひらから流れ落ちる。簪の一番上で深紅の貴石が輝いていた。
 簪を受け取った男の反応で、彼は本当に「まじない」を知らないのだということを察した。白帝の加護を受けた「才子」は西白国にしかいない。だがそれは同時に西白国で生きていれば誰でも「まじない」を知っているという側面も持つ。
 試験に受かる「まじない」は伶世が取り組んでいる新しい「まじない」の形で、文輝もまた岐崔に戻って来るまでは知らなかった。知らなかったが、男の驚きは文輝がそれを知ったときの表情とは決定的に違う。
 感心ではない。ただ、本能的に焦りを感じている。
 そのことが、彼には何か伏せておきたい事実があるのだということを思わせたが、顔を合わせて四半刻も経っていない文輝が尋ねてもいい案件かどうかは判断出来る。今、それを聞けば全てが終わる。そう直感した。
 だから、文輝は軽い口調で男に尋ねた。

「知らないか? 男は女の、女は男の装飾品を持っていると受かると言われてる」

 その説明に男は静かに首を横に振った。
 これ以上、詳細な言い訳を聞くのは野暮だろうと思い、文輝は大らかに笑ってみせる。次兄が文輝にそうしたように、許容の態度を取った。

「そうか、じゃあこれはあんたにやるよ」

 最初からそのつもりだったが、改めて明言する。異国の男はさっと顔色をなくして否定した。文輝は更に笑みを返す。

「何を言う、まじないなのだろう」
「どの道、あんたと俺とは一蓮托生って奴だ。あんたが受からないことには俺も受からない。策を立てるのはあんただ。あんたに幸いがある方がいい」

 政道、兵法、用兵術。十三年間にもわたる教育課程でそれらは嫌というほど叩き込まれてきた。将軍位を目指す文輝には必要な知識だが、それでもそれがただの学術的な知識でしかないことは文輝が一番よくわかっている。知っているだけでは何の意味もないのだ。
 その無力さを嘆くのは後でも出来る。
 正しいことを押し通したいのなら、文輝は強くならなければならないことをあの日知った。誰の顔色も窺わず、誰の機嫌に一喜一憂することもなく、それでも公の為を志して生きるのなら、ここでつまづいている場合ではない。
 異国の男がどれだけの知識と策謀とを持ってここにいるのかはわからないが、信じてもいい相手ぐらいはわかる。この双眸は困難に立ち向かう志を灯している。
 だから。
 文輝は大丈夫だと重ねて笑った。
 紫紺の双眸が不意に憂いを帯びて、そして矢継ぎ早に問うた。

「名は? お前の名は何と言うのだ」

 その問いが文輝の直感を肯定する。本当に、彼は文輝のことを何も知らないのだ。
 新鮮な響きに若干の感動を覚えながら文輝は自らの名を告げる。戴の姓を名乗れるのは九品だけだ。中でも光に関する名を与えられているのはその直系だということを意味している。これで新鮮さとは別離するだろう。わかっていたが、それでも名乗った。
 文輝の幾ばくかの感傷を肯定するかのように、男は両目を見開く。
 そして。
 今度は彼の方こそが双眸を絶望に染めて言った。

「そうか、私は柯子公(か・しこう)という」

 柯氏と言えば東国によくある貴族の姓だ。更に言えば、「子公」という字はかつての名君の字で、こちらも東国では一般的だろう。「子」は成人男性を意味する冠詞、「公」は公明正大の頭文字で優れたものに育つようにという願いを込めて付ける名だ。
 絶望に満ちた顔で告白するだけの名ではない。ただ、子公の様子を見るに彼はこの名前に後ろ暗い気持ちを持っている。それもそうだ。東国の貴族が西白国の国官を志願するだけの正当な理由などありはしない。国元にいれば何ら不足ない生活が出来るだろうに、それでも子公はこの国へ来た。
 探られて痛くない腹を持つものは一体どれだけいるのだろう。
 叩いて埃の出ないものなど殆どいない。それでも、皆、上辺だけでも身綺麗にして毎日を生きている。
 名を告げるだけで一喜一憂する文輝も子公も、生きている痛みを知っている。
 だから。
 子公の身の上を根掘り葉掘り訊くことはしない。いい名前だ、と言うと子公は信じられないものでも見たような顔をして問いを重ねた。

「お前、国から出たことはないのか」
「恥ずかしながら、まだ一度も。遠くまで行ったって郭安州がせいぜいだ。世間知らずで呆れたか」

 文輝が答えるのを待って、子公の問いは幾つも繰り返される。

「青東国(せいとうこく)は知っているな」
「名前だけだ。どんな国か、見たこともない」

 東方を治める大国の名が聞こえて、文輝は子公の出自の一部を知る。柯氏だと聞いたときに、それは予想していた。だから、新たな驚きとは出会わずに返答を紡ぐ。

「その青東国の皇太子が行方不明だそうだ」
「そいつは大変だな。で、それがどうかしたのか? まさか、うちの国に亡命したとかそういう話なのか?」
「そうだとしたらどうする」

 子公の双眸が不安に揺れている。次の答えを間違えば、子公の心は永遠に背を向けてしまうだろう。わかっている。わかっていたから、即答した。

「どうもしないさ」
「何?」
「この国は力のあるものが生きる国だ。家名だけを頼りに生きることなんか、誰も許しやしない。その、青東国の皇太子にしたってそうだ。実力がないなら、きっと尻尾巻いて帰ることになるだけだろうさ。俺がどうこうする話じゃない」

 環はその機能を失った。六色の文様。幾百、幾千の輝きに分類された貴石。それらを伶世はただの石ころとして扱うことを選んだ。赤の文様を失った環を文輝は今も肌身離さず持っている。持っているが、もう何の役にも立たない。
 九品四公(よんこう)、その系譜に名を連ねることが許されるかどうかは、子公と臨む試験が決める。
 だから。
 生まれ持った身分も、蓄えた財貨も、培った経験も、生かすことが出来ないのなら何の価値もない。
 その価値観に基づいて子公の問いに答えた。子公の紫紺に小さいが希望が灯るのが見える。

「あんたが何を確かめたいのか、俺にはわからない。だから、正解は出来ないかもしれないが、答えることぐらいは出来る。気が済むまで試すといい。俺はあんたに命を預けると決めたんだ」

 だから、何度問われてもいい。子公を信じると決めた。決めた以上、文輝の言葉が子公の不安を払うのであれば、痛い腹を探られることを拒まない。
 それが、文輝の決めた正道だ。
 希望を灯した子公に微笑むと、紫紺の瞳が揺れる。
 そして。
 子公は不意に俯いて、ぼそぼそと問うた。

「願いとは望めば叶うものか」
「欲しいのならば、手が届くまで伸ばし続けるものだろ? 手前の分に見合わないものを誰かから貰っても、すぐになくすだけだ。俺は、そんなものは欲しくない」

 そう決めたのはいつだったのかはもう思い出せない。
 それでも。
 与えられるものを強請るのに夢中で、手に入れたものを守るのに必死で、その結果、別の誰かを傷付けてもいいとは思わない。
 あの日、文輝は知った。正しさは全てを肯定しない。優しさもまた全てを守らない。
 全てに向き合いたいのならば、傷だらけになることを厭うことは出来ない。
 だから。
 理想論だとわかっていたが、胸を張って答えた。子公がゆっくりと顔を上げる。

「お前にとって必要なのは、私か、それとも才のある軍師か」
「あんたを判じるには時間が足りない。才がある軍師と組めるに越したことはないが、それよりも俺自身の腕を磨くことの方が重要だ。手前で努力もしないで、誰かの才に頼ったりはしたくない」

 文輝に許されているのは今年の試験、たった一度だけだ。この試験に受からなければ文輝は全てを失って野に放逐される。
 一度しかない機会に強がっている場合ではない。わかっている。
 それでも。
 理想に蓋をして、未来の目標を見失って、それで安泰を得たとして文輝の中に何が残るだろう。何も残らない。わかっているから文輝は子公の問いに馬鹿正直に答えた。多分、子公もそれを求めている。
 その証左に、子公の双眸は文輝の答えを聞いて限界まで見開かれ、そして出会って四半刻で初めて穏やかに弧を描いた。

「戴家の人間とは、皆そういうものか」
「うん?」
「お前は優れた人間だなと言っている」

 その言葉の意味がわからずに首を捻る。子公はそんな文輝を見て慈しみを込めた眼差しを向けた。

「なるほど、確かにお前は文輝足りえる男だ」
「言っている意味がよくわからないんだが、褒めてくれているのか?」

 そうだ。
 子公が満面の笑みで首肯して、不意に文輝の名を呼ぶ。

「何だ、子公」
「お前の望みは何だ」
「俺か? 俺は将官になりたいと思ってるんだが、まぁ、俺の裁量じゃ死ぬまでに何とか昇格できればいい目標だな」

 有利不利で言えば、圧倒的不利からの挑戦だ。
 二年の間、伶世の政治を見てきた。彼女が昔馴染みを理由に、文輝を贔屓してくれるような軟弱な国主かどうかはもうわかっている。伶世は彼女の出した条件を一分も譲ってはくれないだろう。
 だから、母親は人事官たちに根回しをするのではなく、ただの娯楽でしかない「まじない」に懸けた。その気持ちを文輝は子公に託した。女ものの簪一本。子公にその意味が全て伝わっているとは思わない。
 それでも、この試験に受かると決めた。
 将軍位を得れば国主に謁見する権利がある。伶世は文輝がそこまで上ってくるのを待っている。その日が来るのを待ちながら、彼女は国という重みを背負って戦っている。
 何かを奪う価値すらないと判断された。罰を下すだけの意味もない存在だ。
 そこから抜け出したい気持ちと、何かと別離することに怯えたくはない気持ちの両方がある。矛盾している。大切なものを失いたくないのなら、大切なものなど持たなければいい。
 わかっている。それでも、そんな虚しい生き方は嫌だ。
 だから、文輝は傷付いても、何かを失うとしても、戦い続ける道を選んだ。
 子公にその経緯を全て詳らかにするには時間がない。
 覚悟だけを両目に灯した。子公が不敵に笑う。

「ならば、私がその目標を叶えてやろう」
「あんたが?」
「そうだ、私が、お前を将軍にしてみせる」

 ここは彼の知っている青東国ではない。西白国の常識も知らないで、「まじない」の一つも理解出来ないで何を成すのだ、と思う。
 思ったが顔には出さない。郭安州で暮らすうちにそのぐらいの分別は付くようになった。成長したのか荒んだのか。判断に困ることへ厳密な答えを求めることもやめた。
 子公が何ものかはわからない。
 わからないが、紫紺の双眸は虚言や偽りの類でからかっている風には見えない。
 だから。

「そうか、ならよろしく頼む」
「いいのか」
「何が」
「そんなに簡単に私に命運を託していいのかと尋ねている」

 その問いを聞いた瞬間、文輝は堪えきれず噴出する。
 面白い男だ、と思った。
 文輝に強気の提案をしたのと同じ顔で、不安を口にする。信じられることに慣れていないのだろう。それでも、自らの能力が秀でていることを確信している。試すような言葉を重ねるのは確かめたいからだ。
 文輝は子公の持つ人としての徳を信じられるが、子公は信じられることに怯えている。
 だから。
 信じた相手に信じてほしいのなら、誠実を貫くべきだ。重ねる言葉は一歩踏み込んだ答えがいい。同じことを繰り返しても、何度「信じている」と言っても、子公の心が動かせないことを察した。

「それで? 俺は何をすればいい? 理屈はわかっているが、実践したことはない。謀略は苦手だし、駆け引きもそれほど上手くはない。得意なのは模擬戦闘で相手を薙ぎ倒すことだけだが、それでも大丈夫か」

 駆け引きは苦手だと言った口で駆け引きを始める。
 弱さを晒すのは信頼の証だ。子公を信じている。そう示してくれる。馬鹿正直も使い方を間違えなければ立派な武器だ。その価値を二十の文輝はやっと理解した。
 だから、文輝は痛い腹を敢えて探らせる。
 腹を割って話し込んでいる場合ではない。「五」のくじを引いた文輝たちの試験は、間もなく始まる。
 だのに、子公は紫紺の瞳を見開いたまま、次から次へと涙を零している。

「おい、子公、あんたどうしたんだ。どっか調子でも悪いのか?」
「お前が、そんなだからだ」
「俺か? 困ったな、俺はいつもこんななんだが」
「構わない。お前は、そのままでいい」
「どっちなんだよ。まぁいい。あんたが落ち着くまで付き合うさ」

 目元を拭うこともせずに、ただ涙を流し続ける子公を見ていると不思議な気持ちになった。不安定なやつだなと思う。駆け引きを先に持ち出したのは文輝だし、その結果、子公の心が動いたのなら喜ぶべきだ。
 文輝の言葉の何が子公に届いたのかはわからない。
 それでも。
 不安定でそのくせ馬鹿みたいに強気なこの男を信じると決めた。
 いつか。いつかでいい。子公が身の上を語りたいと思ったときに、真実を話してくれることを期待しながら、子公の頭を優しく撫ぜた。どこからどう見ても一人前の大人なのに放っておくことが出来ない。文輝に弟がいたとしたらこんな感じなのだろうかと想像して、やめた。ほんの四半刻しか接していないが、子公はひと癖もふた癖もありそうだったし、彼は甘えるような気質ではないだろう。末っ子根性の座っている文輝に子公の面倒を見るのは不可能だ。
 そうこうしているうちに模擬戦闘の順番は回って来る。「五」の札を持った文輝たちの初戦は「六」の組だ。
 真っ赤に腫らした眦で、子公が立てた策謀を文輝が実践する。
 組み合わせと状況を変えて都合六度。国官登用試験の模擬戦闘が繰り返された。決められた陣地の奥にある壺を割るか、相手が降参の旗を上げるかするまで戦闘は続く。得物は真剣で、相手が負傷するかどうかは厭わない。文輝はこの試験を受ける為に、打ち直した直刀を持参した。その直刀を子公の指示した通りに振るう。時には文輝の機転も求められた。
 それでも文輝たちは最善を実践した。
 言葉にすればそれだけのことだったが、文輝たちの模擬戦闘は全戦全勝にも関わらず、敵方の負傷者数が最少という結果を収めた。そのことが高く評価され、文輝と子公は揃って合格。右官府兵部に配属されることが決まった。
 城下にある右尚書の出張所にその高札が掲げられる。沸き立つような気持ちで、それを子公と二人で見ていると、不意に誰かが文輝の肩を叩く。そして、本当に小さな声で「よかったな」と言ってすぐに立ち去った。二年の間があったが、文輝には誰の声か、すぐにわかった。

「暮春!」

 振り返っても、雑踏があるばかりで晶矢の姿は見えない。きょろきょろと辺りを見回して、必死に姿を探した。突然、挙動不審になった文輝に子公はただ驚いているが、その埋め合わせをする余裕は今の文輝にはない。
 雑踏を抜けて眉津の方へ駆けた。程家の屋敷があるのは反対方向だ。文輝の勘が当たっていないのなら、晶矢に追いつくことは不可能だろう。わかっている。それでも眉津を選んだ。文輝の知っている晶矢なら、程家に戻ることはしない。そんなことをすれば望郷の念に囚われて、またこの岐崔で深く傷つかなければならない。晶矢はその痛みに負けるほど弱くはないが、それでも、無視出来るほどには強くもない。
 晶矢が何をする為に岐崔へ戻ってきたのか。その理由を問わなければならないほどには文輝も愚かではない。晶矢は、文輝の運命を見定めに帰ってきた。そして、その結果を見届けたのだから、彼女にはもう何の心残りもない。文輝の知っている晶矢なら、再び国を出て、そして二度とここへは帰ってこないだろう。
 わかっていたから、眉津へ駆けた。街路のどこにも晶矢の姿はない。
 必死に駆け、眉津の船着き場で想像していたのとは違う晶矢の姿を見つけた文輝は全身で叫んだ。

「暮春! 待てよ!」

 その声に華奢な背中が立ち止まって、そしてゆっくりと振り向いた。流れるような黒髪は短く揃えられ、肩口で揺れている。西白国では見かけない意匠の服が、彼女が異国で暮らしていることを暗に告げた。穏やかな榛色の瞳には複雑な感情が浮かんでいる。二年会わない間に、晶矢はずっと美しくなった。

「首夏、久しいな」
「そう思うなら、ちゃんと会ってから帰れよ」
「おまえにはおまえの道があるだろう。わたしはそれを見届けにきただけだ」
「そうかよ」

 ああ、そうだ。
 答える晶矢は文輝の知っている晶矢で、だのに目に見えない隔たりがあるようで歯がゆかった。

「首夏、伶世殿によろしく伝えてくれ」

 わたしはわたしの役目を休んでここまで来た。もう帰らなければならん。
 何でもないことのように晶矢がそう告げる。わかっている。この国は晶矢を切り捨てた。その国の為に尽くせというのは身勝手が過ぎる。それでも、文輝はこの国を守ることを選んだ。晶矢の道とは違う道を歩いている。
 だから、文輝はここで晶矢を見送らなければならない。
 どこで暮らしているのかとか、誰に仕えているのかだとか問いたいことは山のようにある。山のようにあるのに、文輝の言葉は喉の奥で詰まって音にならない。文輝の視界が不意に滲む。泣いている、と自覚したが何の解決策も思いつかない。

「暮春」
「首夏、おまえはわたしの中にたくさんのものを残してくれた。どれだけ言葉を尽くしても、この気持ちはきっと表せないだろう」

 おまえ一人がわたしを暮春と呼んだ。その思い出と別離出来なかったのでな。
 苦笑いの晶矢が不意に告げる。

「わたしは今、『丁圃竣(てい・ぼしゅん)』と名乗っている」

 おまえがわたしにくれた名だ。皆がわたしを圃竣と呼ぶ度におまえを思い出せる。
 本音を言えば、晶矢のことは敬遠していた。生真面目で額面通りで融通が利かない。こんな堅物と一緒にいて、同じように敬遠される前に先回りして敬遠した。晶矢がそれを知らないとは思わない。文輝は晶矢の評価に見合うような男ではない。
 それでも、晶矢は文輝の運命を見届ける為につらい思い出の残る西白国へ戻ってきた。
 そのことが遠回りに彼女の充実を告げる。今、晶矢は満ち足りているからこそ、痛みと向き合っている。
 だから。

「暮春、いつかまた会おう」

 目元を拭って無理やりに笑った。晶矢が艶やかに微笑む。次に、その瞳に文輝が映る瞬間がいつ訪れるのかはわからない。それでも、別離を泣いたまま迎えたくなかったから笑う。その拙い努力が晶矢に伝わっている奇跡をいつまでも覚えていたい。つらい思い出も楽しかったことと同じように明日へ持っていきたい。
 願いを込めれば晶矢はひと際鮮やかに笑って踵を返した。髪がふわりと踊る。衣の袖が弧を描いた。その瞬間、文輝は気付く。晶矢の左腕がある。目を見開いて幻ではないことを何度も確かめて、そしてゆっくりと瞼を伏せた。

「そうだな。いつかまた会おう、文輝」

 首夏ではなく文輝と呼ばれたのは、一人前の国官として認められたからだ。どこの国に仕えているのかは結局聞けなかった。それでも、晶矢は文輝を対等な存在として扱った。生まれの早さを驕ることはもうしない。ここから先はそれぞれの道に分かれるが、それでも同じように研鑽したいという思いが伝播して、文輝の目元は再び熱を帯びる。
 それでも。
 それでも、今度は頬を濡らさずに堪える。
 小さくなっていく背中が振り返ることはない。それを納得がいくまで確かめて、文輝もまた踵を返した。そして、目元を強くこすって涙とも別離した。文輝の人生はまだこれからが本番だ。運命と戦い続けることを選んだのだから、休んでいる暇はない。
 この国で共に戦う友を右尚書の出張所の前に置いてきたことを思い出す。全てを子公に話すことは出来ないし、子公もそれを望んではいないだろう。
 それでも明日はやってくるし、文輝は子公と共に戦い続けなければならない。
 ひとまず、今は子公と合流して中城へ向かう。そこで国官として正式に登用されることから文輝の運命は再び始まる。
 文輝にとって特別で、その実ただの一日でしかない今日を忘れない。
 風が吹いている。その風を肩で切って歩く。
 今年もまた偏西風に吹かれながら、十五の中科生が中城にやってくる。せめて彼らに恥じることのない国官であることを心得えていたい。

 百官に説く。力は武に非ず。威は官に非ず。すなわち武官とは私(し)に非ず。武官とは至誠を旨とし、利を分かち、弱きに沿い、強きを戒めるものなり。常に自らを一振りの刃として努めよ。その刃は己に非ず。もし過ちて刃を振るわば我ら進みてその首を刎ねん。百官に説く。武官は私に非ず。何時(なんどき)も忘るることなかれ。

(了)

それは、風のように<十六>

十六.
 視界は黒一色で埋め尽くされている。自分の四肢も見えないが、特に不安を感じるわけでもない。暗闇の中をただ浮かんでいるような感覚に浸っていると、どれだけの時間が経ったのかもわからなかった。
 ここがどこだとか、そういった現実的な疑問は不思議と持たなかった。何かに例えるのなら、生まれる前に母親の腹の中で似たような感覚を味わったような気がしている。
 その、安堵すら覚える空間に辿り着くまでの経緯はかろうじて覚えていた。正論という名の暴力で文輝(ぶんき)は大人たちを煽ったのだ。その結果、退くに退けなくなった大仙(たいぜん)が凶行に及ぼうとしたのを何とか防いだ。大仙が標的とした戦務長(せんむちょう)の身こそ無事だったが、力の足りない文輝には全てを守ることは叶わなかった。大仙の短剣が胸に突き立ったときの衝撃をぼんやりと思い出した。
 思い出して、やっと、文輝はこの暗闇の正体に心当たりがついた。

「死んだのか、俺」

 光は射し込まない。文輝の両目はもう二度と開くことがないからだ。
 人の身体には精神を司る魂(こん)と肉体を司る魄(はく)が宿っている。文輝の意識がここにあるということは魂はもう身体を抜け出たのだろう。魂と魄が別離した以上、四肢が目に映らないのも当然だ。文輝の魂はもう魄とは別の場所にある。肉体は早晩朽ちゆくだろう。
 魂は巡るという。このまま無限にも近い暗闇を彷徨って、そのあとどこに辿り着けば、終わりになるのかは知らない。死んだ人間が再び起き上がったという話は聞いたことがなかったし、多分、文輝はその一人目になれないだろう。神は――白帝(はくてい)は如何なる場合においても自らを投げ出すものを祝福しない。戦務長を庇う為とはいえ、文輝は大仙と刃を交えることなく、自らの身体を「鞘」にした。武官としては勿論、武官見習いとしても最低の選択だ。
 奇跡が自らの身に起きる可能性は皆無だったし、怪異の類には興味がなかったから、経典でしか死後の世界について知っていることはない。
 それでも、何とはなしにここが終焉の在処なのだと察する。
 西白国では生まれた年を無事に過ごし、新しい年を迎えられたことを祝って年齢とする習慣があった。夏の初めに生まれた文輝はあとひと月半、無事に生きていたら十八になれた。それが叶わないことを茫洋と知って、自分の十七年を振り返る。それが長かったのか短かったのかすら文輝にはわからない。
 過ぎ去ったものは戻らない。形あるものはいつか失われる。
 そのあとで悔いるのは、虚しいだけだ。
 わかっている。それでも、虚しさを抱えてでも守りたいものがあった。その為に命を賭したことまで否定するのだけは嫌だった。
 そんなことを一人で考えていた。どのぐらいそうしていたのかはわからない。
 眠っているのか起きているのかも判然としない闇の中から、不意に文輝を呼ぶ声が聞こえた。

「小戴(しょうたい)」

 どこか聞き覚えのある声だった。呆れているような、感心しているような何とでも言えるような声音に、文輝は四方を見る。自分の身体すら見えないのに、相手の姿が見つかる筈もない。わかっているが、それでも探してしまった。
 聞きたかった声だ。この声の持ち主に、尋ねたいことがある。そう直感するのに記憶は回答を示さない。もどかしさを抱えながら、文輝はもう一度四方を見渡した。
 そうこするうちに、一度目よりも近くで声が聞こえる。

「小戴、俺を探しているのか」

 目で探そうとするな。と声の持ち主が言う。言葉の意味がわからなくて困惑した。それでも、答えを知りたくて声の忠告をどうにか噛み砕く。文輝の目に映るのは黒一色だ。どうせ何も見えないのだから、と瞼を閉じる。肉体から離れた魂に瞼という概念があるのかはわからなかったが、今までそうしてきたように、そっと目を伏せた。暗闇の世界は変わらない。
 三度目の声が聞こえる。

「小戴、俺はお前の目の前にいる」

 もう見える筈だ。声に導かれるように記憶が鮮明になる。この声は、この温かみは、この憂いは陶華軍(とう・かぐん)のものに相違ない。
 何もかも一人で背負って、何の説明もせずに壮大な遺書を残して、一方的に消えてしまった。華軍が何を思って手の込んだ自殺をするに至ったのか。遺書はそれを弁明したが、文輝は今も納得が出来たわけではない。
 数えきれないほどの不条理と憤りを残していった。
 それらの全てを解決することが不可能でも、文輝はまだ華軍に問いたいことが残っている。
 閉じていた瞼をゆっくりと開く。声が告げた通り、生前の姿をした華軍が暗闇の中で立っていた。

「華軍殿」

 ぽつり呟くように声が漏れる。警邏隊(けいらたい)戦務班(せんむはん)で過ごしていたときと何ら変わりない華軍の姿に、どうしてだかはわからないがひどく安堵した。胸につかえていたものがすっと消えるような感覚を味わう。憤りがなくなったわけではないが、それよりも安堵の方が大きかった。
 死者に再びまみえることは出来ない。
 だから、これは夢か幻か、文輝の願望だ。死してなお、何かを望むことがあるのだ、と思うと不思議なものだった。
 それでも。生きることが叶わないのなら、せめて尋ねておきたいことがある。

「小戴、そう身構えるな。俺は何もお前を殺しに来たわけではない」
「既に命のないものを再び殺めることが出来る、と思わない程度には俺にも学があります」
「死ねば巡る。幾度巡れば終わりになるかはわからんが、その流れから弾き出されれば終わりは二度と来ない」
「『礼経(らいきょう)』ですか」

 「礼経」というのは所謂「五書(ごしょ)」の一つで礼儀、作法を通して宗教観を著わしたものだ。葬儀についての作法を示した段に、死者を送る心構えとして華軍が先に言ったようなことが記されている。武官にはあまり縁がない内容であり、文輝は知識として理解しているが、信じているのかと問われると返答に困る。
 その、一般論を説いた本人も別段信じている風ではなかったから、世間話なのだと判断した。

「華軍殿、自ら命を投げ捨てたものも、巡ることはあるのですか」
「さてな。俺は、次に期待して命を捨てたわけではない。巡れずとも後悔もない」

 ただ、生きているというだけでつらかった。その気持ちから離れたかった。それだけだと華軍は訥々と語る。その途中で、手の込んだ自殺に文輝を巻き込んだことを詫びられる。
 謝罪の言葉が聞きたかったのではない。
 意図せず、同じような境遇に陥ったことに同情をしてほしいわけでもない。
 ただ。

「俺が十年早く生まれていれば、何かが変わりましたか」

 岐崔で起きた動乱をただ見ているしか出来なかった。もっと早くに華軍や戦務長と出会えていれば結果が変わったかもしれない。もっと穏やかな解決策があったかもしれない。
 そう思うと言葉が口から零れた。他意はない。仮定を積み重ねても結論は変わらないし、失ったものは戻らない。知っていたが、文輝がそれを思い出したのはありもしない耳朶で自らの声を聞いた後だった。
 文輝の短慮を聞いた華軍は複雑な表情を見せる。

「お前は何も変わらないんだな」

 文輝が華軍に初めて出会ったのは十七の春だ。警邏隊戦務班に配属になって、そのときに通信士として紹介されたのが華軍だった。利発そうな風貌とやや寡黙なところが釣り合っていて、二十代で岐崔の通信士を務めているの英才だけのことはある、と勝手に納得した。勝手に納得して、その日以来、文輝は寡黙な華軍の言葉を引き出そうとあれこれ話しかけた。文輝が一人で語ることの方が多かったが、それでも必要最低限の相槌は返ってきたのだから、会話は成立していた。今でもそれは疑っていない。
 国の未来、国官のあるべき姿、九品として背負う重み。女官たちが用意する昼食の好悪、日々色を変える天候や風の表情。
 会話の一つひとつを覚えているわけではない。それでも、数えきれないほどの言葉を交わした。
 その全てが偽りだったとは思いたくない。
 それでも。
 華軍は文輝と同じものを見ても、同じようには感じていなかったことを知ってしまった。
 悲哀と憐憫と侮蔑と憤怒を矛盾なく孕んだ華軍の声色が語る。文輝の浅慮な問いが、また一度、華軍を傷付けてしまった。

「小戴、お前はいつもそうだ」
「何のことでしょうか」
「自覚がない、というのが最も残酷な罪であることをお前は知らない。正しさがそんなに大切か」

 身を切るような切実さを帯びた声が文輝に届く。何を問われているのか上手く咀嚼出来ない。
 正しさとは不変のものだ。十七年間、そうであると信じて文輝は生きてきた。
 物事は多面的な要素を持っているが、正否だけは変わることがない。
 だから、正しくあるように自戒することを自身に強いている。そうしているのは、文輝だけではない。九品に生まれたのなら等しくそうあるように教育される。

「無知が罪であるのなら、それは俺の不徳です。正しさを守ることとは矛盾していない、と思うのですが違うのですか」
「ならばお前に聞こう。正しければ誰かを傷付けてもいいのか。正しさというのは人の思いよりも大切なものか」

 突然に提示された命題の証明に戸惑う。正しくあるべきだと育てられた。偽りだらけの「五書」を真剣に信じてきた。その価値が揺らいでも、文輝の中には正否の基準だけが寸分違わずに残っている。
 だから、正しいことと誤っていることとの線引きは行われて当然だ。
 人の思い、というのが何を指すのかは判然としないが、正しいものは報われ、誤りは正されるべきだ。

「不正を肯定する感情などない、と俺は思います」

 華軍の双眸が文輝を射る。そのあまりにも鋭い輝きに文輝は息を呑んだ。それぐらい、華軍は真剣に文輝と対峙していた。
 辛辣な言葉が、戸惑う文輝を更に襲う。

「ではお前は飢えた貧しい子どもに『金がないのは自らの不徳。それを受け入れ、飢えたまま死ね』と言えるのだな?」
「いいえ。そのようなことは言いません」
「では何とする」
「感情の好悪に拘らなければ、日銭を稼ぐ方法がある筈です。それをしないで、飢えるのはただの怠惰ではないのですか」
「怠惰、か。やはりお前は何もわかっていない」

 何もわかっていない、と頭ごなしに否定されるつらさをわかっていないのは華軍の方だ。そう反論したかったが、華軍の眼差しがそれを許さない。否定されて、悔しい思いをしているのは文輝の方なのに、華軍の方がずっと傷付いた顔をしている。

「小戴、お前は飯を食うのに困ったことなどないだろう」

 今宵の寝床がない不安と対峙したことは? 寒さに凍える夜を過ごしたことは? その今日が明日も明後日もいつまでも続く絶望を知っているか。
 矢継ぎ早に問われる言葉に返す答えがない。九品に生まれた文輝は十七年間、衣食住に何一つ困ることなどなかった。
 それでも、市井のことは知っている。知っていると思っていた。
 文輝が知っていた市井は岐崔の城下だけだ。岐崔の安寧が作られたものだとわかった時点で、その知識には不足がある。
 この世界には文輝の知らないことの方が多い、ということを動乱を経てやっと知った。
 遅すぎるのはわかっている。文輝の持論に照らせば、知ったのなら今から現実と理想との間にある隔たりを埋める努力をしなければならない。
 文輝の顔に今、何が映っているのかを文輝自身が知ることは、今までは勿論、これからもない。向き合った相手だけがその答えを知っている。
 だから。
 文輝の表情から華軍が何を受け取ったのかは推して図ることしか出来ない。文輝の持論を通すのならば、それが最低条件だ。
 自らの至らなさを知った文輝に、華軍が鋭い声を浴びせる。

「もう一度聞く。小戴、正しければ何をしても許されると思っているのか」

 この世界の全てを善と悪の二つに分けて、少しでも悪の部分があれば反論をすることすら許さないのか。それが、本当に正しいことなのか。心の底からそう思っているのか。
 何度も、華軍自身へすら確かめるように問いが重ねられる。
 何かを答えなければならない。胸に去来した感情を口にしようとして、それが正しい答えなのか、と自問する。それもまた自己満足と知って、文輝は自らの小ささを知った。

「わかりません」
「わからないということはないだろう。お前のしたことだ。お前が、どう思っているのかぐらい、お前にもわかるだろう」
「本当に、わからないのです」

 軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)で習ったことの多くは偽りだったと知った。岐崔の外の世界は美しく整っていないことも知った。
 文輝の世界を満たしていたことの多くが真実ではなかったと知って、それでもなお、持論を曲げずにいることが正しいのかどうかがわからない。
 わからない、と答えるのが精一杯で真実なのに、華軍の声は追撃でもするように、曖昧な答えを許さない。
 そして、また一つ、文輝は知った。
 正論で人を詰るのは、無抵抗の相手を刃で斬りつけるのと何ら変わりがない。血は流れない。身体は何も失われない。それでも、感情は――心はひどく傷つけられる。正論を浴びせた相手が、自らの不徳を知りながら、それでも現実と折り合いをつけていたのなら、その程度はなおさら酷いだろう。
 文輝が自らの信じた正しさを押し付けた二人の君主もまた、傷付いていたということをやっと知って、その罪深さの前で蹲ってしまいたい衝動に駆られる。
 反論をしないのではない。出来ないと知っていながら、言葉を重ねた。自らが正しいと信じていたから出来た。文輝の振りかざした正論の中には人の感情が欠如していた。相手を思いやる気持ちが足りなかった。
 後悔が少しずつ文輝の中に満ちてくる。
 自らの思う正しさを、そのまま相手に求めるのは本当に正しいことだったのだろうか。
 表情が曇っていたのだろう。華軍が語気を緩めた。

「小戴、これで最後だ。本当に、正しければ何をしても許されるのか。それはお前の言う悪と一体、何が違う」

 何も変わらない。寧ろ、文輝が裁いた悪よりも性質が悪いとすら言える。

「信じるものが違っているだけ、なのでしょう」
「お前の十七年には全てが揃っているのか」
「いいえ。足りないものばかりでした」

 若かっただとか、青かっただとか、言い訳は幾らでも出来る。その余地を許さずに一方的に詰った文輝がどれだけ人としての徳を欠いていたのかは、これ以上華軍に指摘されずともわかる。
 何が九品だ。何が国官だ。何が理想だ。
 文輝はその土台に立つことすら出来ていない。まず、人として不全だった。
 そのことを、全てが終わった後に知っても何も出来ない。後悔をするのさえ自己満足だ。次に活かす機会すら与えられていないのだから、何も取り返すことなど出来ない。
 あまりの不甲斐なさに囚われて、呆然と華軍を見た。
 多分、今、姿が見えているのなら、文輝は泣き出しそうな顔をしているだろう。
 華軍の眼差しから鋭さが消えないまま、声色が不意に優しさを帯びる。

「小戴、お前はお前がしたことの報いを受けるべきだ」
「永遠に巡るな、とでも仰りたいのですか」

 今の文輝にはそれぐらいの罰しか思い浮かばない。
 この暗闇の中を永遠に漂え、と言われたのだと受け取った。
 その文輝を華軍は鼻先で嗤う。

「寝言は寝ているときだけにしろ。次の命など本当にあるのか、俺は信じていない」
「でも、華軍殿は確かに亡くなられたのに、こちらにおいでです」
「そうだな。魂という存在が本当にあったことには俺も驚いている」

 あのとき。夕暮れの白帝廟(はくていびょう)で文輝の直刀は確かに華軍を刺し貫いた。その感覚をまだ忘れてはいない。
 それでも、華軍は言う。

「俺はもう手遅れだが、お前はまだ間に合う。それに」
「それに?」
「俺はお前に生きて、苦しんで、悩ませる復讐を望んでいる。その身でお前がしたことを一生悔いながら、現実と向き合え」

 だから、お前はもうここにいてはならない。
 言って華軍が一歩、二歩と文輝に近づいてくる。
 そして、華軍の手が文輝の胸をとん、と押した。身体が後ろに傾いたと思ったら、どこか高い所から落ちるような感覚が生まれ、華軍があっという間に遠ざかる。
 待ってほしい。
 まだ話していたい。文輝の何が至らなくて、何をどう直すべきなのかを尋ねたい。
 そう思うのに華軍の姿は闇の中に消えた。
 そして。

「華軍殿!」

 地面に叩きつけられる感覚と共に文輝は華軍の名を呼ぶ。視界が明るさを取り戻す。ただ白かっただけの世界が、不意に焦点が合うように実像を結ぶ。見たことのない天井が視界に映った。
 ここはどこだろう。
 四方を見渡そうと首を動かす。先ほどまでとは違い、思うように視界が回らない。難儀しながらも、文輝は横を向いた。
 白い布が敷かれた寝台の上に横たわっている、と気付くと同時に、視界に流れるような黒髪が映る。黒髪越しに白んでいく空が見えて、朝焼けだ、とぼんやり思った。黒髪の持ち主は文輝が横たわる寝台に突っ伏して眠りの中にいる。誰だろう、と思うと黒髪が床に流れ落ちた。
 そして。

「首夏(しゅか)?」

 薄っすらと開いた榛色の双眸が文輝の視線と交錯する。「暮春(ぼしゅん)」と呼んだつもりが声にはならなかった。それでも、文輝がそこにいることを見て取った晶矢(しょうし)の榛色がこれ以上ないほど見開かれて、そして弾かれたように彼女が部屋を飛び出していく。視界の片隅に美しく弧を描く平服の袖が焼き付いた。ぱたぱたと軽い足音が廊下に出て、あっという間に遠ざかり、そして音の数を増して戻って来る。

「文輝殿!」
「文輝、目が覚めたんだな!」

 晶矢に先んじて長兄の妻である玉英(ぎょくえい)医師と次兄が部屋に飛び込んできた。
 玉英は持参した道具で、手際よく文輝の診察を始める。呼吸、脈拍、心音。それらが整っていることを確認して、彼女は寝台に投げ出された文輝の右手を握った。人の体温に触れて、その温かさに懐かしさを感じる。握られた右手を、文輝もまた握り返した。

「大義姉上(あねうえ)」

 唇を動かすと、今度は掠れながらも音が出る。それを聞いた玉英が文輝の右手をそっと解く。そして、彼女は後ろに控えていた次兄に「もう大丈夫ですよ」と言って立ち位置を入れ替える。文輝の枕元に立った次兄は顔中を安堵に染めて、そして、一切の遠慮なく、文輝の頬を平手打ちした。乾いた破裂音が部屋中に響く。文輝は衝撃やら、痛みやらで何が起きているのかよくわからない。晶矢が慌てて次兄の名を呼んだ。それでも、次兄は穏やかな顔のまま静かに檄している。将軍位を持つ武官の平手打ちが痛くない筈がない。口の中に鈍い味が広がっている。その痛みを必死に堪えたのは何も分別があったからではない。表情一つ変えずに激怒している次兄を見るのが初めてで、言葉では表せないほど怖かった。

「文輝、お前は自分が何をしたのかわかっているな?」

 平静そのものの声が聞こえて、文輝は自らの失態を振り返る。国主と宰相に対して礼を失した行動を取った。それが九品、戴家の公式見解になるが構わないかと問われて、次兄が責任を請け負ってくれた。請け負ってくれたのをいいことに、文輝は思う通りにした。
 正しいと思うことをしたが、それは文輝の独善だったと闇の中で華軍に諭された。
 だから、戴家に迷惑がかかったのだ、と察する。
 どれだけの影響があったのだろう。
 次兄がこれだけ怒っているのだから、相当のものだ。もしかしたら、家名断絶ぐらいの罰が下ったのかもしれない。
 返答を待っている次兄に、恐る恐る、文輝は答えた。

「独善で、国のあるじたる方に無礼をはたらきました」
「違う」

 平坦に否定される。次兄が答えをくれる様子はない。痛みを噛み締めながら次の答えを紡ぐ。

「武官見習いの領分を超えた言動をいたしました」
「それも違う」
「では、大義姉上のお立場を考えておりませんでした」
「文輝殿、それも違います」

 自分の立場などどうということもない、という答えが玉英から返る。では何だ。これ以上答えは思いつかない。苦しくなって口を噤む。次兄がすっと右手を上げた。もう一度平手打ちを受ける、と思い瞼を強く閉じる。
 だが、痛みはやって来ることなく、温もりが文輝を抱え込んだ。
 文輝の肩口が不意に湿度を帯びる。冷徹な将軍の顔を捨てた次兄の目元から次から次へと涙が零れている。潤んだ声が、文輝の耳に正解を伝えた。

「この馬鹿弟! どうして自分から死ににいくような真似をしたんだ! 義姉上(あねうえ)がどんなお気持ちでお前の治療をしたと思ってるんだ! ふた月もお前が目を覚まさなくて、母上がどれほど苦しまれたと思っている!」
「小兄上(あにうえ)、俺は」
「正しさの為に命を棄てて、その結果は誰が引き受けるんだ! 人を助ける為にお前が死んて、それで誰かが救われるのか!」

 俺はそんな正しさはいらない。涙声が訴える。
 その段になって、自分がしたことの大きさを知った。華軍の言葉が不意に耳に蘇る。お前がしたことを一生悔いながら、現実と向き合え。聞いた時には意味が分からなかった。その意味が少しずつ身に染みる。
 文輝の身勝手な正しさが、文輝が思っている以上に多くのものを巻き込んでいた。国を守る為の武官が、命を投げ出して命を守ることを否定されるとは思わなかったが、文輝の肩口で嗚咽する次兄の姿もまた現実なのだろう。多分、この国の武官の家族は誰しもこの思いと背中合わせなのだ。失われていい命などどこにもない。
 その人として当たり前の感情の機微を、脆弱と切り捨てるのは武官である以前に人として大切なものを欠いている。それを欠いた武官に、何かを守る資格はない。自らの背に乗ったものを守ってはじめて、誰かを守れる。

「戦務長はどうなったのですか」

 文輝が命を懸けて守った相手は救われたのだろうか。文輝が助かったと聞けば安堵してくれるのだろうか。
 そんな期待を込めて次兄に問う。
 抱え込んでいた両腕が解かれ、寝台に横たえられる。距離を取った次兄が目元を袂で拭って答えた。

「劉子賢か。ひと月半以上に亘って不正の証言をし終え、七日前に自刃することが許された」

 それは戦務長がもうこの世界のどこにも存在しないということだ。死罪――それも斬首の罪を科せられる筈だったが、不正を詳らかにすることで減刑が認められたのだろう。自刃が認められたのなら、戦務長は自らの尊厳を保ち、人として死ぬことが許されたということだ。斬首されれば墓を作ることも許されない。野晒しにされ、朽ちていくのを待つだけだ。だが、自刃ならばいずれ墓が作られるだろう。今すぐでなくともいい。いつか、その墓前に参りたいと思った。
 そんなことを考えていると、怒りの表情を消した次兄が苦笑する。

「目が覚めて、真っ先に聞くのが上官の安否か」

 ここがどこか、とか、母上がどうされている、とかそういうことは聞かなくていいのか。暗に問われた内容に、ではお聞かせください、と返す。

「城下の大火で戴家の屋敷は半焼した。お前の部屋も荷物も焼失した。妻が至らず、すまなかった」
「小義姉上(あねうえ)の所為ではございますまい」
「東部から兄上が戻ってこられ、今は屋敷をはじめとした城下全体を復興している途中だ。中城も荒れ、右官府(うかんふ)の医務班(いむはん)はどこも満床でな。ある方のご厚意で王府(おうふ)の一室をお借りしている」

 見覚えのない天井の正体はそこで知れた。王府に立ち入ることが出来るのは国主や宰相(さいしょう)などを除けば、国主の私兵である銀師(ぎんし)だけだ。晶矢の母が銀師の将軍を務めている。彼女の口添えなのだろう。でなければ、文輝の縁故でない晶矢がこの部屋にいられる理由がない。
 聞き間違えでなければ、文輝はふた月の間眠り続けていた、と次兄は言った。
 そのことをぼんやりと理解して、綿入れが掛けられていることにようやく気付く。
 窓向こうに寒梅がぽつぽつと花を咲かせていた。

「母上はご無事ですか?」
「ご無事でなければ、俺はここにいない」
「なるほど、その通りですね」

 次兄の妻の気配りもあり、軽度の火傷一つ負っていない、と告げられて文輝は胸を撫で下ろす。戴の屋敷には思い入れのあるものが数え切れないほどあった。それらが失われたのは残念だが、命あっての物種だ。家族が無事であれば、物品はいつかまた別の思い入れが出来る。
 今は誰一人命を失わなかったことを喜ぶべきだ。
 そう思い、気持ちを切り替える。

「大仙(たいぜん)殿はどうしておられますか」
「朱氏(しゅし)殿が主位を奉還された。それに伴い、新たな主上が即位された、と言えばお前にもわかるだろう」
「間諜の職を辞された、のですか」
「主上は引き続き仕えてほしい、と仰られたが、激情に流されたとはいえ、王弟に刃を向けた罰は負わねばならない、と頑なだったぞ」

 自らの使命に忠実で、盲目的に朱氏景祥(けいしょう)を崇拝していた。大仙らしい幕引きだ、と思うが同時にどこか勿体ないという印象を受ける。誰が新しい国主になったのかはわからないが、国主として未熟であれば、熟練の配下を望むだろう。大仙がそれを理解していないとは思わない。思わないがゆえに、文輝は大仙の言外の望みを知った。彼は、この国が一から出直すことを望んでいる。旧態の一部である大仙が居残ったのでは、意味がない、と思ったのだろう。

「今はもう、西白国(さいはくこく)を出て、東へ向かったと聞いている」
「そうですか」
「他にも聞きたいことはあるだろうが、お前が目覚めたら即時知らせよ、というのが主上の命だ。阿程(あてい)が今、知らせに行った。もうじき参られるゆえ、無礼のないようにな」

 言って、次兄は踵を返した。診療道具を手早く片付けた玉英が立ち上がり、その背を追う。二人が部屋を出ていくのと、ちょうど入れ違いで剛とした声が聞こえた。

「主上のおなりである」

 その声に条件反射で上半身を起こし、拱手する。小さな足音と衣擦れの音が響く。
 そして。

「小戴殿、ご無事でようございました」

 凛とした、聞き覚えのある声に驚いて顔を上げる。
 半年間、親しんだこの少女の声を間違える筈がない。

「――伶世(れいせい)」

 拱手が解け、ぽつりと字を呼ぶ。付き人から「主上の御名を呼び捨てにするとは何ごとか」と叱責が飛んだ。伶世がそれを手のひらで制する。付き人は不承不承という体で口を噤んだ。
 伶世が寝台の横までやってくる。
 よく見ると、伶世は戦務班にいた頃には見たこともないような美しい衣を纏っている。そのことが、文輝の知っている伶世をどこか遠くへ押しやってしまったかのような感覚を生み、僅かながら距離感を覚える。

「お前が新しい国主様か」
「朱氏殿と劉校尉(こうい)のお二人ともが、揃って土鈴を奉還されたことはご存知ですか?」
「小兄上の口ぶりから、そうなんだろうなとは思っていた」
「白帝(はくてい)陛下は土鈴をお受け取りになったそうです。それを聞いた皆、太子殿が後を継がれる、と思っておられたようなのですが、土鈴を授かったのは私でした。何の前触れもなく、人の名が視えるようになる、というのはあまり心地のよいものではございませんね」

 苦笑交じりに伶世が言う。
 その苦笑いまで格式高いものであるかのように感じて、文輝は伶世に何を言えばいいのか戸惑う。伶世にとっては、このふた月で既に慣れたことなのだろう。若干の疲労感を滲ませながら、「戴耀(よう)殿」と名を呼んだ。「真実の証明」で土鈴の音が文輝の耳に響く。親以外に名を呼ばれたが、不快感はない。寧ろ厳粛な気持ちにすらなる。
 そこまでされて、文輝はようやく伶世が国主の位を継承したことを受け入れた。

「主上、と呼んだ方がいいのか」
「人目のあるところではそうしてくださいませ。今は、まだ「ただの伶世」でおりとうございます」
「そうか」
「ですから、私もまたあなたのことを小戴殿とお呼びします」

 嫌悪感がないとはいえ、鈴の音を常に聞かせたくはないのだと文輝は察した。そういう細かな気遣いの出来るところは何一つ変わっていないのだと知る。それでも、伶世はもう多くのものを失って、その代わりに別のものを両肩に載せている。

「城下には戻ったのか」
「いいえ。朱氏殿の娘であると知って、どんな顔をして父母に会えばいいのか、わかりませんでした」
「それでも、お前の十六年間は城下にあっただろ」

 物心がついた頃から見ていた景色は城下のものだ。景祥が得た唯一の娘を政略の駒として用いることを倦厭して、信頼出来る豪農の夫婦に預けた。そもそもはそれが誤りだったのだろう。国主は人であると同時に人ではない。平民の持つ、親としての感情で判断することは許されなかったが、景祥はその誤りを選んだ。
 字を視る目を失った時点で、景祥や宰相にはいずれ遠くない未来に動乱が起こることがわかっていた。わかっていたから、伶世を引き取るのではなく、ただの農家の娘として嫁がせるように指示した。
 それらのことの全てを知って、平然と育った家に戻ることなど出来ない、と伶世は言う。
 伶世が真実を知ったことは養父母にも伝わっただろう。十六年間、実の父母として慕っていた相手に叩頭される、というのがどれだけ伶世の心を傷付けるのか。文輝には想像することも出来なかった。
 それでも、伶世の十六年間は確かに城下にあった。
 それを否定するのは、景祥や戦務長が犯した過ちと何ら変わりがない。
 わかっている。文輝を育ててきた教養が音を立てて崩れたのより、伶世の受けた真実の暴露の方がよほど重大だ。十六の伶世に、国主の座を突然継ぐことになった彼女に、大局的な判断を完璧にしろというのは無理がある。
 それを求めても何にもならない。正しさだけでは人は救われない。
 文輝もまた、同じ過ちを繰り返そうとしていることに気付いて、慌てて口を噤む。
 伶世が、人というのはそう簡単に変われるものではありませんね、と苦く笑った。

「方(ほう)家で暮らした十六年間は、目を開けたまま見ていた夢だと思うことにいたしました」
「許嫁はそれで納得したのか」
「小戴殿。九品の子息であるあなたにはわかっていることではございませんか?」

 わかっている。環(かん)の色と貴石の大きさという尺度は身分と言う目に見えない隔たりを持っている。伶世が持つ、本当の環に見合うかどうか。だなんて考えるまでもない。岐崔(ぎさい)の城下でどれだけの力を持っていたとしても、黒環(こっかん)では国主と婚姻することは出来ないだろう。
 自由と実力主義を謳うこの国が、如何に多くのしがらみを持っているのか、ということを茫洋と知って、文輝は自らの無力さをまた痛感した。

「さて、小戴殿。私がこちらへ参ったのは何も思い出話をする為ではございません」
「俺の処遇を知らせる為、だろ?」
「臣下の処分を国主自ら通達するべきではない、と前宰相殿は仰られましたが、私は自らが下した賞罰をきちんとお顔を見て、お知らせしたい、と思っております」
「家臣の顔色窺い、じゃないならいいんじゃないか」

 誰の顔色も窺わず、誰を贔屓することもなく、それでも誠実でありたいと願うのなら、その道は決して容易いものではないだろう。
 それでも、伶世は自らの意志で自らの治世の方針を決めた。今の彼女にはそうすることしか出来ない。そして、その結論の持つ責任を負おうとしている。
 ならば、文輝はこれ以上、賢しら顔で意見を押し付けるべきではないだろう。
 伶世の言葉を待つ。
 不意に真名が呼ばれた。凛、と土鈴が鳴る。
 そして、沈痛な面持ちで伶世は告げた。

「戴耀(よう)。そなたには岐崔の修科(しゅうか)へ進むことを許さぬ。このまま、国官として中城に残ることも許さぬ」
「市井に下野せよということか」
「郭安州(かくあんしゅう)の新しい州牧(しゅうぼく)が、そなたの身を引き受けると申しておる。二年間、関の外で学ぶとよい。その後、国官に復帰することを望むのであれば、正当な手続きを経よ。そうすれば、官吏登用試験を一度だけ受けることも許す」

 そなたへの処罰は以上だ。
 確認したいことはございますか、と問うた伶世は国主の顔をしていなかった。文輝の知っている女官見習いの伶世のまま、眦が細められている。彼女は今、文輝の答えを待っている。未来が閉ざされて、歩いていく筈だった道のりを塞がれて、それでもなお志を折らない、そんな答えを待っている。

「もし、その一度で落第すればどうなる」
「戴の名とその環の両方を還してもらう、ということになりました」

 難しい道とは思いますが、どうされますか。今ならまだ、隣国へ亡命する手助けをすることも吝かではない、と私は思っております。
 厳しい道とそれよりは少し易い道が示された。どの道にも多かれ少なかれ苦難が待ち受けているだろう。
 だから。

「伶世、二年後にまた会おう」

 必ず帰って来る。栄誉がほしいのではない。俸禄がほしいのでもない。それでも、偽りだらけでもこの国を守りたいという気持ちはまだ消えていない。
 躊躇いはあったが、処遇を受け入れた。可能性が全て消えたのではない。文輝は努力しさえすれば、全ては失わない。
 だから、伶世に答えを返した。彼女はそれを見て、一瞬だけつらそうな顔をしたが、結局は穏やかに微笑んで、言った。

「では、小戴殿。二年後にまたお会いしましょう。そのときには、どうぞ心置きなく『主上』とお呼びください」

 そして彼女は踵を返し、衣を翻して部屋を出て行く。
 寒梅が窓の向こうで風に揺れた。

それは、風のように<十五>

十五.
 武というのは力だ。
 ときに人を強い、ときに人を縛り、ときに人を傷付け、ときに人を殺める。
 同時に人を守り、人を助け、人を豊かにもする。
 だから武を用いるのに慎重すぎるということはない。
 軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)で飽きるほど繰り返される教訓に、文輝は何度頷いてきただろう。初科で習うことが全てだとは思わない。それでも、教え込まれた訓話は文輝の人格形成に大きく影響した。
 戴(たい)家の方針は放任主義だ。自らのことは自らに任せる。学舎では必要最低限の成績を収めていれば、特に何も強制されない。座学が苦手だった文輝は武芸の鍛錬にばかり打ち込んでいたが、それとて何か注意をされたこともなかった。
 武の神髄を極める、だなんて嘯いていたわけではないが、武芸の鍛錬だけは不思議と苦にならなかった。怪我をしたこともある。思うようにならなくて情けなかったこともある。年上の初科生相手に散々に打ち負かされて泣いて帰ったこともある。
 その一つひとつが積み重なって文輝は中科(ちゅうか)で赤環(せきかん)を賜った。
 その日から、文輝は武を嗜む子どもではなく、武官見習いになった。
 力は武に非ず。されど武というのは力だ。
 十五の文輝には納得が出来ない部分もあった。それでも、国を守る国官になるという志を掲げた以上、迷うことは許されていなかった。
 わかっている。
 十七になっても、十八になって修科(しゅうか)に上がっても武官が迷うことは許されない。
 それでも、文輝の心は今、揺らいでいる。
 神の威を借る国主、その真偽を問うた戦務長(せんむちょう)。二人、どちらの見方をするでもなく、どちらの威圧に屈するでもなく、震える両足を無理やり立たせて文輝は禁裏に問う。

「思うに、戦務長。あなたが人の字(あざ)が視える力を得たのと前後して、主上からその力が失われたのではありませんか?」

 西白国(さいはくこく)を守護する白帝(はくてい)。その加護を受けた証として国主には万民の名が視える。そしてその名を国主が口にする瞬間にだけ土鈴の音が鳴る。
 その音は、白帝から授かるという「まじない」の才を行使するときに鳴る音とは決定的に違う。違うがゆえに、「才子」としての教育を受けたものには、どんな説明よりも雄弁に国主の正当性を物語った。
 だから。

「字が視えるようになった頃とあなたが国官に昇進した頃、というのは多少のずれはありますが、概ね一致している。その頃にはあなたの中に、もう抑えきれないほどの国政に対する不満があった筈だ」

 その不満を最初に聞くのは誰だ。副官か通信士(つうしんし)だ。通信士は必ず「才子」だから、戦務長が字を呼んだ瞬間に土鈴の音を聞いたのは想像に難くない。そうなれば、通信士はこう進言するだろう。あなたは国主たるべき存在だ。最初の数度は意味もわからず、受け流したかもしれない。それでも、幾人もの「才子」から異口同音に繰り返し進言を受ければ、その意味を真剣に取り沙汰すようになるだろう。まして、戦務長自身が異母弟とはいえ先王の血を受け継いでいると知っているのなら、真実味は何倍もあった筈だ。
 郭安州(かくあんしゅう)で生を受けた戦務長はその目で関の外の惨状を見ている。安定しない季候、何重にも課される租税。食う寝る生きるに数えきれないほどの苦痛を伴って満たされることなどない。だのに地方官たちは横柄にふるまい、民草の持つ僅かな希望を刈り取っていく。絶望がそこにあった。

「小兄上(あにうえ)、右尚書の調べは終わったと言われましたね?」
「概ね、何があったかは把握している。劉子賢(りゅう・しけん)の罪状には情状酌量の余地がある。お前たちが担ぎ上げた『偽王』を救いたいのであれば協力しろ、と言わねば誰も口を開かなかったがな」

 貴官の弁舌が長けていたのか、それとも「才子」たちが僅かな希望に縋りたかったのか、あるいは貴官にそれだけの徳があるのか。多分、それらが全て相乗的に作用したのだろうな。言った次兄の顔には複雑な表情が浮かんでいた。

「貴官には名がない、というところまでは調べた。俺の不勉強だったが、国主の直系には名がないのだそうだな。そちらの姫君――伶世(れいせい)殿には名があるようだが、真名ではない」

 そうですね、閣下。
 不意に次兄が話の矛先を宰相に振る。国家権力を一笑に付す次兄に対して、憤りを隠さないまま宰相は返答した。

「名は預かり親が勝手につけたものであろう。戸籍簿上、必要な項目であるからな」
「お待ちいただけませんか、宰相閣下。私はこの身に隠された大きな秘密について理解が追いつきません。どうして私なのです」

 名は体を表す。名は二親とあるじ以外に呼ばせないというのが白氏(はくし)の矜持だ。その名が偽りであるというのなら、伶世のどこまでが真実なのだろう。彼女の足元を支えてきた十六年が揺らいでいる。顔色をなくして、それでも必死に理解に努めている伶世を見て、戦務長の眦がほんの少し切なさを帯びた。

「主上はこの二十五年の間に多くのお子をもうけられた。その中で、そなた一人しか姫がおらなんだというのが理由の一つ。もう一つの理由はそなたが、ご正室との間に生まれた唯一のお子であるということであろうな」
「閣下、それはつまり、ご正室のお子であるという太子(たいし)様のお生まれもまた偽りであった、ということでございますか」

 現実味のない真実の暴露の連続に、暗闇から無防備に殴られているような感覚が生まれる。文輝の足元にあったものが次々と揺らぎ、暗闇の彼方に消えた。それでも、なお立っていたのは文輝が特別、強いからではない。いつ終わるとも知れない嵐の中、すっくと立ちあがった小さな背中があったからだ。
 長きにわたって口を噤み、異を唱えることを自らに禁じ、九品と程(てい)家の二つを守ろうとしている晶矢(しょうし)が静かに立ち上がる。そして彼女は言った。

「この国には偽りしかないのでしょうか」
「そなたもか、阿程(あてい)」

 侮蔑の眼差しが彼女を射る。それでも、晶矢は迷いなく宰相を見据えていた。

「十年以上にわたり、神妙な顔をして必死に教わった知識が、一瞬で霧散する虚しさを味わえば閣下にもこの気持ちがおわかりになると思います」

 初科、中科と学んできたことを教えた側が一方的に否定する。そして世を知らないと軽んじるのではたまったものではない。一つの偽りを覆い隠すために別の偽りを用いる。そうして積み上げてきたものは空虚だ。何の実体もない。大仙(たいぜん)が吼える。お前たちが真実、主上に必要な人材に育てばいずれは知れることだ。晶矢がそれを鼻で笑った。

「大仙殿、あなたには失望するばかりだ。信頼と信奉は似て非なるものだ。あなたのその感情は忠義ではない。ただの甘えた逃げだ」

 その自覚も持たないまま、人の感情を選別するなどただの傲慢でしかない。その権利が、国主の間諜でしかない大仙にあるのかと晶矢は問うた。

「側室の子を特別な理由もなく太子に据える、となると無用な諍いを招くでしょう。現に、主上がこうして国主の座にあられるのも、先王の嫡流たちが無益な争いを繰り広げ、互いに互いを滅ぼしあった結果です。それと同じことを繰り返したくはない、という判断は非常に合理的であると私は思います」
「ならば」
「いえ、だからこそ私は申し上げているのです。王位を巡る骨肉の争いを繰り返したくないのであれば、主上は明確な基準と公正な評価を提示されるべきだったのです。それをしないで、第一子をご正室のお子であると偽って正当性を上書きした。その偽りが露見すれば、どうなるかぐらい聡明な皆様にはおわかりだったでしょう」

 それとも、本当に何の疑問も抱いておられなかったのですか。
 晶矢の言葉が津(みなと)に静かに響く。

「伶世殿、あなたは本当に今まで何の疑問も持たなかったのか」
「どういう、意味でございますか」

 混乱を顔中で表して伶世が切れ切れに問う。晶矢はそれでも言葉を緩めない。

「中科は一年で配置換えが慣例。それを二年連続で兵部(ひょうぶ)警邏隊(けいらたい)戦務班(せんむはん)付の女官見習い。どう考えても特例だ」
「阿程殿、あなたはそう仰いますが、私が望んだわけでもないその人事について口を挟むことこそが僭越なのではございませんか?」

 自らの生い立ちを知らない彼女が、国の決定を覆すことは出来ない。それは国に対して不満を吐露するのと何ら変わりないからだ。西白国に生まれた以上、三年間、中科で官吏見習いをするのは義務だ。その義務に不満を零せば、彼女を育てた農家の両親の立場をも悪くする。伶世には人事を不審に思うより、そちらの方が重要だった筈だ。
 戦務長はその気持ちを利用した。
 だが、と文輝は思う。戦務長はどうして伶世が国主の娘であると知っていたのだろう。
 字が視えても名は視えない。伶世に名がないことは見抜けなかった筈だ。
 文輝の疑問を晶矢の言葉が紐解いていく。

「劉校尉(こうい)、彼女が当代国主唯一の公主(こうしゅ)であるというのはあなたが調べたことではありますまい」

 確信すら伴ったその声に津がどよめく。白襟(しろえり)たちの誰一人、質そうとしなかったことを晶矢は詳らかにしようとしている。
 その、凛とした声にふと正気を取り戻したのか、右将軍が今一度長槍を構えた。瑞丹(ずいたん)、と戦務長が字を呼び右将軍の肩を叩く。その双眸にはもう論争を続けるだけの情熱が失われていた。

「典礼部(てんれいぶ)に潜り込んだものが教えてきた。と言えばお前は納得するのか」
「首夏(しゅか)、おまえはどう思う」
「俺かよ」

 散々、自信たっぷりに問うておいて肝心な部分は自らで明かそうとはしない。景祥(けいしょう)と宰相の二人の恫喝に最初に反駁したのは文輝だ。だから、晶矢は文輝に最後まで見届けることを強いる。
 余計な力が入っていた全身が程よく弛緩した。
 知っている。この場にいる人間の中で、戦務長を一番長く見てきたのが右将軍で、その次が伶世だ。文輝は三番目にすらならないかもしれない。それでも、半年の間、文輝は戦務長の指示を仰いできた。彼の人となりを全く知らない晶矢にはない経験が文輝の中にある。
 その、僅かな経験を顧みる。
 知っている。劉子賢というのは上官として敬うべき徳を持っている。裏でどんな計算をしていたのかは、今となっては右将軍しか知らない。それでも文輝は自らの意志で決めた筈だ。上官も同僚も同じように信頼している。
 だから。
 息を深く吸った。それをゆっくりと吐き出す。暗闇に慣れた視界がすっきりと広がる。諦めと挫折を表情で描いた戦務長を見る。文輝はまだ諦めていないことを伝えなくてはならない。

「戦務長、あなたはあなたが作り出した偽りの『環(かん)』の持ち主を侮蔑していたのではありませんか?」
「だとしたら何だと言うんだ、小戴(しょうたい)」
「そもそも、あなたは官吏自体を侮蔑していた。民を守るべき知勇が自らの欲の為に動いている。先王の非嫡出子として、郭安州で生まれたあなたの目には信ずるべきものなど何もなかった」

 劉子賢という名と環を手に入れることが出来たのは、戦務長が先代国主の血を受け継いでいたからではないだろうか。国主たる素養が僅かながら残っている。その戦務長が生まれて初めて出会った「才子」が本物の「劉子賢」だった。
 名と環を譲り受けて、劉子賢となった戦務長は何かを成したかったのではない。生まれも、育ちも、背負うべき未来も。その全てを投げ捨てたかった。彼を認知しなかった父王を否定して、そして一人の民として生きていきたかった。
 だのに運命は戦務長にそれを許さなかった。

「信ずるべきものなど何もなかった? 違うな、小戴」

 信じるという気持ちなど一度も抱いたことはない。冷めた眼差しが文輝のそれと交錯する。そのあまりにも解釈の余地のない返答に文輝は一瞬躊躇した。それでも、結局、文輝は顔を上げ続けることを選んだ。

「いいえ、あなたは人を信ずるという気持ちを知っています。あなたは、華軍(かぐん)殿を真実、信頼していた」
「『才子』を利用しただけだ。気持ちなど何もない。『あれ』は実に便利な駒だった」

 世間を知らぬ。道理も知らぬ。幼子に一方的な知識と感情を植え付けて利用するのは実に容易かった。
 戦務長はそう言ったが、文輝にはただの強情にしか聞こえなかった。

「戦務長。では、どうしてあなたは華軍殿がお一人で白帝廟(はくていびょう)に残ることを良しとされたのですか? 華軍殿が何をなさろうとしていたのか、あなたは知っていた筈だ」
「何の話か皆目見当もつかん」
「本当にそうですか?」
「くどい。お前の理想を俺に押し付けるな」
「では、どうして俺を左尚書への伝(てん)として指名されたのです。あなたと華軍殿が張り巡らせた中城の情報網をもってすれば、暮春(ぼしゅん)――程晶矢が左尚書へ向かったことは容易く知れた筈だ」

 緑環(りょくかん)の不正を暴くことを契機に、戦務長はこの動乱を実行した。郭安州から上ってきた内通者を告発することで、中城に疑問を呈する。伝としての別格の価値がある駒は右官府(うかんふ)には二つ。文輝と晶矢だ。その両方を左尚書で鉢合わせる必要はない。それなら、別の場所に分散させた方がまだ利用価値がある。
 だのに文輝は左尚書で晶矢と顔を合わせた。

「最初は意味がわからなかった。中城と城下を巡回するのが警邏隊の役目で、だからあなたが文を出したのかと思っていた」
「深読みのしすぎだ。それ以外の意味などない」
「いいえ。あなたには別の意図があった」
「頭が固いのか、考えが柔軟なのか判断に困る返答だな」

 はぐらかすように戦務長が首を横に振った。手のかかる子どもを相手にしている、という風情だったが、文輝は言葉を重ねた。

「戦務長、あなたは、御史台(ぎょしだい)というこの中城で最も安全な場所に俺を置いておきたかった。そうではありませんか?」
「斬新な回答だな。俺はお前を左尚書に送った覚えしかないが?」
「左尚書のあるじは九品の六位、孫(そん)家当主。工部(こうぶ)から出た伝は九品の二位、程家嫡子。そして、兵部(ひょうぶ)から出たのが九品の三位、戴家の俺。この三人が顔を合わせてどういう結論になるか、なんていうのは、この国のことを知っていればすぐにわかります。俺たちはその枠組みの中であなたが望んだ役割を演じただけにすぎない」

 九品は九品の規範を守り続けているからこそ、九品足りえる。何を重んじ、どう行動するか。この国の中枢にいてそれを予測出来ないのなら、今すぐに職を辞して郷里に帰るべきだ。内府(ないふ)典礼部、右官府の数多の通信士をはじめとする内通者たち。彼らの一人ひとりもまた九品の行動は先読み出来た。
 そこに華軍の伝頼鳥(てんらいちょう)だ。
 戦務長は華軍が裏切っていることを既に知っていた。知っていて、華軍を売るように振る舞った。そうすれば、華軍が絶妙な頃合いで文輝に鳥を飛ばすこともわかっていた。

「あなたは何もかもわかっていた。華軍殿が破滅を求めていたことも、俺が青い正義感で突っ走ることも。あなたや華軍殿の無実を強く主張することも、全部わかっていて伝を命じたんだ」

 そうすれば九品の三人は御史台に向かう。子どもの理論を展開する文輝はお荷物になるだろう。当然、御史台に引き留められる。そうなることを戦務長は望んでいた。
 だのに。

「あなたの計算にないことが二つ起こってしまった」
「首夏の先導で部隊が中城に散開する。と、もう一つは何だ」
「武芸自慢の俺が華軍殿と戦って負傷した」

 そのことが遠因となって、次兄と玉英(ぎょくえい)が矢面に立った。この時点で、戴家は動乱に無関係ではなくなってしまった。戴家二将に中城の内側で何の指揮権も与えず、静観を強いるつもりだった戦務長には大きな誤算だった筈だ。城下に火を放つ計画は当初からあったのだろう。伶世を戦務班に配置したのは、彼女が国主の娘であると知っている三公への脅迫材料にする為だ。伶世が人質に取られている以上、公地(こうち)は戦務長の望みを受け入れるしかない。そうすることで、公地には動揺を、火を放った城下には国官の無能を突きつけることが出来る。
 そしてそれらの状況が物語る。
 戦務長は戴家に対してだけ、「何らかの思い入れ」がある。
 それが何かはまだ見えてこない。
 ただ、文輝と晶矢のやり取りは津(みなと)をざわめかせた。右将軍が「そなたに何がわかる」と吼える。文輝を挟んで、その後方から大仙の怒号が飛んだ。「知りたくもない」の声は真実、憤っていて文輝は晶矢と顔を見合わせる。表情が鮮明に見えたわけではないが、お互いに苦笑しているのが伝わる。

「大仙殿。あなたは今、赤環と牡丹の紋の二つを自ら手放したのにお気付きですか?」
「くだらん。また詭弁か」
「いいえ。本心から問うております」

 国官の本分は国政だ。地方官を統括し、総合的な判断を下す。その為に必要なのは情報だ。季節の移ろい、穀物の収穫高、市場における物価の相場、他国の情勢。役所によって何が重んじられるかは違う。それでも、国官は常に知らなければならない。知ることを拒絶すれば、その時点で官吏としての素養が欠ける。まして、国主の間諜である大仙にとっての情報は左右官府のそれを大きく上回るだろう。
 相手の言を切り捨てるのは、大仙にとって官吏としても、間諜としても失態であることは疑いようもない。

「知りたくもない、ではなく、知るのが怖いのではありませんか?」
「小戴、あまり頭に乗るな。これ以上、主上を侮辱するのならば己(お)れはお前を許さん」
「俺の弁が侮辱に聞こえるのでしたら、あなたには後ろ暗い気持ちがおありになるということだ。臭いものには蓋をして済ませよ、と仰るのでしたら俺はあなたとは別の道を選びたいと思います」

 痛い腹を探りあうのをやめて、お互いに傷を隠すのが大人のやり方なのかもしれない。あと十年もすれば、文輝にもその選択の価値がわかるのかもしれない。
 それでも、今、文輝の目にはもっと価値のあるものが映っている。

「主上に謹んでお尋ね申し上げます。あなたにとって国とは一体何を意味するのでしょうか」
「小戴! 不敬だ!!」
「いいえ、大仙殿。戦務長お一人に責任を被せ、処断なさりたいのなら、主上は少なくともここで一体何を重んじられて政をなさっているのかを明確にせねばなりません」

 そうしないで、今までと同じように景祥の治世を受け入れるものがどれだけいるだろう。地方官の圧政に苦しんでいる十二州。国主の正当性を問う為だけに災厄に見舞われた岐崔。城下の民は知った筈だ。三公と内府は民を平然と切り捨てる。民の安寧を願うという建前も、自らの安全の前では後回しにするということを公地は示した。
 その現実を直視しないで今まで通りを願うのは身勝手が過ぎる。そんな幻想は民には共感されない。岐崔の外の問題が岐崔にまで影響するということも、民は知った。「偽王」一人を裁いて、不安要素はもうない、と言っても誰も信用しないだろう。戦務長にまつわるいきさつも説明せずに彼を「偽王」と切り捨てるのなら今後、誰かが同じことを繰り返さない保証もない。
 国はもう揺らいでいるのだ。
 この国を真実、守りたいのであれば、その志を持つものが少しずつ傷の痛みを分け合うしかない。三公、九品は勿論、銀師(ぎんし)、王府(おうふ)、内府、中城。そして国主・景祥すらもその対象からは逃れられない。
 文輝の言葉には戴家の命運がかかっている。無責任な発言は許されていない。それと知っていたが、だからこそ言った。文輝は傾きかけてはいるが、この国を真実、愛しく思っている。戴家の末席に名を連ねるものとして、この国の為に何かをしたいと強く願った。

「主上、どうかお答えください」

 景祥の言葉に全てが委ねられている。戦務長の罪を認め、裁き、そして自らもまた進退を問うのか。それとも、まだ偽りの安寧から抜け出さないのか。その返答次第で戦務長と右将軍の心も決まる。
 津は景祥の答えを一様に待っていた。
 永遠にも近い沈黙の後に、景祥がゆっくりと口を開く。

「余は、好んで国主の位を継いだのではない」

 純血の白氏(はくし)ではない。ただそれだけの理由で、景祥とその母である朱姫(しゅき)はは後宮に受け入れられることすらなかった。朱南国(しゅなんこく)において、朱氏(しゅし)の直系は神である赤帝(せきてい)の末裔とされる。凡そ人ではないという扱いを受けてきた朱姫にとって、西白国での待遇には不満もあっただろう。それでも、彼女は郭安州(かくあんしゅう)に留まり、自らの領分を果たした。
 景祥が二十の歳のことだ。先王が倒れ、後継者が必要になった。既に太子として指名していた長男ではなく、そのとき寵愛していた末子に後を継がせる、と先王が病の床で言い出したのが発端だった。当然、長男は納得出来る筈がない。幾日幾夜にもわたって論争は続いた。

「母が伝え聞いた話によると、後継者が決まるより早く父の両目は名どころか何も見えなくなったようであるな」
「それは、陛下の寵を失った――すなわち、先代様が国主としての資格を失った、ということでございますか」
「道義に反することをしたのだ。厳正なる陛下が、父の不義をお許しになる筈がない」
「しかし、お言葉ですが先代様が国主の資格を失われたのであれば、新たなる資格者に目は受け継がれたのではございませんか?」
「余もそう思っておった。顔を見たこともない兄や弟。純血の白氏である子は幾人もおった筈であるからな」

 その誰かが国主の位を継ぐのが道理。誰もがそう思っていた。白帝の加護を受けたものが名乗り出るのを何日か待った。
 そうするうちに先王の命の灯が消えた。
 国主の座は完全に空位であるのに、後継者が現れない。
 その危機感と焦燥感から、後宮は荒れた。正室の子と側室の子、生まれた後先すら無視して血で血を洗う継承争いが起きたのだ。初科ではそのくだりを、非常に軽く習う。骨肉の争いを繰り広げるものを陛下は愛さない。兄弟たちは互いに滅ぼしあい、ことごとくが命を失う。
 その結果、争いに加担しなかった景祥だけが生き残った。

「余の他に国主の血を引くものが残っておらなんだ。その段になるまで、後宮の誰一人として余のことは思い出さなんだというのだからとんだ笑い話だ」

 景祥が冷笑する。暗闇の向こうに見たからではない。その眼差しの昏さに文輝の呼吸がしばし止まる。息をするのも苦しいほどの重圧が全身を襲う。跪いてしまいたいほどの衝動に襲われたが、両足を踏ん張って耐える。晶矢の小さな背中もまた同じように圧力に耐えていた。
 その硬直した雰囲気に戦務長の声が響く。

「認知されていただけそちらの方がまだましだ」
「そなたは羊(よう)の子であったな。羊は健勝か」
「母か。俺が三つの歳に死んだ」
「そうか、羊は死んだか」

 ぽつり景祥が零す。その顔には冷たさがない。心底、残念だと表情で語る景祥に戦務長の語調も落ち着いていた。

「朱氏。俺の罪は俺が負う。瑞丹には何の非もない。小戴も阿程もそうだ。全部、俺が俺の自己満足で仕組んだことだ」
「であるか」
「小戴の無礼は青さゆえだ。俺はそれを利用した。咎めるなとは言わんが、あまり責めないでやってほしい」
「そのものの言は正論である。そなたの父が真実、余の父であるのなら余が裁かれるのも道理。端から余は国主の座など望んではおらぬ」

 謹んで陛下にこの位を返上しよう。
 景祥が落ち着いた顔でそう告げると、大仙が悲鳴のような声を上げた。

「主上! お待ちください! 主上が罪を負われる理由がございません!」
「大仙、そなたにももうわかっておろう。余は余の治世を誤ったのだ」

 偽りに偽りを重ね、先王と同じ過ちを犯した。岐崔の安寧を繕う為に十二州の荒廃に目を瞑った。そうして得たものの虚しさに気付かないほど、景祥は愚昧ではなかった。
 過ちは正されなければならない。律令によって国を治めるのであれば、階級による特権など許されない。
 臣民は幾らでも騙せる。書面の上でなら歴史すら書き換えられる。騙し通しさえすれば治世を延命することは出来る。
 それでも。

「大仙、自らを欺くことは出来ぬ。もうこれ以上、余は嘘を重ねとうはない」

 そなたもそうであろう。
 景祥が悲しみを湛えた目で戦務長を見る。先王の血を半分受け継ぎながら、母親の出自によって日の目を浴びなかった二人。先王の子の中で、最も近い立場の二人に白帝は加護を与えた。残酷な仕打ちだ、と文輝は思う。その加護さえなければ、景祥も戦務長も世間に埋没して一生を終えられただろう。
 だのに、その小さな願いは叶えられなかった。

「『樊(はん)』の姓を受けるのか」
「今更、市井で暮らせるとも思えぬがな」
「朱氏、市井はおまえが思っているほど生易しい世界ではないぞ」

 市井にあって、地べたを這いずるような日々を送ってきた戦務長の言葉には重みがあった。どんな苦渋が待ち受けているか、景祥は想像だにしないだろう。それでも、景祥は眦を細める。偽りの現在より苦しいものはない。それで死ぬのであればそれも運命。受け入れる。景祥が小さく頷いた。

「そなたはどうするのだ、羊の子よ」
「正当に裁かれたのなら、その罪を負うほかあるまい」
「そこな童が先ほど申した通り、そなたのしたことは死罪に値する。それでも罪を負うと申せるか」
「俺が何をしてきたか、その仔細を語ったのちのことは刑部(ぎょうぶ)に委ねよう」

 戦務長の言葉は死罪を受け入れると言っているも同然だった。
 この結末になることはもとより承知していたのだろう。終焉を願いながら、偽りの安寧を守り続ける国に一矢報いる為に、戦務長もまた偽りを積み重ねた。
 景祥は自らの感情や名誉より律令を重んじる、と言外に宣言している。何十、何百と繰り返された偽りが、それで全て消え去るわけではない。それでも、何もしないよりはずっとましだ。
 初科で習う歴学がどこまで改竄されているのか、文輝は明確に知らないが、この百六十年の歴史の中に自ら国主の座を奉還したものはいないということになっている。白帝の寵を賜りながら、それを人ひとりの判断で辞去することが許されるのかどうかもまた明らかではない。
 それでも。
 土鈴を鳴らすことの出来る二人は骨肉の争いを繰り返すことを拒んだ。

「朱氏、兵を退け。俺はもうこれ以上、争い合うつもりはない」

 進慶(しんけい)が伴ってきた御史台の兵たち、そして次兄とその師団の顔色が曇る。反逆者とは何か。動乱とは何か。自らが拝戴したあるじとは何か。何の為に戦い、何を守ってきたのか、その答えが霧散する虚しさを、彼らもまた味わっている。
 景祥が戦務長の言葉を受けて、決意を表明した。
 高圧的に土鈴を鳴らすことなく、景祥は宰相に決定を示す。

「碌生(ろくしょう)、聞いての通りである。余はあのものと共に白帝廟へ参るゆえ、そなたたちは後の始末をせよ」
「それでよいのか、景祥」

 名ではなく字を呼ばれた宰相が静かに溜め息を吐いた。
 たった一昼夜の出来ごとだったが、この場にいる誰もが心身ともに疲弊しきっている。その責を一人で背負うのか、と宰相が言外に問う。景祥は穏やかに微笑むことでそれを否定した。

「余が一人であれば、他の道を選んだかもしれぬ」
「その道で後悔しないのだな?」

 無論。間を置かず景祥が首肯する。宰相が駄々子を相手にするような、苦い顔をした。

「そなたにも色々と無理をさせた。そのことを心から詫びよう」
「詫びるのなら私の方だ。お前が望んでいないことを知りながら、十五年もの間、その場所にあることを強要したのだからな」
「はじめの十年は先の宰相の罪であるがな。まあよい。では余の罪とそなたの罪で棒引きにいたせ」
「承服した」

 宰相が頷く。最終決定が下された。これで、この動乱は終わりだ。誰にどれだけの罰が課されるかはこれから決まるが、これ以上血が流れることはない。
 津に安堵の息が漏れる。戸惑いと躊躇いは今も残っていた。それでも、何らかの形で終わりが示されるだろう。それが明日のことかひと月後のことかは定かではないが、終わりには違いあるまい。平伏したまま、ことの成り行きを見守っていたものたちもゆっくりと立ち上がりはじめる。
 その、一見すると穏やかな空気を切り裂いて二つの声が響いた。

「お待ちいただきたい!」
「納得が出来ませぬ!」

 戦務長を背に守ったままの右将軍。景祥を守って立った大仙。
 背負ってきたものも、経てきたものも全く異なる二人だったが、自らが拝戴したものを守るという矜持には何ら変わりない。その、守るべきものそのものが、壇上から降りようとしている。あるじの意志を尊重して、自らの役割を失うことを肯定して、棒引きを受け入れられるほど、二人の十年が軽くはないことを文輝は知った。
 知ったところで、文輝に出来ることなどない。白帝の寵を受けた二人は既に自らの意志で判断を下した。これ以上、訳知り顔で何を言えるだろう。文輝の言葉など大仙たちには届くまい。わかっている。仲裁の言葉を口にしようとして、唇が空を噛む。

「瑞丹、もういい。お前の言う通りだ。もうこれ以上、偽りを続けたくない」

 俺にとっても、お前にとっても、何の利もない。
 戦務長が静かに言う。右将軍はそれを聞いて、首を横に振った。

「我が申したのはそういう意味ではございませぬ」
「同じことだ。二つで一揃いのものを片方しか持たぬ。俺には端から国主たる資格などなかったのだ」
「それでは、あなたは何の為に我を見出されたのだ! 我があるじはあなたお一人しかおらぬ! あなたはそれをご存知の筈だ!」
「右将軍は二つあるじに仕えぬ。知っているさ。知っているから俺は言っている。お前はもう自由だ」

 景祥と戦務長が国主である資格を奉還すれば、右将軍はただの人に戻る。そうなれば、残った人としての生を姫(き)瑞丹として、思うように過ごせばいい。
 もうそうすることでしか、戦務長は右将軍に報いてやることが出来ない。
 わかっている。戦務長も右将軍もそれを承知している。
 それでも、右将軍は首を横に振った。
 子どものように、一心に首を横に振る右将軍の姿を正面で見ている、大仙もまた悲痛な叫びをあげる。

「主上! 『偽王』が目を還せば残るは主上お一人。今まで通り主上がこの国を統べるのに何の問題がございましょうか」
「大仙、そなたは良くも悪くも愚かであるな。道を誤った国主は責を負わねばならぬ。余は道を踏み外したのだ。それはそなたも承知しておろう」
「わかりませぬ! 小戴ごとき小童の理想論に付き合い、主上がその位を失わねばならぬ道理などどこにもございませぬ!」

 殆ど泣き声に近い怒号に、景祥が束の間苦しそうな顔をする。

「余は、取り戻せることと、取り戻せぬことの区別もつかぬ愚王にはなりとうない。せめて終わりぐらい余に選ばせてくれぬか」
「あなたの治世が終わるのはあなたが見罷れたときだけだ! ご健勝であられるのに、なにゆえ己(お)れたちを棄てようとなさるのか!」
「棄てるのではない。身の丈に合わぬものを手放すだけのこと。余は右将軍も見出せぬ、半端な国主であった」

 その事実から二十五年も逃げ回ってきた。その罪の清算ぐらいは自ら引き受けたい。
 淡々としているからこそ、その痛切な思いは文輝たちに伝播する。景祥の裏の顔も表の顔もよく知っている大仙にも勿論、景祥の思いは伝わっただろう。
 それでも。
 大仙は腰から短剣を抜いた。その鈍い輝きが真っ直ぐに駆け出す。想定される軌道上にいるのが誰かなど確かめるまでもない。大仙は戦務長を力づくで排除しようとしている。戦務長さえいなくなれば今まで通り。それを疑わない狂気を感じて、束の間臆したが、結局は文輝も直刀を拾って駆け出す。隣にいた筈の晶矢の姿が既にないと気付いたとき、右将軍の雄叫びが聞こえた。

「させぬ!」

 右将軍が大仙目がけて長槍を振りかぶる。その間合いに先に飛び込んだのは晶矢だ。大仙と右将軍の間で大仙を庇うように体を張った。右将軍が晶矢に気付いたが、振りかぶった長槍の勢いが止まるわけではない。大仙を殺めてでも戦務長を守るつもりだった穂先は右将軍の咄嗟の判断で僅かに軌道を変える。
 それでも。
 完全には晶矢を避けきれなかった。晶矢の小さな呻き声と前後して彼女の左腕が宙を舞う。それを網膜に焼き付けた瞬間、文輝の動きが全て停止しそうになる。守るべきものの順序など構わずに、晶矢に駆け寄りたいという衝動が湧いた。
 それを見越したように、晶矢の声が津に響く。

「首夏! 迷うな! 行け!」

 迷わない道理がない。迷わないほど文輝は強くない。それでも、今、ぐずぐずと感傷に浸ることが許されていないことだけはわかる。文輝は全ての感情に蓋をして津の石畳を蹴った。一瞬でいい。大仙より一瞬でも早く戦務長のもとへ辿り着いて、守らなければならない。戦務長は勿論、大仙が王弟殺しの罪に問われることも、その結果、再びこの国が行く先を見失うことからも、守らなければならない。
 それだけの大役が文輝に務まるわけがないのは、文輝自身が一番よく知っている。正攻法では無理だ。わかっている。
 だから。
 幾ら文輝が近接戦闘を得意だと言っても、暗殺に長けた大仙の瞬発力を上回ることは出来ない。何の犠牲もなく何かを守ることは不可能だと知っている。
 この瞬間、文輝が懸けられるものは一つしかない。
 晶矢が懸けたものと同じ、文輝の命一つしか自由に使えない。
 己の不甲斐なさを悔いながら、文輝は戦務長と大仙の間に飛び込む。人体の構造なら初科で嫌というほど教わった。どういう角度で、刃に飛び込めば人が死ぬかも知っている。
 遠くで次兄が絶望を音にした。玉英の悲鳴が聞こえる。
 その刹那、文輝の胸に大仙の短剣が突き立つ。大きな衝撃が文輝の身体を襲う。死なない角度を選んだつもりだったが、計算が少し狂っていたらしい。大仙が慌てて身を引こうとする。今、短剣を引き抜かれれば文輝は間違いなく死に至るだろう。わかっていたから、残された力の全てを使って大仙の手を短剣から引き剥がした。

「大仙殿、主上を、お守り出来なかったとき、報いを受けるのは、俺、だった、筈です」

 切れ切れに呟く。大仙の顔色が変わる。そういう意味ではない。彼は全身で文輝の言葉を否定した。背中の向こうから焦った戦務長の声が聞こえる。

「喋っている場合か! 小戴!」
「問題、ありません、戦務長。人が、死なない、程度、です」
「もういい! もういいから、これ以上無理をするな!」

 黄将軍、何をしている。戦務長の叱責の声が響いた。玉英が狼狽している。彼女は優秀な軍医だが、親族が自ら瀕死の重傷を負いにいくような経験をしたことは一度もない。彼女が今、成すべきことはわかっているだろうが、身内の保護の為にここへ飛び込んで来てもいいのかどうかで迷っている。文輝は確かに瀕死だが、晶矢もまた左腕を失う重傷だ。
 次兄が玉英より先に正気を取り戻し、宰相に許可を求める。どちらを先に救えばいい。選べるのは一人だけだ。
 その、やり取りを遠くに聞きながら、文輝は背中を支えてくれた戦務長に語りかける。

「戦務長、あなたは、ご存じではない」
「何をだ」
「どんな、思想も、理想も、行動を伴わなければ、ただの言葉でしかない」
「知っている。知っているから、俺はここにいる」
「いえ、やはり、あなたは、ご存じでは、ない」
「だから、もう喋るな! 本当に息絶えたいのか!」
「俺は、あなたを、信じると、言ったのです」

 ですから、こうして命を賭してあなたを守ることが出来たのなら、俺の言葉は真実に変わったということではありませんか?
 言い終わるより早くに文輝の視界が暗転する。最後に見えたのは文輝の血で汚れた手を呆然と見つめている大仙の姿だ。
 この一日のことで、文輝が覚えているのはそこまでだった。

それは、風のように<十四>

十四.
 剣戟の響きが津(みなと)を支配している。
 何合も切り結んだ文輝(ぶんき)の直刀はぼろぼろで、既に修復することは叶わないだろう。中科(ちゅうか)を受けた春に父親がくれた特別な得物だったが、文輝が真実、守るべきものの為に賭した結果なのだから恥じる必要はどこにもない。この戦いに敗れ、処断されることになったとしても、文輝の気持ちは変わらない。
 晶矢(しょうし)と玉英(ぎょくえい)の援護を受け、文輝は右将軍(うしょうぐん)の間合いに飛び込んでは、反撃を受けるすんでのところで退いてを繰り返している。その間にも玉英の通信士は紫の伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばし続けていた。薙ぎ倒された禁裏(きんり)の守兵たちも命のあるものはぽつぽつと立ち上がっているが、どちらに加担すればいいのか、困惑を顔に浮かべている。
 正当な国主を名乗る男、右将軍だと紹介された男。その二人の代弁者たる戦務長(せんむちょう)。彼の主張を認めればいいのか、状況を淡々と見守っている宰相(さいしょう)に従えばいいのか。その判断をする為の根拠が足りない。
 そんなことはわかっている。
 当代の国主、朱氏(しゅし)景祥(けいしょう)が出てきて自らの正当性を立証出来ればそれに勝るものはない。だが、当の景祥自身は天意に全てを委ねようとしている。無責任だ、という憤りが文輝の中に湧いた。
 九品(きゅうほん)は譜代の家系だ。生まれたその日から国益とは何かを説かれ、その為に研鑽する。有事にあっては国防を最優先し、決してあるじを裏切ることはない。
 その、九品が拝戴するべきあるじは常に一人だった。だからこそ、九品は統一見解を持ち、暗黙的に協力し合ってきた。だのに戦務長は二人目のあるじを連れてきてしまった。
 九品である文輝たちですらその事実に戸惑っている。白襟たちに動揺するなというのは些か無理が過ぎる。
 官が、民が迷っている。そんなときにこそ旗頭として立つべきものが身を隠している。宰相がそれを提案した理由と感情は理解出来る。出来るからこそ、文輝は憤っていた。
 天意に身を委ねるというのは聞こえがいいが、責任放棄だ。白帝(はくてい)の加護を受けているのならば、この場に現れても守られるだろうし、加護が失われたのであればどの道、景祥の命は失われる。真実、国を思うのであれば景祥は矢面に立つべきだ。
 だのにそうなる気配はない。
 右将軍の長槍が鋭く突き出される。脊髄反射で顔をそむけたが、間に合わず頬に鋭い痛みが生まれた。のけぞった勢いで文輝は後方に転がった。晶矢の追撃が間を置かず飛んだことで、無防備な体勢に追撃が来なかった。玉英がちらと文輝を見る。頬を手の甲で拭った。生温かい液体に触れる。まだ生きている、ということはまだ戦える、ということだ。
 宰相と通信士が何を思って伝頼鳥のやり取りを繰り返しているのか、文輝にはわからない。紫の鳥は今も離発着を繰り返している。

「大義姉上(あねうえ)、俺たちはあと何刻持ちこたえればいいのですか」
「少なくとも、仲昂(ちゅうこう)殿がここに辿り着くまで」
「黄(こう)将軍、それでは首夏(しゅか)の命がなくなる方が早い」

 わかっています。呟くように答えた玉英がぐっと唇を噛む。文輝は華軍(かぐん)との戦闘で既に負傷している。その後、二度にわたって処置を受けてはいるが刃傷が回復する為に必要な時間が経過していないことは、医師である玉英が一番よくわかっている筈だ。

「叔父上、まだなのですか」

 玉英が飛刀を右将軍に向けて放つ。金属音が闇に響き、続けて石畳の上を刃が滑る音が聞こえる。晶矢が奪った矢筒の中身ももう残り少ない。放り出された別の矢筒を更に奪うことは可能だろうが、限りがある。宰相が本当に問題を解決するつもりがあるのだとして、この無謀な戦闘がそれまで続く保証はなかった。

「玉英、いま少し待て」
「叔父上!」

 殆ど叫ぶように玉英が宰相を呼んだ。それと前後して、後方から長靴が駆ける音が聞こえる。どちらの加勢か、判断出来ずに文輝たちは身構える。反逆者が王府(おうふ)を抜けてきたのだとしたら、文輝たちには抗う術すらない。捕縛で済めば運がいい方だ。
 闇の中に響く音にすら構うことなく右将軍の攻撃は続く。体勢を立て直した文輝の右側から横なぎが飛んできた。三人がかりですら右将軍を止められない。本当に命を落とすのか、という不安の中、聞こえた声が文輝を鼓舞する。

「小戴(しょうたい)! よく耐えた!」

 振り返る必要はない。この声は進慶(しんけい)の声だ。それを認識するのと前後して、長剣が右将軍へ斬りかかる。金属音が夜闇を切り裂いた。
 進慶の斬撃を援護するように無数の矢じりが飛ぶ。その段になって文輝はようやく後方を振り仰いだ。御史台の部隊、顔を知っている十五名が進慶に同道している。限界を超えて戦闘を続けていた文輝たちに代わり、御史台の部隊が防衛戦を引き継いだ。
 進慶も含めて前衛が五名、残りの十名が後衛。そして通信士として志峰(しほう)が控える。彼の肩には未だ紫の鳥が載っている。その尾羽を確かめずともわかる。あれは玉英の通信士が飛ばした伝頼鳥だ。
 息が上がり、喉の奥では鈍い味がする。それが文輝に自らが生きていることを実感させた。安堵と疲労と、そしてくすぶり続けている義憤との間で文輝は揺らぐ。
 玉英の肩を借り、宰相と伶世(れいせい)が待機する場所まで退いた。

「叔父上、あのものたちは?」

 玉英が疲労困憊の体で宰相に問う。
 宰相は表情一つ変えることなく、額面通りの言葉を返した。

「見ての通り、御史台のものだ」
「内府の制圧が終わったのですか?」

 内府の制圧が終わったのならば、御史台だけでなく次兄の率いる師団も到着する筈だ。だが、実際に津に現れたのは進慶と一部隊だけでとても内府が鎮圧したとは考えにくい。だが、内府、王府を通らなければ禁裏には辿り着けない。
 いったい、彼らがどこから来たのかと重ねて玉英が問うた。

「内府はもうしばらくときがかかる」
「では」
「そなたらが通ってきた道のりがあろう」

 王府を経由せずとも禁裏に辿り着ける道がある。文輝たちが一縷の望みを託して駆けてきた道だ。だが、その道のりを示す地図は今も文輝の懐にある。近衛部(このえぶ)が立ち位置を覆し、文輝たちの肩を持ったのかと思ったがそれならば内府の制圧に、こうもときがかかる筈がない。
 玉英がしばし思案して、結局は宰相に問う。

「王陵の地図は文輝殿が持っておられます。複製を用意する暇はなかった、と私は認識しておりますが」

 それとも、誰かが――現状で言えば宰相自らが王陵の地図を伝頼鳥に託したのかと重ねて問えば、暗闇の向こうから静かに怒る声が響いた。

「己(お)れをあまり見くびるな、黄将軍」
「大仙(たいぜん)殿!」

 どうして彼がここにいるのか、という驚きが名を呼ばせた。左官府で別れたときとはまた違う服装をしているが、殺気に近い怒気が彼であることを雄弁に物語っている。この悪辣な雰囲気は間違いがなく、大仙のものだ。
 棕若と彼の通信士の警護を任せた筈だが、残り二人の姿は見えない。

「大仙殿、孫翁(そんおう)はどうされたのですか」
「責任を取って残った。事実上の人質だ」

 孫棕若(しゅじゃく)の首級を懸けて、過ちがないことを誓った。大仙と進慶たちはそれと引き換えに王陵に立ち入ることが許されたから、動乱が成れば棕若の命は保証されない。
 そんなことを訥々と大仙が語る。眼差しだけは爛々とした輝きを持っているが、満身創痍であることは何も変わらない。進慶たちより遅れてきたこともそれを裏付けていた。国主の間諜であるという矜持を傷つけるだろうに、乱れた呼吸を整えることも出来ない。
 文輝は、大仙を突き動かしているものと自らの中にあるものの隔たりを知った。

「玉英、よく覚えておくがよい」

 主上の間諜であるには一等秀でた能力を求められるものだ。
 宰相がしばし瞑目する。そして再び開いた瞳で大仙を射た。そこには何らかの覚悟のようなものが浮かんでいて、文輝の耳は束の間、剣戟の響きと別離する。

「このものは一度見たものを決して忘れぬ。書状も図案も地図も、例外は一つとしてない」
「小戴、お前が己れを名指したときには見抜かれたと思ったが、どうやらただの幸運だったらしいな。だが、運も実力のうちという。己れはお前の裁量を評価しよう」

 閣下、もう十分でしょう。言って大仙が踵を返す。文輝の視界に映った大仙の背中が、幕引きを暗示する。多分、彼は今から国主のもとへと行くのだろう。複雑な色を灯した宰相の瞳が今一度閉じては開く。音もなく宰相の唇が命を紡いだ。たった二音。行け。それを受け取った大仙が今までの疲労など感じさせない俊敏さで駆け出す。文輝はそれを見届けるので精一杯で、右将軍の向こうで戦務長がどんな顔をしているのかを認識する余裕はなかった。
 玉英が言う。

「叔父上。いえ、閣下。御史台は調べを終えたのですか」

 力強い笑みが返る。宰相の表情は未だ複雑さを保っていたが、その瞳には確信が浮かんでいる。宰相の必要とする情報は全て揃った。そのことを文輝たちも理解した。
 玉英の通信士が役目を終えたとばかりに石畳の上に崩れ落ちる。「まじない」を酷使し続けた彼は心身ともに消耗している。
 その、尽力の結果を宰相は両手に収めていた。

「そなたの通信士は実に有能であったぞ、玉英」
「閣下、では――」

 大仙の背中が消えた闇夜を一瞥して、宰相はすっと眼差しを引き締める。棕若よりも幾つか若いがそれでも壮年の域に達しているだろう。その容貌から張りつめた声が漏れる。剣戟の響きを切り裂き、右将軍と御史台の兵たちを飛び越えて、その声は鳴り渡った。

「そろそろ茶番に幕を引くがよい。今ならまだそなたらの釈明も聞き届けよう」

 証拠は既に揃っている。あとは真実の証明を残すのみだ。
 言って宰相は紫の料紙を開いた。

「右将軍、そなたは何の為にその槍を振るう。そなたを右将軍だと見出したものは、そこな男ではあるまい。名を呼べと私は申した筈だな。字(あざ)しか呼べぬ国主が陛下の寵を受けている道理がない。偽りがあるのは自明。その件について反論があるのであれば申してみよ」

 それとも、右将軍というのは陛下ではなく、自らを見出したものを拝戴するだけの存在に成り下がったのかと畳みかけるように言葉が続く。右将軍の長槍がその言葉を受けて揺れる。
 右将軍が右将軍である所以は、彼の内側にある。人として生まれ、人として育ち、あるじに見出されて初めて自らが人でなかったことを知る。その証明を「新王」は成した。だから右将軍は「新王」に頭を垂れる。
 だが「瑞丹」というのは右将軍の字であり、名ではない。右将軍の字を知っている時点で国主としての正当性の一部は示された。だが全てではない。「新王」が真実国主足りえるのであれば、名を呼べと宰相は煽ったが、「新王」がそれを成す兆候はない。
 状況が変わりつつあることを察した「新王」が狼狽する。戦務長が詭弁であると憤慨した。

「瑞丹将軍、義はこちらにある!」

 迷うな、と戦務長が叱責したが右将軍の槍は構えを解いたままだ。
 宰相は静かにそれを見届けて言う。

「右将軍、そこにおる男が『新王』ですらないことは知っておろう。そなたを見出したのはそこな『新王』ではない筈だ。違うのならば申し開きをするがよい」

 出来ぬだろう。言った宰相の顔には酷薄な笑みが浮かんでいる。対照的に戦務長は激昂し、繰り返し右将軍を叱咤した。その段階で、文輝にも真実の一端が見え始めていた。
 多分。
 右将軍を見出した「新王」は戦務長だ。だのに彼は自らを偽り、別の「新王」を擁立した。「新王」が王位を継承し、戦務長が宰相の位に収まれば権威も政の実権も戦務長が手にすることになる。国主、右将軍、宰相。その三者が揃っている時点で、この国は戦務長の思うようになっていくだろう。その際には「才子」と「環」という二つの仕組みが失われる。戦務長は率先して環を偽ることで旧態を否定しようとしている。
 そこまでを茫洋と理解して、不変の価値観などないことを向き合う。
 「読替」の罪科。六色に塗り分けられ、決して交わりあうことのない環。話すことはおろか、その目で見ることすら叶わない白帝という存在。その寵を受け、国を統治してきた国主。国益の為に育ち、生きる九品。家格の壁が作り出した暗黙的な隔たり。
 その一つひとつが積み重なって、軋轢となっている。文輝の認識の中にはなかった、その淀んだ悪感情が楔として胸の内に打ち込まれる。
 年端もいかぬ子どものように泣き喚いて、その事実を否定したい。受け入れたくない。この国は美しく整ったままだと信じたい。
 それがただの幻想であることを知ってしまった。人を殺す痛みも知った。人は文輝が思うほど純朴でも善良でもない。
 宰相の声がそれを肯定していく。

「劉子賢――いや『偽王』よ。先王の血を受け継いだのはそなたであるな」
「馬鹿なことを言うな! こちらにおられるのが――」
「主上! もうおやめください!」

 もう偽りはたくさんだ。右将軍が今にも泣き出しそうな顔で叫ぶ。松明に照らされた彼は表情どころか体全体で彼のあるじたる存在に懇願していた。瑞丹、ぽつり呟いた戦務長の顔が動揺に染まる。
 動揺に染まったが、それは怒りには変わらずに消えた。文輝の知る限り、戦務長は理知的な官吏だ。自らの望みが潰えようとしているのに気付かない筈がない。圧倒的不利から戦務長の切なる願いが始まった。西白国の多くのものは国を覆すことなど出来ないと思っている。その、絶対的な価値観を十五年かけて一縷の希望に変えた。
 絶対などない。
 絶対な正しさなどないと岐崔に示した筈なのに、そのやり方は多くのものを傷つけた。
 そのことが右将軍の悲痛な叫び声で戦務長に届けられる。
 どんな方法を使い、どんな弁でこれほど多くの官吏を取り込んだのか、文輝には想像もつかない。戦務長自らが存在を見出し、右将軍として忠節を誓ってくれた相手に偽りを強いて、そうしてまで得たかったものは既に失われようとしている。

「『偽王』よ、そなたの策謀、見事である」
「宰相、お前なら知っているだろう。俺は真実、先王の血を受け継いでいる。疑うことは一切許さぬ。そうだろう、黄碌生(こう・ろくしょう)」

 戦務長を射る宰相の冷えた眼差しが一瞬揺れる。ただそれだけのことだったが、津にいた白襟たちには何かが伝わった気配があった。中城から来た二人の通信士も同じように納得した顔をしている。戦務長が何かをしたのだ、というところまでしか文輝にはわからない。晶矢にしてもそれは同じだったのだろう。暗闇の中、揺れる眼差しでお互いに問う。答えが出ない。
 中科生である文輝たちが知らないで、白襟たちが知っている、その「真実の証明」が文輝の身に降りてきたのは次の瞬間のことだった。

「戴(たい)文輝、程(てい)晶矢。これが国主であることの唯一無二の証明だ」

 戦務長が疲れ切った顔で文輝の字を呼ぶ。その刹那、文輝の頭の中で清涼な土鈴の音が鳴った。文輝はこの半年、戦務長からは「小戴」と呼ばれてきた。字を知っていたのか、という驚きが生まれたが、土鈴の音がそれを一瞬で凌駕する。
 文輝の字を知っているのはまだ理解出来る。だが、晶矢と戦務長には接点がない筈だ。その疑問は晶矢自らの口で問われる。

「劉校尉(こうい)、私は貴官に名を申し上げた覚えがない」
「違っていたか? だが俺の目にはそう見える」
「貴官の仰ることがよくわからないのだが?」

 困惑を顕わにした晶矢に、戦務長が苦く笑った。そして、彼の前に立っていた右将軍に歩み寄る。右将軍の傍らに立ち、戦務長が「九品でも知らぬことがあるというのは存外愉快なものだな」と言うのを引き継いで宰相が文輝たちに告げた。

「国主の素質のあるものには名が視える、のだそうだ」
「名が、視えるのですか?」
「俺に視えたのは字までだったがな」

 だから、戦務長は初対面である晶矢の字を呼び得た。通常、人は相手の名は勿論、字ですら何の紹介もなく知ることはない。名、というのは人の本質を現す。その名を委ねる相手を選べるというのは万民が持つ数少ない権利の一つだ。だから、この国では相手への呼称が幾通りも存在する。
 それを飛び越えて、名や字を直接呼ぶのは無礼に当たる。
 戦務長のしたことは、本質的な嫌悪感を生んで当然の行為だったが文輝たちにその感情は降りてこない。
 その代わりに土鈴の音が響いた。この音は何だ。
 問えば、宰相が苦々しく「それも国主の素質の顕現したものだ」と口にした。華軍の告発文には「才子」が「まじない」を使う際に鈴の音が鳴る、という文言があった。その音と国主の音は違うのだろうか。華軍が戦務長と出会ったときにも、土鈴の音がしていた、という記述がなかったか。それが正しいのであれば、戦務長はやはり国主の座にあることを白帝から許されているのではないか。束の間思ったが、戦務長が自嘲気味に言った「字までだった」という言葉が耳に蘇る。そもそも、戦務長はいつから名が「視えて」いるのだろう。華軍と出会った時には「視えて」いなかったと文輝は受け取った。だが、その当時、戦務長は既に「劉子賢」を名乗っている。
 事実と憶測の間で揺れる。
 答えの実像があまりにも巨大で、文輝の脳漿の中に描ききれない。
 問わなければならない。そのことだけが必死に明滅しているが、何をどう問うべきかがわからない。
 言葉を整理せずに吐き出したい衝動に駆られる。その、言葉が音に変わる刹那、文輝の耳にひと際高く、土鈴の音が響いた。戦務長の鳴らした音の比ではない。はっきりと透き通る音が鳴った瞬間、叩頭していたのは文輝だけではなかった。戦務長と右将軍の二人を除いた、その場にいる全員が音源に向いて平伏している。

「黄融(ゆう)、口が過ぎる」

 そなたはほんに多弁であるな。
 誰の声かなど確かめるまでもない。これは二年前、環を授かったときに高段から聞こえた声だ。冷汗が背中を伝う。本物の国主だけが持つ威圧感に文輝は畏怖を覚えた。
 硬直した空気に時間が止まったように感じる。永遠にも近い、けれど実際はほんの僅かの間を置いて両の足で立ったままの戦務長が檄した。

「今更何をしに来た、朱氏」

 景祥、と字が続かなかったのは多分、戦務長なりの侮蔑なのだろう。人の字が視えると言った彼には国主の字も視えている筈だ。それでも、出自を示す呼称を用いる。ただの血統で呼ぶことで戦務長は景祥の人格を否定した。
 その一連の感情の一切を無視して景祥は右将軍と対峙する。
 戦務長を庇って立った右将軍は動揺している。土鈴の音を鳴らせるあるじが二人いることが戸惑いを生んでいた。それでも、彼が本物の右将軍なら気付いた筈だ。戦務長の音は景祥の音に遥かに劣る。
 そして。

「姫尚(き・しょう)、そなた迷っておろう」

 新しい名が呼ばれた瞬間、津に今一度土鈴の音が響く。右将軍の名が呼ばれたのだ、と察するのに一拍の間が必要だった。宰相が再三要求した「真実の証明」が成された。それでも、なお右将軍は膝を折らない。何が彼にそうさせるのかはわからない。この十五年、彼と戦務長の間にどんな信頼関係があったのかもわからない。
 ただ一つだけ、文輝にもわかることがある。
 右将軍は国主の為に存在するが、人としての感情を持っている。
 その感情が、真実よりも信頼を重んじた。
 だから、右将軍は彼の後背に立つ戦務長を売り渡さない。
 それを無礼と受け取った大仙の声が叱責する。

「右将軍、控えよ。主上の御前である」
「お断りいたす。我があるじは既にこちらにおられる。それに」
「それに?」
「そなたのごとき下官に指図される謂れはない。我は真実、白帝陛下より勅を賜った右将軍である。それを疑うのであれば、首を懸けて問うがよい」

 我に問いを投げるには安すぎる首ではあるが。
 冷笑が漏れる。右将軍の声に迷いはあるが、それでも国主と相対して委縮している雰囲気はない。文輝は束の間、作法を忘れて顔を上げた。御史台の兵たちが伏したその向こう、堂々と立った右将軍の姿を見て、心が揺れる。
 何がどう正しいのか、十七年間叩き込まれてきた教えだけが全てではない。系譜に偽りがあり、出自は改ざんされ、歴史は美しく作り替えられた。
 それと知ってなお盲目的に国を信奉することが出来ない程度には文輝にもまだ自我が残っている。
 正しさとは何だ。
 その答えが見つからない。揺れる文輝の背後から宰相の声がする。

「では私の首であれば役に足るであろう。右将軍よ、主上は真実の証明をされた。これ以上、貴官は何を示せと言うのだ」
「白氏である以上、名を呼ぶ方にお仕えするのが中道。確かに、そちらの方は我が名をお呼びになられた」
「では何が足りぬ」
「『何が足りぬ』? 本気で仰っておられるのか、宰相殿」
「どういう意味か」
「十五年だ。十五年もの間、そちらの方は王座にただお座りになり、我を見出そうともなさらなかった。我が主上は確かに字しか視えぬ。土鈴の音も呼んだ相手にしか聞こえぬ。質も悪い。だが」

 この方は我を見出し、民を思って旗を掲げられた。
 全てはそれに尽きる、と右将軍が締め括る。その憤りを聞いた瞬間、文輝の胸の中に何かがすとんと落ちてきた。
 景祥が何を思って自らの存在証明を繰り返していたのかはわからない。名が視え、それを呼べる。国主だと主張するのに何が不足していたというのだろう。「才子」以外にも国主の証たる音が響く。だから宰相をはじめとした諸官は彼に頭を垂れてきた筈だ。
 御史台で大仙が景祥の出自を明かしたときとは違う感情が文輝の中にある。
 ほんの数刻前には白帝からの天意があるかどうかを問い続けている景祥に共感して心が痛んだ。そこまでして、彼は国主の座にあることを憂えていると思っていた。
 だが、右将軍や戦務長の主張を聞くとそれが短絡的で感情的な結論であったのではないかと疑い始めている。

「右将軍、盲信も大概にせよ。民を思うものが岐崔に火を放つ道理がない」
「国官であるにも関わらず、自らのあるじを正そうともしない。偽りの安寧に身を委ね、十二州で起こっていることに関知しようとしないものを民と呼ぶのなら、そうだろう。岐崔に住まうものだけが民か。その道理が通るのなら我は民ではない。ゆえに我は我のあるじを自ら決める。そちらにおられる方とは戴く天が違っていたのであろう」
「詭弁である。天は一つしかない。陛下の寵を受けられるのは主上おひとりである」
「では何ゆえ、そちらの方は自らの心痛ばかりを大事にされるのか。本当に我のあるじであるのであれば、何ゆえ我を探そうともなさらなかったのだ。何ゆえ、我が名を真っ先に呼んではくださらなかったのだ」

 答えよ。
 その殆ど慟哭に近い主張に文輝は頭を強か殴られたような衝撃を受ける。
 文輝は岐崔の外を知らない。知ろうと思ったこともない。岐崔で生まれ、岐崔で育ち、岐崔で生きると勝手に決めていた。だから、中城と城下さえ安寧であればそれでよかった。
 それを乱した存在、すなわち排除すべき悪であると一方的に断定し、何の調べにも加わらずに美しい理想で裁こうとしている。その罪深さに遅ればせながら気付いてしまった。
 九品は国を裏切らない。
 その意味をはき違えていたのではないか、と不意に疑問が湧く。九品が裏切ってはならないのは、国益だ。国益が守られているからこそ、文輝たち国官は俸禄を受け取る。その、禄になるもとを生み出しているのは何だ。民が納める租税だ。岐崔の外、十二州が満ち足りてこそ、租税の回収が滞りなく行われる。仕組みは理屈でわかっていた。わかっていただけで、本当は何も理解していなかったのだと気付く。
 文輝が見習いとはいえ、官位を授かっている以上、文輝の禄を生み出す民が国のどこかにいる。九品が守るのは国主ではない。その、禄を納める民そのものなのではないだろうか。
 そして。
 自らの正当性を問い続けるだけで、本来行うべき努力を怠った景祥は国主としての資質を失しているのではないか。
 戦務長が巻き起こした動乱は決して許されるものではない。どんな理由があったとしても、戦務長は多くのものを傷つけた。
 それでも。
 それでも、と文輝は思うのだ。
 白帝に運命と決められた、仕えるべきあるじに反旗を翻してまで何かを成そうという右将軍ほどの気持ちが文輝の中にあっただろうか。文輝の中にある何をもってしても、右将軍の行いを否定することは出来ないのではないだろうか。
 脇腹の傷よりも、ずっと鋭い痛みが文輝の胸を抉る。
 正しさとは何だ。忠孝とは何だ。
 文輝が今、成すべきことは何だ。
 答えに辿り着かない。それでも、この命題の証明は自らが成さなければならないことだけがわかる。長考したまま、頭を下げない文輝に小声で叱責が飛んだ。

「首夏、何をしている。主上の御前だぞ」
「でも、暮春」
「でも、も何もない」

 早く頭を下げろ。晶矢が強い語調で文輝を詰る。
 晶矢の向こうに玉英、そして大仙、景祥の姿が見えるが、不思議と畏怖は薄れていた。
 本来ならば目を合わせることすら許されない存在だ。わかっている。それでも、文輝の目には神の威光はもう見えなくなっていた。

「お前はそれで納得してるのかよ」
「劉校尉の弁に感化されたのか。何がどうだろうと、陛下の寵を受けるのは主上おひとりだ。その事実が変わらない以上、わたしたちは――」
「主命に何の疑問も持たないで首肯し続けるのが九品、か? 主上は今日一日、俺たちの為に何をしてくださった? 俺たちが必死に中城を駆けずり回っていた間、主上は一体何をなさっていたんだ? 主上が真実この国のあるじであるなら、この動乱は主上が収めるべきじゃないのか?」

 白帝の加護を受けた正当なる国主だということは名を呼べば示される。現に、今、景祥は「真実の証明」を成した。最初からそうしていれば、誰も、何も傷付かなかったのではないか。少なくとも「新王」が立った十年前にその存在を「偽王」だと否定していれば、戦務長の計画は頓挫した筈だ。
 分岐点は幾らでもあった。
 その全てを見過ごしてきたのは誰だ。国主、宰相、内府、右府、左府。岐崔で政を成してきたその誰一人、何の対処もしなかった。その結果が今だ。城下は焼け、中城は混乱を極めている。内府の機能は停止し、国主を守る盾である銀師ですら静観という手段を選ぶしかない。
 それらの状況が雄弁に物語る。
 文輝の信じていたものは一方的な側面しか持たなかった。
 晶矢にはそれが見えていないのか。それとも、片方の主張だけを盲目的に信奉することを選んだのか。小声で、それでもやや強い語調で問い返す。
 言葉に詰まった晶矢に代わって、玉英がたしなめるように言う。

「文輝殿、それは全てが終わった後で質しても間に合うのではありませんか?」
「大義姉上、ではあなたは戦務長――劉校尉の主張の一切を無視し、反逆の罪で無慈悲にも裁き、何の反論も許されなくなった後で全ての責任を校尉に押し付けるのをよしとせよと仰るのですね?」
「律令によれば反逆は死罪相当。情状酌量の余地があったとしても、『新王』を語り、岐崔を焼いた罪は決して軽くはないでしょう」
「律令によればそうです。俺も、斬首が妥当だと考えます」
「では」
「その判断の上でお尋ねします。律令の別の条文で、罪を犯せば三親等以内の血族には『読替』の罪科が科される筈です。劉校尉の父君が、本当に先王であるのなら主上の異母兄弟、つまり三親等以内の血族に当たりますので、主上は『樊(はん)』の名を負い、国主の座を辞されるのが妥当だと思われますが、その件についてはどうなされるのですか」

 言ってはならないことを言った。わかっている。九品として、国官の見習いたる中科生として、臣民として言ってはならないことを言っている。位階を無視して、雲上人に意見するなど決して許されないだろう。
 それでも、文輝は問わずにはいられなかった。
 十七年しか生きていないから言える。九品の三男だから――家を継ぐ覚悟もないから言える。馬鹿げたことを言っているという自覚はある。
 だから、詰られるのは予想していた。
 呆気に取られて反論の言葉を紡げない玉英の更に後ろから怒声が飛んだ。多分、ここまでは想定していた。

「小戴、馬鹿なことを言うな! 主上に何の罪科がおありになるというのだ!」

 強いて言うのならば優柔不断だった。判断が遅かった。その程度のことで、別段罪科を問われなければならない理由などない。
 それでも。

「『読替』というのはそういう罪科ではないのですか? 厳しすぎる罰を科すことで、罪を犯すことを未然に防ぐ。意図的に下流に位置付けられた存在があることで、律令を遵守する多くの民は安寧を得る。華軍殿も、志峰殿もご自身には何の非もなかったにも関わらず、その理不尽に耐えてこられた。臣民に不条理を押し付けて、主上御自らがその痛みを免れることなどあってはならない、と俺は思います」

 「読替」の罪科さえなければ華軍は死なずに済んだかもしれない。生まれたその瞬間から、人として当然の権利すら失い、正負どちらの意味でも国に報いる為に研鑽した。その、苦しみを平然と踏みつぶして、国主であるというだけで守られるのは決して許されることではないだろう。
 少なくとも、文輝の目にはそう映る。
 それを見なかった振りで見過ごして、戦務長だけを処断して、そして何もなかったかのように岐崔が復興するのを見ている自分に納得したくない。理想が過ぎるのかもしれない。青いと嗤わられるのかもしれない。
 それでも。
 華軍は文輝に望みを託した。抗弁を許された機会に、ただ文輝自身を信じろと言った。その気持ちを踏みにじってまで保身に回ることは文輝の矜持が許さない。
 誰かが賛同してくれるとは期待していなかった。
 十七歳の弁論にそれだけの価値がないことは文輝自身が一番よくわかっている。
 それぞれの価値観で、沈黙が場を支配する。
 ぽつり、呟いた声がそれを切り裂いたとき、多分、一番驚いたのは文輝だ。

「小戴、正気か」

 驚きに満ちた声だった。右将軍の後ろで、戦務長が信じられないものを見た、という顔をしている。国を覆そうとした。それでも、本気で覆せるとは思っていなかったのかもしれない。利用出来るものを利用してきただけの戦務長の中に、信じられるものはどれだけあったのだろう。多分、彼の中で文輝もただの駒の一つだったに違いない。
 だから、文輝が戦務長の為に抗弁しようとしているのが理解出来ないのだろう。

「戦務長、あなたが何のつもりで俺を用いたのかは知りません。多分、お聞きしても、俺には理解出来ないでしょう」
「ならば」
「偽りの環を利用した、とお聞きしています。ということは、当然、俺の人事にもあなたは介入された、と思うのが筋。そこに至るまでにいかなる理由があったのかはわかりません。それでも」
「何だというのだ」
「あなたが俺という存在を望まれた、という現実は誰にも覆せません」

 利用されたと憤慨すればいいのだろうか。裏切られたと泣けばいいのだろうか。
 その答えはまだ文輝の中にない。戦務長の返答を得ても、きっと全てを満たせるなどということはあり得ないだろう。
 だから。

「自己満足でいい。欺瞞と言われてもいい。俺は、あなたが俺を望んでくださったことを否定したくない」
「俺はお前に何も望んではいない。貴族の坊ちゃん程度に何がわかる」

 鼻先で嗤われる。十七の文輝に期待出来ることなど何もない。はっきりそう言われても、文輝の気持ちは折れなかった。

「何もわかりません。ですから、俺は思うのです」
「何を」
「わからないからこそ、わかることもあるのではないでしょうか」
「小戴、その程度の思い付きで――」
「思い付きではありません」
「では何だと言うのだ」

 今日一日で折り重なったものを一つひとつ噛みしめる。安寧の岐崔が失われる不安。国を思うがゆえの憂い。人を殺める痛み。人を信じるという気持ちの重み。
 万有の価値観などない。人にはそれぞれの志がある。交わらない道を否定することの罪深さを知ったが、見えもしないものを守る方法などわからない。
 それでも。
 文輝は気付いてしまった。
 志を貫きたいのなら、自ら答えを選ばなくてはならない。
 その為には上辺だけの知識や教養では足りない。綺麗ごとで誰かを裁くなんていうのはただの傲慢だ。そんなものは誰も救わない。誰も犠牲にしない志などない。
 だから。

「戦務長、俺はあなたを守りたいわけではありません。あなたに理想を転嫁したいわけでもない。ただ」
「ただ?」
「誰か一人を裁いて全ての問題を解決する、だなんて短絡的な処置には何の意味もない。それでは根本的に何も変わらない。年月を経れば同じことが繰り返される」

 それは文輝が生きている間に起こるかもしれないし、死んだ後になるのかもわからない。現実に即していない政は軋轢を生む。そうとわかっていながら、位階や家格、血統といった肩書に縛られて国が滅んでいく様子を見守るのが白帝の授けた宿命だというのなら、文輝は神に祈らない。

「陛下も主上も関係がない。誰が本当のあるじでも、守るべきものを蔑ろにせよという命には従えないし、天意に振り回される政には賛同出来ない。人の世はそこで生きている人によって守られるべきだ。俺は、華軍殿のように苦しむ方をこれ以上増やしたいとは思いません」

 力は武に非ず。威は官に非ず。すなわち武官とは私(し)に非ず。
 「諸志」をはじめとした「五書」が無価値だとは思わない。人として、官吏として必要な徳を説いていると今でも思う。「諸志」が語る理想と文輝が向き合っている現実との間には乖離があるが、その隙間を埋める努力を放棄するのなら、最初から国官など志すべきではない。武官は私人ではない。それを今一度噛みしめた。
 殆ど殺気と呼ぶべき怒気を放っている大仙も、苦虫を噛み潰したような顔をしている玉英も、俯いたまま顔を上げない晶矢も。御史台の兵たちも白襟も、それぞれがそれぞれの答えを胸の内に持っている。その一つひとつを否定したいのではない。
 武力という力で、権威という力で人をねじ伏せて、そうして得たものだけを正しいというのなら文輝は間違っていても構わない。
 十七歳の青い理想論に津が困惑していた。
 その困惑を今一度切り捨てたのは土鈴の音だ。

「黄融」

 景祥が宰相の名を呼ぶ。その刹那、宰相は正気を取り戻し、わざとらしく咳ばらいをした。そして、忌々しさを隠しもせずに文輝の言葉を遮る。

「小戴、妄言も大概にせよ。九品とはいえ、そなたもまだ十七。今、そなたが口を噤むのであれば主上は不問に処すと仰っておられる」
「まだ申し上げ足りぬことがある、と言えばどうされるのですか」
「これより後にそなたが申したことは戴家全体の見解であると受け取るほかあるまい」

 それでもなお申し足りぬことがあると言うのならば好きにせよ。
 宰相は妥協点を示した、という態度を取っているが、どう贔屓目に見てもただの恫喝でしかない。津の一同は文輝の答えを待っている。戴家の全てを背負って立ったことなど、生まれてこの方一度もない文輝は揺らいだ。晶矢はこの重みを常に背負っている。自らの一挙手一投足が一族郎党の命運を左右すると知って、それでもなお晶矢は凛と立っている。敵わない。文輝と晶矢は対等ですらなかったと今更知る。
 文輝の唇が空を噛んだ。
 喉の奥がからからに渇いて、言葉を飲み込んでしまいそうになる。
 文輝の志には本当に戴家の皆を巻き込むだけの価値があるのか。自問して視線が泳ぐ。御史台の兵たちが一様に表情で語る。やめておけ。わかっている。言われなくてもここが引き時だ。わかっているのだ。
 わかっているが、ここで退いて本当に後悔しないだけの自信がない。だからと言って前に進むだけの気概もない。中途半端だ。わかっている。自問自答が何度も脳裏によぎって、それでも結論が出ない。
 宰相が勝ち誇った顔で文輝を侮蔑する。
 結局、弱者は強者に従うしかない。その節理に抗えない悔しさに負けて視線が少しずつ下がる。文輝の視界が薄暗い石畳で覆われきってしまうより、ほんの少し早く、その声が聞こえる。

「文輝、構わん。お前の思うようにしろ」

 声が聞こえた瞬間、文輝の視界がぱっと明るくなる。実際は闇夜のままだったが、一条の光が差し込んだような錯覚を感じた。声のあるじが誰か、なんて振り返らなくともわかる。これは次兄の声だ。文輝より先に振り返った宰相が、苛立たしげに次兄を詰る。

「そなた、自分が何を言っているのかわかっているのか」
「戴家というのはもとよりそのような家流にございますれば、今更言論を封殺なさろうとされることにこそ驚きを隠せませぬ」
「そなた、九品と驕っておるのであろう。私も主上も本気であるぞ」
「政権批判の一つも認められぬような国の行く末など知れましょう。私はまだこの国が生きていると思っておりますが、宰相閣下は未来になど興味がないと仰られるのでございますか? それともこの国に律令よりも重んじられるものがあるのならば、後学の為にお聞きしたいものでございますな」

 国主の感情一つで律令を覆せるというのなら、それはもう専横だ。律令により人民を律してきた。その国の成り立ちを否定してまで、国主の感情を守るのであれば九品などただの顔色伺いの頭数に過ぎない。
 本当に必要なものは何だ。次兄が宰相に問う。宰相は明確な答えを紡ぐことなく、玉英を詰った。

「玉英、戴家に嫁したとはいえそなたも黄家の出。戴将軍の暴挙を諫めずともよいのか」
「お言葉ですが、叔父上。叔父上の仰る通り、私は戴家に嫁した身。されば、戴家の家風に従いたく存じます」

 文輝の中に思考するべき命題を植え付けていったのは玉英だ。その彼女が苦々しく微笑みながら、それでも文輝と次兄の決断を受け入れる。否定するのは簡単だ。一瞬あればいつでも出来る。玉英にとって叔父であり、宰相である碌生に抗うには勇気が必要だっただろう。位階の前では抗弁など許されていない。
 それでも、玉英は彼女の志を通した。
 誰の顔色も窺わず、自らの足で立って理想の為に歩く。
 その道を選んだのは玉英なりの文輝への誠意だ。先を歩く大人としてのけじめだとも言える。
 玉英の言葉は文輝を鼓舞したが、同時に宰相を激昂させる。

「気でも触れたか! 我々がお守りすべきあるじは――」
「俺たちが敬うべきあるじは、最初からそちらにおられる方だということは十分に理解しております。そしてそれは今も変わりありません」

 この場で国主であるものは一人しかいない。景祥が「真実の証明」を成した以上、それを疑うことはもう無意味だ。
 文輝が確かめたいのは政権の在処ではない。
 戴家の命運を懸けて、それでもなお言葉という力を振るうことが許されるのなら、文輝は真実が明かされることを願う。
 だから。

「僭越ながら、主上にお尋ねしたき儀がございます」

 今、この瞬間に主上は我々の字が視えておられないとお見受けしますが、十年前までは二つの名、どちらも視えておられたのではございませんか。
 内府の鎮圧を終えて、右尚書の調べを持ってきた次兄が、その問いを神妙な顔つきで聞いている。
 津にはどよめきが満ちた。

それは、風のように<十三>

十三.
 中城(ちゅうじょう)は今なお混乱している。
 平時であれば、右服(うふく)を着たものが左官府(さかんふ)の小路にいればそれだけで悪目立ちするものだが、今はその気配すらない。戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)の書庫に火が放たれたことで、工部(こうぶ)防災班(ぼうさいはん)から右官が派兵されてきたことが大きな要因となっているだろう。
 王陵の入り口に辿り着くまでに、何人もの左官とすれ違ったが誰も文輝(ぶんき)たちを気にかけていないようだった。左官である棕若(しゅじゃく)の先導で迷うことなく最短距離を進む。怪我を負った文輝は勿論、二人の左官の足は重い。体を鍛えてもいない文官が中城を駆け回ること自体に無理がある。三人ともそれを理解していたが、足を止めてしまうものはいなかった。
 大仙(たいぜん)が王府(おうふ)に辿り着き、戻ってくるまでに約束した場所にいればいい。焦る気持ちを抑え、三人は息を乱しながら駆けに駆けた。
 大路の終着点、内府(ないふ)の正門の前では次兄が反逆者と相対している筈だ。出来るだけ大袈裟に騒ぎ立てて反逆者たちの気を引く。兵部(ひょうぶ)の師団がたとえ一部でも武装して対峙すれば、無視することは出来ない。或いは中城に散らばっている残りの内通者をあぶり出すことも出来れば一石二鳥だ。そこまでを望んでいたわけではないが、次兄のことだ。想定の内には置いているだろう。
 それを信じて文輝は脂汗を流しながら走った。
 大義姉に縫合してもらった傷口から再び血が滲み始めている。わかっていたが、決して足を止めることはなかった。
 左官府に面した王陵の入り口は刑部(ぎょうぶ)の書庫の西隣になる。書庫には過去の判例や、審議の為の調書が保管してあるだけで、優先度は低い。都合五棟ある書庫は塀の内側にあり、通常であれば門兵が配置されているが、今は戸部の火災の善後処理の為に駆り出されているのだろう。人影は見当たらなかった。
 その門の前、塀が少し窪んだ部分に文輝たちは身を寄せる。この小路に入る前に明かりは消した。足音を立てないようにそろそろと進んだから、まだ王陵の衛士(えじ)には気付かれていない。
 そこまでをどうにか確認して、文輝は長い息を吐いた。

「孫翁、大仙殿が来られるまでに少し時間があります。ひとまずお休みください」

 大仙が駆けて行ったのはこの場所とは正反対に当たる。間諜の足がどれだけ速くとも、再会までにはしばらく時間がかかるだろう。手負いの右官と左官二人。その足が遅くとも王府に潜入し、地図を得てくるのにはまだ早い。
 その安堵から文輝は気を散じていた。
 ぽかりと口を開けた土塀。その後ろには百六十年の賞罰を記憶した書庫。
 門兵がいないのなら誰もいない。その状況に気が緩んでいた。
 不意に暗闇の中から「首夏(しゅか)」と呼ばれて、文輝は思わず叫びそうになったのを必死に堪える。本当に叫んでしまわなかったことだけでも賞賛に値する、と思ったのは音の意味を理解したからだ。

「首夏、わたしが内通者ならおまえは既にこの世と別離しているぞ」

 もっと慎重になれ。言われて振り返るとそこには声の主――晶矢(しょうし)がいた。憤然としながらも、小声で叱責されて文輝の鼓動は大きく波打つ。左の脇腹がひと際痛んだ。

「暮春(ぼしゅん)、来るなら来るって言えよ、お前」
「仕方がないだろう。『わたしの通信士』はいないのだから」

 おまえたちの動向は知れても伝える術がない。不満を顕わにした晶矢が不意に横を向く。その横顔に浮かんでいるのは焦燥感と無力感だ。文輝も概ね同じものを顔に浮かべているだろうから、彼女一人を責める意味がない。
 嘆息して、文輝は大きく息を吸った。疾駆と驚愕で乱れた呼吸を少しずつ整える。棕若がほうと溜め息を吐いた。

「阿程(あてい)殿、志峰(しほう)殿とは別行動だったのかな?」

 右官見習いとは言え、女性が単独行動を取るのは問題がある。と言外に含めた棕若の嘆息に晶矢は「なるほど、老体に鞭打つ方が人道に沿っているのだな」と皮肉を返す。棕若と通信士は左官。唯一戦力として数えられる文輝は中科生(ちゅうかせい)で手負い。この顔ぶれに比べれば女性とはいえ、一人で中城を駆ける方が何倍も安全だと言外にあった。
 その皮肉を棕若が曖昧な笑みで受け流すのまでが想定の範囲内だったのだろう。晶矢は別段気分を害した様子もなく、肩を竦めた。

「戴(たい)将軍の指示だ。志峰殿は戴将軍が伴われた」
「お前は今までどうしてたんだ?」
「陶華軍(とう・かぐん)の遺書の分析の補佐だ。要は右尚書(うしょうしょ)の雑用だな」

 昨年の中科で書記官を務めていた彼女には適した任用だと文輝は受け取る。次兄はそこを見越して指示を出したのだろう。人を采配する立場にある次兄らしい判断だ。
 右尚書にいるのなら確かに通信士は必要ない。右尚書令(うしょうしょれい)が国を売っていない限り、身の安全を危惧する必要もない。
 そして、文輝が転送した華軍の文から何かが読み取れるのなら、それに越したこともない。

「何かわかったのか?」

 期待を込めて問う。
 晶矢が暗闇の向こうで苦笑したのが伝わってきた。

「わたしがいても何も進展しないということがわかった」
「暮春、悪辣な冗談を言っている場合じゃないんだが」

 不意に湧いた頭痛に顔を顰めると、晶矢も不本意そうに溜め息を吐く。

「事実だ。母上に送った鳥の返答もない。銀師(ぎんし)は本当に静観を決め込むようだ」

 程家の嫡子である晶矢の文をもってしても、程将軍を動かすことは出来ない。或いは晶矢が嫡子であるからこそ、程将軍が動かない可能性が残る。文輝は程将軍が王陵(おうりょう)の地図を手配してくれる方に賭けて大仙を走らせた。
 銀師の静観が確定事項なら大仙の強行は無駄足になる。
 そのことを一息で把握した棕若が先に口を開いた。

「それは確定なのかな、阿程殿」
「主上と宰相閣下は禁裏。右府(うふ)様は城下。内府様は公地(こうち)。指示の出しようがない。右尚書令殿が頭を抱えておられる。確定でないに越したことはないが『新王』を推されることこそが最悪の事態だろう」
「その『新王』は今どこにいるのか、君は知っているね?」
「公地の津(みなと)から上陸する予定だと御史台(ぎょしだい)の斥候が報告してきた」

 今は河面に三艘の船が浮かんでいる。津の衛士は完全に混乱しているが、上陸の許可はまだ出していない。
 それはつまり、文輝たちに残された時間が少ないということを意味している。
 大仙の戻りを待つべきだ。わかっている。それでも気持ちは逸る。脇腹の傷がつきつきと痛む。軍医である玉英(ぎょくえい)にもう一度、処置をしてもらわなければならない。
 焦りと緊張が判断力を奪う。
 これ以上、棕若に駆け続けろというのは不可能だ。彼の通信士にしてもそうだろう。
 そうなると文輝と晶矢の二人で王陵に飛び込んでいくことになるが、それは自殺行為だ。通信士を伴わず、内部の情報もない夜の王陵で迷わない確率、を計算すること自体が無意味だ。王陵の中は深い森になっている。
 少なくとも、大仙の持って帰ってくる地図か、別の通信士――望ましいのは赤環(せきかん)だ――かのどちらかが必要だ。

「孫翁、この付近で信じるに値する通信士はどこにおられますか」

 戦務長(せんむちょう)の企てが始まってから、幾つの環が偽造されたのか未だ定かではない。定かではないが、多くの通信士に嫌疑がかかっている。どの通信士を用いるのかを誤れば、動乱はより昏迷を極めるだろう。
 だから文輝は人事官である棕若に問うた。
 視線の先で、棕若が肩を竦める。

「緑環(りょくかん)であれば、息子たちが知っているだろう。そのぐらいの調べは済んでいる筈だ。ただ、君はそれを望んでいない、そうだろう?」
「王陵を俺たちと同じ速度で全力疾走出来る方であれば環(かん)の色が何でも構いません」
「その条件なら、黄(こう)将軍の通信士を待つのが一番早いと判じるしかないね」

 文輝が何をしようとしているのか、棕若はもう気付いている。大仙が戻り次第、文輝や晶矢と共に通信士が王陵へ飛び込む。体力の限界を超えた棕若と大仙は王陵の前に残るしかない。棕若の通信士は文輝たちと同じ速度では駆けられないから、同道するだけ無意味だ。
 地図と通信士、どちらか一方でも欠けてはならない。
 だから今は待つべきだと棕若は言う。
 文輝もそれは理解したが、解決には至らない。
 返す言葉で晶矢に問うた。

「暮春、志峰殿は今どちらにおられるんだ」
「孫翁の鳥を受けておまえの小兄上(あにうえ)の通信士の一人を務めている。今から呼ぶのは黄将軍の通信士を待つのとさして変わらん」
「じゃあどうしろって言うんだ!」

 焦燥が喉元から飛び出る。語気を荒げて、その切迫した音に文輝自身も少なからず驚く。棕若が文輝の両肩を宥めるように叩いたことで、ふと我に返る。晶矢が「衛士に聞こえるぞ」と声をひそませた。

「冷静になれ、首夏。お前は大仙殿を信じたのだろう。間に合うと思ったのだろう」
「そりゃそうだが」
「おまえの大義姉上(あねうえ)にしてもそうだ。孫翁から鳥を受け取って、のんびり歩いてこられるような方か。わたしは黄将軍をよく存じ上げないが、少なくとも動乱の岐崔にあって無条件に信じてもよい方のお一人だと思うが、お前は違うのか」

 その問いには首を横に振ることで否定する。晶矢が言うのは正論だ。わかっている。冷静な顔をしているが、その実、晶矢も焦っている。それは彼女が通信士も伴わずにここまで赴いたことが証明していた。
 わかったよと一つ息を吐いた。

「それよりも首夏。傷はいいのか」
「衛生班の下働きをした経験で言えば、非常にまずい」
「本物の馬鹿だな、おまえは。どうしてそれを先に言わないんだ」
「言っても何も変わんねぇし」
「馬鹿を言え。わたしを誰だと思っているんだ」

 怪我の応急手当も工部総務班付き案内官の業務のうちだ。
 非常に心外だという顔をして彼女は右服の懐から白布を取り出し、文輝に上着を脱ぐように求めた。その表情には否定を許さない強さがあって、文輝は自らが折れるという選択肢しか残っていないことを悟る。右官には有事の覚悟がある。今更、相手が年頃の乙女だから素肌を晒すのに抵抗があるだとか、気恥ずかしいことを言うつもりもない。
 お互いそれは大前提として理解していた。
 応急処置をしてもしなくても、玉英の到着を待つのなら大きな違いはない。それでも、失われる血は一滴でも少ない方がいい。
 だから、結局のところ文輝は肌寒い気温の中、右服の上着を脱ぐことを選んだ。
 棕若の通信士が何羽か鳥をやり取りする合間に、晶矢の手当てが終わる。業務のうちだと言った台詞に偽りはなく、衛生班に所属していた文輝の目にも彼女の手当ては適切に見えた。文輝自らの希望で、布を少しきつめに巻いてもらう。
 そうして、焦燥と再び出会う頃、その気配が文輝たちの眼前に現れた。

「小戴」

 切れ切れに文輝を呼ぶ声に目を凝らす。
 暗闇の中に大仙の輪郭がぼうと浮かんで見えた。少しずつ鮮明さを持つ彼の姿は大きな怪我こそないものの、概ね満身創痍と呼ぶに相応しい。右官府の小路で別れたときとは全く違う衣服を身に纏っているが、その眼差しは何も変わらない輝きを放っている。地図が得られたのだ、と察するのに数瞬。そして、文輝は感謝の言葉を口にするより早く右手を差し出した。自らの血で汚れたその手のひらに一通の書状が乗る。この状況に置かれるのは何度目だ。既視感と安堵でないまぜになった胸中を無視して、文輝は書状を握る。

「大仙殿はここで孫翁を」
「わかっている。だが、小戴、お前が己れのあるじを損なうようなことがあれば、絶対に許さん。九品も戴家も律令も関係がない。己れはお前に必ず報いる」

 大仙は報復の意で報いると言った。それは理解している。
 だから、敢えて言った。

「前向きに報いていただけるよう、善処します」
「善処ではない。確約をしろ、この大馬鹿もの」

 これだけ軽口が叩けるのなら、大仙はまだ戦力のうちに計算出来る。その確証を得て、文輝は棕若と対峙した。朱色の鳥が文輝の目の前で棕若の肩に舞い降りる。尾羽の紋が文輝の希望をいっそう強く輝かせた。
 棕若が迷いなく伝頼鳥を復号する。彼の表情にもまた安堵が浮かんでいた。

「孫翁」
「黄将軍も、間もなく来られるそうだよ」

 その言葉通り、東の方から二人分の足音が響く。王陵の衛士がその音に気付いて警戒しはじめたが、通信士を伴っていないことは既に確認している。衛士が内通者であっても、見習いも含めて五人の武官で取り押さえられない筈がない。棕若は書庫の前をそっと離れた。

「誰だ。当地に何の用があって出向いている」
「ここは王陵である。典礼部の許可なく立ち入ることは認められん」

 二人の衛士が異口同音に進入を拒む。
 それに臆することなく、棕若が対峙した。

「左尚書令、孫棕若である。非常の事態ゆえ、押し通らせていただこう」
「典礼部の許可はお持ちか」
「その是非は全てが終わったのち、この首をもって問うていただく。小戴殿、あとのことは君たちに任せたよ」

 棕若の横顔が文輝たちを振り返り、目配せする。それを合図に、文輝たちは王陵へ向けて駆けだした。棕若のことは大仙がどうにかしてくれるだろう。
 だから、今すべきはこの王墓を抜けて、当代の国主を守ることだ。そう言い聞かせて駆ける。背中の向こうの喧騒があっという間に遠ざかっていく。

「文輝殿、王陵の地図を」

 その声に文輝は握っていた地図を玉英に渡す。彼女の通信士が「まじない」で明かりを灯し、二人が先導する形になった。道と呼べる道のない森の中を僅かな手がかりだけで駆ける。誰も何も言葉を口にしない。それでも気持ちは同じ方向を向いていた。
 王陵の中は広い。中城の西側を占める王陵から国主の住まう禁裏までは最短距離を駆けても、四半刻はゆうにかかる。しばらく体を休めていたことで、幾らか回復していた文輝の体力もあっという間に尽きそうになる。それでも誰も足を緩めない。広大な森の中へ四人分の足音が吸い込まれては消える。いつ終わるとも知れない暗闇の中を駆け続け、そして、とうとうその石門が一行の目に飛び込んできた。

「大義姉上」
「衛士は私と彼にお任せなさい。あなたたちは一刻も早く主上のもとへ」

 玉英と彼女の通信士が文輝たちを残して先に門へと飛び込む。門柱の両側に立っていた二人は言葉を発する間もなく、二人の右官に拘束された。速度を緩めることなく、文輝と晶矢はその間を駆け抜ける。再び現れた石畳の上を全力で疾駆すれば、靴音が暗闇に響いた。
 玉英の脇を通り抜ける際に、文輝は王陵の地図を再び受け取った。その裏に禁裏の地図が書かれている。非常事態に見舞われた禁裏はあちらこちらに松明が灯されている。通信士の明かりがなくとも、十分に駆けることが出来た。

「暮春、津(みなと)か」
「津へは次の角を北だ」

 その指示通りに角を曲がる。そのあとも地図の通りに禁裏を駆け続けた。
 しばらく駆けると城壁の向こうから人の声が聞こえる。津だと二人は直感したが、地図を見ると次の門扉がある場所まではまだ遠い。だが、城壁は文輝たちの伸長を遥かに超え、とても登れる高さではない。二人は顔を見合わせ、逡巡した。次の門扉まで駆ける方が早いという結論に達し、駆け出そうとすると不意に人の気配を感じる。内通者かと思い、身を固くした。中科生二人では分が悪い。最悪の事態が二人の脳裏をよぎった。
 が。

「判断を逸るな、若人よ」

 松明に照らされたその顔には確かに見覚えがある。彼が内通者であればこの国はもう滅んだに等しいから、疑うのは馬鹿げている。それを一拍で理解して、文輝たちは警戒を緩めたが、同時に別の意味で緊張感を強いられた。

「宰相閣下であられますか」
「いかにも。私が黄碌生(こう・ろくしょう)である」

 その名乗りに二人は脊髄反射で拱手し、膝を折る。雲上人に対して顔を上げていられるほど、文輝たちは無礼ではない。九品の子息として生まれたその日から、礼儀作法はとことん叩き込まれた。今、文輝が相対した初老の男は間違いなく宰相で、この後宮に立ち入ることを正式に許されている。律を破り、無断で侵入した文輝たちはこの場で首を刎ねられても文句は言えない。生家である九品もまた、そのことに抗議する権限すら持たない。
 だから、膝を折った二人は正真正銘、その命を懸けて宰相に相対した。
 宰相が二人の頭上で「よい、面を上げよ」と鷹揚に言う。礼儀を守れば、文輝たちはあと三度、同じ言葉を聞かなければならないが、宰相の声はそれを求めてはいなかった。視線で晶矢とやり取りして、間をおかず揃って顔を上げる。
 儀礼の際に段上で見た尊顔が目の前にいる。そのことに緊張しないものがいるのなら、それはきっと国主一人だけだろう。
 宰相が問う。

「九品の子息が揃って造反というわけでもないだろう。禁裏に何用か」

 返すべき答えのわかりきっている問いだった。それでも問われたのだから答えねばならない。今度は目配せすらせずに同じ文句を揃って紡ぐ。

「主上をお助けに参りました」

 中科生の分際で生意気だと言われてもよかった。
 お前たちに何が出来ると嗤われても構わなかった。
 多くの人間の気持ちを背負って、文輝たちはここにいる。戦務長に真意を問いたかったのではないかと聞かれると否とは答えられない。疑いたくないという気持ちもまだ残っている。
 それでも、文輝は官吏である以前に、国主が治める民の一人だ。
 戦務長が引き起こしたことで多くの民が災厄を被った。万民、万官。その代表で来たなどと傲慢なことを言うつもりはない。
 ただ、自らが拝戴したものを守りたいという気持ちに偽りはない。その正道の為にここまで来た。戦務長がしてきたことは、文輝の守るべきものを傷つけている。文輝は自らの為に民を犠牲にする道を選ぶことは出来ない。自らの為に犠牲になるべきは自らだけだと確信している。
 だから。

「そなたは右将軍も持たぬ主を拝戴すると申すか」

 宰相の問いに晶矢が躊躇いなく答える。

「それでも主上は二十五年間、我々のあるじであられました。陛下のお心がないのであれば、いっときたりともそれは許されなかったと存じております」
「陛下が変革を望まれたとは思わなんだか」
「閣下はご存知の筈です。主上に、あるじたる不足はございません」
「その理由をきこう」
「大義名分に酔い、無為に民を傷つけ、自らをのみ顧みるものを陛下は望まれません」

 それとも、閣下は主上を拝戴することを拒まれるのですか。
 挑発めいた問いで晶矢が言葉を締め括る。彼女の視線と宰相のそれが重なり合ったまま、数瞬がすぎた。
 そして。

「よい。九品を疑った私が間違っておった。そなたらは実に不思議よ」

 息をするように正道を説く。私もその生まれがあればと何度望んだことか。
 宰相が不意に表情を緩めた。その眼差しの中には慈しみがある。ほんの少し、羨みもあった。その全てを正面から受け止めて、文輝たちはゆっくりと立ち上がる。

「閣下、主上は今、いずこにおられますか」
「主上は後宮におられる。『新王』を名乗るものが津から上がったという報があった。そなたらも共に来るがよい」

 そして見定めろと言われているのだろう。「新王」に会って、それでも九品が当代の国主を選ぶのか。試されているような気がした。
 銀師――晶矢の母は静観を選んだ。お前はどうする。問われた晶矢はぐっと胸を張ることで答える。それにつられて文輝も顎を引いた。宰相の眦が不意に細くなる。
 それは一瞬のことで、次の瞬間には彼は冷徹な能吏の顔をして文輝たちの地図とは異なる方向へ歩き出した。

「閣下、津へ行かれるのでは?」
「こちらの方が近い。そなたらの持っている地図は銀師に用意させたのであろう? あれらには知らぬ道があるのでな」

 宰相しか通れない道があるということも、静観を選んだ筈の銀師が王陵や禁裏の地図を流出させたことを見抜かれていることも、二人を困惑させたが、今悩んでいい問題かどうかぐらいの分別はつく。あとで大仙や程将軍から叱責を受ければ済む話だと片づけて、二人は宰相の後を追った。
 津では三人の男と十数名の官吏たちとが睨み合っている。貴色である白襟の官服を身に纏っている方が禁裏の官だ。それを裏付けるかのように、攻囲された三人のうちの一人はよく知る顔だった。

「戦務長」

 呟いた声が絶望に近い響きだったことに文輝自身すら驚く。
 心のどこかで、華軍も戦務長も無実であれと願っていた。この動乱自体が何かの間違いで、二人は利用されただけだと信じたかった。
 だのに現実は非情だ。見間違えることのない上官の顔。彼らの後ろに控えるのは九尺の大男で、筋骨隆々としている。その一番奥で偉そうにふんぞり返っている、少なからず気品を持つ男。誰が誰かなんて問うまでもない。
 それだけでも十分に絶望出来る状況だったが、戦務長が盾のように羽交い絞めにしている少女の姿を見て、文輝は絶句した。
 どうして。唇が音を紡がずに空を切った。
 文輝が視認したのと前後して、少女の方も文輝に気付いたのだろう。切実な声が文輝を呼ぶ。

「小戴殿!」

 その声には十二分に救助を求める響きがあって、文輝は不意に胸を打たれた。どうして伶世(れいせい)がここにいるのだろう。彼女はただの女官見習いの中科生で、文輝よりよほど分を弁えている。そういう結論に達して、彼女を戦務班に残してきたのではなかったか。記憶を手繰って、何度確かめてもそれ以外の答えが見つからなくて、気付けば文輝は叫んでいた。

「戦務長、伶世は関係ないはずだ!」

 戦務長がどうして国家転覆を願っているのかは知らない。彼の後ろに控えた右将軍を名乗る男も、その後ろで状況を見ているだけの男も、どうやって戦務長と知り合ったのか知らない。文輝は岐崔の外のことを何も知らない。
 それが罪だというのなら、直接文輝に問えばいい。
 それでも。そうだとしても。
 国主や国官と対峙する盾として、無関係な少女を用いるだけの正当な理由を文輝は知らないし、知りたくもない。憤りが胸中に満ちた。
 文輝が顔色を変えたのに晶矢が気付く。背中しか見えない宰相は怒りを通り越して呆れているようだった。

「首夏、彼女は誰だ」
「岐崔で十代続く由緒正しい農家の娘だ」

 中科が終われば、別の農家へ嫁ぐことが決まっている。女官見習いは花嫁修業だと告げると晶矢は怪訝そうな顔をした。

「その肩書きでは人質としての価値を見出せないが?」

 その意見には文輝も同意する。だとしても、現実問題として伶世は人質に取られているし、禁裏の官吏たちは伶世を見捨てるわけでもなく躊躇している。戦務長の主張する真なる国主の扱いだけに困っているのではないことは明白だ。
 国主と宰相を守るのが禁裏の役目なのだから、民間人の少女一人を切り捨てるのに迷う必要はない。国防の為の犠牲にいちいち心を痛めるのは後で十分に間に合う。
 それでも、官吏たちは伶世の存在に動揺している。
 文輝と晶矢の逡巡を嘲笑うように戦務長が一歩前に進んだ。
 攻囲していた官吏たちが同じだけ後退する。違和感しかないその光景の中心で戦務長が嘲笑った。

「小戴、九品とは哀れな存在だな」

 九品であることに縛られ、人よりも優れていると誤解し、全てを手のひらで転がしているつもりでその実何も知らない。初代国主に付き従った譜代の将たちは真実名将だったかもしれない。それでも、文輝はおろか程家を継ぐはずの晶矢ですら知りえない事実がある。
 宰相と禁裏の兵たちはそれを知っている。知っているから、血相を変えて誰かの指示を待っている。その間にも戦務長はまた一歩前に進む。攻囲はまた一歩後退した。

「閣下!」

 背中を見せたまま何の指示も出さない、この場の最高責任者を呼ぶ。宰相は「中科が終わればそなたらにも知れること」と言いながら文輝たちを振り返った。その眼差しには複雑な色が浮かんでいる。

「そなたらが農家の娘――『方(ほう)伶世』だと思っているあの方は、主上の姫君であられる」
「主上の」
「姫君、だと?」

 宰相の言葉が持つ重みに文輝と晶矢は顔を見合わせる。歴学の講義で国主の子に女はいないと教わる。今年齢二十になる太子(たいし)を筆頭に男子ばかりが世に生まれた。御史台で文輝たちの横面を強か殴りつけた新しい現実が、今一度襲ってくる。歴学の講義は何の役にも立たない。
 宰相の言う通り、国主に娘がいるのなら匿う必要はない。女子というのは概ね婚姻による政略を担う存在で、西白国にあってもそれは何ら変わりない。まして国主の娘ともなれば外交の駒として利用されるのが当然だ。
 首府で暮らす以上、農民といえども一定の格式はある。
 だとしても、国主の娘という立場を伏せ、農家で育てることに何の意味があろうか。
 そのことが文輝たちの表情に浮かんでいたのだろう。宰相が若干の淀みを残した声色で語る。

「そなたらも知っておろう。主上は二十五年もの間、御身の正当性を自ら問うてこられた」

 純血の白氏ではない、右将軍を伴わない。朱氏の血統を現す色味の明るい瞳。その瞳に何を映し、何に心を痛めてきたのかは国主自身しか知らない。宰相が知っているのは、国主が憂えているということだけだ。その痛みの程度も、悩みを解決する術も国主以外には見つけられない。宰相はその二十五年、痛みを抱え続ける国主に寄り添ってきた。
 宰相の淡々とした言葉を遮って、暗闇に嘲笑が飛ぶ。誰のものかは確かめずともわかる。戦務長がまた一歩前に進んだ。

「滑稽なことだ。俺が今日、ここに来ることを知っていたとでも言いたいのだろうが、それがわかっているのなら速やかに王位を奉還するべきだろう。二十五年もの間、自らを偽っておいて今更偽善者ぶるなどと甘えも甚だしい」

 ただ娘が可愛かっただけだ。欺瞞だと戦務長が切り捨てる。宰相がわかりきっているだろうに戦務長に問う。そなたの望みは何だ、と。

「陛下の寵を受けていない偽りの国主の廃位と、本来そこにあるべきものへの祝福。民を偽った国官の一新。俺が求めているのはその三点に尽きる」
「右将軍を伴うその男が新王であると?」
「いかにも」

 先の国主が朱姫(しゅき)を訪った際に下女と身分違いの恋をした。その証が新王を名乗る男であり、新王は白氏の血統を保っている。白帝の与えた右将軍を伴っているのが、その最大の証明だと戦務長は主張する。
 右将軍を右将軍足らしめる要件を文輝は知らない。
 文輝の生まれたときには既に現在の国主の治世になっており、右将軍の姿を見たことがない、というのが最大の理由だ。右将軍が右将軍と称するその名の通り、右官――武官の最上位にあるとされる。だから、右官に任命されたのなら無条件で右将軍を敬う。その、志すべき最上の存在を知らずに文輝は十七になった。
 父や兄たちは右将軍を知っている。知っているが、彼らが現在の国主が右将軍を伴わないことを批難したことは一度もない。それをもって、文輝は現在の国主を自らが奉戴すべきあるじであると認識したし、今でもそれは変わっていなかった。
 大仙に問うた言葉を胸中で反芻する。
 あるじをあるじ足らしめる合理的な理由を求めるほど文輝は武官としての道を踏み外していない。
 それでも、一つだけわかっていることがある。
 国主の座にあるものがあるじだ。文輝たちは白帝の庇護のもとにあり、白氏の共通認識としてあるじと親以外の存在に「名」を呼ばれることを本能的に許さない。その最大級の侮辱を受けたのなら、位階や環の色に関係なく報復することが律令によって認められている。
 だから。
 戦務長の擁立した男が誰かの「名」を呼べば全ての問題は解決する。
 当人と名を付けた親しか知らない「名」を知っているのは国主の座にあるものだけだ。どういう仕組みかはわからない。それでも、百六十年の間、国主はその特権を許されてきた。
 特権が既に失われ、新たな場所へ移動したことを証明したいのならなおさら新王は「名」を呼ぶべきだ。それを見せつける相手として、十分に不足ない宰相という存在がここにいる。
 宰相はそれを承知しているのだろう。戦務長の返答にも鷹揚に構え、慌てることがない。

「そなたの後ろの男が真実、新王足りえるのであれば右将軍の名を知っておるはず。どれ、ひとつ名を呼んでみせよ」

 歴学、礼学、志学。国の成り立ちと神話については初科の講義で学ぶ。だが、右将軍の名はどこにも記されていない。神の範疇にあるが、人の中に生まれ、人と同じ感情の機微を持ち、そして人と同じように老いて死ぬ。ただ、先代の右将軍と同じ魂が巡っているとされる。先代の記憶を受け継ぐかは白帝しか知らない。それでも、魂と紐づけられた「名」が失われることはない。
 宰相はその「名」を見出したからこそ、右将軍が新王に付き従っていると判断した。
 それ以外に国主としての正当性を主張する術はない。
 戦務長が薄く笑う。彼もまた、その正当性を主張出来ると言わんばかりの酷薄な笑みだった。ゆっくりと振り向いて、新王を名乗る男に目配せする。新王が躊躇いながら、その名を紡いだ。

「瑞丹(ずいたん)、近う寄れ」
「是(はい)、主上」

 新王の呼びかけに答え、右将軍が一歩下がり膝を折る。
 ただそれだけのことだったが、白襟の官吏たちが動揺するには十分すぎる効力を持っていた。ざわめきがあっという間に伝播する。津はそれだけで十分に混乱を極めた。
 その、喧噪の渦中にありながら、宰相の眼差しだけが冷え冷えとしているのに気づいたとき、文輝の背中を悪寒が駆けあがる。多分、宰相はまだ何かを隠している。
 自らの優位性を示した戦務長が得意げに言う。

「これでわかっただろう。お前たちの守るべきものはどちらだ」

 道から外れたあるじを奉戴するのがお前たちの矜持か。畳みかけるような言葉の攻勢に攻囲が三歩退く。白襟の官吏の一人が宰相と戦務長を交互に見た後、雄たけびを上げて剣を抜いた。
 そして。

「死ね、逆賊!」

 困惑を瞳に浮かべたまま、白襟が罵声を吐く。抜き身の剣が宰相を襲うのを、文輝も直刀を抜刀することで応じる。宰相は左官出身だ。戦闘など出来る道理がない。今、文輝に出来ることがあるとすれば、石門で別れた大義姉が通信士と共に追いつくまで、宰相を信じ守ることとだけだ。
 斬撃を直刀で受ける。華軍と戦ったことで刃こぼれしているが、防戦に徹するのならそれほど不利でもないと判じた。二度、三度と斬撃は続く。
 状況が戦務長の優位を告げる。その気の緩みが彼の腕の中にいたものを拘束する手の力を抜いた。伶世は女官見習いだが、右官府の見習いだ。戦えずとも、諍いの場でどうすれば己の身を守れるかは理解している。逃げるなら今しかないことを見抜き、全力で戦務長の二の腕に噛み付いた。
 戦務長が思わず悲鳴を上げる。
 それを合図に晶矢が白襟をかき分けて攻囲の中へ飛び込んだ。そして、彼女の最善で伶世の手を引く。戦務長が再び伶世を拘束するだけの余裕を与えずに、今来た道を全力で駆け戻れば怒号が響く。戦務長が人質を失って激昂している。

「何をしている! 捕えろ!」

 しかし、その怒号に応じたのは文輝が対峙した白襟の官吏だけで、残りは今も正当なる国主が誰か、判断しあぐねていた。その隙間を縫って晶矢が伶世を保護する。防戦の合間、横目で彼女を見ると青ざめ、がたがたと震えている。女官見習いの伶世の人生は暴力とは縁遠かったに違いない。生まれに偽りがあったことも知らないだろう。その伶世を捕まえて、動乱に巻き込んだ戦務長に対して怒りが湧く。
 伶世が真実、国主の娘なのだとしたら公地にいる余(よ)内府を動かすのは簡単だっただろう。津にあって、新王の上陸を許可させたのにも伶世の存在は影響した筈だ。
 ただそれだけの為に、彼女は平穏と未来永劫別離した。その罪は誰が背負う。その罰は誰が受ける。国主の是非を問うのなら、自らの手腕で臨めばいい。
 それも出来ないで、万民万官を巻き込むなどというのはどうあっても許されるべきではない。その程度の志ならばさっさと折ってしまえばいい。
 自らの欲の為に積み上げる感情を志と呼ぶことは出来ない。そんなものは志である筈がない。
 だから。
 斬撃を繰り返す白襟の胴に回し蹴りを放つ。錯乱していた男は勢い余って後方に飛んだ。立ち上がろうとした白襟の肩めがけて矢が放物線を描く。美しい曲線で飛んだ矢が、彼を地面に縫い付けた。誰が放ったのかなど確かめる必要もない。
 初科の実技でどうやっても敵わなかった弓手が一人だけいる。譜代の弓兵の家系、その血統を継ぐために育てられたのが晶矢だ。

「劉校尉(こうい)、貴官は九品を哀れだと嗤ったな。その言葉をそっくりそのまま貴官に返そう」

 目先のことしか考えられない。大局の見えていない宰相などわたしは認めない。
 中科生がどの部署に割り振られるのかは、左官府戸部適正班(てきせいはん)の資料をもとに各部署が出す人事希望届に拠って決まる。
 文輝や伶世が兵部警邏隊戦務班に任じられたのは、戦務班の長である戦務長が望んだからだ。各部署の希望する人材が重複する場合、公正を期すためにくじ引きが行われる。二人を求めたのが都合よく戦務班だけだったということはあるまい。にも関わらず戦務班に文輝たちは任じられた。今年の人事が決まった時点で戦務長は既に動乱を企てている。偽りの環を持った右尚書の官が裏で手を回したのだと推測するのはあながち間違っていないだろう。
 九品の子息。国主の娘。
 この二つの駒を得て、戦務長が動乱の実行を決めた。
 華軍が知っているだけでも十年以上、水面下で計画されたこの動乱がいっときの気の迷いでないことは確かだ。十年以上の間、戦務長はただ一心に国主を呪い続けてきた。文輝にその感情は理解出来ない。何を求めて文輝を戦務班に呼んだのかもわからない。
 わからないのに、文輝は気づいてしまった。
 新王を擁立して、右将軍を招請して、城下を焼き、公地の安寧を乱し、禁裏に押し入った彼は自らが望まれることを切望している。晶矢の否定を聞いた瞬間の絶望と憤怒が、何よりも雄弁に語る。
 そして、その怒号が津に響いた。

「たかが九品の子息が大口を叩くな! 将軍、その武を愚民どもに見せつけてやれ!」

 戦務長の激昂に押された右将軍が長槍を構え、白襟たちを急襲する。国主を守るべき右将軍の膂力は尋常ではない。数人がかりで対峙した白襟たちが一瞬で地に伏す。文輝は宰相を、晶矢は伶世を背に得物を構えた。本能が死を予告したが、逃げるという選択肢はない。ここで宰相を守らなければ戦務長の企ての一部は叶い、華軍の託した希望は霧散する。
 九品だからではない。
 右官としての使命に文輝と晶矢は身構えていた。
 勝算のない戦いだ。わかっている。それでも戦わなければならない。文輝の直刀にはもう攻撃に耐えられるだけの力が残っていない。弓兵の一人から奪った弓矢を構えている晶矢にしてもそうだ。中科生二人で何が出来るわけでもない。
 白襟の最後の一人が吹き飛ばされ、右将軍の双眸が文輝たちを射る。その殺意に文輝は戦慄した。それでも、九品の矜持だけが直刀を握らせる。晶矢が深く息を吸って長弓の弦をゆっくりと引く。矢羽が一瞬だけ鳴いて弧を描く。長槍が寸分の狂いもなくそれを叩き落とす。槍を振るった間隙を縫って文輝が右将軍の間合いに飛び込む。直刀の刃が右将軍に触れることなく、石突で払われる。その力の強さに文輝の足元がぐらついた。体勢が崩れる。右将軍はそれを見逃さず、長槍で突きの挙動を取る。晶矢が二本目の矢をつがえ、放つことで文輝を守ろうとする。間に合わない。
 その、絶望を極めた状態で津に長靴の音が響いた。

「文輝殿!」

 飛刀(ひとう)が立て続けに五つ、右将軍を襲う。それらもまた彼の長槍によって全てが弾かれ、石畳の上に転がった。固い音が響き、その瞬間機を察した文輝は直刀を拾って全力で後退する。
 将軍位を持ちながら、人を傷つけることを厭い、人を守ることを選んだ玉英の姿がある。彼女は軍医だ。それでも、西白国で将軍と呼ばれる以上、有事の際には戦うだけの覚悟がある。玉英は「新王」ではなく当代の国主、朱氏(しゅし)景祥(けいしょう)をあるじと選んだ。だから彼女はここで景祥を守る為に得物を構える。

「大義姉上、ご助力ありがとうございました」
「遅くなりましたが間に合って何よりです。衛士殿は私たちの通行を黙認してくださるそうですよ。と言っても、閣下がここにおられる以上、黙認で済む次元は既に超越してしまったようですね」

 複雑な表情で玉英が宰相を見る。宰相は目の前の出来ごとに顔色を変えるでもなく、ふっと息を吐いた。

「久しいな、玉英」
「叔父上におかれましてはご武運長久にて祝着至極、と申し上げたいところですが、それは後にいたしましょう」

 武運がいずこにあるかは、この難局を乗り切った後に知れることです。
 言って玉英の目の色が変わる。
 文輝を先頭に通信士、玉英、そして晶矢が陣形を成す。宰相が伶世の手を引いて、後方に下がった。

「小戴殿、私は――」
「伶世、気にするな。お前が本当のことを知ってても、何も知らなくても、お前は間違いなく『方伶世』だ。それでいいじゃないか」
「でも」
「じゃあ、伶世。全部終わったらゆっくり話そう」

 伶世が知っていることも知らないことも、文輝が知っていることも知らないことも。
 全部ぜんぶ、終わったあとで宰相や国主を交えて答え合わせをしようと文輝が言うと伶世が泣きそうな声で小さく「是(はい)」と返すのが聞こえた。
 その声が闇に掻き消えるのが合図だった。