雑記

それは、風のように<十二>

十二.
 文輝(ぶんき)は走っていた。
 華軍(かぐん)を見つけた白帝廟(はくていびょう)から内府(ないふ)の正門までは全力で駆けても半刻はかかる。夕方頃から駆け通しの上、華軍との戦いもある。文輝の体力は既に尽きようとしていた。それでも、文輝はなお走った。喉の奥に鈍い味が広がる。肺腑は休息を求めていた。息が上がる。
 文輝が受け取った椿色の書状の内容は既に内府御史台(ぎょしだい)へ転送した。戦務長(せんむちょう)――劉子賢(りゅう・しけん)が望んでいるのは国家転覆だ。郭安州(かくあんしゅう)で立った新王と名乗る男を擁立し、自らは宰相(さいしょう)の位を望んでいる。その望みを果たす為に、戦務長は現在の国主と宰相を弑(しい)するつもりだ。
 だが、標的の二人は内府・王府・禁裏と三重の守りの向こうにいる。平時であれば、それだけでも心強いが、謀略で何人もの内通者を送り込まれた内府は防壁としての機能を失っている。それどころか、中城から王府へ救援を送るのを遮る障壁として利用されるのは明白だ。
 御史台の部隊を中城の方々へ派兵したのも、戦務長の目論見の一部だったと知り、文輝は自らの預かり知らぬところで起きている動乱の大きさに眩暈がする思いだった。内府三部のうち、武力として計算出来るのは御史台と近衛部(このえぶ)の一部――衛士(えじ)だけだ。それらを内府の外へ放出する為に中城で事件を起こした。戸籍班(こせきはん)の書庫を焼き、証拠隠滅を図るのは「ついで」だった、と華軍は白墨で記している。戦務長の目的が果たされたなら、戸籍簿は大きな意味を持たない。戸籍簿は本来、環(かん)という仕組みの根幹にある。環を撤廃するほどの改革を行うのであれば、現存する戸籍簿などただの紙束だ。どの道、破棄される。
 それと知らずに、文輝たちは内府に駐屯していた御史台の部隊を中城へ派兵し、中城のあらゆる官吏に下城を禁じた。どこまで計算されているのか。それを考えると文輝は猜疑心に支配されてしまいそうだった。
 御史台を飛び出す前に、大仙(たいぜん)が口にした言葉が耳に蘇る。第三の事件は城下で起きる。華軍の書状にもその旨を肯定する一節があった。城下の北端は公地(こうち)であり、岐崔に三つしかない津(みなと)の一つを擁している。三公(さんこう)と国主の一族だけが使うことを許されたゆえに、津は禁裏に通じていた。
 公地と官舎街は高い外壁で隔たれている。公地の門では関を通るのと同程度の検査を受けなければならないから、御史台の部隊や右官府の部隊が立ち入るまでに時間がかかる。
 その立地を戦務長は利用するつもりだ。
 戦務長自らは何らかの手段を使って――おそらく典礼部に紛れ込ませた内通者を媒介として公地に入り、東部街道沿いの官舎街で火災を起こす。そうすれば中城から駆け下りてきた部隊の足止めが出来、公地の住人は防災の為に門扉を閉ざす。皮肉にも、公地に住まう三公自らが戦務長を守ることになるのだ。
 そうなる前に文輝たちの誰でもいい、誰かが国主を守らなければならない。
 でなければ、戦務長の擁立した新王が国主の座を簒奪してしまう。
 だから、文輝は両の手足が千切れそうになっても必死に駆けた。御史台はまだ陥落していないが、これ以上、部隊を派兵することは叶わないだろう。大夫と通信が出来るうちに、誰かと協力して禁裏まで押し通る必要がある。
 中城のどれだけが内通者なのかもわからない。最悪の場合、中城が戦場に変わる。そのときに、文輝一人では心許ない。一刻も早く通信士を伴った誰かと合流しなければならないのは自明だ。だから駆けた。
 その肩にひらりと朱色の鳥が舞い降りる。伝頼鳥は暗闇の中では宛てられた相手にだけ光って見える。ゆえに鳥の尾羽に刻まれた紋の判別で困ることはない。文輝の肩に停まった伝頼鳥の尾羽には八弁の花。昼間に晶矢(しょうし)の肩で見たのとは少し違う、戴家の花紋だった。
 その紋に心が揺れる。それでも、鳥は復号すればただの料紙に戻ってしまう。明かりのないこの場所で文を読むことは出来ない。揺れる心を必死で押さえつけて走った。
 次の角を曲がれば大路に出る。大路に出れば、正面が内府の正門だ。誰かが待っている保証はない。寧ろ、内通者が守備を固めている可能性の方が高い。それでも、心当たりもなく小路を駆けるよりずっと建設的な方策だと思えた。
 最後の角を曲がるより少し早く、その声は文輝を捉えた。

「小戴(しょうたい)」

 声の主を探して周囲を見回した。塀の切れ目から三つの人影が出てくるのが映る。暗がりに慣れた目で、相手を見定めようとする。警戒感を発したのが相手にも伝わったのだろう。不意に明かりが灯った。

「孫翁(そんおう)、大仙殿」

 文輝の名を呼んだのはどうやら大仙らしい。ということがわかって張りつめていた気を緩める。通信士が松明を「まじない」で灯したのだと確かめ、文輝は肩の鳥を指先へ移した。棕若(しゅじゃく)の肩にも緑色の小鳥が停まっている。最悪の事態が胸によぎった。

「小戴殿、君にも八弁の鳥が届いたということは僕たちは覚悟しなくてはならないようだね」

 その言葉に文輝は深く頷いて「諸志」の前文を諳んじる。姿を現した朱色の文の内容に目を走らせれば、城下で火災が発生したことと眉津(びしん)が使用不能になったことが端的に記してあった。棕若の文も同じような内容だったのだろう。悔しさと憤りとでないまぜになった眼差しが文輝を射る。

「これで今、機能しているのは公地の津だけということになるね」
「江(かわ)伝いに禁裏へ向かうのは事実上不可能だ、ということですね」
「そもそも、己(お)れたちが公地の津に上陸することが不可能なのだから、要らん期待が減っただけありがたいと思わねばならんだろうな」

 大仙の愚痴とも激励とも取れる呟きが聞こえる。

「内府から禁裏へ行くのはやはり不可能ですか?」
「不可能だろうな。己れが様子を見に行ったが、右服(うふく)どもが長槍を携えて陣取っていた」

 御史台もいつ陥落するかわからん。と大仙が苛立ちも顕わに言い放つ。
 正面突破の可能性は失われた。背面から禁裏へ乗り込むことも叶わない。
 残る可能性は何だ。思考する文輝の傍らで、棕若が言う。

「大仙、君は王陵に入ったことはあるかな?」
「ない」
「では王陵に入ったことのあるものに心当たりは?」

 何でもいい、王陵についての知識があるものがいないかと棕若が問う。
 その問いに大仙が難色を示した。文輝はこの問答の着地点を茫洋と察したが、双方の見解のどちらを支持すればいいのか困惑する。

「左尚書令殿、王陵に典礼部の許可なく立ち入ることは何人たりとも許されていない」
「それも主上のお命あってのことではないのかな? 王陵の衛士は近衛部だろう。近衛部は典礼部の下部組織ではない筈だ」

 内府三部は対等な権限を持ち、鼎立している。内府の中に上下の別はない。だが、左右の官府は内府と比べると権限が一段階劣る。九品の六位、孫家の当主であることを加味しても、棕若が彼の一存で典礼部の許可なく王陵へ立ち入ることは出来ない。
 大仙は近衛部に所属する国主の間諜だ。彼自身は国主の駒であり、政治的判断を下す権利は殆ど持っていない。
 そのことは棕若も知っているだろう。
 それでも、棕若は問うた。普段の大仙ならば、その意図を決して見落とすことはなかっただろう。棕若の焦りと大仙の焦りが噛み合わずに空回りをしていた。
 大仙が苛立たしさを隠しもせずに吐き捨てる。

「だが、近衛部も一枚岩ではない。誰が劉子賢と内通しているかもわからん状況の上、己れの一存で決済出来る範囲を超えている」

 王陵は無理だ。それならば中城に散らばった御史台の部隊を集め、内府を突破していく方がまだ現実的だと大仙は重ねて主張した。棕若がらしくもなく、苛立ちを顕わに嘆息する。

「なるほど、君は真実近衛部の狗だったというわけだ」
「それは度を越した侮蔑だと受け取るが?」
「おや? こちらは最初からそのつもりなのだけれど?」

 そのまま、売り言葉に買い言葉で応酬が泥仕合に発展していく気配を察知した文輝は慌てて二人の間に飛び込んだ。
 大人げなく真剣に噛みつこうとしている横顔が、通信士の持つ松明に照らされている。二人の眼差しには余裕がない。文輝もまた焦燥感と緊迫感で余裕などなかったが、だからこそ、二人が意味のない口論を繰り広げようとしているのを黙って見ていられなかった。

「孫翁! 大仙殿! 待ってください!」

 お二人の悪口は後で俺が聞きます。今は主上の御身のことをお考えください。
 威勢よく言い切ると同時に、両側の二人が一瞬だけ呆けた顔を見せて、示し合わせたように苦笑した。

「小戴、案ずるな。何も本気でこの老獪と口論をするつもりはない」
「すまないね、小戴殿。少し遊びが過ぎたようだ」

 結局のところ、二人ともが口論の体をなした毒抜きをしていたのだと知り、文輝は安堵する。それと同時に「小戴」に仲裁をされるのは不本意だという言外の主張を受け取り、釈然としない思いをした。
 その程度の感情の機微を、今、二人に放り返して得るものなどない。
 今すべきことを思う。

「左尚書令殿、本当に王陵を通るつもりか」
「君の一存では決められないのなら、僕の独断専行だということにしてくれても構わない」
「己れが同行してその言い訳は通用せんだろう」
「では君はここに残るといい」
「話の通じん爺だ。誰も責任を負いたくないなどとは言っていない」

 その程度の覚悟で国官になどなるものか。
 棕若を睨み付けて断言した大仙の瞳には強い意志が宿っている。大仙もまたこの動乱の前では一人の国官なのだろう。国主を売った偽りの官吏とは違う。国主の真偽を疑うことはしない。それを理由に岐崔に火を放つことを正当化する、賊にはなり下がらない。

「何も無条件にあるじを奉戴せよとは己れは言わん。だが、己れは知っているぞ。主上は真実、己れのあるじだ。あるじを守れぬ武辺になど何の価値もない」

 己れは自らの価値を棄てるほど、まだ生には飽いていない。わかるだろう、左尚書令殿。
 言い切った大仙に棕若が苦々しく笑う。

「先ほどの言葉を撤回しよう。君は真実、九品の子息たる男子だ、楊子靖(よう・しせい)殿」

 そうだね?
 問いの形をした確認に、文輝と大仙は別の理由で、だが一様に目を瞠った。
 生きた年月の長い大仙の方が、一拍早く正気を取り戻して自虐気味に笑う。

「知っていたのか」
「大仙、人事官を甘く見ないでほしいものだね。岐崔に住まう九品の顔を僕たち人事官が見誤るはずがないだろう?」
「その割には随分と酷評してくれたものだな」
「君が『大仙』などと名乗っているから付き合ってあげたのだよ。寧ろ、感謝してもらいたいほどだね」

 目の前で繰り広げられる真実の暴露に文輝の脳漿が混乱を極めた。それでも、彼らの他愛のない「じゃれあい」は続く。こめかみの辺りがつきつきと痛む感覚が生まれて、文輝は心底、溜息を吐きたくなった。
 棕若の発言が間違っていないのなら、大仙は九品の五位、楊家の生まれだということになる。大仙というのは多分、間諜としての偽名だろう。それでも、文輝はまだ彼から「楊子靖」としての名乗りを受けていない。名乗られもしない名を呼ぶのは無礼だと判断し、結局、彼は「大仙」であると認識し直した。

「孫翁、大仙殿。それで、その、王陵の件はどうなさるので?」

 その判断に基づいて文輝は戸惑いながら、二人の会話を遮る。
 大仙、と呼ばれた楊家の子息は無表情を貫いたままだから、判断は間違っていなかったのだろう。
 棕若が殊更明るく言う。

「押し通らせていただこう。大仙、構わないね?」
「不承不承。だが、それが一番現実的だろう」

 王陵とは国主とその妻が眠る場所だ。静謐を好み、無暗に人が立ち入ることを許さない。棕若をして、その内部へ入ったことがないことがそれを暗に物語っている。
 岐崔の西部の殆どを占める王陵に何の計画もなく踏み入ったところで、禁裏に辿り着くのにどれだけの時間を要するかもわからない。
 棕若の表情が引き締まる。

「では細かい方策を考えよう。小戴殿、戴将軍と黄(こう)将軍に鳥を送りたいのだけれど、君から伝えることはあるかな?」

 将軍位を持つ、文輝の身内二人の名前が挙がった。二人が下城出来ずに中城に留まっていることは、華軍(かぐん)の文の内容を御史台の大夫(たいふ)へ転送したときに一言添えている。情報共有で棕若にもそれが伝達されていたとして何の不思議もなかった。
 使える手は全て使う。棕若が暗にそう言っている気がして、文輝の表情もまた引き締まった。
 次兄と大義姉に文輝から伝えるべきことは何だ。状況報告は棕若が論理的に記せばいい。次兄の指揮する師団と、御史台の部隊に内通者はいないだろう。中城で戦力として無条件に信用出来るのは彼らだけだ。棕若がその戦力を何かに使おうとしているのだけが理解出来た。深手を負った文輝が次兄の役に立つとは思えないから、彼に伝えるべきことはないだろう。大義姉にしてもそうだ。彼女はまだ戸籍班で治療に当たっているだろう。軍医である彼女にその場を見捨てろとは、文輝にはとても言えない。王陵を抜けて禁裏に辿り着いた後で、彼女の医術を欲する場面があるかもしれない。それでも、それは最悪の事態だ。そうならないように文輝たちは今から王陵に踏み入る。
 だから。

「俺がまだ生きている、とだけお伝えください」

 それしか言わなかった。文輝の右隣で大仙が束の間、驚いた顔をするが数瞬もすれば再び無表情に戻る。彼の中では意外性を持った言葉だったらしいが、棕若の眦がうっすらと細くなった。文輝は知っている。孫家当主の老翁のこの表情は相手を認める顔だ。

「助けてほしいとは言わないのだね」
「小兄上(あにうえ)も大義姉上(あねうえ)も将軍位を持つ国官です。国の大事に立ち向かう志は孫翁と何ら変わりはないでしょう。ですから、俺が何か言葉を添えねば動いてはくださらない、などということはないはずです」

 寧ろ、孫翁が二人を頼ってくださることを誇りに思ってくださると信じています。
 言い切れば棕若は瞼を伏せた。彼の中で思考が巡っているのだろう。束の間、沈黙が続く。
 そして。

「戴将軍には内府を正面から攻囲していただこう」

 次兄が指揮する兵部の師団は一大隊十二班だ。一班は十五部隊、一部隊は十五名だから、御史台の部隊も次兄が指揮するなら、内府を攻囲する兵は三千に届く。全てを動員することは出来ないだろうが、今は数が重要だ。一定の数さえ揃えば、内通者が内府の門を守っていても十分、抑止力として働くだろう。
 次兄の他にも下城し損ねた将軍が何名かいるはずだが、棕若はそのうちの何人を信ずればいいのか、判断の根拠を持たない。右尚書(うしょうしょ)が今、必死に反逆者の洗い出しを行っている筈だが、この時点でその裏付けを待つ暇(いとま)はないし、もし間に合ったとしても今度は右尚書に内通者がいないことを証明しなければならない。
 その手間を考えれば九品の三位、戴家の次男を用いるのはそれほど合理性からも外れていないだろう。
 大仙が棕若の提案を受けて深く頷いた。

「陽動か。基本中の基本だな」
「向こうが先に使った手を、こちらも返してくるとは思わないだろう」

 城下は今、戦務長の謀略で混乱のさなかにある。
 東西の街道を焼き、公地の門扉を閉ざさせ、その向こうで安全に計画を遂行する。内府の門を内通者で固めることで禁裏への到達を一刻でも長く遅らせるのが造反者たちの目的だ。
 王陵を通る可能性を考慮していない、と安易に考えることは出来ない。
 ここまで用意周到に長い年月をかけて計画された動乱だ。
 王陵の関係者にも内通者はいるだろう。
 それでも、兵部の将軍が一大隊を率いて内府の門を攻囲すれば気は散じる。内府が突破されれば、次の標的が王陵へ向かうかもしれない。という不安を植え付けることが出来る。
 棕若に必要なのはその不確定要素であり、後手を選ばされている以上、圧倒的優位など望むべくもない。それほど岐崔は偽りの安寧に慣れすぎていた。
 大仙が棕若へ静かに問う。

「城下はどうする」

 一連の事件は午(ひる)の薬科倉(やっかそう)が爆発した件に端を発した。兵部、工部(こうぶ)ともに動員出来る人員は都合二つの事件の解決に奔走している。戸籍班の火災で左官府(さかんふ)も上を下への大騒ぎになっているだろう。
 中城は混乱を極めている。
 御史台の命で内通者が確定するまで、官吏の下城は禁じられた。城下にいるのは非番の官吏だけだ。その数は決して多くない。
 その、僅かな官吏だけで城下の大規模な火災の処理をするのは事実上不可能だ。
 棕若はそれをどう解決するのか。城下だけで解決が難しいのならば、御史台の命を覆し、中城から工部の師団を派兵するのかと大仙は問うている。
 大仙の問いに棕若は静かに首を横に振った。

「内通の疑いのあるものについては、今、僕の息子たちが調べている。右尚書も同じだろう。それが終わるまでは中城の解放は出来ない」
「では城下は見捨てるのだな?」
「右府(うふ)様が偶然にも城下におられる。内府様も未だ公地においでと聞き及んでいるから、あとのことはお二人にお任せするしかない、と僕は考えているよ」

 それを君の言葉で表せば「見捨てる」という表現になるのなら、僕は謹んでその悪評を受けよう。言って棕若は一度、瞼を伏せた。
 そして、再び彼の目が開かれたとき、その双眸には決意が浮かんでいた。

「黄将軍には王陵を共に進んでいただく」
「その王陵内部の情報はどこから仕入れる。己れに心当たりはないぞ」
「香薛(こうせつ)を走らせるしかないのだけれど、間に合うかどうかは賭けになるね」

 棕若が彼の副官の名を挙げる。その返答を聞いた大仙が渋い顔をした。多分、彼も文輝と同じことを思ったのだろう。香薛はただの副官だ。内府の管轄である王陵の情報を持っている論理的な根拠はないし、何より、彼は左官だ。文輝や大仙のような、体力勝負の右官と同じに考えることは出来ない。無事、情報を手にしても香薛が棕若にそれを手渡すことの出来る可能性を考慮すれば結論は概ね絶望と同じ意味になる。
 それでも、棕若は香薛を用いると言った。
 事態がそれだけ逼迫しているのだと察する。
 大仙が呆れているのが雰囲気で伝わってきた。九品の当主だの、左尚書令だのと言っても結局は人ひとりだ。超人的な解決方法などどこにもない。だのに棕若は「九品の品格」を手放そうとしない。何も言わないが、どうしてそこに拘泥するのだ、と大仙は瞳で詰る。手助けが必要なのならば素直に言えばいい。
 そうすれば。
 大仙も望んで棕若の手助けを出来る。
 今、この場に必要なものの正体を察して、それでも文輝は一瞬躊躇った。自意識過剰ではないか。自らには過ぎる言ではないか。余計なことをしなくとも、棕若と大仙は分かり合えるのではないか。
 胸中に去来したそれらの問いを生唾と共に飲み下す。
 叱責を恐れて何になる。必要なものと知りながら見過ごすことの方が罪ではないか。
 導き出された答えが、文輝の口をついて出るのにそれほど時間は必要ではなかった。

「孫翁、香薛殿では間に合いません」
「では君は王陵の中を闇雲に駆けるとでも言うのかな」

 棕若の中に文輝の提示しようとする方策がない。そのことを反論の言葉から察した。
 何から説明するのが最短距離だろうと思案して、結局、文輝にそれだけの弁舌がないことを知る。遠回りでも、自らの言葉で説明するしかない。この件に関しては大仙の助力も望めないから、文輝は腹を括った。

「小兄上が内府に相対してくださるとしても、中城にどれほどの内通者がいるかもわかりません。内府、その正門。その更に背後から攻めを受ければ小兄上といえども難儀する筈です」
「言いたいことが見えないね。戴将軍が後背を攻められたとしても、捕縛されるにはときがかかる筈だ。その猶予のうちに僕たちが王陵を駆ければ、という話だっただろう」
「それは承知しております。小兄上のことは俺も信じています。ですが、無為に過ごす時間はより短い方が得策ではないでしょうか」

 猶予を伸ばす為に次兄を使う。その方策が受け入れられるのになぜ。言葉を急ぎそうになって、その気持ちを精一杯抑えた。暗闇の中、松明に照らされた棕若の眼光が鋭く文輝を射る。棕若は今、要領を得ない文輝の反論に憤っていた。
 無為に過ごす時間を増やしているのは文輝の方だ。そう言われている。わかっている。年長者に反論するのは僭越で、序列を無視している。
 それでも、文輝は今、自ら退くべきでないことを知っている。

「香薛を待たない別の方策があるのなら聞かせていただこう」
「孫翁、大仙殿は主上の間諜であられます」

 今、大仙は王陵に関する知識を何も持たない。その問題に関してはこの場にいる四人、誰もが等しく無知だ。棕若が名指した香薛もまた同様だから、可能性を託す相手として突出した存在はいないことになる。
 劇的な解決策などない。
 その中で、ただの左官である香薛を選ぶより、近衛部の間諜である大仙を用いるのに何の矛盾があるだろうか。百の顔を持ち、兵と共に戦う為の力を備えた大仙にこそ、この任が適しているのではないか。
 そう言えば棕若は苦々しい顔をした。
 多分、今、棕若の中では「九品の品格」を放棄した大仙を用いることに抵抗が生まれている。文輝も次兄も大義姉も、持っていて当然だと思っている品格を棄て、大仙はあるじだけを選んだ。大仙に「楊子靖」としての品格があればもっと話は簡単だったが、それを今、望むことは無為に他ならない。
 文輝の提案に棕若は沈黙で答える。大仙が大きな溜め息を一つ零すことでそれに終止符を打つ。

「小戴、己れはどこへ駆ければいい」

 大仙は文輝の提案を受け入れた。
 自らを用いるのが官吏見習いの中科生であることを拒む気配はない。
 棕若の言葉はまだ返らないが、それを待っている時間はない。
 文輝は棕若を置いて自らの中にある提案を続ける。

「王府までは駆けられますか?」
「内府を抜けろと言うのか」

 混乱を極め、内通者の多くが集まる内府を抜けろと言うのがどれだけ過酷な要求なのか。想像を絶するが、文輝は大仙の問いに躊躇いなく首肯する。
 文輝にも棕若にも香薛にも出来ない。
 それでも、大仙ならどうにかするだろうという確信があった。
 大仙が王府に辿り着きさえすれば希望が残る。文輝の中にはそれ以外の希望が残っていないが、決して荒唐無稽なことを言っているつもりもなかった。

「無理ではないでしょう。王府には銀師(ぎんし)がおられる筈です。程晶矢の母上ならどうにか王陵の地図を手配してくださるかもしれません」
「心当たりがあるのならば、最初から鳥を飛ばせばいいだろう」

 危険を冒して人が駆けていく必然性はあるのかと問われる。
 伝頼鳥はどこへでも飛ぶ。場所も距離も関係ない。人が駆けるよりずっと確かに用件を届けられるのが伝頼鳥だ。だからこそ「まじない」の才を持つものは優遇され、重用される。
 それでも、文輝は首を振った。

「国主様の正当性を覆す謀反が起きているのです。『国主様を守る』為の銀師がどちらか一方に加担してくださるとはとても思えません。程将軍ともあろう方が鳥を用い、公平性を失した判断をした証左を残される筈はないでしょう」
「己れが途中でしくじれば結果は同じだが?」
「主上の命運を預けるのです。大仙殿はしくじらない、と俺は信じております」

 断言すると大仙はふっと息を吐いて、そして穏やかに笑った。

「左尚書令殿。鳥を飛ばせ」

 陽動作戦が始まればすぐにでも大仙が王府へ向けて駆ける。
 王府まで駆けられるのなら、そのまま禁裏へ駆けることも出来る。大仙が文輝と棕若を見捨てて、自らの価値観だけを優先させる可能性もあった。あったが、文輝は大仙がそうしないことを疑っていない。
 大仙にそれが伝わった感触がある。その証拠に彼は小さく鼻を鳴らして鷹揚に笑った。
 必ず帰ると固く誓う。お前は己れだけではなく小戴も信じられないのかと煽られて、沈黙を貫いていた棕若がようやく折れた。
 長い息が漏れる。心底呆れた顔で、彼は文輝へ賞賛の微笑みを向けた。

「小戴殿、君は不思議だね」

 九品の品格を持ちながらそれに縛られることもない。軍学舎(ぐんがくしゃ)にあって、孤独を味わいながら人を容れる。人が人を信ずる理由を求めない。そしてその信を人に届ける為に心を砕くことを厭わない。
 万能ではない。全知でもない。それでも、文輝は人と生きる道を選んだ。その道程で文輝は多くのものと出会う。
 棕若の生き方の中にはない。大仙の生き方の中にもない。
 若輩だからこそ選びうる。その答えが棕若と大仙の二人の心を照らした。

「全く、君が言えば実現可能そうに聞こえるのだから困ったものだ。それで? 鳥は三羽でいいのかな?」
「是(はい)、お願いします」
「大仙、君はここへ置いていこう。僕たちは王陵の手前で待っているよ」

 必ず帰ると信じている。だから暗闇の中、明かりを消したまま待つ。
 棕若の言葉に大仙は表情を引き締めて黙って頷いた。通信士が明かりの下、三通の書状をしたため鳥が飛ぶ。
 それを見送った大仙が切なさを帯びた眼差しで文輝に問う。

「小戴、右将軍(うしょうぐん)を持つ新王に従わなくていいのか」

 右将軍というのは神話と現実の境目にある存在だ。白帝の右腕であり、国主が統治者と認められた証として現れると言われている。先代の国主は右将軍を伴っていたと史書にあるが、文輝は当代の国主しか知らない。棕若は右将軍を知っている筈だが、何も言わない。それを無言の肯定と受け取る。
 物心ついた頃からずっと「右将軍を伴わない国主」の統治を受けてきた。だからかもしれない。その感情すら与えられたものなのかもしれない。疑えばきりがない。偽りの国主を敬ってきたという不安と向き合いたくないだけかもしれない。真実を知れば自らが罰せられることを恐れているだけかもしれない。
 それでも。
 文輝は正面から大仙の眼差しと向き合った。

「俺は国主様を信じます」
「その根拠を聞こう」
「では大仙殿にお尋ねします。あるじをあるじと定めるのに合理的な根拠は必要ですか?」

 少なくとも文輝にそれは必要ない。遠回しにそう言えば大仙はばつが悪そうに瞼を伏せた。そして再び開いた彼の眼差しには慈しみが浮かんでいる。

「武運を祈る」

 言って大仙が踵を返し、暗闇の中へと駆け出した。
 背中が遠く、見えなくなるのに時間は必要ではない。視界から完全に大仙が消えたのを境に文輝と棕若もまた駆け出す。
 目指すのは王陵の手前だ。そこで大仙の戻りを待つ。信じているのは大仙一人ではない。次兄、大義姉、そして程将軍。多くの信の上で成り立ったこの方策に命運を預けて文輝は中城を駆ける。体力が尽きかけ、傷を負った文輝の直刀一本で守らなければならないものの重みに耐えるのに必死だった。
 暗闇が冷たさを帯び始める。東から吹く風が今も城下で火災が起こっていることを伝えた。数えきれないほどの「なぜ」と「どうしよう」を抱えたまま文輝は駆ける。今は駆けることしか出来なかった。

それは、風のように<十一>

十一.
「――あなたに全てを委ねて、導として生を終える。陶華軍が望んだ新しい『答え』です」

 椿色の巻物は最後まで広げられ、石畳の上へ折り重なっている。志峰(しほう)が読み上げた告発文の内容に反応する者はまだいない。左の脇腹をざっくりと斬りつけられた文輝(ぶんき)は衛生兵(えいせいへい)の応急処置を受けたが、今も痛みは続いている。時折意識を持っていかれそうになることもあったが、華軍が遺した言葉を聞き届けたい一心で耐えた。
 数本の松明に照らされた白帝廟(はくていびょう)の中庭には、いつ来たのか進慶(しんけい)の姿がある。定時連絡によれば、進慶は左官府の南側で戸部戸籍班の書庫に火を放った実行犯を捕縛したらしいが、その犯人もまた与えられた役割を演じただけで事件の全貌は知らなかった。東の白帝廟で文輝たちが華軍と遭遇したという報せを受け、進慶も合流したのだろう。中庭に広がる惨状を進慶は見ていない。それでも彼は言う。

「小戴、納得が出来たのなら早く医務班で治療を受けろ」

 白の右服(うふく)はあちらこちらが破れ、二人分の血で染まっている。脇腹の傷はまだ少しずつだが血を流し続けていた。これ以上手当が遅れれば、命を失うことこそないだろうが後遺症が残る。進慶がそれを案じているのはわかっていたが、文輝は頑なに首を横に振った。

「進慶殿、俺はまだ納得していません」

 志峰殿。椿色の巻物を元の状態へ戻そうとしている通信士へ視線を投げる。華軍の造反の理由を知りたいと言った彼もまた納得していないという確信があった。
 文輝の視線の先で志峰は困ったように笑う。

「志峰殿はどう思われますか」
「どう、と言うのは?」
「華軍殿の死に様は通信士として納得が出来るのか、とお聞きしています」

 華軍の長い告発文は人が人に絶望するだけの理由としての側面を持っている。守り育んでくれる「親」との別離、得られる筈だった「友」の喪失、そして信ずるべき「上官」からの裏切り。華軍と同じ境遇にあって、なお人を無条件に信じよとは誰も軽々しく口に出来まい。文輝が幾ら大らかで世間ずれしていないといえども、そのぐらいの分別は付く。
 何か事情がある、と先に主張したのは文輝だ。志峰はいかなる理由があろうと、華軍の境遇に同情するなと言った。この場にあって、その志峰が最も華軍に同情している。
 ただ。
 同情はしているが、志峰もまた華軍の主張に心から納得したわけではない。
 表情は暗くて見えない。それでも、志峰の声色は雄弁に物語る。告発文を読み上げる志峰の声にははっきりと怒気が滲んでいた。

「小戴殿、あなたの思っている通りです。私は今、陶華軍の行いに憤っている」

 親と別離し、「まじない」の才に翻弄され、「読替」の罪科に一生を左右されて、それでもなお志峰は道を踏み外さずに生きてきた。その道のりの険しさは華軍のものよりも、幾らかましだったのかもしれない。志峰は上官と後見に恵まれた。
 人を疑い、憎む気持ちしか知らないのならば、同情で済ませられる、と志峰は言う。絶望しか知らない通信士など珍しくもない。
 だが、華軍は違う。
 人を信じ、託す気持ちを知ってなお、自らが絶望から救済されることを優先した。それは「通信士として」や「官吏として」決して許されることではない。中科を終えてなお、官吏であるということは、自らの優先順位を最も下に位置づけ、人として模範的であることを万民に誓うのと同義だ。それが出来ないのであれば官吏など志さなければいい。
 人にはそれぞれの事情がある。守りたいものも違う。信念の形など同じである筈がない。
 それでも。

「同じように命を懸けるのであれば、首夏(しゅか)に全てを丸投げするのではなく、自ら上官を諌めるべきだ。少なくとも、わたしならばそうする」

 志峰の言葉を受けて、文輝に肩を貸していた晶矢(しょうし)が言う。彼女の右服もまた文輝の血で汚れつつあったが、それを気にする素振りはない。
 三人分の否定を受けて、進慶が困ったように溜め息を吐いた。

「阿程(あてい)、お前らしくもない。お前は怪我人に屁理屈をこねさせるのが正しいと思っているのか」

 小戴を医務班へ送り届け、速やかに再び劉子賢の捜索に戻る。それが官吏としての任だろうと言葉が続く。
 返答をする余裕のない文輝に代わり、晶矢が反論した。

「問題ない。志峰殿が既に鳥を飛ばした」
「大夫(たいふ)のところへか? それならば、俺も送ったが『告発文を持ち、内府へ帰還せよ』とのことだったではないか」
「それでは間に合わんというのは、進慶殿も既に気づいておられるだろう」

 わたしが鳥を送ったのは別のところだ、と言う。それはどこだと進慶が問うより早く、声が聞こえた。

「文輝殿! 無事ですか!」

 白帝廟の門から三つの影が入ってくる。その中の先頭の影が発する声が耳に届いた瞬間、文輝は安堵で体から力が抜けた。晶矢ひとりではその体重を支えきれず、二人でくずれるように石畳の上に尻をつく。
 その間にも影は人としての輪郭を明確にしていく。
 御史台(ぎょしだい)の兵の持つ松明が、声のあるじを照らし出したのを見るなり、進慶が立礼した。

「黄(こう)将軍! 本日は下城されたのでは?」
「義弟(おとうと)が怪我を負ったと聞いて黙って医務室に座っていられるほど、私は薄情ではありませんよ」
「義姉上(あねうえ)も俺も屋敷に帰り損ねたのでな。中科生が二人で岐崔の為に動いている中、大人が黙って見ているだけと言うのも何やら居心地が悪い。そうだろう?」

 その挑発的な問いに進慶は言葉を失う。西白国は序列を重んじる。年齢も性別も位階の前では何の効力も持たない。
 進慶が今、対峙しているのは戴家の長子の妻である黄玉英(ぎょくえい)医師と、戴家次男・仲昂(ちゅうこう)の二人だ。二人とも将軍位を持ち、中城においては一目置かれている。九品(きゅうほん)の三位、戴家の将軍二人を相手にして引け目を感じない官吏はいない。
 石畳の上に寝かされ、玉英が持参した痛み止めの生薬を口に含まされながら文輝は次兄に問う。
 仲昂と玉英の二人が中城にいるということは、城下の屋敷を守っているのは母親と仲昂の妻の二人だけということになる。

「小兄上(あにうえ)、では屋敷は」

 不安に言葉を詰まらせる。大仙(たいぜん)の前では平然と強がってみせたが、実の兄を相手に虚勢を張るほどの距離感はない。文輝も次兄の前ならいつでも年相応の子どもだ。九品としての模範は兄が示してくれる。文輝まで虚飾を身に纏う必要はなかった。
 仲昂がそれをどう思っているかを今までに考えたことはない。
 仲昂もまた文輝の前では一人の兄でしかなかった。
 文輝の傍らにしゃがみこんで、手荒く頭を撫でられる。

「文輝。案ずるな。母上は戴家の正室であられるのだぞ?」

 大丈夫だ。万が一のときに大丈夫でないような妻を娶るほど父上は耄碌しておられないさ。言って次兄はしゃがみこんでいた晶矢の手を取って立たせる。
 玉英が痛み止めが効いたか尋ねてきたので、文輝は黙って首肯した。軍医の治療はときも場所も選ばない。松明を倍に増やすように指示して、玉英は腰に下げていた鞄から道具を取り出す。岐崔(ぎさい)の兵部医務班で将軍位を持つ三人のうちの一人だ。その位階を手に入れた玉英の手腕を疑う必要はない。

「そうです、文輝殿。あなたはまずご自身の怪我をご案じなさい」
「黄将軍、首夏――文輝の具合はどうなのですか」
「晶矢殿、私が参ったのです。貴女が心を痛めるような結末にはいたしません」

 ですから、貴女は貴女のなすべきことをなさい。
 玉英がそう言うと晶矢だけではなく、進慶や御史台の四隊六十人の顔が引き締まる。
 志峰だけが黙々と椿色の巻物を元に戻している。巻いても巻いてもまだ書状が残っていた。次兄が連れてきた通信士が志峰に声をかける。

「梅(ばい)通信士殿、貴官はもうわかっているのでは?」
「認めたくはないが、そのようですね」
「志峰殿?」

 志峰と通信士の会話が上手く咀嚼出来ずに文輝は目線だけを動かして、音源を見る。脇腹の傷を縫合する痛みが新たに生まれて顔を顰めた。玉英はそれでも黙々と針を進める。
 倍になった松明が志峰の表情を薄っすらと照らし出した。
 次兄が「通信士殿、愚弟に教えてやってくれ」と志峰の肩を叩く。志峰は一瞬だけ躊躇って、そして重い口を開く。

「小戴殿、あなたはまだ知らないと思いますが、伝頼鳥(てんらいちょう)の復号鍵を何にするかは管轄の通信士に一任されています」
「えっ?」
「つまり、あなたの諳んじた『武官諸志』の前文を戦務班の鍵に定めたのは、陶華軍本人です」

 あれほど長い口上を鍵に定める通信士は決して多くはありません。志峰がゆっくりと語る。業務の効率を考えれば当然のことだと一同頷き合った。
 それでも、華軍は自らに与えられた少ない権限で「諸志」を鍵に定めた。

「なぜだと思いますか?」

 その問いには文輝ではなく仲昂が答える。

「陶華軍にも『武官としての誇り』と『目指すべき理想』があったからだろう?」
「小兄上はどうしてそう思われるのですか?」
「もしこの二つがないのなら、『諸志』など煩わしいだけだ。それに」
「それに?」
「俺の調べでは、陶華軍はどの役所に配属されても一貫して『諸志』を鍵に定め続けている。陶華軍は『誰か』に『何か』を伝えたかった、と見るがどうだ?」

 華軍は戦務長(せんむちょう)に対して憎悪しか抱いていなかったと自ら告発文に書した。戦務長の望みを最悪の形で潰す。それだけしか望んでいないと記した。
 けれど、多分。

「華軍殿は戦務長にも武官としての誇りを取り戻してほしかった――ということですか?」
「信じてもいない相手にそれだけのことが出来ると思うか、文輝」
「俺には出来ません」
「俺にも出来ないし、多分この場にいる誰にも出来ないだろうな」
「それが答えでしょう」

 言って志峰が懐から一通の書状を取り出す。
 彼の手元に納まった巻物と同じ色の料紙。その表書きには白墨で文輝の名。

「過ぎた忠心は誰かが受け止めなければただの暴威です。小戴殿、あなたはその暴威を受け止める相手として望まれた。だから、あなたにこの書状を開いていただきたい」
「通信士殿、縫合にはもう少し時間がかかります。ですから、先にお行きなさい」
「心得ました、黄将軍」

 志峰が椿色の書状を玉英に預け、廟の中心に座した白帝像へ一礼した。
 そして、仲昂の指揮で四隊が動き始める。下城する機会を失った仲昂もまた無為に時間を過ごしていたわけではない。中城で出来る最善を探していた。
 戸籍班の書庫は間もなく鎮火する、という報告が大夫から届く。それを受けて仲昂は御史台の部隊に指示を出した。晶矢もその指示に組み込まれていく。
 去り際に晶矢が言った。

「首夏、おまえ一人が全部を背負わなくてもいいんだ。その書状を読んだらすぐにわたしたちに伝えてくれ。岐崔を守る官はおまえだけではないことを忘れてくれるなよ」

 ではな。言って晶矢の小さな背中がどんどん遠くなる。玉英の治療が進む度に脇腹に痛みが生まれたが、彼女がそれを気に留めることはなかった。
 一通りの治療が終わると、包帯を何重にもきつく巻き付けられる。文輝が着ていた右服はぼろぼろで血まみれだと鳥で報告していたこともあり、新しいものが用意されていた。それに袖を通すと、体が芯まで冷えていることに気付く。

「文輝殿。仲昂殿も強がっておられましたが、実のところは今すぐにでも下城したいと思っておられるでしょう」

 道具を片付けながら玉英が言う。松明に照らされた彼女の表情には憂いが浮かんでいた。
 それを指摘してもいいものか、一瞬迷って、結局のところ軽口の形で放り投げた。

「大義姉上(あねうえ)も即刻、下城したい、とお顔にありますよ」
「仕方がありません。私はこれでも戴家嫡男の妻ですから、義母上(ははうえ)様のお力になりたいと思うのは道理。それでも、私もあなたも国官なのですから、その務めを放棄することは許されません。よいですか、文輝殿」

 暗がりの中、不意に玉英の眼差しが鋭さを増す。彼女が文輝に何かを伝えようとしているのを察して背筋を正した。玉英が伴ってきた通信士がそっと場を離れる。多分、文輝と玉英の会話を邪魔しないようにと、気を遣ったのだろう。

「何でしょうか、大義姉上」
「あなたは確かに九品の生まれ。その血統は決して失われるものではありません。一生を共にする肩書きに恥じない生き方をあなたが志しているのは、素晴らしいことだと私は思います」
「それは大義姉上も同じでしょう。宰相(さいしょう)閣下の姪御として生きるのは決して楽な人生だとは俺は思いません」

 玉英の伯父・黄碌生(こう・りくしょう)はもう十年もの間、宰相を務めている。宰相というのは国官の最上位であり、国政の最終決定権を持つ。また、国主の住まいである後宮に自由に出入り出来る数少ない存在であるから、人としての徳も求められる。当代の宰相は国主と幼馴染の関係にあることから、不当人事だと反発を生んだこともある、と文輝は聞いていた。
 それでも、碌生は十年を経ても未だ宰相の地位を手放していない。それは国主が真実、彼を信頼しているという証だ。国官の多くも幾らかの不満を持っているが、それでも碌生の政治的手腕を認めている。
 その、宰相の姪として生まれた玉英の人生を羨むものは少なくない。九品でも三公でもない、黄家の女子は政略結婚の駒として大いに利用された。宰相自身は生涯独身を貫いているから、直系の子孫はいない。そのことも玉英の人生に波乱を生んだ。
 結局のところ、玉英は恋慕ではなく政治的な判断で戴家に嫁した。そのことを玉英が悔いている節はないが、それでも数年前までは時折切なげな表情を見せるときもあった。戴家に嫁がなかった、文輝と出会わなかった「もしも」の未来に思いを馳せているのだと幼心ながら察して、文輝も切ない気持ちになったものだ。
 今では長兄と玉英との間には跡継ぎも生まれ、「もしも」の未来を願う隙間はなくなった。そうなって初めて、玉英は彼女の生まれを受け入れたのだ。
 だから。
 文輝は言った。
 人には人の苦しみがある。それは必ずしも万人の目に映るとは限らない。
 そう言えば玉英は眦を柔らかく細めた。

「文輝殿、それはあなたの持つ優しさですね。誰もが持っている筈のその優しさを、あなたのように何の気後れもなく出せるものは決して多くはありません。晶矢殿を知っているあなたには今更のことでしたか?」
「暮春のことは大兄上(あにうえ)の方がよく知っているのでは? 俺は多分、一生暮春を追い越すことはない、と思っています」
「あなたが一体何を比べてそう言うのかは私にはわかりません。けれど、あなたは知っている筈です」
「志の形は皆同じではない、ということですか」
「ええ、そうです」

 人には生まれ持った運命がある。それに沿うのも抗うのも本人の自由だ。律令は人を縛る。世間という狭い世界も人を縛る。それでも、胸の内までは誰にも縛ることは出来ない。見たもの、感じたもの、その一つひとつに正否を突きつけることは事実上不可能だ。
 志は人の数だけある。その貴賤を問うのは無粋だ、と文輝は思っている。
 それでも。

「模範的な理想と最適解は統一されるべきだ、と俺は思います」

 少なくとも外郭は形づくられなければならない。
 何の目安もなく、まっすぐに歩けというのはあまりにも無理というものだ。
 そして、それは国官にこそ委ねられている。
 国官というのは万民の規範だ。だから、国官は律令に従う。
 そういう仕組みになっている、と文輝は学舎で学んだ。
 違うのかと問えば、玉英の眼差しが鋭さを帯びる。

「それであなたは納得出来るのですか? 選ばなかった答えを少数意見だと切り捨てることが出来るのですか? あなたの志はその程度で妥協を許すのですか?」

 矢継ぎ早に問いを重ねられて、文輝は答えを探しあぐねた。息を吸う。学舎で教わった「正答」が幾つも脳裏に湧き上がるが、玉英がそれを求めているわけではない。
 文輝はゆっくりと首を横に振った。
 理想論の確認をしている場合ではない。
 今は、一刻も早く玉英が預かっている書状を開き、内容を伝頼鳥で飛ばすべきだ。わかっているのにそう出来ない。玉英の眼差しがいつになく真剣だからだろうか。

「大義姉上の仰りたいことがわかりません」
「あなたにはまだ難しい話なのかもしれません。それでも、あなたは将軍位を望むのでしょう。ならば理解しなければなりません。人の世に最適解など存在しません。そこにあるのはただの傲慢です」
「しかし、大義姉上、道としての幅を示さなければ人は迷います」
「そうですね。導もなく道を歩けば遅かれ早かれ道という形は失われるでしょう」
「では」
「文輝殿、あなたが大事に思うのは形ですか? 万民の意に沿う答えなどありはしません。それでも私たち国官は道を示さなければなりません。ですから、一人でも多くのものが救われる道を選ぶ必要があります」

 より少ない犠牲でより多くの救済を望むのが官吏としての正道だと玉英は語る。
 玉英は医師だが同時に武官でもある。人を救う使命と人と戦う使命の間で常に揺れているのだと彼女は告げた。その永遠にも等しい命題と闘い続けることが、玉英の選んだ道だ。
 それでも、と彼女は続ける。

「それは建前の話。あなたはあなたの思う志を誰かの為に棄てる必要はないのですよ」

 ふわり、玉英が微笑む。その笑みには一転の曇りもない。子を持つ母として、弟の姉として。人生という長い道を歩き続ける先達として。玉英は今、文輝に新しい答えを示した。
 その答えには反論を許す優しさがある。文輝は逡巡して彼女の言葉を否定した。

「しかし、それでは俺は道を選べません」

 それでいいのです、と玉英が静かに言う。

「あなたの志と国の進むべき道は決して同一ではないかもしれません。違いに出会う度に迷いなさい、文輝殿。そしてその枝分かれの数だけ心を痛めなさい。その先で選んだ答えに胸を張れるように」
「大義姉上は俺に何を望むのですか」
「文輝殿、私があなたに望むことはたった一つ。決して誰の顔色も窺わないでお進みなさい」

 暗黙の了解を明らかにする為に問う。玉英の眼差しは穏やかで優しいが、同時に峻烈さも伴っていた。

「上官の、ということでしょうか」
「そして、あなたが治めるべき民の顔色も」
「それでは、政は成り立ちません」

 玉英の言葉に反駁する。上官の心象も、部下の期待も、領民の願望も、必要に応じてすべての物ごとを切り捨てろと彼女は言うが、それは事実上不可能だ。そんな何の指標もない生き方を選べるほど文輝は強くない。律令に沿い、周囲と同調し、そしてある種の「正しさ」に依存しながら生きていくものだと思ってきた。これからもそうするつもりだった。
 少なくとも、十七年間文輝を育んできた世界は調和を重んじている。
 それでも、玉英は言う。

「それをあなたがどう解決するのか、私はずっと楽しみにしていますよ」
「大義姉上のお話は難しくて俺には半分も理解出来ません」
「それでもあなたは進まなくてはなりません。文輝殿、大丈夫です。あなたにはそれだけの器がある、とこの玉英は信じておりますよ」
「大義姉上、俺は――」

 その先の言葉を口にしていいのかどうか迷う。
 自らを律し、完全なる公平を貫く道を何の躊躇いもなく選べるほどには純朴でない。十七年の年月は既に文輝の人格の一部を確立してしまった。
 それでも、文輝の胸の奥でちりちりと焦げ付く感情がある。
 玉英や次兄たちが聞けば青さだと笑うだろう。晶矢は呆れるかもしれない。棕若(しゅじゃく)は情けないと思うかもしれない。
 それでも。

「あなたが劉子賢を信じたいのならば、信じてもよいのです。裏切られるだけかもしれません。幻滅するだけかもしれません。それでも、あなたがあなたの心を否定する必要はどこにもないのですよ」

 玉英の示した道がまっすぐに文輝の中に届く。
 そしてその道は文輝の背中を押す。まだ間に合う。今すぐ駈け出せば、まだ文輝は文輝の答えを手放さなくてもいい。
 戦務長を信じていると左尚書(さしょうしょ)で言った。華軍のことも信じていた。その気持ちには未だ変わりはない。甘いと嗤われるだろうか。短絡的だと叱られるだろうか。
 それでも。
 今ここで引き返せば、文輝は一生後悔するだろう。
 信じる道を選ぶのに、それ以上の理由は必要ない。
 だから。

「大義姉上、俺は行きます」

 玉英がその言葉に頷いて椿色の書状を手渡した。文輝に通信士はいない。ここで玉英の通信士に鳥を飛ばしてもらえばそれが最後だ。
 文輝の腹が決まったことを察した玉英は通信士を手招く。通信士がそっと二人の傍に寄った。

「では私とはここでお別れですね」
「大義姉上はどうされるのですか」
「私は軍医ですから、治療の必要がある場所に参るだけです」

 どことは明言しなかったが、多分戸籍班の書庫へ行くのだと察した。

「ご武運をお祈りしております」
「文輝殿もよい結果が得られますように」

 互いに互いの無事を祈り、そして文輝は白墨で記された書状の表書きを剥いだ。その中から、出てきた書状に目を走らせる。
 それは戦務長――劉子賢がこれから何をするつもりなのかを端的に記した書状だった。

それは、風のように<十>

十.
 風が空を渡っていく。
 西白国(さいはくこく)は風の国だ。一年を通して絶えず風が吹き、その表情に季節の移ろいを知る。風の前では老若男女、貴賤の別はない。誰の身の上にも等しく風は吹く。
 陶華軍(とう・かぐん)が潤雲州(じゅんうんしゅう)に生まれた日も風の強い日だった。潤雲州は西白国の南端にあり、雨風の激しい地域だったから、ただ風が強いだけでは誰も気に留めることはない。まして「読替(よみかえ)」の罪科(つみとが)を生まれながらに背負った子どもの生まれた日など誰も記憶しようとはしなかった。左官府(さかんふ)戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)の地方府で国府に送付する申請書が何の感慨もなく、事務手続きの為に記入される。罪科の根源である父親の姿を見たことはない。婚姻関係にあった母親と、華軍、それから父方の祖父母の四人に忌まわしい「読替」を残したまま忽然と姿を消したそうだ。母親は産後の肥立ちが悪かったのと、「読替」の罪科による差別に耐えきれなかったのとで華軍がまだ幼い頃に亡くなった。元来、病弱な血筋だったのだろう。母方の祖父母も母親が幼い頃に病没している。
 祖父母は華軍に多くを語らなかった。「読替」の姓を受け、生まれ故郷である潤雲州の邑里(むら)に長く居続けることは不可能だったのだろう。物心が付いた頃には物乞い同然の体で潤雲州、そして東隣の雨越州(うえつしゅう)と流れ歩いた。蓄えなどあるわけもない。「読替」の華軍に学を説いてくれるものもいない。ただ、何の変化もないその日暮らしが続き、気付けば十年が過ぎていた。
 華軍が十になる年のことだ。
 あるときを境に、華軍の耳に不思議な音が聞こえるようになった。邑里に間借りをしているとき、都市部にいるときにだけ聞こえる。人が多ければ多いほど、土鈴を鳴らしたような澄んだ音は何回も響いた。祖父母は二人とも華軍を気遣ってくれたのだけが唯一の救いだろう。
 雨越州の州都・洛涙(らくるい)でその異変は顕著になった。祖父母の持つ白環(びゃっかん)で洛涙の城下へ入ってからというもの、鈴の音が鳴りやまなくなったのだ。

「じいさま、また鳴った」
「小陶(しょうとう)や、またかね」
「うん、さっきからずっと」

 偽りを告げる必要はない。頭が割れそうなほどずっと鳴り響いている鈴の音に生理的な限界を感じていると訴えると祖母が顔色を悪くした。

「じいさまや、小陶は何かの病ではないのかえ」

 華軍の虚言を疑う素振りすら見せない祖母の姿に申し訳なさが募る。耳を塞いでも、寝ていても鈴の音は聞こえたから、本当に具合が悪くなっていた。病か、それとも気狂いかはわからなかったが現状を改善する術があるのなら、縋りたいのもまた事実だった。
 祖父が沈痛な面持ちで華軍を見る。

「だとしても、わしらには医者にかかる銭もないしのう」
「じいさま、おれ、どうしたらいい?」

 華軍はまだ環(かん)を持たない。祖父母の環は「読替」が刻まれているし、白い。流民であることを示すその環では借財を受け入れてくれるものなどいない。白環は租税を納めることを免除されるが、定住地を持たないのだから当然だ。
 どうすれば華軍の不快感を拭えるのか、祖父母の考えあぐねている。その間も鳴りやまない鈴の音が華軍を蝕んだ。
 とうとう気が触れそうになって、華軍は両耳を押さえ、街路にしゃがみこんだ。それでもまだ鈴の音は追ってくる。こんなことは今までに経験したことがない。つらい、苦しい、うるさい。負の感情がぐるぐると回る。祖父母の困惑はいっそう深まったが、それで華軍が救われるわけもない。
 このまま頭が壊れてしまうのではないかと思い始めた頃、華軍の視界が不意に影を落とす。誰かが蹲った華軍を覗き込んでいる、というのは祖父母の動揺した声で理解した。洛涙の喧騒に不似合いな穏やかな声が聞こえる。

「どうかしたかね」

 耳を塞いだままゆっくりと顔を上げた。二十代半ばだろうか。まだ若い一人の官吏が華軍を覗き込んでいた。白を基調とした官吏のお仕着せ。襟は鮮烈な赤。風聞でしか聞いたことのない朝服(ちょうふく)が物語る。年若くとも声をかけた男が洛涙の名だたる官吏の一人だということは、いくら学がなくてもわかる。それぐらいのことを知らないのでは流民として生きていくことは出来ない。官吏が管理しない唯一の環である白の環。華軍もまたその環を与えられるのだと信じて疑わなかった。
 思ってもみない高官の登場に華軍たちは混乱を極める。それでも、祖父がどうにか正気を取り戻した。官吏の問いかけに無礼のないよう気を配りながら答える。

「いえ、あの、お役人様の手を煩わせるようなことはございませぬ」
「だが、そこの童は随分と顔色がよくないではないか。病か?」
「わからんのです」
「わからんということはないだろう。医者には診せたのか?」
「私どもは見ての通りでございます。医者に診せるなどとんでもない」

 祖父が首元から白銀の環を取り出す。その円の端に刻まれた白を見て、それでも官吏は顔色一つ変えずに次の言葉を紡いだ。

「なるほど。医者も慈善ではないからな。だが、ことと次第によれば助力するのは吝かではないぞ。童、どうした」
「鈴が鳴りやまないのです、旦那さま」
「鈴? 俺には何も聞こえんな。それはご夫婦にも聞こえておらんのか?」
「へえ、私どもにはこの子の言う音がわからんのです」

 祖父の返答に官吏はひとしきり首を捻った後、ぱっと顔を輝かせる。

「童、いつから鈴が鳴っているのだ」
「門をくぐってから、です」
「ご夫婦、洛涙へはどちらから来られた」
「郷裏(ごうり)の邑里でございますが」
「童、鈴の音は邑里と洛涙では違って聞こえるのではないか?」

 問いの形を取った確認に華軍は驚きに眼を瞠る。

「どうしてそれがおわかりになるのですか」
「なるほど。君は天啓のようだ。ご夫婦、この童を暫し借り受けたいが構わないか」

 その提案を祖父母も華軍も咀嚼しかねて、束の間呆ける。官吏はその沈黙を肯定と受け取ったのだろう。十の子どもにしては未発達で小柄な華軍を軽々と持ち上げ、勝手に街路を歩き始めた。祖父母が一泊遅れで狼狽しながら官吏の後を追ってくる。華軍は何が起きているのか、全く理解出来なかったが、官吏の腕の中に納まっていると鈴の音が幾分和らいだ音に変化していることに気付いた。理屈も理由もわからない。ただ、生まれてこの方、安らぎという感情を初めて知った。
 洛涙の官舎街の一角に官吏の屋敷はあった。
 劉子賢(りゅう・しけん)と名乗ったその男は今年、洛涙に派遣されたばかりの戦務官(せんむかん)らしい。生まれは洛涙の更に南方、隣国との境にあたる邑里だと言ったが、華軍たちはその地名を知らなかった。若干二十四で州都の官吏に抜擢されるというのがどれほどの偉業なのかはわからない。ただ、白環の華軍たちに積極的に関わってこようとする官吏は生まれて初めて見るので華軍は始終困惑していた。
 劉子賢の屋敷はこじんまりとはしていたが清楚な空気に満ちていた。子賢が戻ったことを告げると下男が現れる。
 
「典医(てんい)殿は洛府(らくふ)におられるな?」
「是(はい)、何か急用でございますか?」
「至急洛府に参るゆえ、支度せよ」
「失礼ですが旦那様、そちらの童はどうなさいました」
「天啓だ。『才人』の原石を見つけた」

 この童には常人に聞こえない音が聞こえている。洛府で正式に鑑定せねばならん。
 子賢がそう告げると下男はこれ以上ないと言うほど目を見開いて驚いていた。華軍はそのやり取りを子賢の腕の中で聞いたが、何を意味しているのかは理解出来ない。
 ただ、子賢が妙に高揚しているのだけが伝わってくる。人に――殊、官吏にこのように好意的に接せられたのは生まれて初めてのことで戸惑うばかりだ。華軍の戸惑いを他所に、子賢と下男はさっさと外出の支度を整え、祖父母に言う。

「ご夫婦。暫しこちらで待たれよ。何、童を悪いようにはせぬ。その一点に関してはこの赤環(せきかん)に誓ってもよい」

 子賢の首元から赤の刻印が見える。刻まれた紋は二振りの鉞(ほこ)で彼が真実、戦務官であることを示していた。環に誓われてその誠意を疑う者は西白国にはいない。それは最大級の侮辱であり、相手の尊厳を地に貶める行為だからだ。
 そうまでされて、華軍を返せとは言えず、祖父母は顔を見合わせた後、ゆっくりと頷いた。
 こうして、華軍は子賢に伴われて洛府――洛涙の城内へと向かった。道中、子賢は色々なことを華軍に語ったが、学のない華軍にわかったのは「天啓」というのが、国民が無条件で敬う白帝(はくてい)の庇護を得ているものへの賛辞だということだけだった。

「童、年は幾つになる」
「十、です旦那さま」
「十にしては随分と幼いな。俺はまた七つぐらいかと思っていたぞ」
「あの、そのおれは流民、ですので」

 それに加えて「読替」の罪科も背負っているので、とはとうとう言えず終いだった。白環に刻まれた結われた縄の紋。それは罪を犯したということを暗に意味している。祖父の環を見た子賢が三人の罪科を知らない筈がない。それでも子賢は華軍の罪科に言及しなかった。無条件の差別に慣れていた華軍にとって、子賢は理解の範疇を超えている。
 それでも、華軍は子賢に対して嫌悪感を抱かなかった。初めて見る敬うべき偉人。その偶像が華軍の網膜に照射されている。だから、華軍は子賢との会話に戸惑いこそすれ、拒もうとは思わなかった。
 白帝――陛下を敬う心とは別の敬意を抱く。
 その、子賢が華軍を連れて行ったのは洛府兵部(ひょうぶ)医務班(いむはん)に籍を置く軍医のところだった。鈴の音が聞こえる童を連れてきた、と子賢が言うと荘厳な雰囲気を纏っていた壮年の軍医が不意に気配を緩める。そして、子賢が小脇に抱えていた華軍を軍医の前に立たせた。

「童、鈴の音が聞こえるのはいつからかね?」
「よく、覚えていません」

 華軍は自分を十の歳だと思っているが、年齢という概念は流民にはそれほど重要ではない。十五の歳に受ける筈の中科(ちゅうか)ですら徹底されていない。戸部から調査官が派遣され、ようやく見習いの官吏として登用されることも珍しくはなかった。
 だから、華軍の耳に鈴の音が聞こえるようになったのがいつぐらい前からなのかはわからない。そのことを全て説明することは出来なくて、わからないと答えるのが精一杯だった。
 軍医は華軍の短い答えを不満に思うでもなく、そうかね、と言って笑った。

「では質問を変えよう。今はどんな音が聞こえている?」
「やわらかな土鈴の音、に似ていると思います」

 その音が聞こえるのは子賢に出会ってからだ、と付け足すと子賢と軍医は不思議そうに首を捻った。

「典医殿、彼は洛涙に入城してから音が止まぬ、と言っていた」

 その音と今聞こえているのは違う音なのか、と子賢が問う。軍医は「まあ待ちなさい」と子賢を制し、華軍の正面で微笑んだ。

「他に音が聞こえる場所はあったのかね?」
「邑里ではたまに。よく聞こえるのはおおきな城郭(まち)、です」
「邑里の音と城郭の音は同じかね」
「是」

 華軍の肯定を受けた軍医が、壁面に積まれた籠の一つから小さな銅鐸を取り出す。何の変哲もない儀礼用の銅鐸にしか見えなかったが、軍医が左右に振ると華軍の耳に飽きるほど聞いた音が届いた。咄嗟に華軍は両耳を塞ぐ。鳴らされたのは銅鐸だったのに、聞こえた音は洛涙に入ってからというもの自らを苛み続けている鈴の音そのものだった。甲高く鳴り響き不快感を煽る。華軍の体がこわばったのを見た子賢が華軍の肩に触れた。その瞬間、音は再び柔らかさを帯びる。

「童?」
「あの、いえ、何でもありません」

 何でもないことはないだろう、と子賢は言う。それでも、華軍はゆっくりと首を横に振って否定の意を表す。何でもない。何でもないのだ。子賢は州府の官吏で華軍とは別の世界に住んでいる人間だ。その子賢に希望を見出しても、手に入れることは叶わない。淡い夢を見て、絶望の色を濃くするのは無為だと華軍は知っていた。
 華軍に与えられた運命は日の当たる場所を歩くことを許さない。
 そのぐらいのことは幾ら華軍が幼くとも十分に理解出来る。
 頑なに子賢の気遣いを拒む華軍の前で、軍医が穏やかに笑う。

「劉副尉(ふくい)、この童はそなたの天啓に相違ない」

 童、副尉。種明かしをしよう。言って軍医が机の上に置いた銅鐸を、何らかの法則に従って鳴らした。三、五、二。その順に何の意味があるのかはわからないが、華軍の耳には再び鈴の音が響く。華軍は反射的に耳を塞いだ。子賢には本当に何も聞こえていないらしい。それを再確認して、華軍は自らの異質さを知る。その音が室(へや)に充満すると、隣の室から誰かが入ってくる気配がした。

「典医殿、お呼びか」

 入ってきたのは痩身の男だった。呼ばれたのを理解している、ということは彼にも鈴の音が聞こえているのだろう。彼が何者かはわからない。ただ、官吏というのは万事面倒な決めごとに従っている、ということだけがわかった。どちらにせよ、男も軍医も子賢も華軍には縁遠い存在で、何の問題も解決しないのなら今すぐにでも解放してほしいとすら思う。居心地の悪さと鈴の音とに辟易した華軍の気持ちとは裏腹に、男を見た子賢がますます不思議そうな顔をする。

「通信士か」
「左様。通信士殿、こちらは『才人』の原石だ。後のことはそなたに任せたいが、よいか」
「試しは終わったようだが、後見人はそちらか」
「兵部防衛隊(ぼうえいたい)戦務班(せんむはん)付戦務官の劉副尉と仰られる。そこな童を見つけてこられた。律令に従い、劉副尉が天啓を得られるのが道理。通信士殿、よろしいな?」
「無論。試しの銅鐸の音が聞こえるのであれば我々は律令に従うのみ」

 後から現れた男がそう言って深く頷いたのを受けて、子賢が喜色を浮かべた。細められた眦の向こうに純然たる好意ではないものを感じたが、華軍にはそれを指摘する権利すらない。華軍たち流民に許されているのは権威から僅かの目こぼしを得ることだけだ。子賢が何の意図をもって華軍をここに連れてきたのかはわからない。彼は華軍に何かを見出した。罰せられる雰囲気ではない。それでも、華軍の直感が告げる。運命は華軍に味方していない。
 通信士と呼ばれた男がちらと華軍を見る。その眼差しは同情に満ちていた。冷え冷えとした瞳の奥で通信士が告げる。哀れな童だ。邑里で「読替」と蔑まれるのとは違う。もっと昏くて絶望に近い。
 常人には聞こえない音が聞こえる。
 子賢が軍医にした説明が鼓膜に蘇る。通信士と華軍にだけ聞こえる音。後見の意味は判然としないが子賢の喜びように何か意味があるのだけは確かだ。
 戸惑う華軍を他所に大人たちの話は進んでいく。
 試しの銅鐸が作られたのがどこかだとか、この音が聞こえるのならどうだとか、今から学舎に入れるのであれば何年次が妥当だとか。学舎に入ることが出来るだけの学資も教養も華軍にはない。万一、それらがあったとしても祖父母をおいて、自らだけが学舎でぬくぬくと守られることは耐えられない。異論を唱えるのなら今だ。鈴の音は洛涙の外に戻れば止まると知っている。生まれてこの方、流れて暮らしてきた。これからもその生活が続いて何の不服がある。
 華軍は意を決して大人たちの会話に口を挟んだ。

「あの!」

 彼らからすれば突然の発声だったのだろう。子賢が少し不思議そうな顔をした。

「どうした童」
「もうよろしいですか、旦那さま方」

 じいさまとばあさまが待ちくたびれてしまう。華軍は二人のもとへ帰るのだ。そしてこの意味の分からない鈴の音の聞こえない場所へもう一度、三人で旅する。
 今後の予定を暗に含んで、退席を請えば大人たちは三者三様の反応を示した。軍医は不愉快そうに顔を背け、通信士は憐憫の眼差しを向ける。そして、子賢は華軍が暗に示したものの全てを無視して、満面の笑みを浮かべた。

「そうだな、童。いつまでもその襤褸を着せたままとは気配りが足りなんだ。通信士殿、俺はこの童の身支度を整えるゆえ、貴官には諸手続きを進めていただきたい」
「承知した。童の名はどうする?」
「名か。そうだな、確か『しょうとう』と呼ばれていたが。童、文字は――わからぬか」

 わからないのは華軍の名ではない。名はいずれ国が与える。欲しくもない環と共に与えられて一生を縛られる。流民に学は必要ではない。読み書きが出来たとして、過分な情報を知るだけで流民の生活は豊かにならないからだ。
 だから。
 罪科を背負った姓などどうでもいい。会ったこともない、華軍たちを棄てていった無責任な男が何を考え、何を失ったのかなどどうでもいい。華軍は最初から何も持っていない。そう思うことで心の均整を保ってきた。今更、書けもしない自らの名など知りたいとも、教えたいとも思う筈がない。

「もうよろしいのですか」

 同じ言葉を二度繰り返した。子賢の耳にその言葉の真意が届かないと知りながら、それでも言葉を重ねる。子賢に触れていると安堵を覚えた。その気持ちが経過とともに薄れていく。だのに子賢にはそれが通じない。通じているのは通信士と呼ばれた男で、彼の眼差しはただ諦観を求めていた。通信士が子賢の後ろから二歩前に出る。そして華軍と視線の高さを合わせて言った。

「童、『諦めろ』。君はもう流民でありつづけることを許されていない」

 平坦にも聞こえるその声に労りを感じる。諦観を求めているのに、多分この場の誰よりも華軍の感情に沿うていた。一本調子の声が華軍の平穏を乱していく。

「じいさまとばあさまはどうなるのですか」
「君が『優秀』であれば報われるだろう」
「意味がわかりません」

 華軍はただ祖父母のもとに帰りたいだけだ。人に称賛されることも、羨まれることも望んでいない。ただ、祖父母と共にありたい。流民というのは唯一、その俄然を許された存在だ。だからこそ、華軍たちは謂われのない誹りや非道に耐えてきた。
 だのに通信士は言う。
 
「それは君が何も知らないから言えることだ。君が報いなければ君のおじい様たちは生を無為に棄てることになる」
「それはおどし、ですか」
「そう聞こえるのならそう受け取っても構わない」

 それでも、君はもう劉副尉に見出されてしまった。その結果を覆すことは出来ない。
 言って通信士が徐に立ち上がり、子賢に問うた。

「劉副尉、童の身支度をお願いする。貴官の屋敷に白環の翁は留まっているのだな」
「通信士殿のお手を煩わせて申し訳ない」

 子賢と通信士のやり取りは暗に華軍の帰邸を否定した。華軍はこのまま洛府に残り、そして通信士が華軍の姓を知る為に祖父と面会する。その仕組みはまだ正しく理解出来ないが、通信士が祖父に会えば華軍の姓がわかる。
 そこに華軍が祖父母と再びまみえることがない、と含まれているのを察せられないほど幼くも愚かでもなかった。焦りと憤りが胸の内でないまぜになって混乱している。
 その間にも子賢と通信士の会話は進んだ。

「職務のうちだ。貴官が気を揉むことはない」
「では、通信士殿。学舎に前触れを頼みたい」
「承知した」

 言って通信士が袷に手を差し込み、薄桃色の料紙を取り出し、何ごとかを書き付ける。
 そして。
 聞いたこともない文言が諳んじられ、未だかつてないほど明瞭に甲高く鈴の音が響いたかと思うと、料紙が小鳥の形に変じていずこかへ飛び立った。
 束の間、見えもしない小鳥の軌跡を追った通信士が感情のない声で告げる。

「童、わかっただろう。君はもうこちら側へ来てしまったんだ」

 その意味するところがわからないほど華軍は愚昧ではない。
 華軍の耳の奥で鳴っていた鈴の音の正体はこれだ。料紙が鳥に変じる、その瞬間に鈴の音が響く。今までは、離れた場所でこの音を聞いていたから音量が小さかったのだ。
 今、目の前で通信士が鳥の変化を見せた以上、華軍にその推論を否定する論拠はない。
 それでも唇は感情を紡ぐ。

「うそだ」
「嘘ではない。君はもう気付いているだろう」

 この音は通信士が鳴らす音だ。
 邑里には通信士が常駐しない。だから、時折しか音が聞こえない。
 城郭には少ないが通信士が常駐している。頻繁にではないが、鈴の音は聞こえるだろう。
 洛涙は州都だ。通信士は部署に一人ずつ配置される。その一人一人が鳴らす音の全てが聞こえるのなら、洛涙では絶え間なく鈴の音が響く。

「童、君が倦厭するこの音を止めたいのなら、君は学ばなくてはならない」
「なに、を?」
「君の持つ天賦の才の使い方と、誰の為にその才があるのか、を」

 君が我々にとって価値のある存在であれば、君のおじい様たちは必ず報われるだろう。
 それだけ言い残すと、通信士は子賢に一礼して室を出て行った。華軍はまだ全てに納得したわけではない。ここに残ることを肯定したわけでもない。
 それでも、察してしまった。
 華軍が子賢と通信士を拒めば祖父母の身柄の安全は保障されない。そういう仕組みになっている。半ば機密事項にも近い話を聞いてしまった。この場にいた官吏たちが隠蔽を躊躇う理由もない。
 だから。
 祖父母の為だ。華軍が耐えればいい。二人と華軍自身。天秤の皿に置いてみる必要すらない。まして官吏たちは「報われる」と言った。嘘かもしれない。それでも、幼い華軍に残された選択肢は多くなかった。
 十年の恩義を返す為に自らを差し出せというのなら、それでいい。二人は十年も罪科と一緒に華軍を育ててくれた。つらくなかったとは思わない。二人と別れることに淋しさがないわけでもない。心の準備もまだだ。
 それでも、華軍は何度言い聞かせても涙を零しそうな自らの心を押さえつけて、子賢の指示に従うことを受け入れた。
 それ以来、華軍が祖父母に会ったことはない。二人は雨越州の小さな邑里で穏やかに暮らしている、とだけ聞いた。無条件にそれを信じたわけではなかったが、疑ったところで真実が聞かされるわけではない。劉子賢という男の持つ闇を何とはなしに感じていた。
 華軍が「まじない」を使う官吏の候補生として育てられていると知ったのは軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科に中途入学した最初の年のことだった。
 学舎の講義を受ける為に必要最低限の教養――文字の読み書きや礼儀作法を覚えることだけが、祖父母と離れた淋しさを埋めた。後見として登録されたはずの子賢すら、たまにしか顔を出さない。子賢にとって必要なのが「小陶」という少年ではなく、「才人の原石」なのだということを察せられないほど愚昧ではない。ふとした隙間が華軍の心を曇らせる。傷ついている自分を知りたくなくて、華軍は寝る間も惜しんで勉学と武官見習いとしての鍛錬に取り組んだ。だから、華軍の世界にはまだ子賢と子賢の屋敷しかない。
 学舎に通い始める段取りを説明に来た時も子賢は淡々としていた。思えばこの頃、既に華軍の心は死んでいたのだろう。親も友もいない。心を開く相手など作るだけ無駄だ。華軍は子賢の道具として生きるしかない。
 学舎でもその結論は揺るがなかった。寧ろ、華軍が編入した組では華軍の身の上と似たような子どもばかりで、絶望を絶望が上書きしただけだった。
 才子と呼ばれる度に華軍の心は凍てついていく。ただ、一つだけ救われたこともある。「まじない」の講義で自らの力を律する術を覚えた。それ以来、華軍の耳に不必要に鈴の音が響くことはない。
 才子の後見を務めることに関しての利潤は学舎に半年ほど通えばわかった。
 才子――即ち白帝の加護を受けたものを保護した者には、才子を使役する権利が与えられる。才子は未来の通信士であり、典礼官(てんれいかん)である。どちらの職も政の根幹に深く関わっているから、才子の後見であるというのは即ち将来の出世を確約されたのと同義だ。才子――子賢にとっては華軍が優秀な人材に育てば、子賢の能力を超えた人事も決して夢ではない。実際、そうして国官に昇進するものは決して少なくない。
 法学の講義でこの律令が定められたのは、当代の国主が主位に座して間もない頃だったと学んだ。学問を友に定めた華軍に、その真なる意味を察することは容易かった。当代の国主には絶望的に人望がない。西白国の国氏である白氏でない時点で、国主には有力な後ろ盾がないのは明白だ。加えて、国主は主位継承権が八位と低く、白帝から下賜される筈の右将軍(うしょうぐん)がいない。それらを論拠に十二州の地方官たちは内乱を考えているのだろう。だから、白帝の加護を得ている才子を必要以上に欲する。
 実際、その「駒」として扱われている華軍からすれば非常にはた迷惑な話だったが、拒否権はない。子賢の持つ「高尚」な思想を侮蔑しながら、それでも華軍は子賢に従った。子賢に報いなければ祖父母が危険に晒される。
 そうして、華軍は十四の年には洛涙の初科を首席で卒業した。当然、中科では通信士見習いとして洛府に配属される。華軍、という名と赤環が与えられ、称賛された。鍛錬を重ねて確信したが、戦の才能のない自分に「軍(いくさ)」の名を与えられる虚しさだけが残る。
 だが、優秀な人材を見出したという功を以って、子賢は中央に赴任していった。
 その頃からだ。
 洛府の官吏の入れ替わりが頻繁になった。違和を覚え、試しに環の書き換えに際して聞こえる鈴の音を注意深く聞くようにすると、多ければ一日で十五ほど鳴っている。それがひと月ほど続いて、華軍は典礼官の不正を疑うようになった。官吏の人事が行われるのは春だ。長雨が続く初夏になってまで、環の書き換えが続く筈がない。通信士の上官にもその変化は届いていただろう。薄桃色の料紙が上官の机の上で何枚も燃やされていた。外に漏れてはならない書状だから燃やした。それ以外の理由が思いつかない。
 そんな状態が一年ほど続いた。
 朱氏景祥は偽りの国主である、という告発文が首府・岐崔(ぎさい)以外の十二州に向けて発せられたのは中科二年目の夏の終わりだった。華軍もその檄文が高札に張り付けられているのを洛府で見た。右将軍も持たない王に国政を委ねてはならない、自らこそ正当な主位継承者であり、白帝の右将軍を得ている、と主張する者はどうやら郭安州(かくあんしゅう)にいるのだということだけがわかる。同時に、華軍は予感した。華軍を利用して国官に昇進した子賢が、これを知れば歓喜するだろう。そして叛乱の渦中に巻き込まれる。
 華軍には白帝も国主も誰でも同じだ。祖父母さえ生きていてくれればいい。だから、別段、自らの身に降りかかろうとしている騒乱の予感などどうでもよかった。
 当事者であることを傍観しようとしていた華軍のそのささやかな思いすら否定されたのは中科も終わる年の冬のことだった。
 郭安州の州都・江鈴(こうれい)の右官府で正式に通信士として登用されるということが決まった。江府(こうふ)を指定したのが子賢である、と聞いたとき、華軍は一抹の不安を覚えた。昨年、発布された檄文の出所がどこだったかを忘れるわけがない。それでも、江府は国主の一族が別宅を構える、ある意味では洛府よりも栄えた地方だ。郭安州の他の地区は枯れた土地が多く、貧しいが華軍が配属される部署は州都の外には出て行かない。こじつければ栄転であると言えた。
 通信士の作る伝頼鳥(てんらいちょう)は定められた手順に従わなければ開封することは出来ない。それと知りながら、華軍は祖父母に文を送った。開封出来たとして、祖父母は文字が読めないことも知っている。それでも、華軍が無事にいることを伝えたかった。
 鳥を空へ放つ。何の期待もしていない。ただの自己満足だから返答は必要ない。
 だのに、三日後。返答が届いてしまった。
 そのことに驚きながらも返答を開く。その中に記されていた内容を見て、華軍は目を疑った。祖父母は華軍が軍学舎の初科へ中途編入した年に「自ら」首を吊って亡くなったという。
 
「うそだ」

 洛府の通信室で、返ってきた文を震える手で必死に掴みながら唇が音を紡ぐ。
 十年に少し足りないだけの時間、華軍は祖父母の無事を信じていた。子賢は何も言わなかった。嘘だ。嘘であってほしい。嘘でなければ、華軍の十年は何だったというのだ。
 祖父母の為に自らを殺して子賢に従ってきた。一体、華軍は何の為に全てを棄ててきた。根幹が揺らいで、自我が崩壊しそうになる。
 今、子賢は岐崔にいて雨越州のことには手が回らない。この文を送ってきた通信士がどの立ち位置にいるのかはわからない。それでも、偽りで華軍を騙すだけの理由があるとも思えない。不意にあの日出会った「通信士」の憐憫の眼差しが蘇る。彼なら知っている筈だ。何が嘘で何が本当なのか。
 そう思うといてもたってもいられなくて、華軍は洛府の医務班へと駆け出していた。もう十年も前のことだから、あの通信士がまだそこにいるという保証はない。それでも、何もせずにはいられなかった。石畳の上を疾駆する。両腕も両足もちぎれてもいいと思った。息せき切らして駆け込んだ医務班では、あの老年の軍医は既に退官し、別の医師と通信士しかいない。せめて、通信士の転属先だけでも知りたいと粘ったが、彼らはわからないとしか答えなかった。
 絶望の淵で、それでも華軍が子賢へ鳥を飛ばさなかったのは、何も子賢を信じていたからではない。昏く濁った頭で、華軍は一人決意した。
 子賢の望みを一番最後で台無しにする。
 子賢の中には自らの利しかない。華軍の気持ちを子賢が考えてくれたことは一度もなかった。祖父母が自ら首を吊ったのか、そう装われているのかすらもうどちらでもいい。子賢が二人の死を願っていたのは自明だ。でなければ、十年も二人の死を伏せる必要はない。
 だから。
 それ以来、華軍は自ら積極的に子賢の望む動乱を助けてきた。
 華軍や祖父母が国に何の仇を成したというのだ。ただ、罪人が血族の中にいる。それだけのことで華軍たちは不必要に虐げられ、そして利用される。国も律令も誰も華軍を助けてくれないのだから、返すべき恩義など最初から存在しない。国が亡ぼうが、国主がその座を追われようがどうでもいい。
 ただ、子賢に華軍が味わったのと同じだけの絶望を植え付けてやりたい。
 そう、思って復讐の念以外の全てを棄ててきたと思っていたのに、華軍は一人の少年と出会ってしまった。
 郭安州の州都での功績を重ね、国府の――子賢の通信士として岐崔へ招かれてから五年。子賢の計画は順風満帆で、内乱の種も程よく育ってきている。典礼官の多くは反体制派に入れ替わり、環という仕組みを逆に利用して国を蝕んでいた。
 今年の冬が来る頃には決着が付く。郭安州で立ったという新王が右将軍を連れて岐崔へ上る。これで、華軍の最期の望みが叶う。
 そう、思っていたのに、その少年は春風と共に一点の曇りもない輝きで華軍の目の前に現れた。
 名家の出身にしては世間ずれしていなくて、純朴。嘘を嘘と見抜ける審美眼など当然持っていない。人を信じることに関しては天下一品で、少年は自然と手を貸してやりたくなる仁徳を持っていた。
 上辺だけの付き合いで済ませようと思っていたのに、少年が必要以上に懐いてしまったと気付いた頃には華軍の心の中に一つの小さな明かりが灯っていた。何度消そうとしても消えてはくれない。ちらちらと華軍の絶望を焦がして、少しずつ温もりを与えてくれる。祖父母と別れて以来、人として扱われる感覚とは別離していた。少年はその当たり前の日常を華軍にくれる。昏い気持ちしか持てず、今まで倦厭してきたこの国に対しても少しずつ好意を持ち始めていた。
 その感覚が決して疎ましくはない、と気付いたときに華軍は少年の存在が怖くなった。
 殺したはずの自分の心が蘇ろうとしている。
 このままでは華軍の復讐はなし崩し的に果たせなくなってしまうだろう。
 それでも、少年は消えない輝きで華軍を照らす。
 温もりと、冷たさの間で華軍は悩んで悩みぬいた。
 そして、半年の後に一つの答えへ辿り着く。

それは、風のように<九>

九.
 華軍(かぐん)の斬撃は文輝(ぶんき)が思っていた以上に重い。
 右官府の通信士になる為には必要最低限の戦闘能力を要求されるが、その水準は決して高くはない。一応は戦える。戦場で自分の身を守ることが出来る。その程度だと甘く見ていた。実戦を知らない文輝でも増援が来るまでの時間稼ぎになるだろうと思ったが、いざ戦闘が始まってみれば勝算は五分を大きく下回っている。こうなれば、全力で守りに回らなければ己の命すら危ういだろう。
 華軍の方も初めのうちこそ文輝を警戒していたが、所詮は軍学舎(ぐんがくしゃ)の模擬戦闘の域を超えてはいないことに気付き、今では全力で打ちかかってきている。持久力のない華軍らしい、短期戦の構えだった。

「華軍殿! 華軍殿の役割というのは一体何なのです!」
「それを知りたければ俺を殺して奪い取れと言った筈だな」

 両腕が痺れる感覚に耐えながら、文輝は華軍へ問う。問うことで少しでも多く間を持たせようという目的もあったが、それと同じぐらい華軍の本音が知りたかった。志峰(しほう)にあらかじめ禁じられていた「華軍への同情」ではない。文輝自身を信じろと言った華軍が、どうして文輝に刃を向けているのかが理解出来ない。何度言い含められても、文輝は問いを重ねてしまう。答えを聞けば納得が出来るかもしれない。その希望だけが文輝の胸中でずっとくすぶっている。貴族の坊ちゃんだから与えられることに慣れていたというのもあるだろう。真実は言葉で表すことが出来ると思っていた。行動が全てだという価値観があるのも知っている。それでも、文輝は答えを知りたいという欲求を抑えられない。
 その願望を華軍は一刀両断に切り捨てる。
 そうされても、文輝の希望は消えない。
 ある意味において、文輝は圧倒的に純粋だった。
 華軍の刃の重圧に耐えかねて両腕の力を抜く。華軍の重心が前方に傾き、文輝はその均衡の隙間を利用して華軍の脇をすり抜ける。相手を失った華軍の剣はそれでも次の瞬間には再び文輝を捕え横薙ぎに払われる。文輝に不得手な武器はない。直刀を縦に構え、華軍の斬撃に耐えた。直刀の間合いと剣の間合いはそれほど変わらない。違いがあるとすればそれは武器の持ち主の力量だけ――すなわち、華軍が有利だろう。それでも、文輝にも勝機が残っている。華軍の持久力は文輝よりも少ない。中城を半刻に渡って駆け巡ってなお、文輝は未だ呼吸一つ乱してはいなかった。
 力任せでは文輝を止めることが出来ないと察したのだろう。華軍の構えが変わる。岐崔(ぎさい)の軍学舎では習わない、古武術の型に文輝は一瞬躊躇した。
 想像を絶する軌道で斬撃が降り注ぐ。生まれ持った動体視力でその切っ先を的確に捕え、文輝は華軍の次の斬撃を受ける。守るだけでは俺は倒せないぞと華軍が嘲笑した。

「華軍殿、俺はあなたを殺めたりはしない、絶対に!」
「将軍位を目指す中科生(ちゅうかせい)とは思えない言葉だな、小戴」

 覚悟が甘い、と指摘しながら華軍が今一度全体重を載せた攻撃をしかけてくる。
 直刀の峰で受ける。金属音が広場に甲高く響いた。文輝は徐々にではあるが華軍の攻撃の速さに慣れ始めている。防戦に徹した文輝とは違い、高い瞬発力を活かした高機動の攻撃を続けている華軍が疲れはじめているのも影響しているだろう。

「華軍殿、岐崔しか知らない俺では何の頼りにもならないかもしれません」
「自覚はあるのか。だがもう遅い」

 刃を挟んで対峙した瞳に宿るぎらついた光に臆したが、目線を逸らすことはしない。今もまだ文輝が華軍を信頼している。それを視線を交わすことで伝えたかった。文輝の言葉に束の間、華軍は文輝の向こうに何かを見た。息が聞こえるほど近くにいて、その視界に自らが映らないもどかしさを堪えきれず文輝は叫んだ。

「なぜですか! 『陛下』はあなた方が蜂起することなどお望みではないはずだ!」

 なぜ「まじない」の才があるのか。どうしてそれが国主や九品(きゅうほん)の血族に顕現しないのか。文輝はその答えを教本の上でしか知らない。知らないが、多くの人々を巻き込み、首府を混乱の渦中に投げ込む為ではないのだけは確かだ。
 白帝が――「陛下」が何を望んでいるかは文輝などが推し量れることではない。
 多分、華軍の方がその答えに寄り添っているだろう。
 その自覚があるのかと問う。
 華軍の瞳がその刹那、混濁した憎しみで彩られる。
 今、華軍の視界には文輝がはっきりと映っているだろう。
 文輝の望んだのとは違う意味で。

「九品が『陛下』の名を気安く口にするな!」

 お前たちにその資格はない、と激昂が返ってくる。
 理性的だった斬撃の軌道が乱れる。ようやく見出した華軍の攻撃の法則性が吹き飛び、文輝は再び直感だけの防御を強いられた。華軍の息は乱れている。だのに全力で斬りかかってくる彼の刃を全て捌き切ることは出来ず、文輝は幾つか傷を負った。

「偽りの主に従い、国を売ったお前たち九品に『陛下』の何がわかる!」

 華軍や右官府(うかんふ)の通信士たちが国を売ったのではない、と言外に含んでいた。偽りの主というのが現在の国主、朱氏(しゅし)景祥(けいしょう)であることは今更疑う余地はない。その景祥を敬い、国政を取り仕切ってきた九品三公(さんこう)こそが「陛下」を裏切り、国を売ったのだと華軍は言っている。
 腐敗しているのは通信士でも、内府(ないふ)・典礼部(てんれいぶ)でもない。安寧の岐崔しか考えていない貴族たちだと言われて文輝は返す言葉に詰まった。

「国主様がご出自を偽ってこられたのにはきっと理由があります! あると、俺は信じています」

 例えば国に混乱を起こさない為だとか、民に余計な不安を与えない為だとか、様々な理由がある筈だ。自らの血族たちが国益を信じて、舵取りをしてきた。文輝は今もそう信じている。近衛部(このえぶ)が何を考えているのか、詳らかにするように求めればいい。それでも納得が出来ないというのは後になっても間に合う。今、岐崔を乱す理由として納得は出来ない。
 そう返すと、華軍の剣が少し軽くなった。

「哀れだな、小戴。お前の愚直さは嫌いではなかったが、あまりにもお前は現実を知らない」
「華軍殿、俺は――」
「お前たち九品は所詮国主の狗だ。国主を崇め奉ることしか頭にない。岐崔の外がどうなっているか、知っていて何もしない」

 小戴、お前はそれすら知らないのだろうな。
 侮蔑すら含んだ声で華軍は一旦剣を引いた。斬撃が止む。その気配を感じさせたのに、現実はそれを否定する。再び強い力で華軍は横薙ぎに剣を払った。
 金属音。一拍遅れて腕に強い衝撃が伝わる。
 華軍の攻撃にはまだ力が残っていた。受けきれずに文輝は後転する。十歩の距離まで退いたところで晶矢(しょうし)の声が聞こえた。

「首夏(しゅか)、気は済んだか」

 弾かれたように晶矢を振り返る。彼女の隣には志峰、そしてその後ろに御史台(ぎょしだい)の官吏の姿が見えた。時間稼ぎの役目が終わったのだ、と理解する。辺りは既に薄暗くなっていた。時間にして四半刻と少しが経過している。ここから先は御史台の管轄だ。
 わかっている。
 それでも、文輝はまだ華軍の答えに納得していない。
 気は済んでいない、と答えようかと逡巡したのを遮って御史台の官吏が声を上げた。

「戴(たい)庶務官(しょむかん)。貴官の尽力に感謝する」

 展開、陶華軍を包囲。その声に反応して部隊が無言で展開する。文輝が反論するより早く、御史台の部隊は華軍を取り囲んだ。華軍の表情が侮蔑から憤怒に変わる。

「邪魔をするな、内府! 俺は小戴以外に用はない!」

 小戴を退けるのならお前たちは未来永劫真実と出会わないが、いいな。怒号が飛ぶ。どうして自分が指名されているのかは文輝も知らない。ただ、多分、華軍の方でも文輝と過ごした半年に意味があったのだ、とぼんやり理解する。
 無意味ではなかった。
 信頼も一方通行ではなかった。
 それでも、文輝と華軍の道は分かたれて交わることがない。
 文輝は直刀を突き立て、刀身に寄りかかるようにして立ち上がる。華軍の顔がぼんやりと霞んでいたが、彼が心底憤っているのだけは把握した。
 文輝の後方で口約束を守り、静観していた晶矢と志峰が華軍の態度に困惑しているのが伝わってくる。
 御史台から派兵された官吏たちも動揺しているなか、部隊長なのだろう。一人が訝しげに志峰を振り返り、問うた。

「志峰殿、現状の説明を要求する」

 先に到着した三人の中で、年長であり、役職上最も説明に適していると思われる人選だった。志峰もそれを了承したのだろう。了承しただろうに、部隊長の問いに志峰は哲学的な答えを返した。晶矢が頭を抱える。

「陶華軍が三十五万分の三に特別な価値を見出している、としか」
「志峰殿、多分、それでは一同が納得出来ないとわたしは思うのだが」
「では言い方を変えましょう」

 浮足立った攻囲の兵たちが晶矢の冷静な指摘に更にどよめく。
 志峰は心底困っている、という顔でちらと文輝を見て、すぐにまた視線を外した。

「陶華軍は小戴殿に殊の外思い入れがある様子。陶華軍の持っている情報を引き出すには、小戴殿が陶華軍を殺める他ない、と当人が申しておりました」

 一体何の思い入れなのか私も知りたい側ですから、それは問わないでいただきたいものですな。それとも、小戴殿からご説明いただけますか。
 皮肉の形を取った問いは文輝を暗に責めている。多分、志峰には文輝の時間稼ぎが「同情」に見えているのだろう。あらかじめ言い含めたのになぜ、と言外にある。文輝は胸中に苦いものが広がるのを他人ごとのように感じながら直刀を鞘に戻す。そのまま空の右手を体側で握ることで、華軍にこれ以上戦闘をする意思がないことを伝えたつもりだったが、逆に彼の闘争心を煽ってしまったらしい。憤怒が文輝に向けて放たれる。

「小戴、今更逃げるのか!」

 最小の動きで華軍の攻撃を受けていた文輝とは違い、全力で打ちかかっていた華軍に残された体力はもう僅かしかない。本来であれば膝をついていてもおかしくはないだろう。だのに華軍は今も敵意を宿したまま直立している。文輝は華軍の執念にぞっとした。
 よく知っていた筈の知人が全く知らない別の誰かのように感じる。
 その固執を御史台の兵たちも感じたのだろう。華軍を攻囲する輪が少し広がった。怖気づいたものもいる。文輝もその中の一人だが、かろうじて退くことだけはしなかった。

「華軍殿、俺が逃げるのではありません! あなたの命運が尽きたのです」
「笑わせるな。俺の命運だと? そんなものはとうに尽きている」

 最初からないものを奪えるほどお前は大した存在なのかと問われ、文輝は自らの想像以上に華軍の持つ闇が深いことを知った。唇が渇く。喉の奥で言葉が張り付いて出て来ない。それでも、文輝は彼の知っている華軍を繰り返し思い出すことで自らを奮い立たせた。
 開いた攻囲の隙間へと足を進めると同時に、握っていた右手を開く。
 そして、ゆっくりと直刀の柄に手をかけた。
 晶矢が目ざとくそれを見つけ、後ろから怒号が飛んだ。

「首夏! それは『違う』ぞ、おまえが今持っている感情は棄てろ」

 人の持つ憎悪をこれほどまでに強く感じたのは初めてだった。臆していたと言ってもいい。無意識的に保身を望んだ。排除しなければならない、という恐怖を咎められて文輝は反射的に柄から手を離す。半身を捻って睨み付ける晶矢と相対した。晶矢の背中の向こうで正気を取り戻した御史台の兵たちが一歩前進する。攻囲がもとの大きさに戻った。そしてそのまま、もう一歩進む。彼らは一様に号令がかかるのを待っている。その声が響けば華軍は捕縛されて終わりだ。
 そうなることを望んで文輝はここへ来た。
 御史台の大夫(たいふ)に華軍の居場所の心当たりを告げたときにそれは覚悟している。岐崔から天と地の別を奪った動乱が治まるならそれでいいと思った。その感情は否定しない。今も文輝は同じ終着点を求めている。
 それでも。
 文輝は触れてしまった。
 たった一人の通信士を捕縛するのに十五人一組の部隊二つが派兵され、その歴戦の勇士たちをもってしても武力では解決の出来ない問題があることを。
 それがこの国の根底に根付いた昏い闇に深く関わっていることを。
 その真実に触れるのが怖くて、文輝は華軍を排除しようとした。安直な対応を恥じると同時に文輝は真実を欲している。

「暮春、じゃあお前は知らなくてもいいって言うのか!」

 文輝の生まれ育った岐崔という名の箱庭は美しく整っていた。
 位階の上下が国を律し、環(かん)が等しく身を立てる。必要があれば律令が賞罰を行い、秩序は保たれていた。その、全てとは言わずとも幾ばくかが教え込まれた幻想だったと知って、それでもなお盲目的に信奉することが出来ない程度には文輝にも自我がある。
 晶矢にそれがないとは思わない。
 九品だという矜持もある。国を支えてきた、国の為に尽くしてきた。それを国主の狗呼ばわりされて黙って受け入れるのは屈辱に他ならない。
 それでも、文輝の知らない「現実」は確かに目の前にあって、叫び声を上げている。
 詮のないことだと切り捨てられない程度には文輝は青かった。
 文輝の声に応じるように晶矢もまた声を張り上げた。文輝よりは落ち着いているように見えるが晶矢もまた青さを残している。
 二人のやり取りは御史台の兵たちにも聞こえている。青い二人の二通りの理想論のぶつかり合いが、兵たちの中に動揺を生んだ。

「わたしが知りたいのは真実と、首謀者の居場所だけだ! それ以上のものはわたしたちの手に余る。身の程を弁えろ!」
「それが正しいってお前が思うならそうしろよ。俺は、目の前にある『真実』から逃げたくない! 箱庭しか知らないで位階をほしがって、それで何になる?」

 俺はそんな薄っぺらい将軍位がほしかったんじゃない。身を切られるように叫んだ。
 誰かを力ずくで従わせて、多くの犠牲の上で優雅に寛いでいる身分がほしかったのではない。国を支える万民を守る剣になりたかった。人の為に剣を振るい、人の為に傷つく存在は少ない方がいいに決まっている。だから、一人でも多く守れるように力を欲した。力に守られたかったのではない。
 ここに保身の為に剣を振るうものなどいない。そうだろうと同意を求めると白帝廟の中庭がしんと静まり返った。沈黙は肯定だ。反論の必要がないから誰も声を上げない。
 その静寂を切り裂いてくつくつと笑う声が響いた。声のあるじを探す必要はない。
 これは華軍の声だ。

「華軍殿! 何がおかしいのです!」
「いや、ご立派な持論だなと感心しただけのことだ」
「華軍殿、俺は真剣に話しているのです」
「人を守る為の剣だから防戦一方か? 人を傷つけるだけの気概もないくせによくも嘯いたものだな」

 小戴、無知とは恐ろしいな。お前はお前を傷つけないように正論で逃げ回っているだけの卑怯者だ。
 正しいだけでは何も守れない。文輝が自ら論じたのになぞらえて華軍が嘲笑う。
 何かを守りたいのならそれ以外の何かを棄てる覚悟があるのだろうなと問われて文輝は返答に詰まった。

「では華軍殿は一体、何を守る為に戦っておられるのですか」
「俺は俺の上官の目指した理想の為に戦っている。仔細が知りたければこの鳥に記した。俺を殺した後でゆっくりと読め。それが出来ないのなら岐崔とともにお前が死ぬだけの話だ」

 文輝を殺めれば、華軍の処遇は捕縛では済まない。今ならまだ、華軍が真実を明らかにしさえすれば情状酌量の余地もあるかもしれない。華軍がそれを知らない筈がないのだ。
 それでも、華軍は上官――正体の分からない戦務長(せんむちょう)の意に沿おうとている。志峰は言った。通信士に横のつながりはない。上官からの信だけが唯一彼らを支えていると。華軍はこの広大な岐崔にあって上官以外に寄る辺を持たない。その、安息の場所を守る為に命を懸けるのに何の不自然があるだろうか。
 それと知って、それでもなお華軍を糾弾できるだけの理由が文輝には思いつかない。正しさが文輝を守らないのなら、一体何を導(しるべ)とすればいい。文輝の中で思いが錯綜して言葉が霧散した。
 沈黙は肯定だ。否定の言葉を紡がなくてはならない。わかっている。わかっているからこそ気持ちが焦る。焦りは思考を乱し、言葉はいっそう遠ざかる。悪循環だ。
 その永遠にも近い一瞬の沈黙を迷いない怒号が打ち消す。
 音源を見る。文輝の後ろで晶矢が華軍には勿論、黙した文輝にも憤っていた。

「首夏、おまえの志はその程度で揺らぐのか! 他人に否定され、迷う程度の覚悟は志ではない。陶華軍、おまえは言ったな。『正しいだけでは何も守れない』と」
「言ったがどうした」
「わたしもおまえの意見に同意する。正しさなど結果の前では些事に過ぎない」
「暮春、お前、何を――」

 晶矢が何かただならぬことを言い出す気配を察知して、文輝の顔面から血の気が失せる。同時に彼女の眼差しの奥に揺らがない信念を見た。正論で論破するのではない。力づくだろうが何だろうが勝ったものが正しい。晶矢がそう思っているのが文輝に伝わる。
 止めなければならない。わかっている。それでも文輝の中の志は揺らいだままだ。中途半端な覚悟では晶矢は勿論、華軍を止めることも叶わない。
 文輝は己の無力を知った。
 その悔恨の思いを引き裂いて、晶矢の口上が白帝廟に響き渡る。

「陶華軍、おまえから見ればわたしもまた無知の権化に過ぎないだろう。それでもわたしは首夏――小戴とは違う。おまえ一人の犠牲で岐崔が守れるのなら、望み通り冥府へ送り届けてやろう」

 言うなり、彼女は腰に佩いた短剣を抜いた。それを見てどよめいたのは華軍や文輝たちだけではない。御史台の兵たちも一様に目を丸くしている。彼らは知っているのだ。程(てい)家の継承者だけが持つ、銀の宝剣に殺傷能力がないことも、それを実戦で穢すことの業の深さも承知している。万一、短剣が実戦に耐えうるのだとしても、華軍の剣に対して間合いが狭すぎる。晶矢の腕では近接戦闘で華軍に勝利することなど天と地がひっくり返ってもあり得ない。
 それでも、晶矢は短剣を抜いた。

「阿程(あてい)、俺の話を聞いていなかったのか? 俺は小戴以外に用はない。下がれ」
「おまえの指名した小戴は臆していて話にならん。箱庭育ちの世間知らずに『現実』を突き付けるのがおまえの目的ならわたしが代わりに聞いてやると言っているんだ」
「お前は小戴より幾らか理知的だと思っていたが、それは俺の過大評価だったようだな」

 所詮は九品。その締め括りに晶矢が今一度憤る。
 十把一絡げに切り捨てるなと怒号した。

「首夏、おまえは一体いつまでぐだぐだと悩んでいるんだ! おまえたちの感傷にこれ以上付き合う義理もない。理想なら安寧の岐崔で論え! おまえの最上は岐崔三十五万の官を混乱させることか! 違うと言うのなら言葉ではなく行動で示せ!」
「だけど、暮春」
「何だ! 何が納得出来ないんだおまえは!」

 左尚書(さしょうしょ)や御史台で見ていた能吏の晶矢はどこにもいない。今の彼女は自らの志の為に憤っている。事件の解決が遅れれば、文輝や晶矢たちの生家に危険が及ぶ。それを甘んじて受け入れたわけではない。そうなっても構わないなどと思ったこともない。
 御史台の兵たちも遊びでここまで来たのではないのも知っている。
 こうして、事態が遅々として進まないことを危惧して志峰があらかじめ文輝に言い含めたのも知っている。
 それでも。
 そうだとしても。

「俺は誰かが死んでそれで収束するような結末は受け入れられない」

 それが文輝の志だ。
 万民を守ると決めた。晶矢の怒号で、華軍の侮蔑で何度否定されても文輝の中でそれだけが揺らがなかった。揺らがないものを志と呼ぶのなら、文輝は今、脳裏で瞬いているこの感情にこそ、その名を与えたい。
 淀みながら、それでも文輝自身が出した答えを口にすると場の雰囲気は一瞬にして剣呑さを増す。そうなるとわかっていて行動に移した。これが文輝の晶矢への――或いは華軍への答えだ。
 晶矢の怒号が今一度白帝廟に響く。

「武官としての矜持も棄てたのか! おまえが迷っている間にも事態は動いている。おまえが迷うだけ、多くの民や官が害され続けているのがなぜわからないんだ!」
「仕方ないだろ、華軍殿も俺たち九品の守るべき官の一人じゃないか!」
「その、お前が尊重しようとしている陶華軍本人が結末を欲しているんだ。それすらもわからないのか!」
「わからないに決まってるだろ! 死んで全部解決するなら、どうして読替なんていう罰があるんだ! 人は罪を償える。だから罰があるんだろ! 過ちを犯せば二度と赦さないのなら、どうしてさっさとその場で首を刎ねないんだ! 暮春、お前には答えられるのか!」

 志峰殿、あなたはどうだ。華軍殿、あなたも答えられるのか。
 読替の罪科(つみとが)を背負う二人の通信士に激情のまま問う。志峰は心底困った顔で首を振り、華軍は冷笑で答えた。その意を図るなら二人ともが返答を拒んだと受け取るのが道理だ。

「華軍殿、死ねばあなたの罪が消えると本当に思っているのなら、俺はあなたを絶対に許さない」

 強い決意をもって言う。華軍が不敵に笑った。

「許さないのならどうするんだ、小戴」

 華軍が一歩前に出る。攻囲が華軍を警戒して一歩分平行移動した。文輝はそれに構うことなく、腰に佩いた直刀に手をかけ、一気に引き抜く。黒鋼が赤光を映した。

「あなたは中科生の俺になら『勝てる』と思っておられるでしょう」
「それが何だと言うんだ」
「今、このときから俺はあなたに『勝つ』為に戦おうと思います」

 直刀の切っ先を華軍へと向ける。華軍と対峙しはじめてから、文輝が自らの意思で刃を向けたことはなかった。時間稼ぎの防戦に徹していたから、文輝の体力はまだ残っている。
 華軍がそれに気付いていないとは思わない。
 それでも彼は呆れたような顔で挑発した。

「勝利宣言とは随分と大胆不敵だな」
「あなたの体力はもうとっくの昔に限界を超えている。今のあなたが相手なら俺にも勝算は残っている。そうでしょう?」
「抜かせ。俺とて右官だ。中科生(ちゅうかせい)ごときに後れを取る道理がない」

 通信士を軽んじるのもほどほどにしろ、と華軍の表情が恫喝する。
 臆して言葉を引っ込めたい衝動に駆られたが、文輝は水際で踏みとどまった。文輝の後ろには晶矢、そして志峰がどうやってこの場を解決するのかを見ている。志の名を冠し、頭上に掲げた以上、文輝には退くという選択肢は残っていない。
 息を吸った。
 白帝廟の中に宵闇が舞い降りてきている。
 文輝は眼前の華軍から視線を外さずに言った。

「いいえ。あなたはもう知っている筈だ。だから、ここからは賭けをしませんか?」
「俺が死ぬか、お前が死ぬか、か?」
「言ったでしょう。俺は誰も殺めるつもりはない。だから」
「『だから』?」
「あなたが戦えなくなるか、俺が死ぬかのどちらの結末を迎えるのか。四半刻でいい。俺と華軍殿に時間をください、志峰殿」

 振り返らずに請う。文輝の眼差しの正面には華軍。華軍の眼差しが文輝を通り越して志峰を射る。内府と呼び、自らと一線を画した存在であると認識した相手がどういう受け答えをするのか、様子見をしている。
 大きな溜め息が文輝の背中の向こうで聞こえた。

「小戴殿が命を落とせばその時点で我々は陶華軍を捕縛、尋問しますがよろしいですな?」

 御史台の兵たちの間に動揺が走る。晶矢があまりの憤りに言葉を失っているのも気配で察した。志峰は華軍が勝利する方に賭けた。四半刻も必要ではない、という分析が彼の中にある。文輝が命を落とせば、華軍の持つ椿色の小鳥を開封出来るものはいなくなる。事態の進展がそこで巻き戻るのは不本意だが、これ以上停滞させることは出来ない、という思いが伝わって文輝は志峰の判断に二つ返事で応えた。

「ご厚意感謝します」

 今にも戦闘の続きが始まろうとする白帝廟の中庭に最後の抗議の声が響いたのは文輝が謝辞を口にした次の瞬間だった。
 振り返らなくてもわかる。晶矢は今日、一番憤っている。憤りながら、この場の誰よりも傷ついている。憤怒と憔悴を矛盾なく孕んだ声が文輝の背中を容赦なく殴る。それでも、文輝は決して振り返らなかった。

「話を勝手に進めないでいただきたい! 志峰殿も何を言っているんだ! 九品の子息の命をそう簡単に天秤にかけられるわけがないだろう!」

 文輝の中にも晶矢の言っている価値観はある。九品の子息である生まれを誇りに思っているし、今までその矜持の為に不条理と戦ってきた。命は決して等価ではない。優先される命もある。文輝の命は明らかに優先されるべき立場にあって、通信士一人の為に散らしてはならないのは重々承知している。
 晶矢の言い分が正論だとしても、文輝は志に命を懸ける意味を知った。
 何かを守る為に何かを棄てる覚悟など今も持たない。文輝の理想にそんな妥協は必要ではない。それを晶矢に押し付けるつもりもない。それでも言った。

「相手の命を奪おうとしてるのに自分の命を懸けないだなんて、そんな傲慢は許されないだろう、暮春」

 御史台の方々には甚だご迷惑かと存じますが、四半刻。お許しいただきたい。
 言って文輝は薄暗闇の中、石畳を蹴った。
 文輝の瞬発力はそれほど高くはない。元々長槍が一番の得手で、それ以外の得物はどれでも人並みかそれより少し使いこなせる程度が文輝の腕前だ。
 華軍の間合いに飛び込んで、初撃を放つ。金属音。華軍が剣で直刀を受けた。両手が塞がった華軍に改めて体重をかけ、重心をずらす。一瞬だけ出来た華軍の隙に直刀の力を抜いて蹴りを放った。長靴が華軍の脇腹にめり込む感覚がある。咄嗟に防御姿勢を取り、衝撃を緩和した華軍の反撃が来た。剣が文輝の左頬を切り裂く。鋭い痛みと熱が生まれたのを無理やり無視して文輝は後方へ跳躍する。追撃が襲ったのは次の瞬間だ。頭上に気配を感じ、文輝は咄嗟に直刀をかざす。再び金属音。華軍は体術を苦手としている、と文輝は認識していたが膝蹴りが来る。鳩尾を強か蹴りつけられて文輝は一瞬、息が詰まった。それでも武人としてのぎりぎりの矜持で意識を保つ。半歩下がり、体勢を整え、間を置かず斬り込んだ。
 華軍の攻撃には決まった型がある。それは時間稼ぎをしている間にわかった。激情で古武術の型を使っていた華軍はもういない。文輝が知った、四角四面の華軍らしい法則性で動いている。それを何とか把握していた文輝は持ち前の素養で致命傷を避ける。華軍はまだ無傷に近い。
 何合が切り結ぶ。得物を交差させては距離を取る。華軍の得意の攻撃形式に持ち込まれている。それと知りながら、文輝はそのまま戦い続けた。
 周囲が段々と暗くなる。攻囲の兵たちの顔が見えなくなりつつあったが、周囲から浴びせられる焦燥感だけは決して消えなかった。
 どのぐらいの間、文輝と華軍の拮抗した戦闘が続いていたのか。永遠にも似た長い時間が経過したと思っていたが、不意に志峰が「間もなく四半刻ですな」とひとりごちる。
 華軍の斬撃が勢いを増す。
 胴を狙う一撃が来た。この流れなら、次の斬撃は突きだ。文輝の左肩を狙ってくる。わかっていたから右前方へ飛び込んだ。標的を見失った華軍の剣が、そのまま横薙ぎに軌道を変える。空いた左の脇腹を庇っていては文輝の攻勢が始まらない。敢えてがら空きの脇腹を差し出すことで文輝は華軍の背中の後ろへ回り込む。脇腹に激痛。熱と衝撃が文輝を襲う。それでも、この機を逃せば時間切れになる。わかっていたから、文輝は直刀の柄を両手で握りしめる。殺傷能力のある実際の武器で無防備な誰かを斬りつけるのは今が初めてで戸惑う。その迷いを払拭する為に文輝は雄たけびを上げた。声とも叫びともつかないものが文輝の肺腑から込み上げる。絶叫。そして両手に鈍い感覚。背後を肩から腰にかけてざっくりと斬った。瞬間、鮮血が文輝に向けて噴出する。生温かい感覚が文輝の顔面に降り注ぐ。鉄と赤とで文輝の頭の中が真っ白になる。傷を負ってなお、振り返り攻撃を続けようと華軍の体が回転する。今、直刀をおろせば文輝が死んで終わりだ。賭けに勝ちたい、というよりは本能的に湧いた「死にたくない」その一念で文輝は直刀を肩の高さで構えた。
 華軍の雄たけびが聞こえる。死にたくない。でも華軍――同輩を、人を殺したくない。極限状態の中で、文輝は錯乱していた。空の朱と血の紅、それから華軍の右服(うふく)の赤が混じる。死にたくない。殺したくない。でも死ぬのが一番怖い。
 感情を持て余し、完全に混濁した自我にそれでもその感触が伝わる。
 直刀に衝撃。文輝は脇腹以外に痛みを感じない。それでも文輝の直刀からは温かい液体が滴り、白帝廟の石畳を汚す。
 何が起きているのか理解出来ない。文輝の視界には満足げな表情の華軍。小戴。切れ切れに名を呼ばれる。華軍の傷は背中の一つだけだ。だのに彼の声は息が切れた、という次元を超越している。

「華軍殿?」

 戸惑い、柄を握りしめたまま固まった両手ごと一歩後ろへ後ずさる。文輝の手の中に今までに経験したことのない感覚が生まれた。
 もう一歩下がる。石畳の上で水音が響いた。
 何が起きているのか全く理解出来ていない。
 だのに。

「約束だ、小戴。くれてやろう」

 紅い液体にまみれた華軍の右手が文輝の右服の袷(あわせ)に何かを差し込んでくる。丸みを帯びた何かだ。華軍が持っている球形の物体には一つしか心当たりがない。

「伝頼鳥」

 何かの正体を知り、思わず呟く。赤の襟に別の赤が付着する。鉄錆の匂いがむっと込み上げた。
 この匂いを望んだのは他ならない文輝自身だとわかっている。
 それでも、両手で握った直刀から伝わる感覚が何かを知って、それでもなお握り続けられるほど、文輝の精神は成熟していない。
 文輝の直刀が、華軍の胸を貫いている。中科二年目で文輝は衛生班(えいせいはん)の配属になった。軍学舎の初科(しょか)でも人体の構造――とりわけ武官に必要な人命に関わる急所についての知識を得た。
 感情が否定しても理性が肯定する。
 この直刀が貫いているのは紛れもなく、華軍の心臓だ。角度、深さ。どちらも申し分ない。この直刀を引き抜けば、華軍は出血多量で即死だ。
 その意味を正しく理解した瞬間、文輝の両手は震えだし、直刀が宙に浮く。支えを失った華軍の体が文輝に向けて崩れ落ちる。力ない体が文輝に覆いかぶさる。
 叫び声が音にならずに空中に霧散した。強制的に幕引きを迎えた華軍との対峙。華軍を殺さないと誓った。その文輝自身の手で華軍は今にも息絶えようとしている。何が起こったのかはわからない。
 ただ、止め処なく溢れる赤を止めなければ本当に華軍が死んでしまうのだけは確かだ。

「衛生兵! 衛生兵はいないのか!!」

 まずは止血して、傷口を仮に縫合。その後、適切な処置を施し、そして――目まぐるしく頭が回転する。やっと音になった声に、それでも文輝が望んだ反応は返ってこない。もう一度声を上げようとした文輝の袖口を赤の両手が力なく掴む。

「小戴、これが、俺がお前にくれてやる、最後の餞別だ」

 ごぽり。華軍の口元から液体が溢れ出す。それが血液であることはもう今更疑うまでもない。
 心臓とその裏にある肺腑をも直刀が貫いている。絶望的だ。わかっている。文輝も、二人を攻囲した御史台の兵たちもそれを理解している。賭けは文輝の勝ちだ。四半刻の定時連絡で志峰が文輝の勝利と動乱の解決に寄与する情報を得たと紫の鳥を飛ばす。御史台の兵たちは一様に安堵し、胸を撫で下ろしている。
 文輝と華軍の命を懸けた賭けは終幕した。華軍はこのまま捨て置けば間違いなく命を落とす。約定は守られ、伝頼鳥は文輝のもとに渡った。御史台は華軍の生死より、文輝が一刻も早く鳥を復号することに拘泥している。
 志峰が攻囲の内側へ進み出る。小戴殿。平坦な声が憎らしいと思った。

「華軍殿、喋らないでください! 肺腑も傷ついています! 今すぐ手当すれば――」

 まだ間に合う。その可能性が限りなく無に近いと知りながら、それでも気休めを口にした。希望的観測を通り越して願望でしかない。それでも口にした。認めたくなかった。華軍が死んでしまうことも、その巡りあわせすら文輝の上官が望んだ結末だということも。
 心底悲しいときには涙すら浮かばないのだと知る。
 今の文輝の頭の中には華軍を救う段取りしかない。
 一刻も早く応急措置をしなければならない。だのに志峰は更に近づいて、いっそう平坦に文輝の名を呼ぶ。
 華軍が文輝の肩口に頭を預けて、弱弱しく右服を握りしめた。その力が段々消えていくのに心底怯えていた。こんな思いは、戴の屋敷に火が放たれると聞いたときにすら抱かなかった。家族の命がかかっている。それでも動じなかったのに、ただの同輩一人の死にこれ以上ないほどの恐怖を覚えている。

「小戴、俺はもういい」
「華軍殿! ですから!」

 喋らないでください。本当にあなたが死んでしまう。
 言えなかった文句で胸中が溢れて感情が氾濫している。志峰はお互いの表情が目に見えるほどに近くなった。それでも、彼が衛生兵を呼んでくれる気配はない。暮春。晶矢を呼べど、彼女は攻囲の一部のまま微動だにしない。彼女は華軍を殺めてでも情報を得ろと言った。それを体現しているのかと憤怒する。
 国を支える国官の命が消えかかっているのに、焦燥感を抱いているのは文輝一人だ。
 当の華軍本人ですら、文輝の感情の全てを無視して彼の言葉だけを紡いでいる。

「小戴、よく覚えておけ」
「――っ、何を!」
「これが、人を殺す痛みだ」

 一瞬だけ華軍の両手がぐっと握られ、そして次の刹那全ての力を失った体が文輝の眼前で崩れ落ちる。直刀に胸を貫かれたままの華軍が白帝廟の石畳の上に横たわる。

「華軍殿? 華軍殿!」

 膝を折り、血で出来た水たまりに横たわっている華軍に寄り添う。頬に触れた。まだ温かい。なのに。唇に触れた。呼吸はもうない。そのまま指を滑らせて首筋に触れた。脈もない。環を取り出した。警邏隊戦務班の紋が消え、石だけが残っている。
 状況は全て華軍の死を告げている。文輝にはこの状態の相手を救う知識も技術もない。絶望が虚無感を連れてきた。両手には今も華軍を刺し貫いた感覚が残っている。これほど鮮明に残っているのに、華軍はもう二度と還らない存在になった。

「小戴殿、お見事でした。賭けはあなたの勝ちのようですな」

 鳥の復号鍵は知っておられますな、一刻も早く復号し、我々にお渡しいただきたい。
 淡々と告げる志峰の意図がわからないわけではない。
 晶矢の言う通り、一人の犠牲で岐崔の多くの民が救われるのなら、犠牲を惜しむことは許されない。
 わかっている。どんなきれいごとを並べても、誰が何と庇おうと、華軍を殺めたのは文輝だ。そしてその華軍は文輝に多くを委ねて逝った。華軍に選ばれた最後の一人であることを誇り、武官としての務めを果たさなければならない。
 わかっているのに感情が状況に追いつかない。

「志峰殿は納得されたのですか」
「それは小戴殿が持っている椿が語るでしょう」
「華軍殿が死ななくてもいい答えもあったでしょう!」
「それを咎める権利はあなたにはない。違いますか?」
「――っ!」

 経緯はどうであれ、あなたが陶華軍を殺めた。そう言われれば反論の余地はない。完璧な正論だ。わかっている。それでも文輝は激情に流されそうになる。そういう問題ではない、と抗議しかけては口を噤む。何度も繰り返して唇を噛み締め、口腔の中にじわりと錆の味が広がった。

「小戴殿、我々には時間がない。わかっておられないのですか」

 叱責の言葉が文輝に浴びせられる。それでもなお反論の言葉を探そうとする文輝に思ってもない場所から追撃がやってきた。

「首夏! 歯を食いしばれ!」

 志峰の背中の後ろから石畳を蹴る靴音が響く。
 そして。
 文輝の右頬で破裂音と衝撃が生まれた。
 攻囲から駆けてきた晶矢に横面を殴られたのだと気付くのに一拍必要だった。遅れて痛みが認知と共に生まれる。

「暮春! 何するんだ!」

 突然降って湧いた不条理に抗議の声を上げる。文輝は心身共に傷ついている。これ以上無為に傷を増やしてほしくはなかった。条件反射的に声を荒げ、そして気づいた。晶矢もまた憤りながら文輝を見つめている。そして晶矢の与えた不条理が文輝の中の虚無感を幾ばくか奪って消えた。だから、文輝の中には自我が蘇ろうとしている。

「首夏、早くその鳥を復号しろ」

 憤然と晶矢が言い放つ。文輝の頭の中はまだごちゃごちゃと混乱していて先へ進めそうもない。華軍が残して行った「痛み」が文輝の中でまだ自らの感覚と混ざり合えずに暴れている。この状態で「武官諸志(ぶかんしょし)」の前文を読み上げる気にはなれない。

「そんな気分かよ」

 血だまりの中に座り込んだ文輝の頬を再び痛みが襲う。今度は左の頬を殴られたようだった。
 
「気分の問題ではない。一刻も早く陶華軍の持っている情報を共有するんだ」
「暮春、お前は納得してるんだろうな。だってお前、華軍殿を殺してでも先へ進むって言ってたもんな。華軍殿が死んで、鳥が俺に渡ってよかって思ってるんだろ」

 袷の内側で熱を持たない小鳥がじっと身を潜めている。椿色の小鳥の重要性は文輝でも知っている。赤の中でも一等赤い。これ以上色味が増せば墨で文字を綴っても読むことが出来ない。墨で文字を綴れる一番濃い色の鳥にどれだけの重みがあるのか。生まれて初めて椿色の伝頼鳥を見たが、速やかに開封せねばならないことぐらいは十分承知している。
 それでも。
 そうだとしても。
 どんな理由があっても、文輝の両手は覚えている。人の肉を断つ感覚。人の命が消える感覚。先ほどまで温かかったはずの華軍の死体が偏東風に晒されて少しずつ冷たくなっていく。死ねば二度と還らない。
 それを一瞬で受け入れ、割り切れるほど文輝は成熟していない。文輝の両手には穢れと痛みだけが残っている。晶矢はこの穢れも痛みも知らない。だから、彼女は毅然と振る舞える。八つ当たりのように言葉を吐き捨てた。晶矢は憤然とした態度を少しも変えずに答える。

「当たり前のことで駄々を捏ねるな。首夏、皮肉なものだな。刃を振るった当のおまえだけが、真実を知らないというのは」
「何の話だ」
「陶華軍を殺めたのはおまえだが、陶華軍は『自ら』おまえの持つ直刀に飛び込んで行った。つまりは手の込んだ自殺だ」
「『自ら』?」
「そうだ。わたしたちには到底理解出来ないが、陶華軍は最初から死ぬつもりだった。死ぬつもりでおまえを煽ったということになる」

 どうしておまえだったのだろうな。
 晶矢の声が不意に憂いを帯びた。それは能吏の晶矢ではなく、文輝の友人としての晶矢の顔だ。晶矢の表情と彼女が告げた言葉に文輝は華軍の遺した言葉を思い出す。
 文輝の両手の中にあるもの。
 それは、人を殺す痛みだ。
 この先文輝は武官として生きていく。その道は決して美しくはないだろう。律や令の為に刃を振るうのだから当然人を傷つける。殺めることもあるだろう。
 それでも自ら望んでその道を進むのなら知っておかなければならない。文輝が殺める相手もまた同じように生きていて、何かと戦っている。正義の形は違うかもしれない。持論が交わらないかもしれない。それを理由に刃を振るう。
 命を奪う度に心を痛めていたのでは戦えないのかもしれない。
 それでも、華軍は文輝に痛みを植え付けていった。
 どうして。不意に目頭が熱くなる。どうして。もう一度小さく呟いた。喪って、後背を託されて、最期の餞別を受け取って、全部ぜんぶ取り戻せない場所まで来て、やっと文輝も知った。
 文輝の望む将軍位を得るには数え切れないほどの命を踏み台にしなければならない。
 その一つひとつに優先順位を付けて、守るものと棄てるものを選ぶ。
 そうして棄てると覚悟したのなら、痛みと共に奪った命を背負っていかなければならない。
 文輝の両手は全てを守れるほど強くはない。
 全てを守りたのならもっとずっと強くならなければならない。
 視界がぼやける。目元から涙が零れ落ちる。泣いていても何も始まらない。わかっている。
 わかっているが、自らの命を懸けて文輝の中に傷を遺していった華軍を思うと慟哭が止まらなかった。華軍は多分、文輝がここで道を棄てることは望んでいない。寧ろ逆だ。文輝が先へ進む為の導となることが、華軍に残されていた唯一の救いだったのを知る。
 その意味を誰かに諭されなければ気付けないほどには幼くない。
 晶矢がゆっくりと腰をかがめ、文輝と視線の高さを合わせる。血のりで汚れることも構わず座り込んだ、晶矢の柔らかな榛色が告げる。文輝はまだ全てを失ったわけではない。これ以上失いたくないのであれば、残っているものを全力で守らなければならない。晶矢の白い指が文輝の目元を拭った。何度かそうされるうちに涙が自然と止まる。この痛みは動乱が終わったあとで晶矢と分かち合えばいい。だから。文輝の中に前へ進むだけの覚悟が出来た。晶矢がそれを機敏に察して言う。

「首夏、鳥を開封出来るな?」
「わかってる」

 言って文輝は華軍の亡骸を石畳の上に横たえ、直刀を引き抜いた。心臓に残っていた血液が衝撃で少し溢れる。それを痛みと共に知覚しながら、文輝は懐から懐紙を取り出し、直刀に付いた血を拭う。
 そして。
 二人分の傷で血まみれになった右服の袷から椿色の小鳥を取り出して「武官諸志」を諳んじる。長い口上を読み上げる間、御史台の兵たちも晶矢も志峰も静かに黙礼していた。御史台の兵は原則的に右官から昇進した者たちだ。「武官諸志」を知らない筈がない。知っていて、別の何かを守る為にそれぞれの理想に蓋をした。それでも、折に触れては自らが理想と乖離していることを知る。今もそのときなのだろう。
 文輝が最後の一節を読み終えると小鳥はするするとほどけ、椿色の書状に変わる。折り畳むことが出来ないほどの長文が巻物にされていた。巻物は国色である白の平紐で結んである。それを解きもせずに文輝は志峰に差し出した。

「志峰殿、どうぞ」
「おまえはまたそれか」

 晶矢も立ち上がり呆れたように笑う。
 暗に中身を自ら確かめる気概もないのかと含まれていた。

「いいんじゃないか、別に。俺はもう華軍殿から多くのものをいただいた。華軍殿が俺に託したかったものはそこにはないだろうし、もし、あるのなら志峰殿が伝えてくださるさ」
「呆れたやつだ。器が馬鹿みたいに大きいか、全くの狭量なのか、わたしですら理解出来ないことがあるよ、おまえは」

 文輝の答えを晶矢は溜め息交じりで受け取った。
 そして、彼女の表情が能吏のそれに戻ったのを契機に、白帝廟に展開していた三十名が文輝たちの周りに集まる。かなり近い距離であるにも関わらず、その一人一人の表情を見取るのが困難なほど日が暮れていた。二人の部隊長が明かりを灯す。
 その明かりを頼りに志峰が椿色の巻物を開いた。
 華軍の手による長い長い告発文が読み上げられようとしている。

それは、風のように<八>

八.
 終業の刻限を告げる鐘が鳴り、平時であれば日勤の官吏たちが帰途についている筈の中城に長靴が石畳を駆ける音が響く。かつかつと規則的に、けれど忙しなく鳴り渡る音に退庁を禁じられた官吏たちが一様に振り向く。文輝(ぶんき)と晶矢(しょうし)、右服(うふく)の二人の姿を見ると、彼らは当然のように道を譲ってくれたので目礼して三人は白帝廟(はくていびょう)まで全力で駆けた。中城は広いが、ただ駆けただけで息が乱れるほどではない。
 内府(ないふ)御史台(ぎょしだい)を飛び出した後、文輝たちは正門で自らの得物を返却してもらった。大夫(たいふ)付の通信士も同じように短剣を受け取っていたから御史台以前の所属は右官府だったのだろう。晶矢がそこまで見抜いて指名したとは思えなかったし、もしそうだったとしても通信士は現在の右官府の配置を知らない。ただ、時間との勝負になっている今、全力疾走で中城を巡る体力のない通信士では足手まといだったから、結果的に晶矢の判断は正しかったと言える。
 駆けながら文輝はその赤環(せきかん)の通信士へ幾つかの問いを投げかけた。
 取り敢えずは会話をするうえで必要な情報だと思い、名を訊く。通信士は淡々と「梅志峰(ばい・しほう)と申します」と答えた。その名の持つ意味を通信士が説明するまでもない。大夫付の通信士もまた罪科(つみとが)の読替(よみかえ)を背負った天才の一人だということを察する。
 文輝は志峰に何と返すべきか戸惑い、結局は沈黙が返答として受け取られた。その礼を失した返答に志峰は顔色一つ変えることなく、まるで遠くの出来ごとでも知ったような態度で「お気になさいますな」と言う。文輝が取り繕いの言葉を探していると志峰はそれさえも遮るように静かに語りだす。

「正直なところ、阿程(あてい)殿に指名していただいたとき、私は『機を得た』と思いましたよ」
「何の『機』でしょうか」
「小戴(しょうたい)殿はご存じではないかもしれないが、読替の通信士など西白国(さいはくこく)では珍しくも何ともないのです」

 息一つ乱さず、駆ける足を緩めることもなく、三人は右官府の北側にある白帝廟を目指す。現在の配置では右尚書の受付の正面に廟の入り口があるはずだった。
 文輝が知っている通信士は少ない。戴(たい)家の老通信士の他は前年までの中科(ちゅうか)で配属された役所の担当者ぐらいのものだ。初科(しょか)の歴学と法学の講義で読替については学習したが、この春、陶華軍(とう・かぐん)と出会うまではそれも知識の中の存在に過ぎなかった。
 だから、志峰の言うことが上手く咀嚼出来ない。
 晶矢の方もその件については大差なかったのだろう。彼女にしては珍しく、怪訝な面持ちで志峰に問うた。

「志峰殿、それとわたしの指名がもたらした『機』というのが上手く結びつかないのだが」
「九品(きゅうほん)であるお二人にはそうなのでしょう。お二人は岐崔の外へ出たことは?」

 いっときの楽しみの旅以外で、と言外に含んでいて文輝たちは顔を見合わせてから否定する。そんな経験はない。あるとしたら中科を終えて修科(しゅうか)に進み、地方府へ仮着任するのが最初になる、と二人ともが認識していた。
 それを正直に伝えると志峰が微苦笑する。

「ならばお二人には私からお願い申し上げます」
「何を」
「決して陶華軍を憐れみ、情をかけようとなさらないでいただきたい」

 特に小戴殿、あなたに重ねてお願いします。指名で言われて文輝は驚きに目を瞠った。
 半年だ。半年しか文輝は華軍のことを知らない。それでも、次兄にも似た雰囲気を持つ華軍のことを文輝は親しく思っていた。読替など律令の定めた尺度の一つで、個人主義的な思想を持っている戴家においては特別な意味を持っていない。だから文輝は素直に先達として華軍を敬い、通信士として信頼し、そして年の離れた友のように親しんできた。
 会って半日。言葉を交わした時間だけで言えば四半刻にすら満たない。
 たったそれだけの志峰に文輝の何がわかるのだと反発を覚える。
 その気持ちが顔に出ていたのだろう。志峰はいっそう苦々しく笑いながら言う。

「小戴殿、多分、あなたより私の方が陶華軍の心情を理解しています」

 苦笑を形作る唇から断定の言葉が聞こえる。文輝はその言葉に思わず耳を疑ったが、三歩駆けるうちにその意味するところへ辿り着いた。

「志峰殿が地方出身で、読替で、今は国官の通信士だから、ですか?」
「あなたにわかりやすい言葉で表すのならそうなのでしょう」
「納得出来ません。志峰殿は華軍殿にお会いになったことはないはずです。会ったこともない相手の心情が理解出来る、などというのはあり得ない、と俺は思います」

 生まれや育ち、位階や左右の環の別。箇条書きで事実を列挙すれば華軍と志峰は文輝よりもずっと近い存在同士だ。それはわかっている。それでも、志峰が華軍に会ったことは一度もないだろう。その相手の心情がわかる、などというのは幾らなんでも度を過ぎた発言だ、と文輝は判じた。
 それをそのまま伝えると志峰が静かに反論する。

「それはあなたが九品だから言えるのです。無官(ぶかん)と一般的な貴族、そして九品三公(さんこう)の間には決して越えられないほど大きな隔たりがあることをあなたはまだご存じではない」

 国を白帝(はくてい)から預かる国主。その血族である三公。そして貴族の中でも特別な地位を保証された九品。
 三男に生まれた文輝は九品の家を継ぐ権利など殆どないに等しいが、それでも九品であることには何ら変わりない。初科の頃からそれはずっと知っている。九品だと言うだけで敬遠される。その不条理をいつか覆したいと思って文輝は他人から見れば無意味にも等しい努力を続けてきた。家を継ぐ晶矢は不条理を黙殺することを選んだ。
 その、選択が出来ることすら九品に生まれたゆえだと切り捨てられて文輝は閉口する。
 知っている。九品はこの国において特別な貴族でとても豊かだ。諸貴族とは決して同等に語られることはないし、まして無官の民たちとは比べられすらしない。人口で言えば一割どころか五分にも満たない「特別な」側の出自だと断言される。
 志峰のその言葉が、文輝の中に今一度不条理を刻みつけた。

「その言い方は卑怯だ、と俺は思います」
「私もそう思っていますが、こうでも言わなければあなたには伝わらないのではありませんか?」

 そうかもしれない。志峰が一言の元に切り捨てた文輝の感傷には意味などないのかもしれない。文輝は華軍を知ったつもりでいたが、華軍も同じ思いだったかどうかすら定かではないことを突き付けられて文輝は返す言葉を失った。奥歯を強く噛み締める。白帝廟の白壁がようやく見えた。入口まではもう少し距離があるが、そこに辿り着くまでに志峰への反論が浮かぶとも思えず、文輝はまた不甲斐なさを一人抱え込む。
 その、文輝の独りよがりな我慢を晶矢が鋭く見抜いた。
 文輝の隣で大きな溜め息を零したかと思えば半身を捻り、最後尾の志峰に向けて言い放つ。

「志峰殿、それは些か首夏を軽んじている。貴官が思うほどそれは愚昧ではない」
「では阿程殿、あなたにお尋ねします。陶華軍が国官という地位を棄て、通信士であるという誇りを穢してまで一体何を得ようとしているのか、あなたには理解出来るのですか?」
「わたしはそこの坊ちゃんではないから、何か事情があるのだ、とは言わん」
「では何とお答えになるのです」

 文輝の代わりに志峰に反論した晶矢が力強い声で言った。
 白帝廟の門柱が三人の視界に映る。一つ目の廟までもう少しだ。

「その答えは陶華軍本人に訊けばいいだろう」

 それに、と晶矢が続ける。

「貴官の信念が揺らいだ、という不安を八つ当たりでわたしたちに押し付けるのは一人の国官として恥ずべき行為だ、とは思わないのか?」

 その問いの形をした断定を受けた志峰は勿論だが、文輝も瞠目した。
 志峰も文輝も自らの理想を押し付け合うことに必死でお互いの気持ちを理解しようとはしなかった。二人とも不安に押しつぶされそうだった。陶華軍にあらゆる意味で思い入れのない晶矢だから言える。その事実の指摘に志峰はばつの悪そうな顔をして「ここに陶華軍がいることを祈りましょう」と言って残りの距離を疾駆する。未だ戸惑いから抜け出せない文輝の肩を叩いて晶矢が先に白帝廟の門柱をくぐった。
 右尚書の東隣に建立された白帝廟は中城の中では小さい部類に入る。
 四方を白壁で囲まれ、入り口は東西の二か所しかない。文輝たちは西側の入り口から中に入った。正面に石組みの廟が三階建てでそびえ立つ。白帝廟は大体、西――白帝の守護する方角を向いているのが普通で、この廟もそうなっていた。三階建ての廟の吹き抜けになった部分に見上げるほどの高さの石像が立っている。白帝が顕現した姿だとされるが、廟によって少しずつ異なるのが一般的だ。中城にある廟だけでもまるで同じ姿をしているものは一つもない。足もとに控える聖獣は虎であることが多いが、狼であったり、鹿であったりもする。基本的に四足(よつあし)のけものであれば違いは問題視されず、その地域の伝承の方が重んじられた。
 その白帝像の周囲を取り囲むように回廊が作られ、外壁に沿って二十四の神仙の像が配置されている。白帝の直参であり、皆、白(はく)姓を持つ。西白国に十二ある州では、一州につき二柱が土着の神として信仰されていた。その由来から、地方の白帝廟では白帝像を含め三体が配置されるのが一般的で、二十四が揃うのは岐崔だけだ。
 夕暮れ時の白帝廟を訪うものは殆どおらず、中はしんとしている。
 文輝たちの背丈より高い白壁の向こうに夕陽を見る為には廟の三階に上らなければならない。正面に屹立する白帝像を横目に石造りの階段を駆け上る。二階の灯かり取りの窓からは白が強く差し込んでいたから華軍がこの廟にいるのではないかと期待する。
 だが、その期待は三階で否定された。
 この廟は白が強すぎて、朱が見えないのだ。

「王陵が低すぎるんだ」

 中城の西側に造られた王陵は二つの頂を持っている。一つは歴代の国主のもの、もう一つは国主の正妃のもので、峰と峰との間には谷間があった。この白帝廟は丁度その谷間から夕陽が見える。白光(びゃっこう)を遮る峰が低い為、白ばかりが見えて朱が退色している。ここではない、と三人は判じ、急いで階段を再び駆け下りる。南側の頂の影が映り込んだ中城の中に立ち上る橙色の煙が見えた。戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)の火災はまだ続いている。

「急ごう」
「ああ」

 志峰が四半刻の定時報告と結果報告で紫の鳥を飛ばす。それを見送って三人は一つ目の白帝廟を後にした。
 二つ目の白帝廟は東の外れで、付近は兵部や工部の厩になっている。一つ目の白帝廟と比べるとかなり大きく、廟の他にも堂が幾つか配されていた。廟の前には広場があり、入り口は南北と西の三か所ある。神話上、白帝が四位の神とされる所以から四重の塔があった。塔があるのは右官府ではこの一つだけで、あとは岐崔全体でも左官府に一つと城下に一つの三か所しかない。
 その、規模の大きな白帝廟に辿り着くまでに四半刻を要し、白壁が見えた時点で志峰が報告の鳥を飛ばした。それと行き違いで御史台の大夫からの鳥が飛来し、左官府の二つのうち、こちらも一つ目では陶華軍の発見に至らなかったと記してあった。戸籍班の書庫は既に三つが全焼し、現在は五つ目まで類焼しており、未だ火の手からは遠い書庫の戸籍簿を退避させているとの報告がある。その報告を受けた晶矢が悔しげに唇を噛み締めた。
 幾人もの官吏の信念を揺るがし、不安を煽り、国体を損なわせている華軍を「説得」して穏便に解決しようとしている文輝は甘いのではないか。不意にそんなことを思った。思うと同時に文輝は遅ればせながら気付いた。
 晶矢も棕若(しゅじゃく)も大仙(たいぜん)も進慶(しんけい)も志峰も。皆、その文輝の甘さにとうに気付いている。気付いていなかったのは文輝一人だ。
 華軍に会って文輝は何を言うつもりでいたのだろう。
 話を聞けばただの行き違いで済むと思っていた。説得すれば応じてくれると思っていた。
 しかし、もうそんな次元はとうに終わっていた。
 白壁の切れ目に門柱が見える。そこをくぐるのが急に怖くなって、気付けば足が止まっていた。先頭の文輝が止まったことで、晶矢、続けて志峰も足を止めざるを得なくなる。晶矢が訝しげに文輝の名を呼んだ。

「首夏」

 急いでいるのに何をしている、と言外にある。今更気持ちが揺らいだとは口が裂けても言えるはずがない。文輝の感傷と理想論に付き合って皆ここまで来た。それが解決に一番近いと信じたから皆乗った。その信頼を裏切ることは出来ない、と思う。それでも、どうしても怖い。その気持ちは何度拭っても消えてくれなかった。

「志峰殿、一つだけお聞きしてもよろしいですか」

 堪えきれず問う。志峰の肩に紫の小鳥が舞い降りるが彼はそれを開封することなく、文輝の問いと対峙してくれた。

「何でしょう」
「志峰殿はなにゆえ通信士になられたのですか」
「陶華軍と似たような理由でしょう」

 罪科の読替はより重い罪を犯したとき以外で変わることがない。一生を罪科に寄り添って生きていくことを国に強要されている。三親等以内の親族にまで類が及ぶこの制度を作った過去の立法官たちは罪の重さゆえに犯罪への抑止力になると考えていたのだろうが、官吏の腐敗が進んでいる今となっては不必要に人々の暮らしを圧迫するだけになっている。
 「まじない」の才を持つものは読替による底辺の生活から抜け出す為に士官するが、全てのものが救い上げられるわけではない。そして士官が叶っても当然、不条理な差別から逃げられるわけではなかった。

「国もとではやはり肩身が狭かったのですか」

 ぽつり、漏らす。華軍は文輝に愚痴めいたことは一つも言わなかったが、彼は彼なりの苦しみを背負っていたのだろう。そのことに考えが至らず、一方的に親しくしていると思っていた。九品の傲慢と言われれば否定は出来ない。
 夕暮れの赤に照らされた志峰が困った顔で肩を竦める。そこに華軍への同情と嫌悪と憐憫が相反することなく同居しているのを見て、文輝は彼もまた答えを探しかねているのだということを知った。

「おや。一つ、ではなかったのですか。しかしまぁ、答えましょうか。国府に参ってよりもそうでしたな」
「俺は通信士とは人より秀でた存在だと思っていました」
「九品三公もそのようなものでしょう」

 あなたも生まれながらにして人より秀で、ただびととは隔された扱いを受けてこられたはずです。志峰が言う。文輝はその言葉に今までの十七年間しかない人生を振り返った。華軍や志峰ほど秀でてはいないが、思い当たることがある。

「人の中にありながらなお孤独である、という感覚が志峰殿にもおありですか」
「血族の中にありながらなお孤独である、という点では違いましょう」
「華軍殿もそのようにお思いだったのでしょうか」
「通信士には横のつながりすらありませんからな。上官の信を受けられなんだら心が死にましょう」

 文輝は九品だが、三男で二人の兄がいたからそれなりに上手く世を渡る術を身に着けることが出来た。晶矢の方が風当たりが強い。そう思うことで塞ぎ込む気持ちを抑えられたこともある。文輝は世間という人の中にありながらもなお孤独だったが、決して孤立無援だったわけではない。
 志峰や華軍にはその救いの場がなかった。それでも、彼らは上官という寄る辺を得て生きている。華軍の上官は劉(りゅう)校尉(こうい)で、今回の動乱に深く関わっているという嫌疑がかかっていた。華軍が迷わなかったとは思わない。
 でなければ、彼が文輝の下へ折よく伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばすことはしなかったはずだ。華軍は迷っている。自分自身に課せられた命題の証明の過程で心が揺れている。

「志峰殿、それでもあなたは華軍殿を憐れむなと仰るのですね?」

 志峰もまた彼に課された命題と戦っている。その過程が今だ。

「陶華軍を放免すればそれは通信士全体に関わります。というのは建前ですな。私は私の地位が惜しいのです。矜持もあります。その職務を放棄した陶華軍に憤ってもおります。ですから、律を破ったものが許されることが許せません」
「志峰殿が逆のお立場ならどうされましたか」
「それは考えるだけ詮のないことでございましょうな」

 私は今ここにおります。それだけが真理ではございませんか?
 胸中の迷いも、周囲への不信もある。それでも、志峰は岐崔の安寧を選んだ。それを乱すものは捕え、処罰する。華軍に同情しないのではない。彼の心中は痛いほどよくわかっているだろう。そのうえで彼は「通信士」の立場を重んじた。
 だから。

「小戴殿、お心は定まりましたか? もしまだでも私たちは行かねばなりません」
「首夏、ここにも陶華軍はいないかもしれない。それでもわたしは中へ向かう。おまえがその手で陶華軍を捕えるのと孫翁にその役目を託すのと、どちらがおまえを納得させる結論なのか、それは知らん。知らんがおまえは決めたのではなかったのか? 同僚を――陶華軍を信じているのはおまえ一人だ。今更揺らぐならさっさと御史台へ帰ってしまえ」

 わかっている。華軍には何らかの落ち度がある。その程度がどれぐらいかも、動機も全部華軍に会わなければわからない。
 それに、と思う。
 大仙の前では強がって見せたが城下にある戴の屋敷に火が放たれることに対する懸念は残っている。母はきっとうまく采配するだろう。次兄もいる。人さえ残れば屋敷など何度でも復興出来る。信じていないのではない。それでも、失われるものは少ない方がいい。
 だから。

「お手間を取らせました。参りましょう、志峰殿」

 人を信じるということがこれほど難しいことだとは今まで思ってもみなかった。
 今までの文輝は人を信じているという体裁を取り繕い、奇跡的に上手く生きてきただけだ。本当に人を信じたことなどないのだろう。
 人とは利己的なものだ。かつて華軍が文輝にそう言った。わかっているつもりだった。人は自分の為だけにしか生きられない。どんな慈善も慈愛も結局は自らの満足のうえに成り立っている。
 それを今、痛いほど思い知った。
 それでも、文輝は今も華軍を信じたいと思っている。
 この思いが揺らがないのなら、それでいい。
 神の天啓ではない。国主の勅命でもない。上官の指示でもなければ、同輩の提案でもない。この世界に一人しかいない文輝自身が決めたことだ。

「首夏、わたしはおまえの判断を信じているが、万が一の場合には口も手も挟むぞ。覚悟しておけ」

 白壁に沿って再び駆け出した隣で晶矢が言う。彼女の右手がそっと腰に佩いた短剣に添えられる。文輝は知っている。その短剣が程家に代々伝わる宝剣で実戦には向いていないことも、彼女がその鞘を抜いたことがないことも。初科の頃に彼女が一度だけ、その宝剣を振りかざし、目に見えない権力という力を行使しようとしたことを今も悔いていることも文輝だけは知っている。
 晶矢が殺傷能力のないその短剣で武力行使をしようとしている、と聞けば彼女の命そのものを懸けて戦うと言っているのと大差ない。代々、程(てい)家当主の得物は長弓だと決まっている。彼女には近接戦闘は出来ない。
 知っている。文輝は色んなことを知っているのを少しずつ思い出してきた。
 その思いが、不意に文輝の胸の内を温かくさせる。
 別離の覚悟は出来ていない。覚悟もなく戦うのは愚策だと知っている。
 だから文輝は苦笑いを浮かべた。

「善処するよ」
「その顔だ」
「うん?」
「おまえはそういう顔の方が似合っている。小難しいことを考えるのは孫翁にでも任せておけ。十七のわたしたちに背負えるものなどないんだ」
「っていうのを背負ってるお前には言われたくない」
「抜かせ」

 軽口を交わせるぐらいには文輝にも晶矢にも冷静さが戻っていた。
 華軍の答えを聞けばもう一度心は揺らぐだろう。
 それでも。

「陶華軍はもう少し早くあなたに出会うべきでしたな」
「そうかもしれません。でも、出会ったのなら今からでも間に合う、とも思いませんか?」

 長い長い白壁の切れ目がやっと姿を現す。門柱が見え、三人は足を速めた。
 志峰の返答を聞く間もなく、西門から廟の中へと飛び込む。整然と敷き詰められた石畳に赤が反射している。二十四の像が見守る回廊の内側、本殿の階段に人影が一つ。近寄るまでもない。右服を着たその背中には確かに見覚えがある。
 その名を呼ぶより先に声が聞こえた。

「小戴、遅かったな」

 もう来ないのかと思っていた。声が続き、文輝は鼓動が早まるのを感じる。耳まで熱くなりながら、文輝は名を叫ぶ。

「華軍殿!」

 その続きは既に言葉にならない。どうして、だとかどういうつもりで、だとか頭の中で言葉が溢れて何一つ音にはならなかった。憤りと安堵と疑問と不安とでごちゃまぜになった文輝の後ろで志峰が紫の鳥を放つ。その動きも鳥の軌道も見えないだろうに、華軍の背中がゆっくりと振り返り「俺を捕えても無駄だ。御史台にそう伝えておくといい」と平坦に言った。無実だとは言わない。彼の身にかかった嫌疑を晴らすこともしない。せめて弁明をするのならば聞きたかった。

「華軍殿!」

 もう一度叫ぶ。憤りで語調がきつくなる。それでも、華軍は眉一つ動かさず白帝像の足もとで悠然と立っていた。

「小戴、俺はお前に言ったな。『お前を信じろ』と」

 左尚書で窮地に立っていた文輝と晶矢を救ったのは華軍の鳥だ。あのとき、華軍が別の文言を鳥に記していれば結果はどうなっていたのかわからない。
 文輝を救った鳥の主を疑いたくはない。
 国を守る右官の見習いとしてこれほどまでに甘えた言動はないだろう。
 それでも、文輝は華軍を信じたかった。
 そのことを伝えたくて、ようやく言葉は音になる。

「信じているからここに来ました。俺の知っているあなたは何の理由もなく国を売るような方ではない」
「では理由があれば国を売る男だと思われているのだな」
「華軍殿! 俺は言葉遊びをしに来たのではありません」

 あなたが持っている真実を聞きに来たのだ、とは言えず口を噤む。
 華軍が背に負った白帝像を振り返る。三十歩以上の距離があるのに、文輝の目には彼が何かに傷つき憂いているのがわかった。傷つけられたのはこちらの方だ、という文句が湧く。それでも、文輝は口を噤んだまま華軍が話を始めるのを待った。
 視線すら交わらない。華軍が白帝像から目を離すまでの時間が永遠にも感じられる。
 文輝の背中の向こうで晶矢が焦れ、一歩前に踏み出す。彼女の長靴と石畳が擦れ、耳障りな音を立てたのが最後のきっかけとなり、華軍の眼差しが文輝を射た。

「小戴、この中城には一体どれだけの官吏がいるのか、お前は知っているか」
「位階の上下にこだわらなければ約三十五万」
「その中でここに来たのはお前たち三人だけだ」

 三十五万。見習いから現役を引退して指南役として務めているものまで含めるとそのぐらいになる、と文輝たちは初科で学ぶ。退庁を禁じる命が出ているから、三十五万の官吏は今、この中城に留まっていることになるが、何が起きているのかを正確に把握しているものは限られていた。
 華軍が言わんとしていることが上手く理解出来ない。
 思考してから相手に問え、と進慶に言われたのがまた思い出される。
 こんなときにまで悠長にそれを守る必要があるのか、と自問しながら文輝は思考を続ける。華軍は何を待っていたのだろう。その答えは既に知っている気がした。

「もっと早く、俺が来れば何かが変わりましたか」
「さてな。俺はただ言われた通りの役を演じただけだ」

 憂いに満ちた顔で華軍が瞑目する。その瞼の裏に何が映っていて、彼は何の為にここにいるのか。それを知る権利を与えられたのは文輝一人なのだと直感した。華軍の視界には晶矢も志峰も映っていない。
 ならば文輝も敢えて二人のことを忘れるように努めなければ同じ場には立てないだろう。
 警邏隊(けいらたい)戦務班(せんむはん)の役所で振る舞うように、文輝は華軍と対峙した。

「戦務長(せんむちょう)は何をなさるおつもりなのですか」
「それが知りたいのなら俺を殺してこれを奪い取るといい」

 華軍が懐から椿色の小鳥を取り出す。それは華軍が暗号化した伝頼鳥であることは疑う必要すらない。ちらと小鳥を見せた華軍は再び懐深くに仕舞う。殺して奪えというのは比喩ではないだろう。それだけの覚悟があるのに、文輝の目に華軍は疲弊しきっているようにしか見えなかった。何に疲れているのかわからなかったが、この半日の出来ごとを言っているのではないと直感する。多分、彼はもうずっと前から何かに疲れ始めていたのかもしれない。
 もし気付けていたら、と少しだけ思ってそれは文輝の自惚れだと知る。
 複雑な胸中が表情に出ていたのか、華軍は困ったように笑った。その表情の崩し方があまりにも文輝の知っている「いつもの華軍」で文輝はますます胸の奥が痛むのを感じる。

「小戴、そんな顔をするな。別にお前の所為じゃない」

 強いて言うなら運がなかった。ただそれだけのことだ。
 華軍が言っているのが生まれなのか、配属なのかはわからない。わからないことばかりで、文輝は自身の存在の小ささを思い知らされる。美しく整った岐崔。それが全てだと思っていた。地方は荒れている、と聞いてもどうせ岐崔より少しばかり煩雑なだけだと思っていた。その認識の甘さが文輝の胸中で後悔を生む。
 もしもう少し早く生まれていたら。
 もしもっと見識が広かったら。
 もしもっと力があったら。
 もしもう少し一般的な生まれだったら。
 叶わない仮定が幾つも胸に湧き上がる。
 それでも。
 文輝は知っている。
 仮定がどれか一つでも現実のものだったら、文輝は華軍と巡り会わなかった。
 だから悔いても仕方がない。わかっている。わかっているが、感情は論理では整わない。胸に広がる鈍痛を堪えるように唇を噛み締めた。「小戴」と文輝の名を呼ぶ穏やかな声が聞こえる。文輝は凪いだ水面のような華軍の呼びかけにはっとして視線を上げた。華軍が階段を二つ降り、文輝の方へ向けて歩いてくる。声色と相反して彼の双眸には敵意が宿っていた。その眼光の鋭さに文輝は生唾を呑みこむ。人からこれほどまでに強い悪意を向けられたのは生まれて初めてのことで、どうすればいいのかがわからない。反射的に一歩後ずさる。長靴が石畳の上を擦って耳障りな音を立てた。

「小戴、お前も気付いているだろう? 俺は――俺たちはもう限界だ。お前が俺を殺さないのなら、俺たちはお前を殺してでも先へ進む」

 そう決めた。もう決めてしまった。先がどこなのかはわからない。それでも、華軍の中ではもう覆すことの出来ない結論が出ている。その結論に至る道を遮るのであれば文輝すら排除する、と華軍の敵意が示す。
 文輝は生まれながらにして武官の道を歩いている。それは戦闘という暴力を携える道だと知っていた。誰かを守る為に何かを傷つける道だとも知っている。今、文輝が躊躇うことは許されていない。それも知っているが文輝の感情が否定する。

「華軍殿、今ならまだ――」

 過ちを取り戻せる。留まるなら今しかない。
 文輝の感情がその言葉を口にしようとさせた。
 その刹那、文輝の頬に鋭い痛みが走る。熱い液体が頬を伝い、顎から滴り落ちる。朱に染まる白帝廟の石畳を確認しなくてもわかる。目の前にいたはずの華軍の姿を探さなくてもわかる。これは血だ。文輝は今、三十歩の距離を一瞬で詰められた。晶矢が文輝の名を短く呼ぶのが遠くに聞こえる。呼吸すら聞こえそうな距離で、剣を構えた華軍が最後の言葉を発した。

「小戴、覚悟はいいな」

 戦慄が背筋を駆け上がる。
 敵意から殺意に変わった気配が次の瞬間、再び文輝から離れる。文輝は無意識的に直刀の柄に手をかけた。次の斬撃を本能的に察して直刀を鞘から半分抜く。耳障りな金属音が響くと同時に右手に衝撃が走る。華軍の二撃だ。何とか堪え、剣を押し返す。華軍の姿が文輝の間合いの外に移る。文輝の背中の方で晶矢と志峰がそれぞれの得物を構える気配がして、反射的に文輝は叫んでいた。

「暮春、手を出すな!」

 勝機があったのではない。
 晶矢の手を借りなければ劣勢だということはわかっている。文輝が知っているのは模擬戦だけで、その両手は綺麗なままだ。地方官を経てときに最前線で武官として戦ってきた華軍とは経験が違う。
 わかっている。
 自らの感傷の為にいたずらにときを過ごすべきではない。
 椿色の小鳥に全てが綴られているのなら、一刻も早くそれを手に入れ、岐崔の防衛を根本的に立て直さなければならない。そうでなければ、文輝の生家もまた災いに巻き込まれる。
 わかっていたが、文輝を殺してでも先へ進むと言った華軍の声音に含まれていた切なさが耳に残る。それを些事と黙殺出来るほど文輝の精神は成熟していなかった。

「暮春、俺に戦わせてほしい」

 間合いの外で剣を構える華軍を注視したまま文輝は晶矢に語り掛けた。
 晶矢がはっきりと激怒する。その怒りもまた当然のものだが、文輝の心は動かなかった。

「馬鹿かおまえは! 初科の成績に自惚れているのだろうが、そんな場合では――」
「暮春、頼む」

 程晶矢、一生の頼みだ。俺に戦わせてほしい。
 出来るだけ冷静にそう告げる。名で呼ばれた晶矢が返す言葉に詰まって、それでもなお憤っている気配が伝わる。それでも、文輝は知っている。晶矢が文輝の心からの頼みを断るような薄情ものではないということを。

「死なないと誓えるか」
「暮春?」
「必ず生きると誓え! でなければわたしも戦う、いいな!」
「誓う。誓おう。必ず俺は生きる」

 怒っているのに今にも泣きそうな声だと思った。その声に背中を押されて文輝は華軍の間合いへ一歩、踏み入れる。空気を震わすほどの殺意を浴びて臆していた気持ちは今も変わらない。それでも、誓いを立てたからか先ほどよりも体に力が満ちている。下手をすれば文輝は切り捨てられて終わる。よくても相討ちが精々だ。
 それでも。

「華軍殿、刃がなければ語れないのならお相手する」
「精々死なぬように努めるのだな」

 華軍の敵意と対峙すると宣言をした。悪口が聞こえて彼の姿がまた消える。
 華軍の得手は高い瞬発力を駆使した短期戦だ。まずはこの斬撃の速度に目を慣らさなければ話にならない。防戦一方の文輝の後ろには晶矢と志峰がいる。志峰は大夫のもとへ鳥を飛ばした。半刻もすれば御史台から増援が駆けつけるだろう。
 それまでに、文輝は自らの納得する答えを華軍から引き出せるだろうか。
 不安は消えない。それでも、文輝は華軍と対峙すると決めた。
 右腕で受ける重みと必死に戦いながら、夕闇の中文輝の戦いが始まった。

それは、風のように<七>

七.
 西白国(さいはくこく)では戸籍の管理は三重に行われている。左官府(さかんふ)戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)が窓口となり、台帳を作成。その台帳を基に中科(ちゅうか)の登用試験が実施され、内府(ないふ)典礼部(てんれいぶ)が中科生に環(かん)を発行する。その後は各々の人生が分岐する際に各々が管理される役所へ届け出ると典礼部の官吏が派遣され、環の書き換えが行われた。文輝(ぶんき)であれば右尚書(うしょうしょ)がそれに当たり、都合三度の環の書き換えを経験した。
 この三種の役所の資料は年に四回すり合わせが行われる為、原則的には同一であるとされる。同一であることを前提に、毎年暮れ月に戸部租税班(そぜいはん)は徴税額を定め、納税を求める。文輝たちのような官吏は右尚書、または左尚書に徴税資料が送られ、俸禄から天引きされるし、官位を持たない無官(ぶかん)たちは租税班を訪うか城下にいる顔役たちに委任するかして納税は行われた。今年も残すところわずかひと月。徴税額の計算は既に八割方終わっている頃合いだ。
 その一点においてのみ救われた、と文輝は内心で思う。
 だが、それ以外の点では危機的な状況であることは否定出来ない。戸籍の管理は三重だ。少なくともあと二つ、戸籍簿の写しはある。写しはあるが最後に帳簿の整合性を保ったのはもうふた月以上前の話になる。その間の出生と死亡の届けは戸籍班にしかない。
 加えて、戸籍班の書庫の立地条件が悪い。
 西白国では冬が近づくにつれ偏東風が吹く。今も、正殿の外で吹いているこの風は当然、戸籍班にも東から吹き付けているだろう。戸籍班の書庫は宮南門(きゅうなんもん)から続く大路に面している。左官府では最も東に位置し、それは同時に風上にあることを意味していた。西白国の冬の空気は乾いている。書簡を保管し、炎上した倉が風に煽られればどうなるかは幾ら文輝が大らかな性格をしているといっても容易く想像出来る。類焼に次ぐ類焼。十三ある書庫の幾つが焼け落ちるのか、工部(こうぶ)防災班(ぼうさいはん)がどれだけ有能でもその数を減らすことしか出来まい。
 御史台(ぎょしだい)に一矢報いようと抗弁していた文輝だが、棕若(しゅじゃく)の思ってもみない反論に言葉を失った。隣に座る晶矢(しょうし)にとってもそれは同じだったのだろう。瞠目し、唇を音もなく上下させている。その瞳の奥で何かが目まぐるしく回転しているのが見て取れたが形になるのはまだ先だ。文輝は静かに憤った老翁の背中へ視線を戻す。その向こうに相変わらず表情の変化に乏しい大夫(たいふ)の姿が見えた。

「戸部戸籍班の書庫が火災、というのは冗談にしても性質が悪うござりまするな」
「大仙(たいぜん)、君の口から大夫に報告して差し上げたらどうなのだい? 見てわかるだろう。僕は君たちにこれ以上ないほど憤っているから余計なことまで告げてしまうかもしれないよ」

 左官府全体を把握する権利を持っているのは左府(さふ)と呼ばれる長官で棕若ではない。それでも棕若は左官府の代表として御史台に来た。左官府を守るのにそれが一番合理的だと判断したからだ。そして、一刻ほど前に御史台はその全権を持ち、不審者の捕縛に動いた。なのに第二の事件は起きた。それも棕若が愛してやまない左官府で、だ。憤りは当然のことだった。

「大仙、左尚書令(さしょうしょれい)殿の言はまことか」
「大変遺憾ながら」
「そなたがおりながら何という失態であるか。状況を詳しく報告せよ」
「ですが、大夫」

 それを今、大仙の口から報告するとなると彼は文輝の推測も棕若の指摘も肯定することになる。そうしてもいいのか、大仙が躊躇っている。それだけでも十分に推論は事実に近づいているが、未だ確定ではない。迷っている大仙の隣で、進慶(しんけい)が吹っ切れたように笑った。

「大仙殿、認めてしまおう。もう誰の手柄で動乱を鎮めるかという段階は過ぎた。そうですな、大夫?」

 進慶のその発言に一瞬だけ、正殿の中に静寂が満ちる。大きな溜め息がその帳を切って開いた。大夫が今、衰弱しきっているのが伝わる。ようやく表情らしい表情を映して彼は棕若に向き直った。

「左尚書令殿はどこまで事態を把握しておられるのでありまするか」
「この動乱が主上のご出自に関わっている、というところまでかな」
「……つまり、全部お見通しであらるると」
「君たちが『どうしたいか』までは流石にわからないね」

 言葉遊びが続く。右官の造反者が誰か、という問題よりも大きな問題が聞こえた気がして文輝は勢い、立ち上がりそうになる。その隣でごとりと大きな音が鳴った。晶矢が文輝に先んじて立ち上がっている。音源は彼女が座っていた胡床(いす)だったのだろう。床に胡床が横たわっている。能吏の余裕はもうどこにもない。顔面を蒼白にして彼女は大夫に質問を投げかけた。

「大夫、ご説明いただきたく存じます。一体、この岐崔(ぎさい)で何が起こっているのです」

 わたしは、わたしたちは一体何に巻き込まれているのです。言外に含まれた彼女の切実な問いに文輝は息が詰まりそうだった。
 大夫が今一度大きな溜め息を吐き、そして疲れ切った顔で大仙に説明を促した。

「左尚書令殿にとってはただの確認でありましょうが、事実関係を明らかにせねばなりまするまい。大仙、最初から説明せよ」
「……承知」

 随分と長い間を置いて大仙が首肯する。
 そして彼は嫌悪感を隠しもせずに「君たちの質問に答えよう」と言った。

「その前に。阿程(あてい)殿。まずは着席しなさい。人の話は立って聞くものではないよ」
「……失礼いたしました」

 棕若が晶矢を諌める。鬼のような形相で上座の三人を睨み付けていた彼女は棕若の言葉で気勢を折られたのか、渋々胡床を整えてそこに着席した。大仙が文輝に向けて「己れは確かに今朝君と会った。進慶殿の苦言を半日で活かせる君は確かに九品の子息たる素養がある。そのことだけは称賛に値するだろう」と一息に言う。今までの寡黙さが嘘のようだった。
 彼の隣で進慶が困り顔で肩を竦める。

「内府――というか近衛部では工部と典礼部からの報告を受け、秘密裏に調査を進めていた。環の偽造は全く考えていなかったからな。その点では左尚書令殿、貴官らの炯眼に恐れ入る」
「十五の緑環(りょくかん)については進慶殿もご存じだったのですか?」
「見たことのない環が出入りしていれば気付くさ。数も数えた。それでも、偽造だとは思わなかった。蓋を開けば典礼部の中に密通者がいる、だからな。俺たちにそれを看破せよというのは無理だ。正当な手続きを経た偽物を区別出来るやつがいるなら、衛士の枠に収まったりしないさ」

 そう言った進慶の顔には後悔がありありと浮かんでいた。中城を守る衛士でありながら、動乱を未然に防ぐことが出来なかったのだから、それも当然だと言える。
 今、中城では二つ目の事件が起きている。これ以上、被害を増やさない為にも、審議を速やかに終え、首謀者を捕えなければならない。
 ただ、その話題に移行するには幾つかの疑問点が残る。
 文輝の不安を晶矢が言葉にした。隣を見れば獰猛な虎のような態度で晶矢が吼える。

「では内府はこの件について何を調査されていたのです」
「国主様がお生まれになった地のことだ」

 晶矢の問いには大仙が答えた。
 国主の生い立ちならば軍学舎の初科で習う。先代国主が娶った側室の一人、南方王族出身の朱氏(しゅし)という美姫が生んだのが今の国主、景祥(けいしょう)だ。禁裏の中にある後宮で育ったが、朱氏には有力な後ろ盾がなく国主の位を継ぐことなく三公に降下すると思われていた。巡りあわせにより、主位継承者候補たちが次々と命を落とした為、景祥にお鉢が回ってきて今に至る。西白国の土着の民族である白氏(はくし)の純血ではない為、景祥は常に朱氏の名を負っている。
 文輝も晶矢もそう理解していた。だから、国主の出自など調べても何にもならない。違和感が生まれ、それが表情に発露する。
 二人の表情が見えている大仙が冷淡に嘲笑った。

「国史の座学など何の意味も持たない、ということだ」
「どういう意味でしょうか」
「主上がお生まれになったのは郭安州の牧の屋敷だ。主上は主位を継がれるまで後宮に立ち入ったことは一度もない」
「国史の教本には偽りが記されている、と?」
「この国は比較的血統には寛容だ。それでも、国主の座を得るとなると話が違う。神代からのしきたり、血筋、育ち。そう言ったものが途端に力を持ってくる。だから、主上の経歴は適当に補正されて初科生に伝えられる。粉飾も疑う者がいなければ真実に変わり得るからな」

 実力主義を謳う西白国でも選民思想が残っている。それは九品三公――西白国建国の立役者である十二氏が今も残っていることが雄弁に物語っていた。文輝もまた区別された側の一人でありながら、時折、それを忘れそうになる。それこそが貴族の欺瞞だと知りながら、それでもなお文輝は一人の武官であることを望む。傲慢だと知っている。自己満足だとも知っている。
 それでも。
 ただの傲慢や自己満足で終わってしまいたくはなかったから、文輝は目の前の動乱と戦う道を選んだ。

「国主様は今、お心を痛めておられる。そういうことですね、大仙殿」

 国主が生まれ育ったのが郭安州なら、彼は数年に一度ずつ、故郷が飢饉に喘いでいることを無慈悲に突きつけられた筈だ。私情に流され、偏った救済を行いたいと思ったこともあるだろう。それでも、彼は公正な政を貫いてきた。
 郭安州の州牧が今年、飢饉の報せを送ってきたのはふた月ほど前のことだろう。西域は秋の訪れが早い。農作は殆ど行われていないが、植物の育成状況は遊牧民たちに大きな影響を与える。家畜たちが冬を越す為に必要な牧草が育っていない。そうなると郭安州の民たちは順次、財産である家畜たちを食糧にするだろう。一年はそれで乗り切れる。だが、郭安州の飢饉はもう二年目だった。家畜を全て失えば、新しい家畜を買う為の資金など当然残るわけがない。
 飢饉は連鎖する。それを乗り切る為には国政の手が必要だ。
 郭安州だけが飢饉なら話はもっと簡単だった。気候変動。天候不順。偶発的な危機だから、義援を送れば助かる。だが、飢饉は西域一体に及んでいた。一州だけを――国主の生まれ育った郭安州だけを手厚く保護することは許されていない。
 国主は心を痛めながら左官たちに「公平な」支援を命じた。
 そういうことかと暗に含ませると大仙の冷笑はいっそう鋭利さを増す。

「それは己れの知るところではない」

 感情論は後に回せ、と一刀両断された。文輝は口を噤む。
 代わりに晶矢が問いを発した。

「大仙殿、私からも尋ねたいことがございます」
「何だ、阿程」
「事件は二つ目で終わりでしょうか?」

 晶矢の言葉には何らかの確信が含まれている。それを鋭く見抜いた大仙は不機嫌を露わにして舌打ちをした。

「察しのいい子どもは好かん」
「暮春、何か根拠はあるのか?」
「首夏、考えてもみろ。この一件、最初から最後まで郭安州が関わっているだろう?」

 晶矢の返答の通り、環の偽造の発端は郭安州。国主の本来の出生地もまた郭安州。州牧と連絡が取れなくなっているのもまた郭安州。
 こうなってくると郭安州に何か特別な事由があると考えるのが自然だ、と彼女は言っている。
 文輝がその答えを推察するより早く、進慶が苦笑いで新しい助言をくれた。

「小戴、劉子賢(りゅう・しけん)という官吏は戸籍簿のどこにもいない、というのが俺たちの調査の結果だ」

 進慶の言葉に文輝は目を剥く。上官の存在そのものが偽りである、と言われて驚かないものがいれば、それはもう並大抵の神経ではない。
 軍部において上官の存在は絶対だ。その、絶対的指針を根本から否定されるのは武官にとってこのうえない自己否定につながる。
 動揺を抑えながら、文輝は進慶の言葉と向き合った。

「戦務長がですか? しかし、彼は校尉の位階を持っています。環を偽るのは――」

 罪だ、と言おうとして棕若と晶矢の上奏を思い出した。
 典礼部に造反者がおり、それが何食わぬ顔で環を偽造している。そういう結論に達した筈だ。
 でも、だが、いや。何度も否定の言葉を胸中で繰り返す。
 文輝の困惑を受け取って進慶は切なげに眉を顰めた。

「典礼部の腐敗が昨今急に始まったものではなかったのだとしたらどうだ」

 中城の腐敗は何年も前から始まっていて――戦務長の環が偽りなのだとしたら彼の警邏隊着任の前後から手繰って調べる必要がある。結果次第では警邏隊以前の経歴すら調査しなければならないかもしれないが、それはもう御史台と近衛部で始めているのだろう。
 結論は内府が出す。
 だから文輝はこれ以上そこに拘泥することを許されていないことを知った。
 それほど長く、国家の中枢に関わる官吏がそれと知られぬように国を欺き続けてきたのだとしたら、この先に待つ未来は多くの選択肢を持たない。

「進慶殿はこの国がもう終焉を迎える、と仰りたいのでしょうか」
「言葉を飾らないのであればそういうことになる」
「国主様はそれを是(よし)とされたのですか」

 もしそうなのだとしたら、文輝たち官吏は国主の意を汲むべきだ。国が亡ぼうとしていて、その首長が結論を受け入れているのなら、文輝たちが身勝手に抗うのは無為に傷口を広げるだけだ。無官の民たちにその痛みを味わわせるだけの価値はどこにもない。
 文輝の不躾な問いに進慶はそっと瞼を伏せ、小さな声で返す。彼はもう国主の出した結論を受け入れている証左だ。

「国主様はご自身が試されている、と感じておられるのだろうよ」

 大仙の話が真実なら、国主は岐崔の外で育った。中城に守られ、中城を守る岐崔の「当然」を彼は後天的に学んだのだ。岐崔しか知らない文輝にはその苦労は到底推し量ることが出来ない。

「どなたに、でしょうか」

 咄嗟に問う。今朝、進慶に物事を尋ねるときには熟考してからにしろと言い含められたことが想起されて瞬間、後悔する。それでも、文輝は問いを引っ込める気にはなれなかった。
 複雑な胸中が表情に出ていたのだろう。進慶は苦笑を崩さずに答えをくれた。多分、これが彼のくれる最後の問いだという直感がある。

「質問ばかりだな、小戴。でも敢えて答えよう。『陛下』にだろうな」
「まさか」
「さぁ。それを信じるかどうかはお前の自由だ」

 進慶の言っている「陛下」というのは神代の時代の登場人物だ。かつてこの世界が一つの大陸だった頃、世界は大いなる五柱の神によって統治されていたとされる。そのうち、西白国のある辺りを治めていたのが「白帝(はくてい)」という神で、武勇に秀でていた。白帝は四千年の長きに渡ってこの地を守護し、そのときどきの権力者を庇護している。西白国を建国した初代国主も白帝の庇護を得て統治者としての後ろ盾を得た。それから百六十年の間、国主の一族が統治者として認められており、この国では白帝のみを皇帝と認め「陛下」と呼んで慣れ親しんでいる。国主というのは白帝の権力を借りた存在であり、決して皇帝を称することはなかった。
 その、神話の世界に生きている「陛下」に試されている、と国主が思っている。純血の白氏ではない。ただそれだけの理由で彼はもう三十年も疑念と戦ってきた。当代の国主が――朱氏景祥がどんな形であれ、それに幕を引きたいと思っているのを頭ごなしに否定出来るような存在はこの国にはいない。もしいるのだとしたら、それこそ「陛下」だけだ。

「劉子賢はそれを利用しようとしている」

 束の間、呆然とした正殿の中に大仙の声が低く響く。国主の痛みに思いを馳せていた文輝はその声を聞いて我に返る。国主はどちらに転んでもいいと思っている。だからこの場にいる誰もが結論を出せない。それでも、事態は刻々と動いているのだから、傍観者であることは許されないだろう。
 文輝たち官吏もまた「陛下」に試されている。
 そのことを理解した棕若が口を開く。老翁の背中は義憤に満ちていた。

「劉子賢の調査はどこまで進んでいるのだい?」

 静かに激した口調で棕若が問う。大仙は顔色一つ変えずに淡々と答えた。

「郭安州で中科を受けたということがどうにかわかったが、それ以上の調査は望めない」
「なるほど、戸籍班の書庫の炎上は妨害行為だというわけだ」

 戸籍簿は三重に保管されている。その中で出生と死亡の届けの記録が詳細に残るのは戸部戸籍班の台帳だけだ。残りの二つにおいては軽微な情報だとされ、同期されない。
 その、戸籍班の台帳は十三ある書庫で六十年間保存される。
 御史台が戦務長の身上を疑い、調査を開始した段階で既に隠蔽工作が始まっていた。台帳が消失すれば戦務長の生まれは闇の中に消える。それは他の密通者にしても同じことだろう。
 大仙が無表情でそれを肯定する。

「近衛部はそのように把握した」
「出自の隠蔽、にしては仰々しすぎるね。各部の密通者の調査を遅らせるつもりかな?」
「左尚書令殿、その件に関しては我々も多少は調べておりまする」
「そこで右尚書からの調書が出てくる、のだろう?」
「左様。大仙、調書をこれへ」

 内府の官吏というのは揃いも揃って感情を顕わにしない。大夫もまた鉄のように変化のない顔で大仙に指図する。文輝の指摘した右尚書からの調書が半刻遅れでようやく登場した。
 大夫は調書を大仙から受け取ると、慣れた手つきで広げ、ざっと目を通す。

「左尚書令殿、右官府の内通者候補の名が挙がって参りましたぞ。ただ、どの官吏もはっきりとした根拠がありませぬ」

 通信士を中心とした名前が幾つも読み上げられるが文輝の知っている官吏は殆どいない。晶矢の方は幾つか心当たりがあるのだろう。時折厳しい表情で大夫を睨み付けていた。
 およそ二十に至る名が読み上げられ、締め括りに入る。その最後の名だけは決して聞き違えることなどあり得なかった。

「兵部警邏隊戦務班付通信士、陶華軍(とう・かぐん)。このものだけは詳細な罪状が挙がっておりまする」
「馬鹿な! 華軍殿が一体何をしたと言うのです」

 文輝が陶華軍と出会ったのは中科三年目の春、警邏隊戦務班の役所でだった。彼は常によき先輩であり、先達だった。文輝とは歳も近く、割合親しい。「まじない」の才も秀でており、華軍の作る鳥は美術品のような美しさを持っている。その華軍が文輝を――岐崔を裏切っているなど到底信じられることではない。
 一体何の罪状が論っているのかと思わず声にして叫んでしまったあとで、文輝はこの場が御史台であることを思い出し、ばつの悪い思いをした。それでも出した声は二度と取り戻せない。後悔もあったが、文輝は自らの主張を貫くことを選んだ。

「小戴殿、まずは右尚書の調書の中身を聞こう。否定はその後でも十分に間に合う」
「しかし、孫翁! 俺は知っています。華軍殿は国を売るような真似をする方ではありません」
「小戴殿、僕は『聞こう』と言っているのだけれど?」
「いいえ、右尚書の調書は誤りです。華軍殿に罪を擦り付けたい誰かが偽りの調書を作成したとしか考えられません」
「黙るんだ、小戴殿」
「孫翁!」

 棕若もまた憤っているのは理解している。大夫が読み上げた調書に偽りがなければ、密通者は偽造された緑環の数よりも余程多い。しかも名が挙がったのは殆どが通信士だ。役所の左右で言えば、右尚書の責任の方が重いと言わざるを得ない。
 それでも、文輝は文輝の運命を切り開く手を貸してくれた先達を切り捨てることが出来なかった。上官も同僚も同じように信じている。左尚書で口にしたその言葉は今も文輝の中で生きていた。戦務長が何の意図を持って動乱に加担したのかはわからない。華軍が本当に清廉潔白なのかもわからない。
 ただ、一つだけわかることがある。
 それは文輝が二人を信じたいと思っている、ということだ。
 棕若にはそれが見えている。だから、彼の意図に従わない文輝を排除しようとするには至っていない。文輝も頭に血が上っているがそれに気付かないほどは愚昧ではなかった。
 だから、だろう。

「孫翁、誰が何と言おうと俺は俺の直感を信じます。華軍殿は決して意味なく国を裏切るような方ではありません。万に一つ華軍殿に罪科があるのだとして、そこには何らかの意味がある、と俺は思うのです」
「僕は君の気持ちまでも否定したいのではないよ。ただ、否定するにはその前提となる事由が必要だ。大夫の話を最後まで聞こう。君が真実陶華軍を信じられるのだと言うのなら、それぐらいの覚悟が必要だとは思わないかな?」

 幼子に説いて聞かせるように穏やかに棕若が言う。その正論中の正論に論破され、文輝は反論の言葉を失った。血が上っていた頭が少し冷える。否定は許されている。それだけが文輝の希望だった。

「大変失礼をいたしました。大夫、続きをお願いいたします」

 不本意ながらそう謝罪すれば場の空気はまた緊張感を帯びる。
 大夫は「よろしいか」と前置いて華軍の罪状を読み上げ始めた。
 曰く、陶華軍は読替(よみかえ)である、というのが主な論拠だった。読替というのは罪科や功績の種別の音を違う文字に置き換え、それを姓とする行為だ。華軍であれば「陶」すなわち「とう」であり、この場合は「盗」すなわち盗みを働いたものが三親等以内の親族の中にいることを意味している。悪い意味の読替はより重い罪科を負った場合以外は決して変わることがない。つまり、一生を罪科と共に生きていくほかないということだ。
 盗人または盗人の血縁である華軍には生まれつき罪科の運命があり、今回の反逆もその延長である。罪人は結局のところ罪人でしかないというような意味合いの罪状に文輝はまた血が沸騰する感覚を得た。

「大夫――」
「お待ちください、大夫」

 思わず立ち上がり、叫ぼうとした。文輝に先んじて冷徹な声が正殿の中に響く。外はもう薄紫の色合いを纏っていた。時間がない。なのにまだ言葉遊びや責任転嫁が続いている。文輝の直感が告げる。これ以上、ここで時を失してはならない。
 声の主――晶矢は先ほどまでの激昂を抑え、侮蔑の眼差しも顕わに今度は静かに胡床から立ち上がった。

「大夫は『まじない』の才の意味するところをご存じではないのですか?」

 侮蔑の眼差しで晶矢が大夫に問う。大夫は不愉快そうにそれを受け止め、溜め息と共に返答を口にした。

「『陛下』から唯一、主上に対抗し得る術として授かる天賦の才、と認識しておりまするが?」

 それは実に模範的な回答だった。
 西の大地を守護する白帝。その白帝から権力を間借りする国主。国主の専横が行われない為に白帝は楔を打ち込んだ。その楔が「まじない」の才を持つ民の存在だ。国主の一族と九品には決して「まじない」の才を持つものは生まれないのがその証拠だった。
 つまり、「まじない」の才を持つ華軍はこの国における至上の存在である白帝から祝福を受けていると考えられる。何かが起きたとき、白帝の楔である彼らは国主と対峙する武器を持っている、ということだ。

「では、大夫は罪科の読替と『陛下』に下賜された才のどちらが重要である、とお考えなのですか?」
「何が仰りたいのでありまするか」
「私はただ、『陛下』が存在を認めた『選ばれた存在』である陶華軍を先入観のみで裁くのは愚かしいと申し上げているだけでございます」
「貴官も右尚書の調書は偽りである、と仰りたいのでありまするか」
「いいえ。右尚書がそう調べたのでありますれば、陶華軍には何らかの後ろ暗い傷があるのでしょう。ですが、罪科だけを理由に彼を捕縛するのは事実上不可能だと申し上げております」

 そんなことをしたら、今度は御史台の権威が失墜する。言外にそう含ませて晶矢は言葉を切った。大夫が怪訝な面持ちで彼女に問う。
 
「では貴官ならどうする、と?」

 その問いには答えず、晶矢が不意に振り向き文輝に言った。
 いつの間にか生来の晶矢らしい不敵さが戻っていた。多分、彼女は腹を括ったのだ。御史台の思うがままに動くのではなく、自らの意思でこの動乱を乗り切る。だから、晶矢は文輝に問う。

「首夏、お前ならどうする」

 左尚書で問われたのとは少し違う形だったが、本質は多分変わっていない。
 その既視感を覚える問いに気勢を折られた文輝は苦笑で応じる。

「どうする。って、俺に訊くか、そこ」
「信じているのだろう? 警邏隊戦務班の執務室にいない通信士を。ならば覚悟を示せ」
「お前なぁ。覚悟ってのはそうほいほい軽々しく口に出すもんじゃねぇだろうが」
「有事に示せない覚悟ならば棄てろ。わたしもおまえも感傷を許された立場ではないだろう」
「まぁ、そうだが」
「心当たりはないのか。陶華軍が今、どこで何をしているか。劉子賢の方でもいい。信じているのならおまえがその決意で最後まで守ってみせろ」

 それが出来ない程度の中途半端な覚悟しか持っていないのなら、御史台の調べに抗うのは無理だ。今すぐ先の非礼を詫び、媚び諂い大夫へ許しを請え。今ならまだ間に合う。
 言葉の行間を読むと半ば脅迫じみた内容が含められていた。
 文輝は晶矢の苛烈さに舌を巻きながら、それでも自分がどうしたいかを見失うことはなかった。上官も同僚も信じている。華軍は自分を信じろと言った。だから、今なすべきことは何も変わらない。
 息を吸った。正殿の静謐な空気が肺腑に満ちる。血が上っていた頭が少し冷えて思考が巡り始めた。岐崔は広い。その中へ闇雲に駆け出して行っても二人を見つけることは出来ないだろう。見当を付けなければならない。
 そこまで考えて文輝は思った以上に二人のことを知らないことに気付いた。
 世間話をしなかったわけではない。くだらない雑談なら幾つも交わした。それでも、二人の本質に触れる話はそれほど多くなかったのだと知る。
 その少ない本質を脳裏で瞬かせながら、今日の出来事を朝から順に思い出す。
 そして。

「白帝廟(はくていびょう)」

 ある施設の名前が直感を刺激した。白帝廟というのは名前の通り、白帝――「陛下」を祀った廟で西白国中に数え切れないほどある。岐崔の中だけに限ったとしても両手の指ではとても足りない。通信士は月に一度か二度、「陛下」への忠義を自ら確かめる為に白帝廟へ赴く、といつか華軍が言っていたが、彼の言う白帝廟がどの白帝廟なのかはわからない。
 現在地から最も近い白帝廟は内府の中にあるし、戦務班の最寄りであれば右官府の南側にある。華軍の宿舎からであれば城下になるし、或いは華軍の普段の行動範囲など関係がないのなら場所を特定するのはより困難になる。
 晶矢の方もそれを即座に看破したのだろう。

「どの白帝廟だ」
「わからない」
「首夏、わかっているのか? 岐崔の白帝廟は城下も含めれば三十に少し足りないだけだ。第三の事件が起きるまでに二人を見つけなければならないんだ。もう少し、限定出来なければ捜索は無理だ」

 それはわかっている。御史台の官吏を総動員して全ての白帝廟を虱潰しに調べる、という手段も残っているが、それで華軍しか発見できなかった場合、戦務長や残りの造反者を捕える人手に欠くことになる。だから、大夫はそんな悪手を打つわけがない。
 ただ、それ以前に。

「暮春、俺はさっきから気になってたんだが、その『第三の事件』というのは何なんだ。本当に起きるのか?」

 晶矢が吹っ掛けた予想に大仙が悪態をついたのは記憶に新しい。
 詳細を尋ねると晶矢は上座に向き直り、大仙へ挑戦的な言葉を放る。

「大仙殿、第三の事件は予見されているのでしょう? どこで起きるのか、少しぐらいは聞かせていただけないでしょうか」
「劉子賢が我々の調査の通りの人物なら、次の事件は城下だ」

 それも、君たち九品の屋敷だと想定している。実家が心配なら君たちは城下へ戻るといい。
 淡々と告げる大仙に文輝と晶矢は顔を見合わせて笑った。何がおかしい、と大仙が憤然とする。

「大仙殿、あなたは知らないのかもしれませんが俺たち九品は物心がついたら最初にこう教わるのです。『どんな場合でも身内を助けるのは一番最後だ』と。そうですね、孫翁」
「僕も小戴殿の意見に同意するよ。僕たちの屋敷にただ救いの手を待つだけの存在などいはしない。造反者たちが何を思って第三の事件を起こすのか、それはわからないけれど、少なくとも僕は僕の屋敷を守る為に城下へ逃げ帰るような真似だけはしないよ」

 それに、九品の屋敷で暮らすものは皆心構えが違う。被害が出たとしても決して大きくはならないだろう。
 棕若の締め括りに文輝と晶矢は顔を見合わせて同意した。
 九品に自らを最優先で守るような軟弱さは必要ではない。その矜持を三人三様にけれど本質は皆同じに告げると大仙が今日、一番困った顔をした。

「家格が違うとこうも違うのか」
「大仙殿?」
「いや、何でもない。とにかく、第三の事件は城下だと予想される。捕えた十五の緑環の話が正しければ、の話だが」
「何の為に私たちの屋敷を襲うのですか」
「それはまだ調べが終わっていない。陶華軍か劉子賢のどちらかが捕縛出来ればその謎も解けるかもしれないがそれも希望的観測にすぎない」

 小戴、本当にどの白帝廟か心当たりはないのか。
 重ねて問われて文輝はまた思考した。華軍との世間話に何か手掛かりはないか。白帝廟に対する彼の思い入れが別格であることの他に何か解決の糸口を探す。武官である以上、赤という色には拘りがある、と言っていたのがぼんやりと思い出された。それに連なって赤く染まる空が好きだと言ったのも記憶に蘇る。どこかの白帝廟から見ると国色である白と夕暮れの赤が隣り合った配色になるのだと感慨深く言っていた。それをうわごとのように呟くと大夫が副官に命じ、中城の地図を持ってこさせる。全員が胡床を離れ、正殿の中央に集まった。その中央の床に地図が広げられる。

「庶務官(しょむかん)殿、貴官の言う『白』は恐らく季節の変わり目だけに見える白光でありましょう。岐崔で白光が見えるのは標高の高い中城の中だけでありまするな」

 城下は一段低い土地にあって白光は中城の城壁に遮られて見えない、と大夫が言う。
 加えて棕若が「公地(こうち)でも見えるかもしれないけれど、陶華軍が立ち入ることは許されていないだろうね」と補足した。公地というのは三公の住まう区画で岐崔の北端の津(みなと)を中心に広がっている特別な土地を指す。高い壁で境界線が区切られ、その内側に入るには九品ですら関を越えるのに等しい検査を受けた。平民出身の国官である華軍が公地の廟を知っている道理がない。

「内府の廟も同じ理由で省けるのではないですか?」

 大夫の副官が城下と公地に朱墨でばつ印を付けるのを見ながら、晶矢が言う。大仙が即座にそれを否定したが、またすぐ持論を否定しなおした。

「通信士ならば年に二度、内府を訪う。その点からも内府の廟は『特別な廟』である可能性が残るが――内府にある廟は皆王陵の裾野だ。日暮れは見えまい」
「では内府も除外しよう」

 棕若の声に副官がまたばつ印を付ける。

「左官府の西側の廟も同じ理由で除外出来るね。それで? 今の段階であと幾つの廟が残っているのかな?」

 その問いには副官が「五つです」と明確に答える。左官府の東側が二つ。右官府に三つ。白帝廟はその存在理由ゆえに移転が行われないから内府の持っている地図にもその場所が明記されていた。右官府の三つのうち、一つは警邏隊の役所の近くにあるもので文輝もよく知っている。知っているがゆえに断言出来る。

「兵部の官吏が多く出入りし、煩雑な雰囲気を持つここは除外出来ると思います」
「根拠を聞こう」
「華軍殿は静謐を好まれます。戦務班のものにこそ柔和な態度を取られますが、他の兵部の官吏に対しては一歩線を引いたところがありました。その、兵部の官吏の出入りが激しいここに特別な感慨はない、と俺は思います」
「では残るのは四つ、ということだね」

 文輝の発言でまた一つ朱色が増えた。残ったのは四つだ。その事実が地図を取り囲んだ全員の目に光を灯す。四つなら総当たりが出来る。もう陽は落ちかかっているから、廟を探索するのならば急がねばならない。棕若と大夫が眼差しでやり取りして顔を上げる。
 そして。

「小戴殿、阿程殿。君たち二人には右官府の二つをお願いしたい」
「陶華軍は右官でありまするからな。右官府にいる可能性の方が高い、と我々は考えまする」

 そして華軍の顔がわかる文輝がいた方が探索の効率がいい、とも大夫が言う。

「左官府はどうされるのです」

 言外に華軍の顔がわかるのものが他にいるのか、と問えば大仙が不本意そうに答える。

「己れがわかる。問題はない」

 だから文輝が自意識過剰にも残りの四つ全てに対して責任を感じることはない、と含めてあった。それでも負けじと食い下がる。武人としての経験は文輝よりも大仙の方が圧倒的に上だ。文輝は未だ誰も殺めたことのない見習いで、大仙は国主の間諜だから比べる方が果てしなく礼を失している。そのことを理由に華軍の探索から外れることを提言したが、当然聞き入れられるわけもない。

「大仙殿は戦務長の探索に行かれた方がいいのではないですか?」
「それは俺が請け負おう」
「進慶殿」

 城門の守衛である進慶は諸官の判別に長けている。進慶にわからない顔が文輝にわかる筈もないし、それ以上文輝の主張を押し通すのは無理だと判じた。溜め息を一つ吐いて、文輝は大夫と向き合う。指図を受け入れたことを示す為に深く頷けば隣の晶矢が新しい提言を口にする。

「では畏れながら大夫。通信士をお貸しくださいますか」

 中城、と一言にいえど駆け回る面積は膨大だ。通信士を伴わず中城に繰り出せば情報不足でたちまち判断に迷うだろう。晶矢の提案はもっともで、大夫は二つ返事で頷く。

「御史台のものでよろしいか」

 副官に命じ、通信士を呼ぼうとする大夫の横面に晶矢の追撃が放たれた。

「いえ、大夫の通信士をお借りしたく存じます」
「理由をお聞きしまする」
「御名も位階も存じませんが、こちらに参じてよりその手腕が卓越したものであることは十二分に拝見いたしました。私も小戴も未だ一人前ならざる身。少しでも手助けを多くいただきたく存じます」

 御史台の緊急様式に則り、手際よく鳥を飛ばすのを文輝たちはその目でしかと見た。彼を伴う以上に心強い存在を準備させればまたときを失する。そのことを晶矢がすらすらと説明すれば大夫は困惑を顔に浮かべた。

「案内官殿、ではこの場の通信士はどうせよと申さるるのでありまするか」
「御史台の通信士はお一人ではございますまい。その采配も大夫の手腕の見せ所かと」
「左尚書令殿、貴官の通信士もお借りしたいのでありまするがよろしいか」

 今日二度目の困窮に辿り着いた大夫は救いを求めて棕若へ声をかける。しかしそれはこのうえない微笑みで打ち消された。食えない老翁になおも食い下がる大夫を文輝は意外な思いで見る。彼もまた長官である以前に一人の人間であることを知り、ようやく親近感を得たような気がした。

「勿論だとも。けれど、大夫。僕は大仙と共に陶華軍を探そうと思っているよ」
「貴官に武芸の心得はない、と存じ上げておりまするが?」
「それでも、左官府を巡るのなら僕の顔があった方が余程有利ではないのかな?」

 ひらひらと大夫の手を躱してしまう棕若を見ながら、文輝は思う。やはりこの老翁を敵に回すのは死んでもごめんだ。その感想も事態が収拾しなければ何の価値もない。その為には今はいっときでも惜しい。一同の心中を代弁して進慶が進言する。

「大夫、ときがございません。私も劉子賢の探索に右官府へ参りますゆえ、通信士を一人お借りしたい」
「衛士殿もでございまするか」

 一際大きな溜め息を漏らした大夫が各々の主張を全面的に認めると宣言する。
 そして文輝たちには大夫付の通信士が、進慶には御史台の名うての通信士が割り当てられ、棕若は自らの通信士を伴う為に一旦左尚書へ戻ると宣言した。

「よいですか、方々。四半刻ごとに私に鳥で報告をお願いしまする。どなたかでも鳥の報告が途切れれば私の権限で全員を呼び戻しまするがよろしいな? くれぐれも無茶だけはなさらぬよう十分ご注意いただきたい」

 最後に、鳥の報告には速達の効果がある紫の紙を使うように、という指示が出て大夫の副官が三組に束を持たせる。それを受け取り、一同は御史台の正殿から駆け出した。空はもう朱に染まっている。暗闇の中で反逆者と立ち回りをするのは分が悪い。文輝たちに残された時間はもう残り少なかった。

それは、風のように<六>

六.
 息を吸った。内府(ないふ)御史台(ぎょしだい)正殿の中には静謐な空気が満ちている。そのあまりにも平坦な感触に文輝(ぶんき)は居心地の悪さを感じていた。
 文輝だけが何も知らないという気後れと、棕若(しゅじゃく)や晶矢(しょうし)の見たことのない姿に直面した戸惑い。それから、国の根幹を揺るがす事態が起きているのに指を咥えて見ているしか出来ない自分へのもどかしさ。それらがないまぜになって文輝を襲う。
 それでも、文輝が御史台から逃げないのは分別があるからではない。この正殿に至るまでに異口同音に明言された文輝への信頼を裏切りたくはなかったからだ。過大評価かもしれない。ただの世辞だったのかもしれない。何か別の思惑があり、手のひらの上で転がす為の甘言だったのかもしれない。そうだとしても、二人はこの動乱を見届けるだけの器だと文輝を評した。だから文輝は耐えている。いつ来るかもわからない、文輝が必要とされるそのときに恥じ入る自分でない為だけに耐えていた。
 そんな文輝の緊張感を見抜いたのかどうかはわからないが、休みなく行われる筈だった審議が一旦中断している。四半刻と区切られた休憩が始まり、御史台の女官が出した茶を飲んでいる。左尚書(さしょうしょ)で飲んだ茶より苦みが強く、その分香りも高い。隣の晶矢に茶の銘柄を尋ねると彼女ではなく棕若が南方で採れたものだと教えてくれた。

「暮春(ぼしゅん)、お前も茶には詳しい方か?」

 美しい作法で茶を飲んでいる晶矢に問うてみる。その問いに先ほどまでの引き締まった能吏の相好を崩して晶矢が不敵に笑った。

「このわたしに不得手があると思うのか?」

 九品(きゅうほん)の二位、程(てい)家の嫡子で将来は国防の要たる存在である彼女が文輝に劣る要素は殆どない。軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)に属していた頃からそれは理解していたが、これほどまでに明確な差があるとは思ってもいなかったから本音で言えば少し悔しい気持ちがある。
 その悔しさを吹き飛ばすほどの笑みに文輝は目を瞠った。
 ああ、やっぱりこいつは別格なんだ。だなんて感想が胸中に湧いた。それぐらい、自信に満ちた笑顔で晶矢が答える。

「茶の良し悪しなどわたしにわかるわけがないだろう」

 それともおまえにはわかるのか?
 想定していない否定の言葉に文輝は思考停止した。回答の内容と表情が一致していない。その答えはもっと慎ましやかに告げられるべきだ。ぽかんと口を開けて固まっている文輝と堂々たる晶矢の落差に後ろ向きに胡床(いす)に座った棕若が笑う。

「してやられたようだね、小戴(しょうたい)殿」
「孫翁(そんおう)、今のは嘘でも『わかる』という場面でしょう?」

 同意を求めて身を乗り出す。勢い込んで晶矢への非難を求めたが、棕若は笑ったままどちらの肩も持たなかった。

「という既成概念の価値を奪う。阿程(あてい)殿らしい切り返しだね。手としては古い部類だけれど、実際にそれを使う方には長らく会っていなかったから懐かしさを覚えるほどだ」
「わたしは別に孫翁を懐かしがらせたかったわけではない」

 首夏(しゅか)、おまえのその間の抜けた顔が見られたからわたしは満足だ。
 茶の良し悪しがわかるわけがないと言ったのとは対照的に切なげに細められた目元が彼女の本音を語る。晶矢は評判だけが人の口を渡り歩き、彼女のあずかり知らないところで神格化されていくのに辟易しているのだ。
 その弱音を吐く相手として選ばれた。文輝を驚かせて、晶矢にも出来ないことがあると打ち明けて彼女は安堵している。話している相手の感情の機微がわからないほど文輝は愚鈍ではない。
 だから、敢えて文輝は口を噤んだ。
 代わりに棕若が晶矢に受け答えする。

「存じているよ。君が旧いという非難でもない。十七にして茶に通じている方がおられるのなら是非僕の副官に推挙してほしいとすら思っている」
「なるほど、わたしはまんまと孫翁の副官になり損ねたわけだ」
「小戴殿、君が今から左官府(さかんふ)に異動して僕と一緒に茶の道を学んでくれる、という選択肢も残っているけれど、どうだろう」

 孫棕若という老翁を知っているものは彼の暴言がただの冗談では済まないということもまた知っている。言葉遊びと侮って迂闊に彼の要求に応じようものなら痛い目を見るのは明白だ。文輝は慌てて白旗を挙げる。

「勘弁してください、孫翁。俺に武官以外は務まりません」
「では君も将軍位を目指すのだね? ならばなおのこと二人に老翁の説教が必要だ。戦には直接関係しないことも望んで学びなさい。君たちにならそれが出来る、と僕は信じている」

 それが九品の子息として生まれた二人の運命だと棕若は強く言い聞かせていた。
 棕若が敢えて改めて訓告したことに文輝と晶矢は顔を見合わせる。そしてどちららともなく表情を緩めて彼の信頼に応えた。

「孫翁、ご心配には及びません」
「そうとも、孫翁。その覚悟がないのならこの首夏がここにいられるはずがないし、あなたもそれを認めなかったはずだ。そうだろう?」

 晶矢の言葉は言外に彼女自身の処遇を棚上げしているが、短時間の間にこれだけ意識と実力の格差を見せつけられれば反論をする気もなくなる。文輝は微苦笑を浮かべることで晶矢の言葉を肯定した。
 その二人の反応を見ていた棕若が悪戯に微笑む。

「おや? 君たちは齢十七で一人前に九品の矜持を語るのだね。ではその将来が明るい未来の将軍たちにお聞きしようか。小戴殿、君は阿程殿に聞きたいことがある筈だ。違うかな?」

 非難ではない。叱責でもない。棕若は文輝たちの強がりを正面から受け取って認めた。そして文輝たちへの評価に見合う対応として挑発を選ぶ。岐崔(ぎさい)に二人しかいない人事最高官という肩書きに見合う言動だった。
 棕若の言う通り、文輝は晶矢に尋ねたいことが幾つもある。
 その中の一つ、一番訊いてみたかったことを選び、文輝はゆっくりと椀に視線を落とした。

「暮春。お前、どうして爆発事件が起きた場所がどこか、だなんて即断出来たんだ?」

 左尚書の控室。文輝と晶矢はその場所で事件の発生を受けた。左尚書は左官府でも最も北に位置し、右官府の様子を窺うことは難しい。文輝が事件の現場を右官府の中央辺り、と見当を付けたが、晶矢は更に詳しい位置がわかっているようだった。
 彼女は工部(こうぶ)の案内官だから右官府(うかんふ)の配置についてはこの中の誰よりも詳しい。それでも、晶矢が把握しているのは工部のみのはずだ。右尚書(うしょうしょ)や兵部(ひょうぶ)の配置は素人も同然で、そして右官府は役所ごとの配置が定まっていない。一体何を根拠に彼女が事件現場を断定したのか。

「まさか、お前、右官府全部の配置を覚えてるとかそういう――」
「首夏、おまえはわたしを一体どういう存在だと思っているんだ。おまえの大兄上でもあるまいし、流石にそれはあり得ん」

 文輝の長兄は今、別の任で岐崔を離れているが本来は右官府の区画配置が担当だ。工部造営班(ぞうえいはん)の最高責任者である彼はこの春の配置転換を終えた後、西白国(さいはくこく)東部の都市計画指南が必要だという要望に応え赴任した。中城の造営班の方は長兄の副官と通信士で切り盛りしている、と次兄が言っていたのを何とはなしに思い出す。
 九品である程家の嫡子、晶矢と戴家の嫡子である文輝の長兄は立場上求められているものが似ている。持っている素養と自覚も似通っているから、いずれは晶矢も文輝の長兄のようになるのだと勝手に思っていた。
 いずれ、の定義が「中科が終わったら」あるいは「修科(しゅうか)が終わったら」ぐらいの認識だった文輝には晶矢の発言が予想外で言葉を失う。同時にその答えに納得をした自分もいた。それもそうだ。三十何年も生きている長兄と十七の晶矢が対等であれば長兄の立場がない。文輝もまた知らず知らずのうちに晶矢を神格化しようとしていたことに気付いて恥じ入る。
 それを態々謝罪する方が彼女の心象を悪くするということにも気づいたから釈明を控え、新たな質問を口にした。

「工部で何の取り決めがあったんだ」

 晶矢の頭の中に中城の見取り図が入っていない以上、彼女が事件現場を割り出せる理由は幾つかしかない。工部が何らかの事態を受けて何らかの取り決めを施した。その取り決めの範囲内で事件が起きた。
 そう考えるのが妥当だ、と自分で答えに見当をつける。
 晶矢は「おまえにしては割とまともな切り返しだな」と言って薄く笑った。

「首夏、薬科倉が何かはおまえも知っているな?」

 知っている。薬科倉という種々の薬物を管理する施設が工部――ひいては中城だけに限らず、峻険な山々の向こうにある十二州にも必要に応じて設けられていることは軍学舎で学んだ。中科二年目で衛生班(えいせいはん)の下働きをしていたときに自らの足で兵部の薬科倉を訪ったこともあり、そこでどういった手続きがされるのかも一応は知っている。

「俺が知ってるのは兵部の薬科倉だから工部のはどうなってるか詳しくは知らねぇけど」
「概ね一緒だ。薬科倉には危険度に応じて段階的に分けられた薬物が保管されている。その点に兵部も工部も左右も関係ない」
「そういや、お前言ってたな。薬科倉の場所を尋ねたのに当地に現れなかった緑環(りょくかん)がどうたら、とか」

 晶矢が左尚書で諳んじた薄紅の中身だ。確か、そんなことを言っていたとぼんやり思い出せば彼女は不思議そうに眉を顰める。

「そこまで覚えているのに結論が見えないか。おまえは相変わらず『小戴』だな」
「文句なら修科で聞いてやる。だから、さっさと説明しろよ」
「その台詞は修科の入学試験に受かってから聞こうか」
「抜かせ。俺が入学試験に落ちる筈がないだろ」

 可もなく不可もない。その点だけに関しては文輝は自信を持っている。
 修科の入学資格は中科の成績と筆記、実技の試験結果で決まる。九品の子息として生まれた文輝には必要最低限の知性と持って生まれた天性の戦闘能力が備わっている。今更入学試験に怖じる理由はどこにもなかった。
 その自信に裏打ちされた確信で文輝が言葉を返すと晶矢は大きな溜め息を吐く。
 顔中で呆れていると表現しているのに、それでも彼女は説明を拒まなかった。

「薬科倉に関する律はもう忘れたのか。『倉に用向きのあるもの、須らく当日中に現地を訪うべし。日を改め、訪いたきものはその旨案内所で述べよ。この律破りしもの、再び倉に訪うこと許さじ』」
「『またその名と環、内府へ申し送る。監査を受け、降格或いは免職の処分を受くるものと心得るべし』、だったか?」
「覚えているのなら最初から思い出せ」

 晶矢が冒頭の三行を諳んじたのがきっかけとなり、思い出したのだと反駁するのは格好がつかなかった。文輝の記憶力とは大体にしてこうだ。今朝も陽黎門(ようれいもん)の守衛と似たような会話をしたばかりなのを思い出す。
 自らの不徳を顧みて、反省と今後の対策を考えるのも必要だろうが今はそのときではない。
 薬科倉に関する律が遵守されているとすれば、工部案内所で薬科倉の場所を尋ね、当地へ足を運ばなかった十五名はそれだけで処分の対象になる。それもまた彼らが律令を把握していない「環の偽造者」であることを裏付けた。まともな文官が律令を知らぬ筈がない。

「薬科倉の管理官の一人が最初に違和感を覚えたのが七日前だ。人数で言えば三つめの緑環にあたる」
「その管理官以外は何も気づかなかったのか?」
「結論を急ぐな、首夏。無論、他の管理官も気付いていた。気付いていたから自部署の通信士に総務班(そうむはん)に伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばせた。だが」
「だが?」
「総務班に鳥は一羽も届いていない。結局返答が来ないのに焦れた管理官が直接総務班に文を運んで事態が発覚した」

 伝頼鳥による通信はこの国のどんな伝達手段よりも優れている。即時性、確実性、追尾性。どれをとっても伝頼鳥による通信に勝るものはない。
 転送中の伝頼鳥を第三者が捕獲することも出来ない。
 鳥が届かなかった理由を最大限好意的に解釈したとしても、総務班の通信士が見落としていたか、或いは最初から鳥が飛んでいなかったかぐらいしか思いつかない。
 思いつかないことに文輝は一抹の不安を抱く。

「なぁ暮春、それってまずくないか?」
「そうだな大事件だ。総務班の通信士が反逆者に加担している、という状況証拠が揃ってしまったわけだからな」
「薬科倉の通信士は大丈夫なのか?」
「最初から鳥を飛ばさなかった通信士もいる、というふうにわたしの上官は判断した」

 だから、晶矢は上官の命で伝達効率の劣る伝(てん)として左官府へ遣わされた。多分、文輝が伝として遣わされたのも同じものに起因しているだろう。
 その筋道が見えたとき、文輝は思い出してしまった。
 文輝の運んだ薄紅に戦務班の通信士を糾弾する中身が記されていたことを。
 その事実を思い出し、硬直した文輝の代わりに棕若が興味深そうな顔で話の続きを促した。

「阿程殿、結論を聞こう。十五の緑環に場所を尋ねられた薬科倉は幾つあったのだい?」
「工部だけで四つ。一昨日兵部から来た伝の話が正しければ更にもう二つあるそうだ。上官たちが協議して昨日のうちにその六つの薬科倉には防災班が特別な処理を施した」

 だから、どの薬科倉で事件が起きたとしても被害は最小限で食い止められる。また、六つの倉の位置は程よく離れているから、左尚書の控室にいてもどの薬科倉で事件が起きたのか把握することも出来る。
 そんなことを晶矢は訥々と答えた。

「薬科倉への案内は今も続けているのかな?」
「三日前に打ち切り、現時点では誰にも薬科倉への案内は出来ないことになっている」
「通常の業務に差し障りがある、という反論はどう説き伏せたのだい?」
「通常の業務で薬科倉を使用するものはこの春の配置転換で既に場所を覚えている筈だ。そう出来ないものは能力が不足している。というのを薄紙に何重にも包んで柔らかくした表現で伝えた」
「その薄紙は時々破れているんだろう?」
「時と場合と相手による」

 不敵に笑う晶矢に、彼女であれば本当に時と場合と相手によれば全く歯に衣着せない物言いをしたのだろうと想像出来て文輝は焦燥と不安を握りしめていた手のひらからそっと力を抜いた。

「それで? 君の私見でいい。爆発事件が起きたのはどこの薬科倉なのだい?」
「右官府の中央、中五条(ちゅうごじょう)の農務班農薬庫で間違いない」
「規模は?」
「農薬庫だから薬科倉の中でも大きな部類だ。ただ、本来そこで備蓄している農薬は全て別の薬科倉に移動させてある。爆発炎上が起きても人的災害は発生しないが、一応派手に爆発するように仕掛けてあった」
「なるほど、魚釣りというわけだ」

 右官府の次の配置転換の時期は明確にされていないが、年明け頃だという風説が飛び交っている。不審者に狙われている、というだけではその時期を早めることは出来ないし、何より担当官である文輝の長兄がまだ遠方に赴任中だ。赴任先から彼が決裁することはまずないだろう。
 その前提条件の上で工部と兵部が取り得る最上の選択が、備蓄している薬物を一時的に移動させ、相手の標的として残しておくという措置だった。
 工部上層部の判断通りに事件が起きた以上、嫌疑は限りなく確証に近づいた。だから、晶矢は実権のある伝として振る舞っている。
 それは文輝も理解した。
 それでも、ぼんやりと思う。人的被害が出ないのは不幸中の幸いだ。事件現場には防災班が駆けつけ、事後処理をしているだろう。
 それでも。
 この場所でこんなにもゆったりと言葉を交わしていていいのかだけがわからない。棕若は将軍位を得るには必要な経験だと言う。文輝の思う将軍位と棕若の言う「本当の」将軍位の間に何らかの落差があるとしか考えられないが、それはまだ文輝の中に答えとして存在しない。
 晶矢はどうなのだろう。相変わらずぼんやりとした頭で同輩を見た。
 相変わらず凛として取り乱すこともなく、整然と言葉を紡いでいる。ただ、よく見ると眦の端に憤りが宿っていた。その理由が文輝と同じものなのかはわからない。わからないが彼女も彼女なりに現状を打破しようともがいている。それだけがわかれば今は納得していられるような気がした。
 
「他の五つの薬科倉も大体似たような処理が施されている。ただ」
「『環の偽造があれば、誰にどの情報が伝わったかは正確に把握出来ない』でありまするか」

 棕若の背後からその抑揚のない声が聞こえてきて、三人は一様に音源を見た。
 正殿の上座、この部屋のあるじであることを意味する豪奢な椅子を離れ、大夫(たいふ)が棕若の二歩手前に立っている。てっきり、文輝たちの主張はともかく、雑談になど興味を示さないと思っていただけに文輝は驚いた。よく見れば椋の扉が半分開き、そこに先刻部屋を出て行った副官の一人がいる。事態が何か進展した、というのを間接的に知る。大夫が審議の再開を言外に促す。三人は音もなく傍らに寄った御史台の女官に茶の椀を返し、正面を向いた。大夫は上座に戻らず、文輝たちと同じ高さの床に胡床を用意させる。大夫のものと合わせて都合三つの胡床が並べられた。

「程案内官殿。貴官の言う通り、先の爆発は中五条、農薬庫で起きたと確認いたしましたぞ」
「御史台が派兵してくださったので?」
「御史台よりも中城に詳しいものがおりまするゆえ、少しばかり人を借りた次第」
「というと?」
「大仙(たいぜん)、これへ」

 大夫が晶矢の言葉に応え、椋の扉を振り返る。入口に立っていた副官が道を譲り、二人の男が後ろから姿を見せた。文輝はあまり人の顔を覚えるのが得意ではないが、その片方には見覚えがある。間違える筈がない。中科が始まってから二年半、毎日のように見ている顔だ。

「進慶(しんけい)殿」
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするんじゃない。小戴、お前は一応は九品なのだからな」

 進慶――という名の陽黎門の守衛の登場に文輝は動揺する。陽黎門からの報告も上がっていたのだから守衛が出てくるのは想定していたが、まさか顔見知りが出てくるとは思わなかった。自身の目算の甘さを呪いながら、文輝は進慶でない方の男を見る。
 年の頃は二十代半ば。服装は内府のお仕着せで、襟の色からして近衛部(このえぶ)の所属だとわかる。雰囲気や表情からは無骨さを感じさせるから武官上がりだろう、と見当を付けたところで文輝は今朝方、進慶から受けた説教を思い出した。
 近衛部の官吏の中には人数はそれほど多くはないが間諜がいる。間諜は何ものにも姿を変える。雰囲気で惑わされてはならない。本当に大仙が武官上がりなら手のひらは刀剣だこが出来ている筈だ。大夫の招請に応じて正殿の中に入ってくる大仙の手のひらをじっと見つめた。
 そしてその奇妙な符合が文輝の中に降りてくる。
 似ている。似すぎているほどに大仙の手のひらの相が今朝の商人を装った間諜のそれに酷似している。文輝が思うに、あれは刀剣だこの中でも暗器使いの相だ。文輝のように直刀、あるいは長槍を使う相でも、晶矢のように短刀、あるいは長弓を得手とする相でもない。並の武官で暗器を使うものはいない。戦の中では暗器は何の役にも立たないからだ。だから、大仙は武官上がりだが「特殊な」武官だということになる。
 大仙が今朝会った間諜だ、という直感的な結論をどう裏付ければ証明出来るだろう。刀剣だこだけでは説得力が弱い。香も似ているが、武官が好んで使う香はそれほど多くない。偶然の一言で一刀両断されるだろう。大仙が今朝の環を持っていれば勝機が残るが、国主の間諜がそんな愚を犯すとは思えない。
 黙礼して胡床に二人が座る。
 この二人を呼び出して大夫が何をしたいのか、を先に考えた。
 右官府での事件は調査が進んでいる。晶矢の言った通り、中五条の薬科倉で爆発が起きたのなら人的被害はない、と信じる他ない。幾ら有事で御史台の権限が強まっているとはいえども、調査以上のことを采配する権利を大夫は持っていない。
 となると今から始まるのは右官の背信についての審議だ。
 文輝の運んだ薄紅の中に警邏隊戦務班の通信士・陶華軍(とう・かぐん)を糾弾する内容がしたためてあった。先の晶矢の話からも背信の疑いのある通信士が他にも存在することが予想される。それでも、名指しで糾弾されたのは華軍だけだ。だから、大夫は華軍を糸口に順を追って審議を進めていくしかない。それを省きたいのであれば、手は幾つかしかない。内府の権限を行使して右官の人事府である右尚書(うしょうしょ)に任用責任を問う。伝頼鳥に頼ることは出来ない。鳥を飛ばす通信士に嫌疑がかかっているのだから、どれほど通信効率が悪くとも、伝を使うだろう。
 右官府は今、爆発事件の後処理で上を下への大騒ぎの筈だ。右尚書から伝が出るのを待っていれば陽が落ちる。
 だから。

「大仙殿、中科生の審査の後は伝。近衛部というのは存外暇な役職であられますな」

 確信も確証もない。それでも、文輝は先手を打った。大夫が口を開いてしまえば右官の審議は確実に大夫の誘導尋問になる。何も知らない伝の文輝だが、右官としての矜持はある。同輩を守るのもまた武官として必要な心構えだと自身に言い聞かせた。
 文輝の発言に晶矢は物言いたげに睨み付けてきたが、止めるつもりはないらしい。前に座った棕若の背中には喜色が僅かに浮かぶ。思うようにやってみろ、と言われているような気がした。
 二人の黙認に背中を押されて、文輝は言葉を続ける。

「大仙殿、今朝は貴官が国主様の間諜だと存じ上げず、失礼をいたしました」
「君はさっきから何を言ってる。己(お)れは君とは今が初対面だが」

 大仙が文輝の言葉を正面から否定する。否定したいのならばするだけすればいい。文輝は弁舌に長けているわけではないから、自らの言葉で大仙や大夫を論破しようとは思っていない。適材適所。この中で最も口の上手い棕若が状況を把握し、反論をしてくれるだけの材料を提供出来ればいい。
 棕若ならば右官の罪科(つみとが)に対しても公正に接してくれると信じていた。

「秘密裏に中科生を審査しているのでしょう。ご安心ください。審査があることは決して後輩たちには漏らしません」
「だから何の話だと言っている。君もわからんやつだな」
「大仙殿、貴官とこうして顔を合わすのも何かの縁。そう邪険になさらないでください。考えてみれば簡単な話ではないですか。鳥の飛ばない岐崔で、あなた方が最も安全な伝であることは間違いありますまい」

 近衛部の官吏は国主に忠誠を誓う。一生を国主の為だけに生きて、中城の為だけに尽くす。中城の中が動乱の現場であろうと、武に長けた間諜が行き来するのには何の支障もない。安全かつ確実に文を運ぶだろう。
 今、御史台が文を欲しているとすればそれは右官の裁定に関する情報だ。右尚書は東の外れにあり、中五条の薬科倉の付近を経由しなければ辿り着くことは出来ない。
 大夫が大仙に命じたのは恐らく右尚書への伝であり、薬科倉の件は立ち寄った程度だと考えるのが妥当だ。ということは大仙は今、右尚書からの文を携えている。その文が大夫の手に渡るまでが勝負だ。
 棕若の応戦が始まるのを今か今かと待ち侘びる。情報はまだ足りていないのか。気持ちだけが焦った。

「君はどうあっても己れを間諜に仕立て上げたいと見えるな」

 大仙が溜め息を漏らす。子守に疲れた、と顔中で表している彼の手前に見えている棕若の背中はまだ動かない。まだ機ではないということだ。ならば文輝はもう少し大仙の言葉を引き出さなければならない。

「事実の指摘にすぎません」
「そうだな、仮に己れが君の言う間諜なのだとして、肯定すれば君は満足するのか?」
「肯定していただけるのであればお聞きしたいことがあります」
「……何だ。聞くだけは聞こう」

 多分、大仙が間諜であるという前提のうえで問えるのはこれが最初で最後だ。
 何を問うべきかの取捨選択をした。
 そして一つの大きな仮定が文輝の中で輝きだす。問うべきはこの一つだ。確信がある。
 だから。

「国主様は今朝の段階でこの動乱をご存じだったのですね」

 国主の間諜である大仙が態々文輝の登庁時刻を見計らって審査に出向いた、という可能性も残っている。それでも、文輝は自らにそれだけの価値がないことを知っている。九品の三男。成績は上の中。特別に試されなければならないほど優秀な人材ではないだろう。程家を継ぐ晶矢ですら審査を受けたのは服務中だったと聞いた。彼女以上の待遇で文輝が試される筈はない。
 だから。

「貴官が今朝、陽黎門を通られたのは私の審査の為だけではありますまい。寧ろ逆だ。貴官は国主様からの密命を受け、城下へ戻る途中で偶然私と出会われた。つまり『ついでに』私を試された、そうですね?」

 そう考えると納得のいくことが幾つかある。
 中城で事件が起きているのに内府だけはいつも通りの静謐さを保っている。それは予め内府がこの動乱を予期していたからではないか。想定外の出来ごとなら御史台はもっと騒然としてもいいはずだ。
 大夫が落ち着き払っているのも、彼に有利な情報を持っているから、だとすれば納得がいく。そしてそのうちの一つは明らかに大仙の存在だ。
 そこまではわかる。なのにそこまでしかわからない。今朝、進慶に言われた忠告が耳に蘇る。真実まで残り僅かだが手の届かない自分がもどかしくて、悔しかった。
 国主は岐崔の動乱を知っている。知っていて右官府にも左官府にも通達しなかった。それがどういう意味なのか。理解を文輝の頭が拒んでいる。
 真実に辿り着けない文輝を嘲笑うかのように大仙が皮肉に笑った。

「君は随分と自らを卑下しているな。九品の子息なのだろう? 矜持はないのか」
「自らを守る為の矜持など何の価値もありません」
「立派な心がけだな。だが、それを聞いて己れがほだされるとでも思ったのか? 君が言っているのはただの空想に過ぎない」

 そしてその空想を延々と聞いてやる時間はもう残っていない、と大仙が言外に締め括る。大夫がすっと瞼を伏せた。一歩届かなかった。無力を悔いる文輝の耳にその力強い声が聞こえる。一陣の風が吹いた気がした。

「大夫、僕は君に言わなかったかな? 『君は君の矜持にかけて君の任務を遂行するように』と」

 強く厳しい声が正殿の中に響く。文輝は目を瞠った。棕若がちらと振り向いて眦を細める。文輝の無謀な挑戦は届いていた。そのことだけを告げると棕若は相対するものへ向き直る。棕若は左官府の官吏だが九品の家長だ。中城を守るのは武官だけではない。棕若もまた岐崔を守る為に戦う意思を持っている。
 そのことを彼は文輝の前で自ら示した。
 内府が左右を蔑ろにするのであれば、抗う。それが棕若の矜持だ。左官だからとか右官だからだとかそんなことはこの際関わりがない。
 遺憾の意を呈した棕若の肩へ頃合いを見計らったかのように若草色の小鳥が舞い降りる。それをそっと開封して棕若の戦いが始まった。
 棕若の正面に座る大夫はそれでもまだ顔色を変えない。

「左尚書令殿、何のお話かわかりかねまする」
「近衛部の衛士(えじ)まで呼んで盛大な自己保身をしているから気が付かないのではないかな? 大仙、と言ったね。君がどうしてここに呼ばれたか僕が当ててみせよう」

 その言葉に反応したのは大仙一人ではなかった。進慶の顔色が曇る。文輝の位置からは棕若の表情が読めないが、多分、進慶の目には見えているのだろう。
 中城に二つある城門の守衛は持ち回りだ。文輝の通る陽黎門だけではなく、棕若が登庁する宮南門に立つことも勿論ある。進慶の三十余年にわたる近衛士(このえじ)としての人生の中で、彼は棕若の持つ様々な表情を知っていた。今の棕若の顔が何を意味するのかも知っている。だから彼にはわかっているのだ。
 この勝負の軍配は老翁に上がっていると。

「左尚書令殿まで空想がお好きとは」

 大仙が棕若の余裕を一刀両断しようとする。切り捨てようとした刃は棕若にまで届かず、赤子の手を払うように容易くかわされた。
 棕若が怒気を孕んだ声で一喝する。

「戯言はもういい。君が持ち運んでいる重要な情報。右尚書からの調書ともう一つ。そうだね、中城で二つ目の事件が起きた。違うかな?」

 場所は今度は左官府だね。戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)の書庫が現場だ。
 そこまで断定して反論を求める。大夫は落ち着いて問いに問いを返した。

「何の根拠があって申さるるのでございまするか」
「僕の優秀な通信士がたった今、その報告をくれたよ。包大夫、君も見たらどうだい? それとも別の根拠がほしいのなら一から十まで述べることも吝かではないよ」

 さぁ、大夫。選ぶといい。君はどの道を行くのかな。
 棕若の堂々たる宣戦布告が正殿に鳴り渡った。
 秋の日は落ちるのが早い。正殿の外では空の端に色が滲み始めている。御史台の庶務官が室内に明かりを灯し始めた。そのことが時間の経過を告げ、文輝の気持ちが急く。それでも、大夫の表情だけが変わらないのだけが薄気味悪かった。

それは、風のように<五>

五.
 内府(ないふ)・御史台(ぎょしだい)の中は文輝(ぶんき)が想像していた以上に広大だった。鏡面のように磨かれた石畳がずっと続く。左尚書(さしょうしょ)の回廊も随分長いと感じたが、御史台のそれは比べるべくもない。回廊のない右官府(うかんふ)の方が異質なのかと思うほど、果てが見える気配がなかった。
 楓が終わると竹、竹が終わると椿という風に季節を逆に追っていくように並木が変わる。その変化を興味深く観察していると晶矢(しょうし)が苦く笑いながら「首夏(しゅか)」と名を呼んだ。彼女自身も御史台の中へ入るのは初めてのことだろうに落ち着き払って凛としている。

「首夏、御史台の中が珍しいのか」

 珍しくない道理がない。内府の中に入るには正当な理由が必要で、たとえ九品(きゅうほん)といえどもそう簡単に許可が下りることはない。内府に三つある役所の中でもとりわけ御史台は敷居が高く、係累を辿っても戴(たい)の家に大夫(たいふ)――御史台の長官に公務で面会したものはいない。
 百六十年続く系譜の中で文輝がその最初の一人になろうとしている。
 この事実が心を浮かせないのなら、それはもう官吏としての名利を失っているのと同義だ。あらゆる意味で官吏然としている晶矢でも、幾ばくかは心が揺れるだろうと反論する。晶矢はそれに大らかに笑って答えた。

「暮春(ぼしゅん)、お前はどうなんだ」
「珍しいとも。だが、わたしはその好奇に勝る宿命を負っているからな」
「またそれだ。俺はてっきり、お前も『何の文を運んでいるかも知らない伝(てん)』の仲間だと思っていたんだがな」
「伝えそびれたことは詫びる。だが、今はときではない」

 左尚書の控室で彼女と対面したとき、文輝は晶矢もまた家格を盾に取った中身のない伝なのだと判じた。だが、事実はそれと異なる。右官府で爆発事件が起き、晶矢はそれを皮切りに伝ではなく、実権を持った使者として振る舞った。文輝一人が勝手に勘違いしていた。それを悔いる間もなく事態は進展している。

「なぁ暮春。お前は誰と戦ってるんだ」

 晶矢は本当に左尚書を相手に大立ち回りをする気なのだろうか。同じ九品のものである棕若(しゅじゃく)の面目を潰すのが彼女の本懐なのだろうか。文輝にはその辺りのことが今も理解出来ない。造反の証左を集めて左尚書に乗り込んで、左官(さかん)たちの非を糺して、そのあと、晶矢がしたい何かが見えてこない。大義は、と問えば晶矢の足が止まった。つられて文輝の足も止まる。晶矢の先を歩いていた棕若が興味深そうな顔で、彼もまた立ち止まって二人を見ていた。

「おまえにはいずれ知れることだ。先に言っておく」

 不意に厳しさを増した眼差しで晶矢が文輝を見た。その輝きの強さには可能性ではなく、確信が滲んでいて文輝は思わず及び腰になる。

「不安を煽るような言い方はやめろ」
「仕方がないだろう。おまえが幾ら大らかな性質をしていると言っても武官としての素養がある以上、この話を聞けば無関心ではいられまい」
「だから――」

 そういう不確定要素を切り取って誇張するのはやめろ、と反論するより早く、強く、晶矢が次の句を放った。

「首夏、これは国家の根幹を揺るがす可能性を持った事件だ。このまま黙認していればこの国は荒れる」

 国ならばとうの昔に荒れている。荒れていないのが首府(しゅふ)である岐崔(ぎさい)だけだということは幾ら半人前の見習い官吏といえども、文輝もまた承知している。だから、晶矢が言っているのはそのことではないのは理解出来た。
 ただ、それ以上のことが伝わらない。
 文輝が頭の上に疑問符を浮かべたのに気付いた棕若が回廊を少し戻ってきて会話に加わる。

「阿程(あてい)殿、小戴(しょうたい)殿に配慮したにしても表現が柔らかすぎると僕は思うのだけれど?」
「孫翁(そんおう)、事実をありのまま伝えても問題のない相手と問題がある相手の区別をなされよ。そこな小戴は九品の三男の育ち。ぬくぬくと守られて育った貴族の坊ちゃんに有事の重みは些か過ぎるとはお思いになれないのか」

 晶矢の言は表面上、文輝を庇う形になっているがその実小馬鹿にされているのとさして変わらない。同じ十七の中科生にこれほどまでに慇懃無礼な誹謗を受けるのは心外だ、と表情で伝えると、晶矢の顔色が曇る。彼女の失態を認知したのではない。文輝が棕若の挑発に乗った、という失望が晶矢の顔色を変えさせた。
 文輝もまた自らの失態に気付いたが、挽回の機会は与えられない。
 棕若が苦々しく言葉を続ける。

「九品の出ならば有事の重みに耐えるのが必定。僕は小戴殿も等しく現実を知る義務があると思うのだけれど、どうなのかな、小戴殿」

 挑発的な問いを向けられる。晶矢が眼差しで上手く躱せと言っているのが見えたが、そう出来るほど文輝はまだ成熟していない。九品の品格を盾に取られれば当然、それに恥じぬだけの振る舞いをしなければならない、という義務感に駆られた。

「それは岐崔をも災厄が襲う、という意味でしょうか」
「災厄と言えば災厄だけれど、天災ではないね。人が引き起こす。動乱だと言えば小戴殿にも伝わるかな?」

 その予兆を文輝以外の二人は知っている。文輝は安寧の岐崔しか知らない。動乱など峻険な山々の向こうだけで起こる、いわば伝聞の産物だと思ってきた。
 それが今、岐崔でも起ころうとしている。
 非常事態だということをようやく文輝も理解し始めていた。
 棕若が左官府(さかんふ)の全権を持って左官の潔白を証明しようとしている。晶矢はその疑惑の一欠けらを確証に変える為に詮議の場に出ようとしている。
 これは紛れもない有事だ。
 だが、いやだからこそ、というべきだろう。
 文輝の胸中には一つの疑問が浮かび上がった。

「敢えてお聞きしたいのですが、孫翁。その非常事態にこのように悠長に言葉遊びに興じている余裕があるのですか?」

 右官府で起きたのだろう事件の全容もわからない。左官府のどの官吏が何の罪科(つみとが)で罰せられようとしているのかもわからない。
 それでも、一つだけはっきりしていることがある。
 有事は文輝の理解を待ってはくれない。
 それを肯定するように棕若は静かに首を横に振った。

「ない、と僕は思っているよ」
「わたしもその見解に同意する」
「ならば――」

 先を急ぐべきではないのか。そう反駁しようとした文輝の言葉は棕若の微苦笑で遮られる。晶矢が呆れた顔をしていたから、多分彼女は棕若の意図を知ってそれでも文輝に忠告を与えたのだろう。
 棕若が不意に真剣な眼差しで射る。文輝は棕若の持つ雰囲気がぴりと引き締まったのを感じた。

「気を悪くしないでほしい。僕は君を試そうとした。そのことについては深く詫びよう。ただ」
「ただ?」
「九品の矜持がないのであれば僕は君を大夫のところへ連れて行くわけにはいかない、と思ったからね。もっとも、それは僕の杞憂だったようだけれど」

 物見遊山にはならない。棕若は言外にそう言っている。
 有事の重みを自らの目で確かに見る。その経験を与える為に文輝は同伴された。だから、遊びの気分はここで置いて行けと言われているのだ。
 遅ればせながらそれを理解した文輝は背筋を正して棕若に応える。
 晶矢の望みは棕若を論破することではないのだろう。その過程を経るかもしれない。それでも、その先には岐崔の益たる結論が待っている。二人はそれを確信しているからここに来た。

「状況はわたしと孫翁の陳述を聞けばおまえにも伝わるだろう。納得が出来たなら先へ進むぞ、首夏」

 晶矢が促し、三人は再び回廊を歩きはじめる。
 彼女のその覚悟と胆力はどこから来るのだ、と感心すると同時に家格の差と立場の差を感じた。世間は九品を一括りにするが、二人の間にはこれほどまでに距離がある。
 ほんの少しだけ無力感を覚え、そしてそれは感傷にすぎないと自嘲してかき消した。
 鏡面の石畳はまだ続いている。

 門兵の案内で辿り着いた回廊の果てには白木造りの正殿があった。案内はそこで終わり、門兵は階段の手前で叩頭する。棕若がそれを目線で受け止め、黙って段を上った。晶矢に続いて文輝も段を上るとそこには見たこともない荘厳な広間が三人を待っていた。
 言葉もなく、その光景を受け入れる。最上段に座っていた男が「大夫がお話を伺うそうです。中へ」と案内を引き継いだ。促された三人は揃って正殿の中へ踏み入る。室内は薄暗く、大夫が上座に座っていた。向かって左手に大夫付の通信士、右に副官が二人並んでいる。副官の後ろには大きな椋の扉があり、そこだけが何の装飾も施されておらず、豪奢な部屋の中で逆に存在感を持っていた。

「おかけになられよ」

 文輝たちが中に入ったことを確かめた大夫が上座で発言する。御史大夫(ぎょしたいふ)の位階は左尚書令(さしょうしょれい)のそれよりもやや劣る。にも関わらず、大夫が左尚書令である棕若に高圧的な態度を取れるのはひとえに棕若の管理能力を問うているという右官府からの書状があるからだ。御史台にとって疑わしき相手、罰すべき相手に振る舞うべき敬意はない。たとえ出自が九品三公(さんこう)であろうとも、平民であろうとも、関係がないし、位階の上下に臆すこともない。御史台の詮議の前には出自など大した意味を持たないというのを大夫は言葉一つで表した。
 棕若はその高圧的な態度に臆することも不快を顕わにすることもなく、用意された三脚の胡床(いす)のうち、前列に置かれた一つに座る。晶矢がそれに続き、棕若の右斜め後ろに着席した。消去法で残った胡床が文輝の場所ということになる。恐る恐るそこに腰を下ろすと、全員の着席を確認した大夫がゆっくりと口を開いた。

「『国家存亡の危機』を懸念して来られたとお聞きしておりまする。まずはその主張をお聞きいたしまするが、よろしいか」

 大夫の問いに「是(はい)」が唱和する。棕若と晶矢が一様に緊張感を持って詮議の開始を受け入れた。

「程案内官(あんないかん)殿。右官府は何を懸念しておらるるのでしょう」

 晶矢を阿程と呼ばず、肩書きが呼ばれる。大夫が晶矢を一人の官吏として扱おうとしているのがそこに見えて文輝は御史台の品格を感じた。呼ばれた晶矢もそのような呼称が用いられるとは思ってもみなかったのだろう。短く息を呑む音が聞こえる。それでも、流石は晶矢といったところか。彼女は次の瞬間に再び鋭い眼差しを取り戻し、自らが運んだ薄紅の内容を再び諳んじはじめた。
 大夫は顔色一つ変えずに晶矢の訴えを聞いている。副官の片方は書記官を兼ねているのだろう。訴えが記録として残されていく。棕若がそれをどんな表情で見ているのかはわからなかったが、彼の背中には確固たる信念が宿っているように見えた。
 晶矢の凛とした声が、捕縛すべき十五名の名を挙げる。
 そこで彼女の主張は終わった。

「なるほど、承知いたした。つまるところ、右官府は左官の造反により首府である岐崔の安寧が脅かされている、とお考えでありまするな?」
「包(ほう)大夫もよくご存じの通り、岐崔に入る為には三つの港を使うほか手立てはございません。工部(こうぶ)治水班(ちすいはん)が乗客及び船荷の検閲を行っており、環(かん)の提示がなければ貴賤を問わず、上陸の許可を出さぬ、というのが律で定められております。私(わたくし)が申し上げた内容は治水班より、内府(ないふ)典礼部(てんれいぶ)へ報告が上がっておりますゆえ、疑わしき点がございましたら如何様にもお調べください」

 自らには何のやましいところもない、と晶矢が主張する。大夫はそれを聞き届け、通信士に内府典礼部へ緊急の伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばさせた。と、同時に副官の一人を傍らへ呼び、何ごとかを耳打ちする。副官はそれに拱手し、椋の扉から御史台へと続く回廊へと出て行った。

「案内官殿、貴官の報告では陽黎門(ようれいもん)及び宮南門(きゅうなんもん)の守衛の証言も上がっておりましたな。中城の警護は近衛部(このえぶ)の任。いかなる手段を以って右官府は近衛部の証言を取り付けたのでありまするか?」
「おそれながら、大夫。現在の近衛太史(このえたいし)は三公の一つ、和(わ)家ご出身であれば、岐崔に変異ありと陳情致したところ、快くお力をお貸しくださいましてございます」
「なるほど、貴官が九品ゆえ、可能だったと申さるるのでありまするな」
「いかにも」

 多分その問答は形式上だけのものだったのだろう。大夫は晶矢の言で納得し、追及の矛先を緩めた。晶矢が今、主張したことの全ては彼女一人でやったことではあるまい。彼女の上官や右尚書(うしょうしょ)の上級官吏たち、或いは程家当主である晶矢の母などが尽力した結果だ。文輝以外で今、岐崔に残っている戴の嫡流は次兄ひとりだが、九品に名を連ね、将軍位を得ている以上彼もまた今回の右官府の提言に関わっていると考えなければならない。
 そんなことをひしひしと実感していると文輝の視界で棕若が苦笑いの溜め息を吐いた。

「郭安州(かくあんしゅう)の文官が揃って叛旗を翻し、武官に抗う。その構図があり得ない、とは僕も断言することは出来ない。それでも、僕から言わせれば右官府の主張は穴だらけだ」

 そうだろう、包大夫。言って棕若は後方へ半身を捻った。文輝には完全に棕若の背しか見えなくなる。それでも、彼が静かに激しているのが伝わってくるのだから、棕若の視界に納まっている二人はよりいっそう苛烈な空気を感じているに違いない。

「大夫、僕の反論を申し述べてもいいかな?」
「お聞かせ願えまするか」
「勿論だとも」

 いいかい、阿程殿。棕若は聞き分けのない子どもに説くように晶矢の主張を否定し始める。

「そもそも、右官府の言っている『郭安州から上ってきた文官』が『突然に増えた』のはいつのことなのかな?」
「徐々に増えておりますので、一概に断定は出来ませんが敢えて線を引くとすれば十日前でございましょう」
「では敢えて問おう。郭安州から岐崔までの旅程は一般的にどのぐらいだい?」

 その問いへの答えもまた一概には断定出来ない。
 郭安州から岐崔までには通常二つの関と一つの過酷な峠が待ち受けている。
 地方官で上京の必然性があるもの、或いは十分な富を持つものであれば馬、及び宿舎を利用することが出来る為、最短では二十日ほどの旅程が想定される。だが、私事で上京するもの、或いは宿舎を用意するだけの富がないものは馬しか利用することが出来ず、旅程は十日延びるのが一般的だ。
 官吏ですらそれだけの日数を要する。優先的に関を通ることが出来ない残りの四環(しかん)であればふた月かかることもあるだろう。
 だから、一般的という抽象的な範囲で正答を口に出来るものはいない。それでも、晶矢は口を開いた。彼女が非凡である、ということを文輝はまた実感する。

「左尚書令殿が仰っているのは緑環(りょくかん)、それも国府に用向きのあるもの――即ち私が只今申し上げた十五名の場合でございますな」

 その事案であれば二十日、とお答えいたしましょう。
 晶矢は淀みなく応える。棕若はそれをも見越していたのだろう。「阿程殿は計算も出来ないとお見受けする」と皮肉さを隠しもせず、鼻先で笑った。

「郭安州の州牧(しゅうぼく)の報告が一様に『無事』であるようになったのはいつからかな? ひと月前ではあるまい」

 晶矢の主張では不審な文官が上京してくるようになったのが十日間ということだった。つまり、最短時間――二十日で郭安州から岐崔にやってきたのだとすると彼らの進発は三十日――ひと月と少し前のことになる。変異が始まったのだとすればひと月前にも何らかの兆候があったのではないか、と棕若は言っている。どちらの言にも反応を示さない大夫に代わり、晶矢が自ら答弁した。

「ひと月前に進発した緑環が一つ目の関に辿り着くまでが十日。その間、我々には異変を察知するだけの要素がございません」
「ではどうして二十日前に君たちは『不審な』緑環の通過を許可したのだい?」
「州牧からの返答が『無事』であったからに相違ございません」
「そう。それは致し方がないね。けれど、関はもう一つあるように僕は思うのだけれど?」

 十五名の文官は同日に岐崔に入ってきたわけではない。船守からは怪しまれるか怪しまれないかの際どい数に分散して船に乗ったという報告があった。ただ、一つの州からそう何日にもわたって続けさまに同じ色の環ばかりが上京することはあり得ない。
 そして、船守がその事態を異常だと感知する以前の問題として、二つ目の関で通過を許可しなければことは起こらなかった、と棕若は言っているのだ。
 晶矢の方も当然それは承知していたのだろう。棕若の言及に苦虫を噛み潰したような顔をして溜め息と共に次の句を継いだ。

「大変申し上げにくいのですが、件の十五名の緑環が二つ目の関を通った、という記録がどこにも残っていないのです」
「それは右官府の手落ちを認める、ということかな?」
「その点に関しては否定いたしますまい。ただ」
「ただ?」
「右官府は環の偽造を疑っております」

 晶矢の発言に正殿の中は一様に動揺した。晶矢、或いは棕若の主張を聞いているだけだった大夫の目の色が変わる。
 環の偽造は重大な罪だ。何人たりとも、たとえ国主その人であろうとも環を偽ることは許されない。出自、及び所属を証す環は偽りがない、偽れないという足場の上で均衡を保っている。間諜が持つ仮の環だけが唯一の例外だった。任務上、必然性があるから支給される。それ以外で環を偽ることは決して許されない。環の偽造が発覚すれば一族郎党死罪が申付けられる。
 西白国(さいはくこく)建国以来、百六十年の歴史の中には環の偽造を図った事例が幾つか残っている。その全てにおいて偽造した環は一つ残らず回収され、僅かでも偽造に関わったものは罰せられた。偽造は年月を経るごとに巧妙になり、現在では環を管理している典礼部でなければ真偽がわからないほどになっている。
 郭安州から上ってきた緑環が二つ目の関では別の色の環を提示していれば――殊にそれが流民の証たる白環(びゃっかん)であれば、関の通過は容易い。白環に記録されているのは血統と出身地だけだ。住居や職務が定まるようであれば他の五色の環に分類される。白環が関を通る為にはある程度の金銭さえあればいいのだから、誰かが何らかの意図によって組織的に地方のものを岐崔に送り込もうとしているのならそのぐらいのことは容易いだろう。
 環の偽造が真実ならば、一つ目の関を越える際にも白環を使えばいい、と晶矢たちも最初は考えた。文輝もそう思いながら晶矢の説明を聞いていると、ことはそう単純ではないという現実に遭遇する。

「偽造が行われたのが真実であれば、そこから先の可能性は二つございます。緑環が白環を偽ったか、白環が最初から緑環を装ったか。そのどちらであるかによって対応が全く異なる為、私ども右官府の手には余る、ということで左尚書に陳情させていただきました」

 そこまで言われて何故工部が左尚書に伝を出したのか、文輝もようやく理解した。白環の来歴を調べる為には典礼部に掛け合わなければならない。だが、緑環であれば左尚書に人事録がある。一つ目の関を通ったときに緑環の持ち主は身分を詳らかにした筈だ。そこから実在の人物であるかどうかを調べることが出来る。緑環が実在したのならば偽造されたのは白環、という順に仮説を潰してくことが出来るからこそ、工部は案内所を訪い薬科倉(やっかそう)の場所を確かめた「不審な」緑環の所有者の確認を伝で依頼した。万事形式が重要視され、何重もの確認の手順を踏まなければならない典礼部への確認よりこちらの方が解決までの道のりは短いだろう。
 そして。

「左尚書令殿、私の申し上げた十五の緑環の持ち主は実在しておりましたか」
「その質問へ一概に返答することは困難だね。でもはぐらかしていても何の解決にもならないのもまた明白。貴官が申し述べた十五名は左尚書の人事録に名が残っている」

 では、と晶矢が意気込む。それを棕若は眼差しで制して「話は最後まで聞いてほしいものだね」と続けた。

「右官府の訴状にある十五名は確かに存在している。これは嘘偽りのない事実だ。けれど、左尚書の記録ではそのものたちは数年、或いは十数年以上前にそれぞれ別の地方府へ配属になっている。左尚書が彼らに上京を命じた記録も、転属を命じた記録も存在しない、という事実もまた覆しようがない」

 だから、今、その十五名が岐崔にいる筈はないと棕若は言う。
 その主張が正しいのだとすると郭安州から上ってきた緑環すら偽造の可能性がある。となるといよいよ左官府、右官府の手に余る事態であることは間違いない。
 左尚書の控室で待っている間、晶矢はこの結末を予見していたのだろうか。このあまりにも重大な事件を知って、それでもなお文輝の雑談に応じていたのだろうか。
 答えは晶矢自身しか知らないが、それでも文輝にも一つの事実が見えた。
 晶矢も棕若もお互いの主張を矛盾なく解決する手段として御史台を選んだ。
 内府典礼部への白環の来歴確認。そこに至る為だけに晶矢は棕若と軋轢があるように振る舞い、そして御史大夫を巻き込んだ。それを理解した瞬間、文輝は今までに味わったことのないほどの緊迫感を覚える。

「つまり、貴官らは私を典礼部での手順を省く手段としてお使いになった、ということでありまするな」

 その声は感嘆にも諦観にも聞こえる。呆れの要素が一番大きかったが、それでも大夫は自らに求められていることと、今彼が何をすべきかは正しく理解しているようだった。
 確認の形で問われた言葉に棕若と晶矢が真顔で返す。

「そうだね、大変不遜ながらそうさせてもらったよ。初めからこちらの主張だけを伝えたのなら君はきっと鳥を飛ばすことすらしてくれなかった、と僕は思っているのだけれど?」
「環の偽造は重罪でありまするぞ」
「ですからこちらへ参りました」
「郭安州の関で提示された環の詳細をいただけまするか」
「是、こちらに」

 晶矢の懐から新しい桃色の紙が現れる。表書きの筆跡を見るにどうやら晶矢本人の手によるものらしい、と文輝は判断した。
 その桃色を受け取ることなく、大夫は更に言葉を続ける。次は棕若の番だった。

「左尚書令殿。貴殿の主張する『本来の』環の記録――も当然お持ちでおられまするな?」
「勿論。これがその写しだよ」

 こちらは若草色の紙で、左尚書の書記官がしたためたのだろう。文輝の知っている棕若の筆跡ではなかった。
 二つの書状が既に用意されている現状を受け入れた大夫が、ただの傍聴者で終わろうとしている文輝に一つの役割を与える。

「戴庶務官(しょむかん)殿、その二つの書状を運んでいただけまするか」
「は、是!」

 その声に文輝は起立し、桃色と若草色を回収して上座の大夫のところまで運んだ。用を終え、元の胡床に戻るのと前後して通信士の下へ若竹色の鳥が舞い降りる。文輝の位置からは見えなかったが、多分典礼部からの返答だろう。
 内府の復号は典雅だということを思い出して、少し期待したが通信士は略式復号を行い、伝頼鳥は瞬く間に一通の書状に変貌した。
 通信士が書状に目を通し、そっと大夫へ提出する。若竹色の中身を見た大夫は今度こそ苦難に顔を顰め重い息を吐き出した。

「治水班の報告は確認いたしましたぞ。案内官殿の陳述と合致した、とのことでございまするな」
「馬鹿なことを言わないでいただきたいものだね。典礼部の記録と上京した緑環の記録が合致する道理がないだろう。本来の緑環の持ち主は全く関係がない地方にいるのだよ?」
「典礼部の報告では左官府に『確かに』その緑環がある、とのことでございまするぞ」
「そんなはずがない。そんなことがあってはならない」

 もう一度、鳥を飛ばして環の偽造の可能性を考慮した調書を送り返してもらえないか、と進言しようとした棕若の言葉が途中で止まる。

「包大夫、まさか」
「左尚書令殿、そのまさかでございまするな」

 環は典礼部の「まじない」を受けており、持ち主以外のものの手に渡れば色も紋様も抜け落ちるようになっている。だから、環の譲渡や強奪は事実上不可能だ。
 環の色味は独特で偽造をするには同じように「まじない」を用いるしかない。
 「まじない」を使えるものの多くはその才を糧に国官を目指す。国官という肩書きにはそれだけの価値があるからだ。だから、才人は基本的に典礼部の官僚か通信士として国に属している。
 今までの環の偽造は記録に残っている限り、国官ではない所謂「在野」の能力者が「まじない」を施していた。晶矢も棕若も、大夫ですらその線しか考えていなかったが、今回の環にまつわる不祥事はどうやらその限りではない、という可能性が出てきたことで彼らは戦慄している。
 つまり。

「左尚書令殿、私の口から申し上げるのは大変遺憾でございまするが、典礼部にも内通者がいるようでありますな」

 偽りの環が正当な手段で作られているのなら、それを偽造だと断定出来るものはどこにもいない。その最たる例が治水班の船守と二つの城門の守衛だ。毎日何十何百という環を見ている彼らでも区別出来ない。
 内府典礼部に内通者がいる、というのはそういうことだ。

「包大夫、阿程殿の言う十五の緑環は間違いなく、この岐崔にあるのだね?」
「典礼部の通信士が内通者でない、という前提が今も有効ならばありましょう」

 御史台と典礼部は同じ内府の役所同士だが、お互いに行き来はない。御史大夫といえども、典礼部の詳細な事情には通じていないし、彼は今、自らが統括している役所の潔白をどうすれば説明出来るかという危機感に襲われている。典礼部がどれだけ腐敗しているのか。それはこの場にいる誰もが把握していない。
 棕若もそのことを承知しているのだろう。重い溜め息を一つ吐いて彼は言った。

「その『不審な』十五の緑環を捕縛してもらおう」

 決意に満ちた言葉に正殿の中がざわめいた。黙々と議事録を残していた書記官が筆を取り落とす。それぐらい、棕若の言葉は衝撃的だった。
 九品の一つ、孫家の当主にして左尚書令を務めている。棕若がそれをどれだけ誇りに思っているのか知らないものは中城の中にはいない。人を好み、才を見出し、官吏を守る。必要があれば彼は矢面に立ち、どんなときでも公正の為に戦ってきた。
 その棕若が偽りであるかもしれないとはいえ、緑環の捕縛を自ら進言する。
 文輝はまるで別世界の出来ごとを見ているかのような印象を受けた。
 彼の心中を図る余裕もない。それでも高官たちはすぐに正気を取り戻し、沈痛な面持ちになる。晶矢もそちら側に含まれていた。ただ、彼女も動揺しているのだろう。言葉遣いが普段通りに戻っている。

「孫翁はそれでいいのですか」
「御史台が文官を捕縛する。それは僕たち人事官からすればこの上ない屈辱だけれど、岐崔の安寧に関わるのなら話は別だ。そうだろう、阿程殿」
「建前は結構だ、孫翁。要は緑環の偽造が認められれば左尚書は難を免れる。律を犯しているのは環を偽造したものだけだ、という結論がほしいのだろう?」
「否定はしないよ、阿程殿。でも、一つだけ覚えておいてほしい」
「何を?」
「僕たち文官にも国を守る為には自らを危険に晒す覚悟がある、ということかな」

 柔らかい声で語られた一つの事実に文輝は胸を突かれた。背中しか見えない棕若が今、穏やかに微笑んでいることが声音から伝わる。棕若は真実自らの矜持よりも国の大事を選んだ。何もやましいことはない。だから、彼が庇護すべき文官を御史台に引き渡すことを受け入れた。御史台が必ずしも信じられる機関であるかどうかは既に誰も確かめられない。それでも、棕若は御史大夫を信じて左官府に御史台が立ち入ることを許した。

「さぁ、大夫。十五名、きっちり揃えてもらえるかな? 一体どんな顔で僕の庭を汚しているのか確かめたいものだからね」
「左尚書令殿、私は貴官の報復の道具ではありませぬぞ」
「それでもこれが君たちの仕事だろう? 御史台まで腐敗が進んでいる、だなんて言い訳は聞きたくもないね。君は君の矜持にかけて君の公務を遂行するんだ」

 それが出来ないと言おうものなら、棕若自らが言を実行に移してしまいかねない雰囲気だった。晶矢が隣で目配せをする。孫翁は本気で怒っているからこれ以上虎の尾を踏むようなことはするなと何重にも含んでいて文輝は顔色をなくして必死で首肯した。
 大夫が今一度大きな溜め息を吐いて手元の鈴を鳴らす。椋の扉の向こうで控えていた官吏が合図を受けて入室した。通信士が「伝を使いますか?」と大夫に確かめながら、一通の文を書き上げる。この正殿に入ってから二通目となる文だったが、それを見てようやく文輝は大夫が武官上がりだということを認識した。物腰、口調、声音、話の筋立て。どれをとっても文官上がりにしか見えなかったが通信士は普通、自らの上官の環の色の料紙を使う。薄紅の文は武官の証だ。
 大夫の出自を語る文はそのまま新しく入ってきた御史台の官吏の手に渡り、大夫が言う。

「一刻待って返答がなければ戻って参れ。手段の如何は貴官に一任する。刃傷沙汰もやむなしと心得よ」
「承知」

 言って薄紅を受け取った官吏が典礼部への伝として出立する。
 この部屋に入ってまだ一刻ほどしか経っていないのに部屋にいる一同は皆同じように疲れ切って倦んだ顔をしている。
 半身を捻っていた棕若が正面に戻り、大夫に言う。

「包大夫、我々にはまだ次の問題が残されているよ。阿程殿、君の懸念は環の偽造だけではない。そうだね?」
「是。続きましては午(ひる)に起こりました爆発事件の真相の究明をお願いいたしたく存じます」

 晶矢の目に再び強い輝きが宿る。どうして彼女はこれほどまでに強く、前向きに立ち向かえるのだろう。尊敬の念を抱く、を通り越して圧倒的な距離感を覚えるばかりだ。
 それでも。
 文輝はこの質疑の場にあることを許された。
 だから無駄に時を過ごしているわけではない。それはわかっているが気持ちが急く。文輝が学び取るべきことは何だ。そんなことを考えながら晶矢と棕若の口上を耳朶で拾う。
 中城では小休憩を知らせる鐘が鳴った。今日の御史台に休憩はない。質疑は今もまだ続いている。

それは、風のように<四>

四.
 文輝(ぶんき)が初めて陶華軍(とう・かぐん)に出会ったのは半年前のことだ。
 中科三年目の辞令が下りて警邏隊の戦務班に登庁したその朝に戦務長から通信士の一人として紹介された。通信士だというだけでも畏敬の念を抱くのに華軍はまだ二十代前半だという。中科生、修科生を除けば戦務班では一番年が近い。自然、文輝は彼と言葉を交わす機会が多くなった。
 通信士というのは西白国でも特別な職の一つであり、国府、地方府、九品(きゅうほん)、三公(さんこう)――王族から臣籍降下した貴族三氏の総称であり、九品といえども三公に謁見するには煩雑な手続きが必要だった――のそれぞれに配置される。官吏として必要最低限の教養、技術を持ち合わせているのが大前提で、後天的に習得することが不可能な「まじない」の才が求められることから、出身は貴賤を問わない。地方出身者が国官へ昇進出来る数少ない職位であるがゆえに、内府(ないふ)典礼部(てんれいぶ)と並んで試験の出願率が桁違いだった。
 二十代で地方府の下級官吏。三十代で州都の上級官吏。四十代でようやく国府に配属されはじめるのが一般的な通信士の生涯で、国府にいる間に九品三公のいずれかの目に留まればその家筋の通信士としての道が開けるが、僅か十二のその枠を争うのは職位を得るより余程困難であることは自明の理だった。
 華軍のように二十代前半で国府の配属になった例は僅かしかなく、英才中の英才であることは疑うまでもない。通信士は二年に一度、御史台(ぎょしだい)の査定を受けることが義務付けられており、一度でも不合格の結果を残せば二度と官吏としては登用されないことになっている。文輝が物心付いた頃からずっと戴(たい)家に仕えている老通信士が査定の度にやつれていることからも、その苦しさがいかばかりのものか、何とはなしに理解していた。
 通信士であるというのはそれだけの重責を負う。軽挙妄動を慎むのは当然のこと、官吏としての規範であることも求められる。文輝は半年しか華軍のことを知らない。それでも、戦務班の他の官吏を見ていれば華軍が信頼に値するかどうかはわかる。華軍は紛れもない英才で、武官としての徳も矜持もきちんと持ち合わせていた。
 その、華軍に造反の嫌疑がかけられている。劉校尉――文輝の上官である警邏隊の戦務長もそれを承知の上で文輝を伝(てん)として左官府への牽制に使った。
 そんなことを唐突に言われて混乱しないものがいるとしたら、それはきっと九品三公の当主だけなのではないだろうか。彼らにしてもそれなりには困惑するだろう。実際、九品の六位孫家当主である棕若(しゅじゃく)は文輝の運んだ薄紅の文に目を通して顔色を変えた。顔色を変えたが、その動揺に振り回され、狼狽することはなかった。十七の文輝にそれだけの才覚はない。経験の差だ、と心中で言い訳をする。
 言い訳をしながら、文輝は自らの肩にとまった猩々緋(しょうじょうひ)の紋の小鳥の処遇を必死で考えた。この伝頼鳥(てんらいちょう)の中身が何であるかは今の文輝には推し量れない。誰の主張が真実なのか、判断するだけの材料もないのもまた事実だ。
 それでも、文輝は選ばなくてはならない。
 文輝の前方で晶矢(しょうし)が彼女に課された問いへの結論を今もまだ探しあぐねている。文輝の知るもう一人の英才中の英才ですら棕若の問いに即答することが出来ない。英才も人なのだ。文輝と同じように生きて、苦難に立ち向かうときもある。全てを容易く乗り越えてきたわけではない。晶矢の苦難を目の当たりにして、それが逆に文輝を励ました。
 戦務長――劉校尉の主張の通りなら警邏隊の英才――華軍は反逆者だ。戦務長がそれを文にしたためたところで華軍がそれをそのまま飛ばす筈がない。だが、安易に棕若が抱いている嫌疑を否定する内容の鳥を飛ばすのは逆に華軍への不信感を募らせるだけだろう。今文輝の肩にとまっている鳥は偽りだと一刀両断されて終わる。英才の華軍にその未来が読めていない筈がない。では鳥は何の為に飛んできたのか。次は左官府で事件を起こす、という脅迫文なら文輝に宛てる必要はどこにもない。棕若に宛てた方が余程効率的だ。
 だから。
 棕若の言う「伝頼鳥を読み解くことで嫌疑が確信に変わる」ような内容がしたためられている確率は限りなく低い。もしかしたら英才の気の緩みで華軍は彼の落ち度を明らかにしてしまうのかもしれない。
 それでも。
 戦務長と通信士、そのどちらの言葉を信ずるのが武官としての規範であるかは問うまでもない。火のないところに煙は立たないという。華軍には何らかの落ち度があるのだろう。或いは戦務長の杞憂である可能性も幾らかは残っている。
 どちらにせよ、棕若は右官府を疑っている。晶矢が左官府を疑っているのと根源は同じだ。自分に非がないと思いたい。責めを負うのが自らでない結論を選びたい。どちらも同じ目的の為に違う言葉を紡いでいる。
 責任を押し付け合って、現実から目を背け、結論を出さずに堂々巡りをするだけの無駄な時間が残っているのか、と自問する。答えは否だ。
 だから、文輝は脂汗の滲んだ手のひらをゆっくりと解き、無礼を承知で顔を上げた。部屋の一番奥に棕若。その顔には冷酷な余裕が浮かんでいる。その両脇に左尚書の高官たちが並ぶ。彼らの顔も一様に勝利を確信していた。文輝の斜め前に晶矢。彼女の表情を覗き見ることは出来ないが、それでも背中が窮していることを何よりも雄弁に語る。
 晶矢の隣まで一歩半。その距離を詰めた。
 肩にとまる尾羽に猩々緋の紋を刻んだ小鳥をそっと左手の人差指に移す。
 そして。

「『百官に説く。力は武に非ず。威は官に非ず。すなわち武官とは私(し)に非ず。武官とは至誠を旨とし、利を分かち、弱きに沿い、強きを戒めるものなり。常に自らを一振りの刃として努めよ。その刃は己に非ず。もし過ちて刃を振るわば我ら進みてその首を刎ねん。百官に説く。武官は私に非ず。何時(なんどき)も忘るることなかれ』」

 伝頼鳥を復号する為の手順はそれぞれの府庁で独自の取り決めがある。
 警邏隊の役所や官吏に届いた伝頼鳥を復号する為にはこの長い口上を一言一句違わずに既定の時間内に読み上げる以外の方法はない。間を省略することは不可能だ。唯一の救いは、どれだけ多くの伝頼鳥が届いていても復号の手順は一度で全ての鳥に効力がある、という取り決めがされていることだけだろう。
 文輝の口上が終わると桃色の小鳥は糸のように解け、そして一通の同じ色の文の形を成した。表紙(おもてがみ)の押印が差出人を雄弁に物語る。これは戦務長からの文ではない。渦中の陶華軍その人からの私的な文だ。
 その文を開くより早く、文輝の隣で晶矢が口を開いた。

「『武官諸志(ぶかんしょし)』か」
「俺にもお前にも必要だっただろ?」
「よりにもよってこの場面で『武官諸志』とは実に恐れ入る」

 呆れたような感心したような、或いはそのどちらでもないような口調で晶矢が微苦笑を浮かべた。淡々とした物言いに彼女が本質を取り戻したのが見て取れる。
 「武官諸志」というのは所謂「五書(ごしょ)」の一つで武官の心構えを説いた書物だ。文官の心構えを説いた「文官諸志(ぶんかんしょし)」と対を成す書で、五書の範疇には通常どちらか片方だけが含まれ、「諸志」という名で認識される。両方を含む場合には「六書(ろくしょ)」になるが、その呼称が使われることは殆どない。
 文輝が読み上げたのは「武官諸志」の前文にあたり、武官見習いは軍学舎(ぐんがくしゃ)の初科(しょか)一年目の課程で必ず暗唱させられる。業務で用いるからとはいえ、文輝ですら諳んじられるのだから、晶矢も当然知っているだろう。
 その当たり前の知識と前提が先ほどまで彼女の中から抜け落ちていた。
 武官は特別な存在ではない。文武官そのどちらもが国を支える柱であり、自らの感情の好悪でどちらかを否定するようなことがあってはならない。
 晶矢は多分今、やっとそれを思い出した。
 武官がなすべきことは文官を責めることでも捕縛することでもない。武官が護るべき「国」の一部には文官までが含まれている。
 華軍の飛ばした伝頼鳥を開封する手順が晶矢の中に響く。文輝もまた初志を思い出した。
 だから、もう華軍の文の中身に怯えることはない。
 文輝の隣で晶矢の榛色が強く輝いた。
 晶矢はその眼光の鋭さのままに棕若に応える。

「私(わたくし)が何を求めているのか、と左尚書令殿は問われました。その問いに謹んでお答え申し上げたく存じます」

 勢いが戻った晶矢の態度に、棕若は少しつまらなそうな顔をしたがそれでも彼女の返答を拒みはしなかった。

「聞こう」

 文輝の両側が棕若の回答にどよめく。否定の言葉が幾つも飛び交ったが、老翁は動じることなく静かにそれを制した。

「僕が『聞こう』と言っているのが聞こえないのかな」

 それともこの場に僕以上の権限を持つ方がおられるというのなら僕は礼を失したことを詫びよう。どうかな、おられるのなら早く名乗っていただきたいものだね。
 棕若はたったそれだけの言葉で彼の両側に控える高官たちから事実上、発言権を剥奪し、そして再び晶矢と相対した。

「阿程殿、君の返答を是非聞かせてもらおう」
「では」

 と前置いて晶矢ははっきりと言葉を紡ぎ始める。

「私たちが護るべきはお互いの立場や府庁の面子ではありますまい。『国』を護るのが我々の本懐であれば、このような駆け引きで徒(いたずら)に時を失するべきではないと存じます」
「なるほど、一理ある。それで? 君は僕に何を求めるのかな?」

 晶矢は改めて問われたその「本質」に対する答えを見つけていた。九品でも程将軍の愛娘でも後継でもなく、阿程でもなく、ただの晶矢として彼女は淀みなく希望を告げる。

「つきましては、左尚書令殿にお願い申し上げます。私どもと共に内府、御史台へ出頭していただきとう存じます」

 その希望が言外に含むのは互いに痛い腹を探り合うのをやめにしようというこの世の中で最も難しい類の提案だ。内府は右官府にも左官府にも属さない中立の機関だ。その中でも御史台と言えば監査の役目を負っている。右官府にも左官府にも反逆者がいるのならお互いにそれを探り合っていても何も始まらない。その任に相応しい役所に報告するのが本筋だ。
 十七の晶矢だから言える。世間を知らないから言える。一人前でないから言える。そんな否定が一斉に紛糾した。その一番奥で棕若が満足そうに眦を眇めたのを文輝と晶矢だけが知っている。この答えを誰よりも求めていたのは棕若だ。一杯食わされた、と晶矢が苦虫を噛み潰した顔で文輝に視線を送ってくる。文輝もまた棕若と晶矢に上手く利用されたのだということを知って苦笑していたが、文輝には文輝の役割がある。
 それを今、果たさなければならない。
 文輝は復号した桃色の文を開封することなく両手でそっと包み込んで部屋の中央を真っ直ぐに進む。華軍の印が押されたその表紙を開きもせずに文輝は棕若の机の上にそれを置いた。
 棕若は意味ありげに文輝を見上げ、問う。

「中を確かめなくてもいいのかな?」
「構いません」
「君にとって不利なことが書いてあるかもしれない」
「構いません。私は上官も同僚も信じています」

 あなたがそうしたように。最後の一言は口にしなかったが棕若には伝わったのだろう。「大した自信だ。実に羨ましい」言って文輝には元の位置に戻るように指図して棕若が桃色の文を持ち上げる。
 そして。
 彼は相変わらず慣れた手つきで文を開いた。
 表紙と同じ色の本文を開いた棕若は渋い顔で左右の文官たちに中を確かめさせるべく手渡す。隣に座った副尚書令が一番最初にそれを読んでやはり苦く笑った。

「これでは何の証左にもなりませぬな」
「流石は右官府の通信士だね。中々にしぶとい」

 そんな会話が上座で交わされるうちに末席にまで桃色の文が回覧される。
 文輝の隣で晶矢が不思議そうに尋ねてくるが文輝にはそれに応える術がない。

「首夏(しゅか)、あの文には何が書いてあるんだ」
「知らん」

 正直にその旨を告げると晶矢の表情が曇る。
 小声だが訝った音が文輝を言外に責めた。

「『知らん』だと? 通信士殿か校尉殿かと打ち合わせがあったのだろう?」
「その二人の間ではあるかもしれねぇけど、俺は知らん」
「何も知らないでおまえは孫翁に文を渡したのか」
「そうだ」

 晶矢がそうして工部(こうぶ)の役所を出てきて、この場の裁量を委ねられるのと同じように、文輝も謀略を持っているのだろうと問われたがないものはない。文輝は先に晶矢が皮肉った通り「何の文を運んでいるかも知らない伝」だ。それ以上も以下もない。
 文輝に緻密な駆け引きをしろというのは到底無理な話だ。
 何の根拠もなかったが文を棕若の手に委ねたとはっきりと肯定すれば、晶矢は呆れ返って言葉にもならないようだった。

「『そうだ』って、おまえ、何かあったらどうするつもりだったんだ」
「孫翁に御史台へ出頭しろとか言うやつにとやかく言われたくねぇ」
「この、大馬鹿ものが」

 言って棕若たちからは見えない角度で背中を強か殴られる。女とはいえ、武官見習いの殴打はそれなりに痛みを伴う。文輝は小さく呻き声を上げて堪えたが殴られた場所は鈍痛と僅かな熱を持っている。
 何をするのかと文句を言おうと晶矢を見やると随分とすっきりした顔をしていて、苦言が喉もとで霧散した。

「暮春?」
「実際、おまえは大したやつだ」

 華軍の文の中身は未だにわからない。それでも、華軍の文を復号することで文輝と晶矢は自らを取り戻した。回廊を巡る途中で文に復号していたら、と考えてぞっとする。文輝に出来るのは開封だけで、もしも華軍に連絡を取りたいのなら左尚書の通信士に返答を依頼しなければならない。
 棕若の謀略がどういう段取りになっていたかは判然としないが、それでも、文輝の選択が場の流れを変えたのは確かめるまでもない。だから、文輝は漠然と思うのだ。華軍は文輝と晶矢が左官からの反撃を受けることまで見越して鳥を送ってきたのではないか、だとか、文輝の性格で言えばすぐに鳥を復号したりしないことも計算ずくなのではないだろうか、とか。
 そんなことを考えているうちに桃色の文は文輝たちの手元へまで回ってくる。
 棕若の「それは君たちにお返ししよう」という言をきっかけに、文輝と晶矢は華軍の文を見た。そこに書かれていたのはたった一行「お前を信じろ」の文字だけが綴られていた。

「左尚書令殿、これは」

 その簡潔で明瞭な文に晶矢は弾かれたように顔を上げて棕若と相対する。

「僕たちは何の細工もしていないよ」

 右官というのは僕たちには到底理解出来ないことをするね。でも、どうしてかな。ほんの少し羨ましいと思ってしまう。
 言って彼は心底愛しそうに武官見習いの二人を映した。

「阿程殿、君は僕に内府へ出頭してほしいと言ったね」
「是(はい)。確かにそのようにお願い申し上げました」
「ときが許すのであれば君たちが内府へ上ることを各々の役所へ伝えなさい。僕の通信士を呼ぼう」

 香薛(こうせつ)、と棕若が従臣の名を呼んだ。

「通信士を僕の部屋へ」
「ただいま呼んで参ります」

 言って従臣が踵を翻すのを見届け、棕若が立ち上がる。文輝と晶矢は慌てて叩頭した。左右の違いはあれど、棕若は文輝たちよりずっと位が高い。緊急事態だからこそ相対していられたのであって、話が一段落してなおも頭を上げているという非礼までは許されないだろうということを思い出したからだ。
 棕若はそんな二人のばつの悪さなど知らぬ態度で好々爺の笑みを浮かべる。

「阿程殿の言には一理あることは皆も理解しただろう。僕にはやましいことは何もない。それでも糺すべきことがあるというのなら内府へ出頭することは決して吝かではない。僕はそう思うのだけれど皆はどうかな?」

 棕若の問いに室内は俄かにざわめいたが、結局は尚書令が決めたことに従う、という結論になった。異口同音に賛成の声が上がる。
 それを見届けて、棕若は上座を離れ、叩頭した二人の傍らに寄り沿って肩を叩いた。

「では参ろうか」

 緑の扉を押して棕若が回廊へ降り立つ。文輝たちも立ち上がり室内の左官たちに一礼して棕若の背を追った。回廊を歩く足音を聞き届ける空気が幾ばくか柔らかいものになっていたことを二人は知らない。
 回廊を戻り、左尚書令室で報告書をしたため、それに棕若が一筆を添え通信士が鳥を飛ばす段になる。左尚書の通信士は文輝たちが見たところで真似が出来ることではない、と惜しげもなく暗号の過程を見せてくれた。二つの土鈴を両手に持ち、足踏みと鈴の音を背景に謡曲を歌い、華麗に舞うその姿は質実剛健を旨とする右官府では決して見られないもので二人はしばし見入る。文官府は典雅だ、と漏らせば内府の方がもっと典雅だという棕若の返答があり、文輝は素直に感心した。
 二通の文がするすると細い糸に変わり、そして二羽の小鳥の姿になる。小鳥は歌い終えた通信士の肩にとまり、そして彼の指示に従って右官府へと向けて飛び立った。通信士はそれを見届け、一礼して尚書令室を出て行く。
 通信士の背を見送った棕若が香薛に後のことを指示し、内府へと向けて発つ準備を始めた。文輝と晶矢もそれに倣い、身支度を整える。香薛が気を利かせ、三人分の遅い昼食を用意してくれたのを食べた。岐崔らしい、素材を活かした薄味の肉饅頭を頬張りながら食事には文武の別がないことに心のどこかで安堵した。

「香薛、何か進展があれば気兼ねなく内府まで鳥を飛ばすのだよ」
「心得ております」
「阿程殿、小戴殿。食事はもう終わったかな?」

 その問いに「是」が唱和した。棕若が穏やかに笑う。
 そして三人は揃って左尚書を後にした。ここから内府・御史台の役所まではほど近い。中城(ちゅうじょう)の南半分に左右官府が、北半分に内府と禁裏とが配置されている。左官府では北端にあたる左尚書から内府に向かうには一旦大路(おおじ)に出るしかない。大路を北上すると内府の正門があるので、それを潜る。内府の中は武装が禁じられており、文輝と晶矢は自らの佩(は)いていた刀剣を預けた。文輝は内府の内側に入るのは今が初めてだ。首府である岐崔(ぎさい)は原則的に石を用いた舗装が施されているが、内府の中は別格だった。磨き上げられた石畳が寸分の狂いもなく続いている。歩むべき場所とそれ以外の場所が区別され、道の両脇には玉砂利が敷かれていた。右官府でも左官府でも明け方に積もった雪が道端に残っていたがここではどこにも見当たらない。手の入れ方が違うのだ、と直感的に察した。
 畏怖すら感じる静謐な空気に文輝は思わず生唾を呑みこんだ。ここにいてもいいのか、と本能が自問する。棕若と晶矢との様子を窺えば、二人とも泰然としていた。自分一人が場違いだ、と文輝は胸中で思う。御史台に着けばこの気持ちはいっそう募るだろう。わかっていて、それでも右官府へ逃げ帰るという選択はしなかった。分別があったからではない。良識が責任を感じさせたからでもない。何の力も持たないかもしれない。それでも、顔見知りの二人の行き着く先を見届けたいと思った。それぐらいの願いなら許されるだろう。
 勝手に決めたその答えを胸中に抱いて文輝は二人に続く。内府の中は役所と言うよりは神殿めいていてひっそりとしている。正門から続く石畳が最初に枝分かれした地点で二人は迷うことなく東を選んだ。そこからしばらく歩いた先にその建物が見える。荘厳な門の扁額に「御史台」の文字。門に扉はなく、代わりに門兵が二人立っている。三人の姿を視認した門兵が長槍の穂先を向けて構えた。
 警戒の域を超えた敵意に文輝は反射的に腰帯に手をやるが、そこに剣はない。先刻、内府の正門で預けたことを思い出し、苦笑する。普段腰にあるものがないというのがこれほど不安を生むのだということを痛いほど感じた。隣の晶矢も同じことをしたのだろう。棕若の後ろで武官見習いが二人、ありもしない刀剣を構えようとしていた。
 棕若は衣擦れの音でそれを察したのか、諸手を挙げて門兵に闘争の意思がないことを表現する。文輝の目の前で左手、晶矢の目の前で右手が揺れる。それを視認して二人ともが慌てて攻撃姿勢を解いた。御史台の門兵が長槍を構えたまま問う。

「左尚書令・孫棕若殿とお見受けするが、当地に何の用件か」

 内府の官は必ず左右官府の英才から引き抜かれる。というのは知識として文輝も認知していた。英才である彼らには文武官の要職にあるものの識別が出来る、ということも知っている。それでも、目の前で迷うことなく棕若の名を言い当てるのを見ると驚かざるを得ない。
 文輝が棕若の姿かたちを知っているのは九品の子息だからだ。
 だから、文輝には九品の出身でない府庁の長官の顔と名前を一致させることが出来ない。
 感嘆の息を吐く。隣で晶矢が呆れ顔で嘆息したから、多分彼女の中では全ての府庁の長官の顔と名前が一致するのだろう。
 背中の向こうで起こっていることを完全に無視して、棕若は門兵に応える。

「貴殿らに確かめていただきたい儀があって参った次第。大夫(たいふ)にお目通り願いたいのだが?」
「随身(ずいしん)をお間違えのようだが?」

 皮肉めいた笑みを浮かべた門兵の指摘に、棕若は「おや? 内府に赴くのには随身が必要なのかな?」と皮肉で応酬する。随身というのは高官が外出する際に警護として同伴する武官を指す。棕若は随身を伴えるだけの高官ではあるが、文輝も晶矢も護衛官に任じられるだけの位ではない。そのことを嘲っているのだと知っていて棕若は皮肉を返した。禁裏の表玄関に立地し、その正門で刀剣の類を必ず回収する内府で心身の危険があるのならば、今後は剣を持って入らねばならない、と言外に含めることで門兵は閉口した。
 沈黙を肯定とみなし、棕若は言葉を続ける。

「それに、彼らは随身ではないよ。共に大夫にお聞かせしたいことがあると申すので同道しただけのこと」

 随身でもそれが叶うのなら、そういうことにしておいても僕は構わない。
 どうかな、と棕若が問い返したところで門兵は二人揃って穂先を収める。

「その物言い、確かに左尚書令殿であらせられる。阿程殿、小戴殿にも非礼をお詫び申し上げる」
「大夫にご用向きとのこと。すぐにでもご案内申し上げますゆえ、取り敢えずは中へ」

 門兵の片方が一礼して中へ消える。言葉の通り、大夫――御史台の長官へ取次に出たのだろう。残った一人が身を引いて門の前を譲る。棕若は「そう」と返答をして泰然とその門を潜った。文輝が晶矢の後を追って門の内側に入ると残った方の門兵は敬礼の姿勢で三人を見送っている。
 門の向こうにはまた石畳が続いていた。紅葉した楓が両脇に並び、視界が赤に染まる。文輝の頭より少し高い位置の葉の上に薄っすらと雪が残っていた。
 赤と白の対比に文輝は城下にある戴家の屋敷の庭を不意に思い出した。今はもう亡くなったが工部の長官だった文輝の祖父は造園が殊の外好きだった。だから、戴家の庭は彼の趣味で季節ごとに美しい色彩を持っている。見慣れない御史台の役所の中に見慣れたその色があることが却って文輝を落ち着かせた。

「首夏、何をしている。置いていくぞ」

 晶矢の声が聞こえて文輝は自らの足が止まっていたことを知る。ああ、と生返事で答えてもう一度だけ雪を被った楓を見た。横風が吹いて葉が揺れる。その度に雪が水滴に変わって消えていった。
 その軌跡を追うことをやめて文輝も先を急ぐ。
 内府の中には国防の危機などないのだろうかと一人胸中で疑問を転がす。
 そして文輝は自らの出した答えに苦笑した。右官府にも国防の危機などなかった。ほんの数刻前まで、文輝もそんなものは認識していなかったのに随分と傲慢になったものだ。
 自省して石畳を先へ進む二人の背に続いた。
 顧みることは後でも出来る。今は、この背を見失わないように先へ進もうと決めた。  自省して石畳を先へ進む二人の背に続いた。  顧みることは後でも出来る。今は、この背を見失わないように先へ進もうと決めた。

それは、風のように<三>

三.
 何の前触れもなく、屋外から爆発音が聞こえた。
 午(ひる)の鐘が鳴る前で、そのとき文輝(ぶんき)は暮春(ぼしゅん)と暇つぶしに碁を始めたところだった。突然の異音に文輝の行動は停止し、一拍遅れで頭が異常事態であることを認識した。それは文輝が滞在した部屋だけに限ることではないのだろう。文輝の思考が戻るのに前後して左尚書(さしょうしょ)の中がざわつき始めた。現状を報告する鳥が飛び交うのはもう少し後だ。今は混乱だけが場を支配している。
 西白国の首府・岐崔(ぎさい)の国府が置かれた中城(ちゅうじょう)の内部で爆発が起きたという前例はない。爆発の原因を悪意による事件だけではなく、不慮の事故まで広げても一度もなかった。そんなものがあれば必ず歴学の教本に記載され、首府防衛を担う武官や武官見習いには周知されるに決まっている。既知の弱点を放置していては守れるものも守れない。軍学舎の初科の歴学で、つらつらと優位性を説いた後「以上の理由から岐崔は安寧を保っている」などと教えるのだから、事実上、岐崔ではそのような事態は起きたことがないと考えるのが順当だ。
 前例のないことが起きている。
 それだけでも文輝は困惑し、思考が停止した。頭の中が真っ白になって碁盤は勿論、その向かいにいるだろう暮春も見えなくなる。
 その後の対処は見習いとはいえ、武官と文官の違いなのだろう。ざわつき、取り乱した様子がありありと伝わる外からの雑音が室内に充満していたが、文輝は状況把握に努めることが出来た。
 文輝と暮春が控えた部屋には灯かり取りの窓しかなく、そこから頭を突き出して外界の様子を探ることこそ出来なかったが、音量と音源の方向から爆発が起きたのは右官府の中央辺りであることを察した。文輝の知識の中にその近辺の情報はない。
 そこで自らの限界を知り、碁盤の向こうにいる暮春に視線をやった。そうして初めて、文輝は暮春が寸分たりとも動じていないことを知る。暮春の表情は澄み渡った湖面そのもので、さざ波一つ立っていない。岐崔を取り囲む河面でもこれほどに澄んでいることはあるまい。

「暮春?」

 文輝は暮春に何を問おうとしていたのかを束の間忘れる。澄み渡った彼女の榛色の双眸の奥で輝いている何かに気付いたからだ。この輝きに名前があるのだとしたら、多分それは「信念」であるか「確信」であるかのどちらかだ。
 外界の音が聞こえなくなるほど、文輝の鼓動が早鐘を打つ。力強く、小刻みに響く自らの生の証である音が文輝を支配した。それと同時に文輝の無意識が告げる。暮春は「これから何が起こるかをわかって」この場所にいる。

「暮春、お前――」
「首夏、先に聞こう。『おまえはどうする』?」

 そのあまりにも端的な問いに文輝は返答に窮した。榛色は妥協を許さない強い力を伴って、文輝を映している。
 暮春が何を知っていて、その結果どうしようというのかを説明するつもりがないのは彼女の眼差しを浴びればそれだけで十分にわかる。棕若(しゅじゃく)の言葉に従い、戦務長(せんむちょう)の駒としての任務を全うする。或いはそれを一方的に無視して、暮春と共に彼女の「確信」に触れる。どちらの選択をするとしても、警邏隊の戦務班からはもうじき伝頼鳥(てんらいちょう)が飛んでくるだろう。
 暮春の眼差しは鳥が来る前に結論を出すように促している。一刻一秒を争う事態なのだということはそれだけでも十二分に理解出来た。
 それでも、文輝には右官府の中央付近で爆発が起きたことしかまだわからない。
 厳密に言えば、違和を感じる点はそれ一つではないが、点は点でしかなく、暮春のように線や面で把握することが出来ていない。
 たったそれだけの情報で身の振り方を決めるように強要する暮春を見て、文輝は寧ろ安堵した。変わらない。何も変わらない。暮春は昔からこの性格だ。頭の回転が速く、理知的で、毅然としていて、そして常に自分中心だがほんの少しだけは周囲に対する思いやりがある。今もそうだ。多分、暮春は文輝の知らない何らかの「答え」を持っている。だから彼女は決断している。彼女は今から「何か」をしようとしているのだ。それを文輝に一から十まで手解くつもりこそないが、ここで足手まといだと切り捨てることもしない。そしてそれが彼女の中における最上の優しさなのだということを本人は自覚していないから余計に性質が悪い。
 文輝は苦笑交じりで一言だけ問う。
 一言だけなら尋ねても答えてくれるだろうと勝手に決めた。

「暮春、『いいのか』?」

 目的語も主語も副詞も省いた。文輝と暮春の間なら、その漠然とした問いで十分に伝わる。案の定、暮春は少しだけ眦を緩め「おまえなら構わん」と言った。
 その断片的な返答一つに込められた暮春の感情をひとまとめで受け取って、文輝は深く息を吐く。混乱、躊躇、不安、憤慨、そして漠然とした恐怖。暮春から受け取ったそれらがないまぜになったものを無理やりに一旦落ち着かせた。
 暮春の目に見えているのが何か、というのはそれほど問題ではない。
 文輝の知らないところで大きな力が働いているのはもう疑う必要すらないからだ。
 その何かに文輝が関わることを暮春は拒否しなかった。
 十日前に間諜の審査を受けたと言った暮春に対抗意識があったことは否定出来ないが、それ以上に文輝は彼女からの信頼を感じた。だから、文輝の中にある感情は負けたくないでも劣りたくないでもなく、力になりたいという純粋な気持ちだった。
 迷っている暇はない。悩んでも答えなど出ない。
 だから。

「いいぜ、暮春。行こう」

 勝負が始まったばかりの碁盤をそのままにして立ち上がる。好奇心がなかったわけではない。戦務長の駒として振る舞う責務を忘れていたわけでもない。
 それでも、文輝もまた確信していた。暮春の目算の向こうにあるものの重みは文輝が一生を懸けるに値する。
 冬を感じさせる冷たい風が僅かだが異臭を帯びている。左尚書の風上にあるもの――東風が伝わってくる右官府を守るのは武官としての責務だ。出入り口の外で侍っていた左尚書の官吏が二人の行動に慌てふためいて制しようとしたが、阿程(あてい)である暮春の決断を覆すことは出来ない。文輝は鋼のように固い彼女の意思の前では自らが如何に矮小であるかを知る。九品の一つを継ぐ覚悟がない小戴には重く、そして煩雑すぎた。
 左官の困惑を無視して暮春は部屋を出た。文輝もその後に続く。その背を追って薄桃色の小鳥が文輝の肩に舞い降りた。尾羽に混じった猩々緋の文様を見るまでもなく、警邏隊の通信士からの伝令であることはわかったが敢えて開封しない。今から暮春と共に向かう場所――左尚書の筆頭官吏たちが顔を突き合わせて返答を協議している部屋のただ中に行けば、伝頼鳥の中身よりも一歩踏み込んだ内容を知ることが出来る。文輝は合理主義者ではないが二度手間は好んでいない。
 回廊を巡る長靴の音が硬質に響く。暮春の歩幅に合わせようという気配りをしたが、その行為に意味がないことはすぐに分かった。暮春の歩幅は文輝のそれと変わりない。性差を意識する必要がない段階で、文輝は彼女の背負っているものの重みを改めて知った。西白国において女性が就けない職はない。あるとしたら国主ぐらいのものだ。それでも、いや、それだからこそ彼女は誰よりも高潔に生きている。
 やはり、文輝と暮春は対等ではない。
 文輝の一歩先を同じ速度で迷いなく歩く小さな背中を尊敬の念で見る。高く結い上げられた黒髪が艶やかに揺れた。その肩にもまた伝頼鳥が止まっている。尾羽の文様は朱色で八弁の花が一つ。八弁以上の花の文様はすなわち九品であることを示している。あれは城下の程家から来たのだろう。戴家からの鳥も来るかもしれない、と未来の可能性を考慮した。そのうえで文輝は警邏隊から来た鳥を開封しないことを今一度決断する。急いでいるのはこちらの方だ。胸中で一人毒づいている間に回廊の終着点が見えた。
 その終点を視界に映した暮春の足がぴたりと止まり、そして小気味のいい音を立てて長靴が回れ右した。
 いきおい、文輝は暮春と差し向うことになる。
 曇りのない榛色が問うた。

「首夏、一つだけ、いいか」
「何だ、暮春」
「これからわたしが言う言葉の中にはお前の信念に反するものもあるだろう。それでも、見届けろ。おまえにはそう出来るだけの強さがあるとわたしは信じている」

 そんな風に念を押さなければならないのなら最初から連れてくるものではない。信じているのなら確かめるな。刹那、反駁が文輝の中に生まれる。それでも文輝はそれらを全て黙って飲み下した。
 文輝には今、中城で何が起こっているのかさっぱりわからない。誰も教えてくれないから知らないだけだという言い訳は軍学舎の学生でも言わないだろう。それぐらい馬鹿げていて、自らの品位を損なう言葉だと誰もが無意識的に学ぶからだ。
 身の上に起こっていることも正確には把握していない。
 それでも、文輝は暮春に同道することを選んだ。今から起こる「何か」と差し向うことを選んだのは他ならない文輝自身だということぐらいはわかっている。
 だから。

「なら早く連れて行けよ、程晶矢(しょうし)」

 文輝はもう腹を括った。
 晶矢というのは暮春の本当の呼び名だ。西白国では十五で中科(ちゅうか)を受け、環(かん)を賜るときまで子どもには名などなく、男子は「小」、女子は「阿」を姓に付して称される。文輝が小戴と呼ばれるのはその名残だ。名は体を表し、本質を見抜くと古来伝わっており、親と君主にしか真名(まな)を呼ぶことを許さない。それが西白国に生きる万人の矜持であると同時に慣例である。
 だが、名がなければ個を識別することは出来ず、社会生活上の呼び名が生まれた。それを字(あざ)と言い、二つの名は環と共に下賜される。文輝で言えば、字が文輝で、名は耀(よう)という。首夏というのは愛称で、この名で呼ぶのはこの世に程晶矢一人だけだ。暮春もそれと同様に二つの正式な名前を持っている。文輝は彼女の真名を知らないが、字は知っていた。次兄がそれとなく耳に入れてくれたのだが、それが今生きることになるとは文輝も次兄も思ってもいない。
 名を呼ばれた暮春――改め、晶矢は不意に破顔する。愛称の暮春ではなく、阿程でもなく、彼女自身を一人の人間として認めるその名で文輝に呼ばれるのはどこか居心地が悪いのだろう。笑うことで帳尻を合わせようとしているのを感じた。

「なんだ、わたしの名前を憶えていたのか」
「お前と違って人脈で生きてるんでな」
「『人、すなわちそれ財なり。重(ちょう)すれば益し、過すれば損す。信なるは言にあらず、その心(しん)なり』。お前の為にある言葉だ」

 晶矢から送られたのは五書(ごしょ)の一節だ。経典の向こうにいる聖人たちがいにしえの時代に真理と見定めたその一続きの文句を文輝も軍学舎の初科で学んだ。偉人の理想論に準えられるという過大評価に文輝もまた苦笑を浮かべることで応える。
 晶矢の長靴がもう一度短い響きを立てて回れ右した。彼女の肩にとまった声のない小鳥と刹那目が合う。
 そして、彼女は寸分の揺らぎもない声で言う。

「では行くぞ、戴文輝」

 ああ、と答えて文輝は瞼を閉じる。なんだ俺の名前を知っていたのか。先刻彼女が口にした言葉と同じ感想が胸中に満ちた。その何とも言えない感情にそっと蓋をして文輝もまた回廊の終着点へと向かう。
 過去、現在、未来。その全ては自らの足で赴くものだと知っている。
 朝から続いていた不安がほんの少しだけ薄れていることが不思議だった。
 回廊の果てには緑色に塗られた扉と、その前に控えた棕若の従臣――香薛(こうせつ)の姿だけがある。香薛は近づいてくる文輝たちを見るやあからさまに落胆の意を表した。

「小戴殿はそちらに乗られたのですね」
「すまない、香薛殿。俺に籠の鳥は土台無理な話だった」
「構いませんよ。主も多分、ご承知でしょう」

 あなた方は右官の中の右官と自負されるといい。
 皮肉めいた口調で香薛は二人を代わる代わる見て、そして左官府では当たり前の緑の扉をそっと開いた。「孫尚書令殿に申し上げます。使者がお二人参られました」と奏上する声には寸分の揺らぎもない。多分、彼自身も、彼に待機を命じた棕若もこの未来を知っているのだろう。その予感を肯定するように部屋の奥から「通っていただきなさい」という棕若の声が聞こえる。棕若の声もまた落ち着いており、寧ろ他の左官たちが慌てふためく空気の方が異質に思えるほどだった。

「阿程殿に小戴殿。君たちが来たからには返答は夕刻では許されないということだね?」

 棕若が上座で両手を組み合わせたままこちらを見ている。その双眸に宿った冷徹な輝きに文輝の背を悪寒が駆け上がる。臆したと言ってもいい。好々爺とした彼しか知らない文輝には一人の老翁がこれほどまでに強い敵意を放っているという事実を即座に飲み下すことが出来なかった。息を呑む。生唾一つ飲み下すのにこれほど苦渋するのは生まれてこの方初めてのことで思考が散じていた。
 文輝の前に立つ頭一つ分も背の低い晶矢にも同じようにその敵意は浴びせられているだろうに彼女が動じる気配はない。落ち着いたまま彼女はゆっくりと拱手した。

「左尚書令殿におかれては現状を把握しておられましょうや?」

 棕若が放つ冷や水のような空気を凛と切り裂いて晶矢が言う。形ばかり整った敬語が鋭さをより際立たせる。左官たちは齢十七の晶矢のその態度に紛糾した。これだから右官は、だとか、中科生の分際で、などという雑言が文輝の耳にも届いた。棕若が黙って右手を上げてそれを制する。
 室内の動揺も晶矢の敵意も何もないような顔で老翁はゆっくりと瞼を伏せた。

「君の持ってきた薄紅の意味を理解しているか、という問いになら是と答えよう」
「ならば話は早い。今すぐそこに名のあるものを揃えていただきたく存じます」

 棕若の表情が刹那、敵意から困惑へ変貌する。彼の両側に座した左官たちがそれぞれの形で晶矢の要求から目を背けようとしていた。

「今はまだ事実確認を行っている段階だよ。捕縛は出来ない」
「なるほど、左尚書令殿は左官府でも事件が起こってほしい、と仰る」
「そこまでは言っていない。裏付けもなく、官吏を捕縛するのは律令に反する、と僕は言っているだけだよ」
「その裏付けとやらを取るのに一体、何刻が必要なのです。私(わたくし)がここに参じた後、速やかにそこに名のある十五名を捕縛しておられれば右官府で事件が起こることはございませんでした」

 晶矢の声に含まれているのは怒りだ。
 晶矢と棕若の会話に追いつけず、事態の把握に努めるだけで精一杯の文輝にもそれだけはわかる。晶矢は左官府が齎した何らかの手落ちを責めているのだ。そして、その結果、右官府で爆発が起きている。回廊の西の果て、王陵の裾野であるこの場所にも東風は吹き付ける。風が運ぶ異臭とその場にいるであろう右官たちのことを思うと、文輝の胸中も穏やかではない。
 事態が見えていない文輝ですらそうなのだから、文の中身を知る晶矢のそれは比べるまでもない。彼女は静かに激している。
 それらの点と点を文輝は脳裏で何とか結び付けようとした。
 会話は文輝を置き去りにして進む。

「右官府に非はない、と君はいいたいのかな?」
「そうは申しておりません。現に何の文を運んでいるかも知らない伝(てん)もおりますゆえ」

 それは間違いなく文輝のことだと気付いた。誰から何の用件で薄紅の文を預かってきたのかも知らない。勿論、晶矢のように交渉の決定権を持っていることもない。それどころか戦務長――劉校尉が文を書いたのか、もっと上のものが出した文を劉校尉が預かったのかすらわからない。
 晶矢と文輝の間には目に見えるだけでもそれだけの差がある。
 ばつが悪くなり、不意に視線を正面から逸らした。
 棕若が気の毒そうに苦笑する。

「本人の前でそれを肯定するのは実に君らしい決断だね」
「事実の指摘にすぎません。右官府にも手落ちはございます。その一点においてのみ一方的にこちらの要求を通すつもりはございません。我々は最大限の『妥協点』を示したつもりでおりましたが、正しく伝わっておられないのなら今一度申しましょう」

 晶矢がすっと姿勢を正す。西白国では位階の上下は絶対的な尺度だ。下位のものが上位のものへ礼を失することは決して許されない。彼女がそれを知らない筈がない。それでも上八位下の晶矢は上二位の雲上人である棕若に対し対等の振る舞いをしようとしている。多分、今、彼女を突き動かしているのは程家の嫡子であり、いずれ国を背負う九品の家督を継ぐ者としての責任感だ。

「『中城に変異あり。郭安州(かくあんしゅう)より流れ来たるもの多し。黎陽門(れいようもん)にて十五、宮南門(きゅうなんもん)にて二十一、環を確かめり。この間十日ばかり。州牧(しゅうぼく)、無事と言えど、いずれかに難ありと見受けるものなり――』」

 晶矢が諳んじているのが彼女の持ってきた文そのものであると気付くのに時間は必要ではなかった。毅然と胸を張り、一言一句言いよどむことなく、晶矢は朗々と彼女の目の前にない文を読みあげていく。文輝には決してこのような真似は出来ない。感心の溜め息を吐くと同時に文輝は知った。晶矢は自らに課されたものを知ってこの場所にいる。文輝とは何もかもが違うのだ。最初から文輝と晶矢は対等などではなかった。そのことを今更になってようやく理解して気後れから表情が曇る。
 文輝の変化に気付いたのだろう。途中で棕若が困ったように笑い、掌で晶矢の朗読を止めた。
 そして、彼もまた手元の薄紅の文を落ち着いて音読した。
 文の中身も知らない哀れな伝に対する憐憫なのは疑う必要すらない。

「『右官府案内所にて左官府の案内を受けるもの三十。併せて薬科倉(やっかそう)を問うものあれど、うち十五、当地に現れじ。いずれも無官(ぶかん)にあらず。緑環なりて、左尚書の判断を請う。なお、当該者の名は以下の通りである』だろう?」
「不審とわかっておりましたが、十日泳がせておりました。それを手落ちと指摘されれば反論はございません。ですが、裏付けはその間に右官府でも取っております。そうでなければ私がこうして文を運ぶこともございません」

 決して折れることのない晶矢の態度に棕若が今一度溜め息を吐く。
 ここまで来て、岐崔で起こっているのがただごとではないと文輝にもわかってきた。
 郭安州、というのは岐崔の西側の山々を越えた向こうにある土地の名前だ。州都に定められた僅かな緑地の他は果てのない砂原が続いていると聞く。遊牧と交易で得られる収入に頼っており、経済も治安も非常に不安定である為、郭安州の官に任じられると岐崔の国官たちは一様に落胆する。それほど郭安州は貧しい。自然、郭安州から岐崔へと上れるものは限られた。
 首府で生まれ、首府で育ち、首府に配属された文輝にはその辺りの実感が乏しいが、それでも一応は知っている。郭安州から岐崔に上ってくるだけの財貨を持つものはほんの一握りしかいない。十日で三十六。それがどれだけ異常な数値であるかは考えるまでもない。
 郭安州の州牧が何を思い、或いは何を隠そうとして「無事」の返答を続けているのかは文輝にはわからない。文輝だけがわからないのではない。岐崔にありながら地方のことを正確に知る術などないのだ。伝頼鳥は確かに飛ぶ。相手がそれを復号したことまでは通信士を使えば知れる。だが、その向こうで意図して伏せられた実情を知ることは出来ない。だのに岐崔は安全だと誰もが信じて疑わなかった。
 そして、今、その見せかけだけの安寧に守られた岐崔には変異が起きている。
 文輝は生唾を呑みこんだ。拱手したままで留めた両手に汗がにじむのを感じる。
 唐突に示された事態に左官たちが戸惑うのも無理はない。それでも、緑環――文官の不始末なのであれば左官府が責を負うのが筋だ。そしてそれは任官を行った左尚書の責任だということを同時に意味している。
 棕若が重い息を吐いた。

「一つだけ、尋ねてもよいだろうか」
「その結果、左尚書令殿が我々の要望を満たしてくださる、と仰るのなら何なりと」
「手厳しい。君が程将軍の懐刀というのは本当らしいね。全て君たちの望むようにとは約せないけれど、善処はしよう。孫家の家格に誓ってもいい」

 程将軍、というのは晶矢の母だ。地方府の師団長を歴任した後、銀師――中城を守る師団の弓兵隊を率いている。その事実を以って、右官府は晶矢に甘い、と世間は揶揄するが程将軍を知るものであればそのような発想は絶対に出て来ないことを文輝は知っている。程将軍――晶矢の母は文輝の父よりも余程厳正な性分で親の七光りだなどと言わせないが為に晶矢を教育してきた。
 棕若は九品の家長だ。だから彼は程将軍を知っている。そのうえで晶矢を評した。多分、棕若に残された意味のない抵抗だったのだろう。室内の左官たちは得心なり侮蔑なり感心なりしたが晶矢はそれでも決して俯いたりしなかった。
 それを見届け、棕若はふと表情を緩める。文輝もよく知る孫翁の顔だったが、これ以上ないほど倦んでいた。

「阿程殿、『君』は僕に何を求めているのだい?」

 その問いを聞いた瞬間、文輝の世界から全ての音が消えた。
 晶矢が文輝の隣で瞠目するのを感じる。棕若の問いは簡潔で、先ほどまでの晶矢なら容易く答えられただろう。それでも、抑揚が告げる問いの真意は晶矢が建前で語ることを許しはしなかった。文輝にすらその意味が分かるのだから、晶矢が意図を汲みかねている筈がない。
 九品の嫡子である晶矢。程将軍の娘である晶矢。工部案内所の案内係である晶矢。中科生としての晶矢。そして、文輝の朋輩としての晶矢。
 棕若の指した晶矢は多分そのどれでもない。もっと根源的なものを指した。だから、晶矢は返答を上手く紡げない。
 そして、文輝は改めて知る。
 文輝には――或いは晶矢をしても、棕若の国を思う気持ちを否定することは出来ない。彼もまた国官としてこの国を守ろうとしている。緑環を示した三十六名が文官であることは間違いないが、それが真実である保証はどこにもない。環を偽るのは罪だ。しかもただの罪ではない。重罪だ。程度が酷ければ死罪を言い渡されることすらも覚悟しなければならない。だから生半な気持ちで環を偽るものはいない。
 それでも、棕若はそれを疑っている。
 文官と武官、西白国を支える二つの柱の一つが腐り落ちてようとしている。その事実を認める前に他に出来ることがないかを必死に探している。その結果、右官府の事件が起きるのを止められなかった。そのことに罪悪を感じているが、それでもなお、彼は彼の朋輩である文官を疑う以外の答えを求めている。
 反対の立場なら晶矢もそうしただろう、とやんわりと言っている。彼女にはその意図が正しく伝わっているから返す言葉を探せないでいた。
 返答に詰まる晶矢と、彼女に向けられた問いの重みにたじろいでいる文輝の耳にその次の言葉が聞こえたとき、文輝は目の前が真っ暗になるのを感じた。

「小戴殿、どうして僕が君に文を運ばせたのか、君は知っているかな?」

 陶華軍(とう・かぐん)という名の通信士にはこの三十六名の誰かと密通している、という嫌疑があるからだよ。劉校尉もそのことはご存じだ。疑うのなら、その猩々緋の紋の小鳥を復号してみるといい。嫌疑は確信に変わるだろう。
 沈痛な面持ちで、それでいて瞳の奥では勝者の自信を輝かせながら棕若が言う。
 この岐崔で猩々緋の紋の伝頼鳥を飛ばせるのは二人しかいない。そのうちの一人は間違いなく、棕若が名指した陶華軍であり、残りの一人は夜勤を終え、今は官舎で深い眠りに就いている筈だ。
 肩にとまった小鳥は鳴きもせずにじっと文輝を見つめている。
 この鳥を復号したことが引き起こす「何か」を予測することが出来なくて、だのにどうしようもない不安ばかりが膨らんで文輝は俯くことすら忘れて、ただ硬直していた。
 回廊の向こうで午を告げる鐘が鳴る。鼻腔を突く不快な臭いは少しずつ薄れようとしていた。