雑記

それは、風のように<二>

二.
 右官府には大きく分けて三つの役所がある。主に軍務、警務に当たる兵部(ひょうぶ)、武官を動員しての土木工事を取り仕切る工部(こうぶ)、武官の人事を行う右尚書(うしょうしょ)。この三部門の役所は西白国(さいはくこく)中城(ちゅうじょう)右官府において不規則に配置されている。その配置は二年ないし五年の期間をおいて不定期に移転し、首府・岐崔(ぎさい)の住人といえど右官府の正確な位置を常に知るものは少ない。将軍位を持たない諸官には各部署の案内所の位置だけしか教えられない。城下の民にはそれすら教えられず、常に城門で守衛に目的地を尋ねるように法で定められていた。
 この法は四代国主が首府防衛上の原則となるように定めたもので、右官府では約百年間法に従って不定期な配置転換が繰り返されている。国内の反乱分子、或いは他国の間諜にとって不定期に位置が変わる中城へ潜入するのは危険性が高く、にも関わらず得られる情報は少ない。このこともまた岐崔の安寧を作り出している一つの要因になっていた。
 文輝(ぶんき)が中科(ちゅうか)三年目で配属された警邏隊は兵部の下部組織の一つで、任務の性質上配置転換が行われても陽黎門(ようれいもん)にほど近い場所に置かれた。文輝が生まれる以前には警邏隊も右官府の奥まった場所を与えられたことがあったらしいが、現国主の代になってから常に城門の付近に配置されるようになった、と初科(しょか)の歴学で文輝は学んでいる。
 警邏隊は昼勤と夜勤の二交代だが、下働きの文輝には昼勤の任しか与えられない。市中見回りに同道することもない。役所内の掃除、書類の整理や、伝頼鳥(てんらいちょう)――名前の通り鳥の形をした「まじない」で所定の手順を踏まないと破損する伝令だ――の開封作業が主な仕事で、大まかに言えば誰にでも出来ることだけしか携わることが出来ない。
 誰にでも出来ることこそ手を抜くなと父から繰り返し教わっていた文輝は昼勤の誰よりも早く登庁し、上官たちが登庁するまでには掃除を終える。一年目の厩番のときも二年目の衛生班の下働きのときも今も何一つ変わらない。
 既に習慣と化した清掃を終え、文輝が伝頼鳥の宿箱を開く頃に上官たちが登庁してくる。伝頼鳥は鳥の姿をしているが、夜間でも飛行することが出来る。夜間には中城と城下をつなぐ城門が閉ざされる為、夜間警邏の屯所は城下にあった。夜間の報告のうち重要なものは隊長職にあるものが中城へ出向いて伝達するが、それ以外の軽微なものは伝頼鳥で飛ばされる。その為、伝頼鳥だけは夜間でも中城の中へ入ることが出来た。朝、宿箱を開けると三羽ないし十羽程度が収まっているのが常だが、この日は妙に多く、十五羽の伝頼鳥が届いていた。そのことに小さな違和感を抱きつつ、文輝は伝頼鳥を一羽ずつ手元の籠に移し替え、自席へ戻った。
 警邏隊の執務室、その末席に文輝の机がある。籠を置き、硯箱を取り出そうとしていた文輝の名が不意に呼ばれる。その声に顔を上げると上座で戦務長――事務仕事の総括を担っている――が文輝を手招きしていた。

「小戴(しょうたい)、今日は鳥は後でいい。先にこの文を左官府へ届けてくれ」

 言って戦務長が一通の文を取り出す。他部署へ送る文は必ず送り手の部署の色――環(かん)の色を薄くしたものだ――で染められた紙を使うことになっている。その濃淡で緊急性を表し、戦務長が今持っている薄紅色は至急であることを意味していた。常ならばもっと薄い、薄桃色であるのが一般的だ。
 急使なら機密漏洩の防止や伝達速度の差など幾つかの理由で伝頼鳥を使うことになっている。戦務長の思惑は判然としないが、文輝に文の配達を申付けるからには何らかの理由があるのだろう。それを文輝が知る権利がないにせよ、確認はしなければならない。
 文輝は慌てて上座へと走る。

「戦務長、鳥ではなく私が運ぶのですか?」
「そうだ」
「左官府のどちらへ?」

 左官府は文官府で、西白国の政を行う機関だ。中城の西半分が左官府に割り当てられ、東側の右官府とは対になっている。左右官府の配置は他国では王府から見て左右であることが殆どで、西白国のように地図上の左右に割り当てられる国はごく僅かだ。岐崔の西側には王陵があり、その外側には河が取り巻いている。事実上、岐崔を西方から攻略することは不可能で防備の心配がない為、西白国では非戦闘員である文官府を西側に配置したという経緯があった。
 首府防衛の矢面に立つことがない左官たちは安堵からか、慢心からかは判然としないが右官に対して横柄な態度を取ることが少なくはない。だから、中科で二年半も過ごすと何とはなしに左官府に対する不信感が生まれる。
 武官の殆どが国庫から俸禄を賜るのに対し、文官は与えられた所領で徴税をしなければ収入がない、というのも軋轢を生んでいる一つの要因だと誰もがわかっている。毎年正月の朝議(ちょうぎ)でも必ずこの体制の是正の声が上がるが、左官たちは自ら改革を拒む。下位の文官にはつらくとも、朝議に参席出来る上流の文官からすれば現状を維持する方がよほど暴利を貪ることが出来るからだ。首府にいる限り、文官たちは武力の暴威に晒されることはない。安全に利が得られるのに自らそれを手放すものなどいる筈もない。文官たちに安寧を与えているのが武官であることを受け入れ、自らを省みることが出来る部署とは交流があるがそうでない部署とは鳥が飛び交うことこそあれど、人の行き来は殆どない。
 文輝もまた武官であるがゆえに左官府には幾ばくかの苦手意識がある。
 どこの部署だろうかと身構えた文輝に戦務長は大らかに笑った。

「小戴、安心しろ。左尚書(さしょうしょ)だ」

 左尚書というのは左官の人事を担当する役所で、その雰囲気は右尚書と似ている。評価対象の性質は正反対だが、どちらも官吏の任用を行うことから何かしら通ずるものがあるのだろう。ともすれば人の運命を左右する役所であるが為に担当官がより傲慢になりがちだが、尚書の長官である尚書令(しょうしょれい)は左右官府共に内府の下部組織の一つ、御史台(ぎょしだい)によって厳しく審査される。御史台は王令によって任命され、賂を受けたものは一族郎党が厳刑に処されることもあって西白国の役所の中でも最も王意を汲んでいる役所とされた。
 その王意を汲んだ任用によって現在左尚書令を務めているのは文輝もよく知る人物で、九品(きゅうほん)の一つ、孫家当主である棕若(しゅじゃく)という老翁だ。左官にしておくには惜しい骨のある好々爺で文輝は彼のことを実の祖父と同様に慕っている。
 棕若――文輝は敬愛の意を込めて幼い頃から孫翁(そんおう)と呼んでいる――の人徳の影響なのだろう。左尚書の官吏は文官だが武官に対してある程度の理解がある。文を持っていく相手が誰であっても不快な思いはするまい。
 宛先を尋ねると「焦るな。まぁ待て」と戦務長は彼の執務机の脇から折り畳みの胡床(いす)を取り出した。女官見習いの後輩が上座の話の着地点を察し、黙って離席する。文輝が立っていても話は何も進まないだろう。諦めて胡床を受け取って広げる。そこに腰を下ろしてもなお落ち着かない思いが文輝の中で巡っていた。後輩が二人分の茶を持って帰ってきたのはそれから間もなかった。彼女は中科二年で、一年目から警邏隊に配属されており、内部の事情には詳しい。右官府では連続して同じ部署に配属されることは稀だが、おそらく彼女は来年もここにいるだろうという確信にも似た思いがある。それほどまでに彼女は警邏隊の戦務班に馴染んでいた。
 裏表のなく、年頃の少女らしい可憐さを持った彼女の表情には戸惑いが浮かんでいる。そのことに幾ばくかの罪悪感を覚えながら、それでも文輝は不安を持て余していた。

「小戴殿、今朝はどうかしたのですか?」
「伶世(れいせい)、お前は何も感じないのか?」
「中城が少しざわついているような気もいたしますが、私には難しいことはわかりません」

 中科生に出来ることなど何もない、と伶世は言う。戦務長は笑って「伶世の方が分を弁えているな」と文輝の不安を一笑に付した。伶世の持ってきた茶を飲む顔には一点の曇りもない。違和感も不安も消えなかったが、文輝は引き時を悟った。
 岐崔では伝頼鳥を作ることが出来るものは限られている。通信士の役職にあるものだけが鳥を作る資格があり、どの役所にも必ずこの職がある。警邏隊にも通信士がおり、戦務長が待てと言っているのは彼が現在、先方――左尚書からの返答を待っているからなのだろう。
 伝頼鳥の届く範囲に制限はない。城下は勿論、中城、王府、禁裏、それから地方府。どこまででも相手が存在する限り辿り着く。通信士には送った鳥がいつ、誰が開封したかまでわかる。だから岐崔には急使の種類によっては鳥を使うようにと定めた令すらある。強制力を持つ律とは違い、令は担当者の判断に委ねられている部分があり、必ずしも守る必要はない。場合によっては、鳥によって面会の約束を取り付けるように指示する令もある。先方からの返答を即時必要とする場合がそれに該当するが、人が文を運ぶ以上、強制力は鳥の比ではないことは鳥を送る側は勿論、受け取る側も理解する――というより寧ろ、せざるを得ない。
 今がその特別な場合だ、というのは言われずともわかる。だからこそ、その状況が何かが起こっている、という不安を後押ししていた。伶世の持ってきた茶の味もわからないほど緊張している文輝を安堵させるように戦務長が笑う。

「小戴、案ずるな。お前が心配しているようなことは何もない。お前は何も考えずに左尚書に行って帰ってくればいい」
「わかっています。上官の命に背くほど私は身勝手ではありません」

 今の文輝には懸案をすることすら許されていない。文輝に出来るのはただ命令に従うことだけだ。その代わりにどんな結果が出ても責を負うこともない。嘆息して現実と向き合う。伶世の持ってきた茶の程よい苦みが少しずつわかるようになってきた。この茶が彼女の将来が明るいことを雄弁に物語っている。それは多分右官府の財産だ。
 通信士が左尚書からの返答を持ってきたのはそれから四半刻ほどした頃のことだ。彼が持っている若草色の薄紙は伝頼鳥を復号したもので、左官府から届いたのだということを意味している。

「校尉(こうい)、孫尚書令殿が直接会ってくださるそうです」
「小戴、戴家の名は伊達ではないな」
「岐崔には家格を無視される方はおられないでしょう」

 戦務長――劉校尉が唯一その存在であると文輝は思ってきた。九品の三男である文輝は上手く使えば価値のある駒になる。だのに彼は今まで文輝を他の中科生と同じように扱ってきた。公平性に富んだ性格をしているのか、と認識していたがそれがただの願望だったことを文輝は今知る。戦務長は文輝を使う場面を精査していただけで、駒の価値の認識は他の武官と何も変わらなかった。その事実を知って傷つかないぐらいには文輝も世間ずれしている。
 九品と一括りにしてもその中には家格がある。戴家は三位、孫家は六位だ。たとえ文輝が中科生だといえども戴家の子息であるという事実は消えない。文輝を蔑ろにするのは戴家を侮るに等しい。だから、文輝を伝(てん)として使うという宣言をこちらから示した以上、棕若は文輝の来訪を受け入れるしかなかった。
 それを理解したうえで戦務長は通信士に伝頼鳥を飛ばすよう命じた筈だ。棕若自らが文輝を迎えるというのは戦務長にとっても意外だったようだが、何にせよ彼の恫喝は成功した。
 文輝は胡床から立ち上がり衣服を整える。そして、戦務長から薄紅の文を受け取って警邏隊の役所を出立した。
 左尚書は中城の奥まった場所にあり、武官と文官の中立を旨とする内府と隣接している。その立地が尚書という役所の格の高さを示していた。左官府では国主が住まう禁裏に近ければ近いほど重要な役所であるとされる。
 右官府のように流動的な配置転換を続ける役所の性質は左官府でも城下でもあまり理解されず、ともすれば右官府三部の案内所の官吏は閑職だと認識されることも珍しくはない。
 その実、案内所の官吏は目まぐるしく変わる自部署の正確な位置を常に把握しなければならないうえ、守衛の目を掻い潜って侵入した不審者の識別をも秘密裏に行っていることから、武官はこの任には誇りを持っている。右官の花形である兵部、その下働きである文輝よりも工部の案内所の配属された九品の同級の方が上位であることもここに由来していた。
 その工部の案内所が移転したのは半月ほど前のことだ。三部の案内所の移転時には三府の全ての官吏に通達が回る。文輝もその回覧を見たし、記憶はしていたが新しい案内所の前を通りかかるのは今日が初めてだ。
 警邏隊の屯所は陽黎門のほど近くにある為、中城の内部を文輝が動き回ることは少ない。兵部の役所は文輝が中科を受けた年に大路の南端に移転して以来その場所を動いていない。兵部の厩も衛生班も全て南側にあったから、文輝は右官府の北側の地理には明るくない。
 遠くの部署への伝達は鳥が飛ぶ。城下の夜間屯所へも鳥が飛ぶ。
 文輝の生活は右官府でも陽黎門の南側での移動だけでこと足りた。
 それは多分伶世にとっても同じだろう。右官府の女官見習いの任を拝命して以来、彼女は警邏隊に属している。女官が文を運ぶことはないし資材の管理もすることはない。来年は違う役所に配属されるかもしれないが、それでも伶世が女官見習いであり続ける以上、彼女が右官府を歩き回る日など来ないだろう。
 文輝もそうして中科を終える筈だった。
 その目算が狂い始めている。
 そのことに幾ばくかの不安を覚えながら、懐に仕舞った薄紅の文の存在を強く意識する。同級に会うのはこの文を棕若に届けてからでも十分に間に合う。そう結論付けて文輝は工部の案内所の前を通り過ぎた。
 工部の案内所から左尚書まではすぐで、次の小路を左に折れ、大路を北上すると間もなく緑色の扁額を掲げた門が見える。
 役所の移転がない左官府らしい自己主張だ。
 右官府では絶対に見られない光景に同じ中城でも別世界に来たのだということを嫌というほど実感させられた文輝は溜息を一つ吐いて門をくぐった。
 門の内側の受付で棕若と面会の約束をしている、と告げると連絡が回っていたらしく、待つことなく尚書令室に通された。
 二階建ての役所の北西に位置するその部屋には西側の窓しかなく、陽はまだ射さない。薄暗い室内の最奥に老翁が座っている。執務机の上に積まれた書簡。装飾が施された立派な硯箱は二つに仕切られ墨と朱墨とで満たされている。従臣を呼ぶ為の鈴ですらも美しい彫塑で、文輝の知っている役所とは何もかもが違っていた。孫家の屋敷で会う棕若からは想像も出来なかった荘厳な面持ちに文輝は無意識に唾を呑み込み、そして何とか拱手して身を折る。

「ここでは『初めまして』だね、小戴殿」
「劉校尉より文を預かって参りました」
「返答を急いでいる、と通信士から聞いているよ。文をもらえるかな?」
「是(はい)」

 身を起こし、執務机の前に近づいて文輝は懐中から薄紅の文を取り出した。
 それを棕若の方へ向けて差し出す。棕若は慣れた手付きで文を受け取って中身を広げ、そして俄かに表情を曇らせる。部屋の入口で直立していた従臣がその変化を察し、徐に近寄ってきた。
 そして棕若と小声で二言三言やり取りをして静かに部屋を出て行く。残った棕若は呆然とする文輝に言った。

「小戴殿、しばらく別室で待っていてもらいたいのだが」
「何か問題でもあったのですか?」

 その問いに棕若は瞼を伏せ、ゆっくりと首を横に振る。机の上で組まれた両手がそっと解かれた。

「僕の一存では返答が出来そうにない、としか言えない」

 今、香薛(こうせつ)――棕若の従臣の名で、文輝も少しは面識がある――が担当官を集めているところだね、と続く。
 文輝には何が起きているのかを知る術すらないが戦務長が託した文の内容が重要だったことだけがはっきりしている。左尚書の諸官を集めなければ返答が出せない、などという事態が頻発する筈がない。薄紅の文はそれだけの影響力を持っていた。警邏隊に置いてきた伝頼鳥を思い出す。文輝が戻らなければ通信士が開封してくれるだろうか。戦務長自らが文を優先しろと言ったのだから後で責任を問われることはないだろう。それでも、十五羽の鳥の中身を知らなければならない、という気持ちに駆られる。鳥と文の中身はつながっている。そして文輝には推し量ることも出来ないような未曾有の事態が起ころうとしている――あるいは既に起こっている。
 文輝は深く息を吸った。今、文輝に出来ることは一つしかない。

「本日中にはお返事をいただけるのですね?」
「夕刻の鐘までには必ず」
「承知いたしました」

 棕若の返答を待つことしか出来ない自分自身を歯がゆく思いながらも文輝はそれを受け入れる。戦務長が通信士を使ってまでも返答を必要としている。待たずに帰るなどという選択肢は端から存在しない。了承の意を伝えると、折よく戻ってきた香薛に控室まで案内された。
 そこに、思ってもない先客の姿がある。文輝は軽く瞠目した。

「暮春(ぼしゅん)?」
「奇遇だな、首夏(しゅか)。おまえも伝か?」

 暮春――というのは九品の同級への愛称で、彼女が春の終わりに生まれたことに由来しており、それと同様に夏の初めに生まれた文輝を首夏と呼ぶことで彼女は優位性を示そうとしていた――が小部屋の中にいる。先刻、案内所の前を通りがかったときに思い浮かべたのと寸分変わらない剛直な態度で彼女は悠然と寛いでいた。
 その胆の座り具合は彼女の母を彷彿とさせる。暮春の生家である程家は九品では二位に当たる。女系の家柄で、家長は代々長女とされた。現在、程家の当主の座にいるのも暮春の母でいずれは暮春がその位を継ぐことになる。ということは岐崔にいれば誰でも知っていることだ。工部の案内所の任も十分にこなしている、と風の噂で聞いた。
 その暮春が何の理由があって左尚書にいるのだ、と考えて彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。

「暮春、お前、今『も』って言わなかったか?」
「言ったが?」
「お前も伝か? 工部の下働きは別にいるだろ?」

 案内所の受付は複数人で受け持っているから別段暮春が役所を出てきたところで業務が滞ることはない。それでも、工部にも受付より下位の中科生がいるのもまた事実だ。
 違和感を覚えたままに問えば彼女は苦笑し「おまえと同じ理由だ」と答えた。

「ああ、九品な」

 小戴である文輝が圧迫外交の手段に使われたのと同様に、阿程(あてい)である彼女もまた工部の駒の一つになったのだろう。三男であり家督を継ぐ可能性が限りなく低い文輝よりも、暮春の方が余程有力な駒になり得る。そこまでを一拍で理解したが、同時に胸騒ぎが文輝を襲う。

「お前のとこも『何か』あったのか?」

 九品の子息という駒を振るだけの何かが岐崔で起きている。
 終わってしまえば大したことではないのかもしれない。真実を知ったところで文輝には何も出来ないのかもしれない。それでも何も知らないでただ盤上で右往左往しているのはどうにも居心地が悪い。
 暮春は知っているのか、と問えば彼女は鷹揚に笑って答えた。

「さてな。所詮受付の中科生などが知る範疇ではないのだろうよ」
「随分と余裕だな。正八位下ってのはそんなに仕事が楽なのか?」
「首夏、おまえが吠えても何も変わらん。夕刻までには、とおまえも言われたのだろう? 大人しく籠の鳥を演じていた方が何倍も『楽』だ」

 言葉尻を捕えられて正論が返ってくる。楽は探せばどこにでも転がっている。考え方、着眼点、その一つひとつをほんの少しずらすだけでも無数に見つかる。暮春が言っているのは詭弁だと反論しようとして、それも正論で論破されるだけだとわかっていたから口を噤んだ。一位の差が意味もなく存在する筈がない。今の文輝では暮春に勝ることは出来ないだろう。

「首夏、得体の知れない異常事態をこの身で体感出来るのだ。わたしは寧ろ幸運だったと思うが?」
「お前は変わらねぇな」

 常に前だけを見て走っている。どんな状況もどんな境遇も好機に変えるだけの気概がある。後ろを振り返ることは勿論あるが、それでも反省点を洗い出した後は必ず前進する為の力へと変える。
 そんな暮春を見ていると自身の至らなさを嫌というほど思い知らされるから距離を置いた。劣等感と自己不全感に苛まれたくなかった、というのが一番大きな理由だが、彼女と行動を共にすることで文輝も同じ類の人間だと思われたくなかったというのが次に大きな理由だ。文輝には彼女のような勤勉で誠実な人徳はない。
 この世の全てに真摯に応対する彼女を見ていると息が詰まる。文輝の持つ人徳は人への愛嬌だ。付かず離れず人との距離を保ち、自分に都合のいい解釈を即座に選び取る。
 左尚書に来たのも結局は打算だ。ここは左官府の中でも「まし」な部類だから拒否することすらなかったが、本音を言えば今すぐ帰りたい。上官命令だったから断れない、という体を装って戦務長に貸しを一つ作った。文輝はいつかの将来、彼を使役する側に回るだろう。そのときに手の内にある駒は一つでも多い方がいい。何が起きているのかを知りたいのは状況に振り回されたくないだけで、暮春のように誠実に事態と向き合っているわけではない。
 性格と価値観が根本的に違うのだ。
 それでも、文輝は知っている。文輝と暮春が「対等に」会話することが許されているのは長くても二年先までだ。二人とも半人前の見習いだからこそ、こうして話すことが出来るが一人前の扱いを受け、正式に部隊に配属されれば位階という障壁が二人の間を隔てるだろう。
 今朝、国主の間諜に審査されて芽生えた根拠のない確信を実行する為には今が絶好の機会で、多分これを逃せば二度とは訪れまい。
 左尚書の控室で、左官の誰かがどこか別の場所から二人の会話に耳をそばだてている状況で世間話をするというのも居心地の悪い話だが、文輝は敢えて暮春に話題を振った。

「暮春、今朝、国主様の間諜に会った」
「そうか」

 その淡々とした返答に彼女が既に間諜の審査を受けていることを確信する。
 家格、位階、座学の成績。その何一つ文輝は暮春に勝ることはない。勝負になるのは近接戦闘の模擬試合ぐらいのもので、それはひとえに文輝が男であるということに起因している。同性ならこの種目ですら敵うことはなかっただろう。
 間諜の審査を受けたのが自分一人ではないと頭のどこかでは理解していたが、こうも淡々と受け流されると対抗意識を燃やすだけ虚しいような気持ちにすらなる。
 嘆息し、文輝は現実から逃げたくはなかったから問い返した。

「お前はいつ会った?」
「わたしは十日前だ」

 正八位下の暮春と従八位上の文輝の評価の差が十日だと考えるべきだ。一日に何人が審査されるのか、部署に優劣があるのか。何もわからないが、既に文輝と暮春は対等ではない。それでも文輝はその差を受け入れると決めた。一度決めると不思議なもので、焦燥感が薄れる。ただ、眼前にあるものをそれと受け止めるだけの心算が出来た。

「どんな方だった?」
「聞いてどうする」

 面倒だと表情で語る暮春に対して挫けることなく言葉が続く。

「ただの暇つぶしだ。他意はない。誓ってもいい」
「誰に?」
「小兄に」
「なるほど、ならばわたしも心して聞かねばならんな」

 言って暮春の表情が綻ぶ。文輝が暮春の性質を理解しているように彼女は文輝の性質を理解している。誇り高き父、峻烈な長兄、包容力のある母、そして聡明な次兄。戴家の家族は誰も文輝の憧憬の対象だが、その中でも次兄への思いが一番強い。十以上も年が離れている文輝を育ててくれたのは事実上、母親と次兄だ。その二人の名に誓う以上、文輝の覚悟は生半ではない。暮春はそれを説明されるまでもなく理解している。
 これほどまでに文輝と暮春の世界は隣り合い、重なり合っているのにお互いにそれを否定してきた。多分、暮春も気付いているだろう。この部屋から出た後に関わり合うことはない。
 だから、彼女もまた文輝の雑談に応じた。奇跡ではない。いっときの気紛れでもない。
 そのことを何重にも噛み締めながら、暮春の出した交換条件――文輝は彼の出会った国主の間諜の話も聞かせる――に応じる為に話を始めた。
 これが岐崔に残された束の間の安寧だということを二人はまだ知らない。

それは、風のように<一>

一.
 風が吹いている。
 大陸の西半分を覆う広大な砂原から吹く偏西風が季節の移り変わりを告げる。西白国(さいはくこく)に今年も春がやってきた。それは同時に国官の徴用試験が始まることを意味しており、文輝(ぶんき)は柄にもなく緊張していた。
 今年二十歳になる文輝には二度目の徴用試験だが、受験者の多くは十五歳になったばかりの少年少女だ。彼らには不合格という結果はない。必ず文武いずれかの役所に合格し、これから三年間を見習いの官吏として過ごす。この一度目の徴用試験は西白国では中科(ちゅうか)と呼ばれる。二度目以降は二十歳から二十五まで都合五度の受験を許されているが、その門は狭く、厳しい。
 文輝も十五の年に一度目の試験を受け、首府・岐崔(ぎさい)で右官府の厩番の職を得た。そこに至ったのが実力ではなく家柄と親類の身分、それから首府の軍学舎での成績――これは文輝が自ら得たものだから唯一実力だと言えるだろう――に大いに影響された結果であろうことぐらいは知っている。文輝の生まれた戴(たい)家は西白国では九品(きゅうほん)と呼ばれる名家であり、七つの頃から軍学舎の初科(しょか)に通わせてもらった。その縁故があるから徴用試験で雑役ではあるが実務を与えられた。
 ただ、そこから毎年順調に昇進し、中科三年目の春には市中見回りの警邏隊の下働きにまでなったのは文輝の素養だろう。同じ条件でもまだ庁内の雑務をこなすのが精一杯だというものも決して少なくはない。
 十八で徴用を終えた者はそのまま官吏として残るのも、退官して市民として暮らすのもどちらも認められている。割合で言えば約六割が退官を選び、市井へ戻っていくが戴家程度の家柄になると高等学舎である修科(しゅうか)に進学し、より高度な知識と経験を積むのが普通で、文輝の二人の兄もそうした。今では彼らは学歴と戦歴から高官に任じられている。
 文輝も当然同じ道を辿ると自身を含め親族の誰もが認識していた。
 文輝に岐路が示されたのは中科も残すところ半年となった秋の終わりのことだ。
 岐崔は四方を峻烈な山々に囲まれた天然の要害で、四季と呼ぶには些か変化に乏しいが、雨季や乾季と呼ぶには表情豊かな気候を持つ。天険から放射状に六条の河が流れ、その源である岐崔の周囲は巨大な堀のようになっていた。西側の峰を越えた向こうは砂に覆われた荒野があり、春にはそちらから偏西風が吹く。秋には東側の峰の向こうから湿った風が吹きおろし雪を降らせる為、夏季には水、冬季には雪で岐崔は守られていた。
 初代国主が岐崔を首府と定めてから百六十年の歳月が流れたが、未だかつて遷都されたこともそのような提案が挙がったこともない。誰かから聞いたわけではないが、岐崔は山頂に浮かぶ安寧の地だと文輝は認識していた。その中で暮らす自らの幸福の意味も知らない。
 その認識が甘いのだということを痛切に突きつける事態が起きた。
 十七の秋だ。その年の冬は例年より東海の水温が高く、大雪になる、と天文博士が伝えた通り霜降(そうこう)を過ぎた頃から雪がちらつき始めた。
 これでは立冬(りっとう)が来る前に本格的な冬支度をしなければならない。燃料や食料の備蓄が始まり、市場は俄かに盛況を見せた。文輝の暮らす戴家でも下男たちが必死に飛び回っているのを横目に出仕する。
 岐崔の城下はどの道も石畳になっているから雪が降ったあとは足元が滑りやすくなる。文輝の今の上官は南方出身で雪を知らず、国官に昇進したばかりの頃は冬の警邏の任務に当たるのが酷く億劫だったらしい。十七年間、岐崔で暮らした文輝にはその苦労は分からないが、地方出身者は口を揃えて「お前も地方に飛ばされればわかる」と言うので何とはなしに国内のことながら距離感を抱いていた。
 長靴の向こうに新雪の柔らかさを感じながら表通りを抜けて警邏隊の本部のある中城(ちゅうじょう)を目指す。岐崔の城郭は二重構造になっており、国主の住居と役所を取り囲んだ城壁の中を中城、その周囲にある諸官の屋敷や市場などを城下と呼んで区別していた。文輝の生まれ育った戴家の屋敷も当然城下にある。城下と中城が通じる門は二つしかなく、城下の住人はそのどちらかをくぐらなければ中城に立ち入ることは出来ない。中科三年目で文輝は中城の東門である陽黎門(ようれいもん)の守衛と雑談が出来るほど親しくなった。下働きは朝と夕方の雑務が中心で日中の仕事は少ない。自然、文輝は朝早くに門をくぐる。三交代の守衛たちはそれでも文輝よりはずっと位が高い。その日も目礼し、通り過ぎようとしたが、中城の中から出てきた「誰か」と肩がぶつかった。
 文輝は下働きではあるが武官だ。肩がぶつかったぐらいで体勢を崩すことはない。ぶつかった相手の方が一歩よろける。陽黎門――武官の最高府である右官府の正門だ――の中から出てくる、ということは相手も官位を持っているだろう。無官(ぶかん)が右官府に立ち入ることは出来ない。だのに相手はよろけた。僅かな違和を覚えたが文輝はその場で拱手し膝を付いた。自然とそう出来るだけの教養を初科で叩きこまれていたからだ。

「失礼いたしました」

 足元に気を取られておりましたので、という弁解の部分は胸中に留める。下働きとは言えども文輝も国官だ。相手に応じた釈明が出来る、という渡世術を身に着けていなければ将来の可能性はない。西白国において武官の社会は本人の素養と武功による結果で成り立っている。家柄や縁故も素養の一部に含まれている為、厳密には実力主義の社会であるとは言えないが、西白国ほど武官の権力が明確である国は殆どない。
 文輝がぶつかった相手が武官ならば言い訳は許されない。徴用中の文輝からすれば九割以上が目上に当たるからだ。逆に言えば武官以外であれば釈明をする権利がある。接触事故は双方の不注意によって引き起こされた結果だ。文官や民間人が相手ならお互いが有責になる。
 そんな打算的なことを考えながら、膝をついたまま文輝は相手の様子を確かめた。
 年の頃は二十代半ば、体格は痩身で藍色の平服を着ている。平服には特別な定めはなく、そこから相手の身分を探るのは不可能だと察し次を当たる。
 手に持っているのは書物を携行する目的で作られた布鞄。今年の夏ごろ、東部で商品化され岐崔にはひと月遅れで持ち込まれたところ文官たちを中心に爆発的に流行した。武官である文輝も母親の勧めで一つ持っており、十日に一度行われる中科の討論研修に参加するのに使用している。相手の布鞄は随分と膨らんでいるのが見て取れた。武官が携行する書物は概ね一冊、多くても二冊だからこれほど膨らむことはない。
 そこまで確かめて幾ばくかの違和を残しながら文輝は立ち上がった。
 正面から顔を見る。警邏隊に配属されてからこちら、多くの武官の顔を覚えてきたが、今相対した男には全く見覚えがない。守衛に不慮の事故であることを証言してもらおうと視線をそちらに走らせた。
 すると。

「失礼だが、環(かん)を拝見させていただきたい」

 守衛は渋い顔で環の提示を求めた。
 環、というのは国色に彩られた金属で作られた文字通り円状の装身具で家柄と共に官位または職位を表す意匠が施されている。中科に合格すると同時に与えられ、昇進または進学、或いは退官や婚姻の際に「まじない」によって情報が更新される。いわば身分証明を成すものであり、王族から流民に至るまで成人で環を持たないものはいない。
 中城の守衛は環の識別においては関所以上の精度を求められ、必要に応じて諸官の環と持ち主の顔を暗記している。文輝が環を提示して陽黎門をくぐったのは中科一年目の最初の三日だけだ。それほど守衛の記憶力は優れている。退官してもなお数年以上の期間、守衛が環の持ち主を忘れることはない、と知ったとき文輝は自らにその任が務まらないことを悟った。
 その、守衛が男に環の提示を求める。
 中科を受験して以来、二年半中城に通ったがこんな場面を見るのは初めてだ。文輝は瞠目し、事の成り行きを見守る。守衛の言葉に抗うのはそれだけでも罪になる為、まともな相手ならば必ず従う。
 見覚えのない男もそれは心得ているのだろう。守衛の指示に従い、首元から自らの環を取り出し、示した。
 白銀――西白国の国色だ――の環。遠目にしか見えなかったが、刻まれている色は青――商人で、綾織の文様だから服飾関係であることが伝わる。家柄を示す貴石は橙色の瑪瑙だが粒が小さく、西方諸氏の出身であることを意味していた。
 中科の途中である文輝でも一目でその程度は把握出来る。身分上、この環の持ち主は警邏隊の下働きである文輝と対等だ。それでも敬語を崩さずに男の無事を確かめた。

「お体に障りはありませんか?」
「特には」

 単語に毛が生えた程度の返答がある。それでも、男がこの接触事故を取り沙汰す気がないことは知れたから文輝は軽く頭を下げることで応える。一連の流れを見ていた守衛も頷き、陽黎門を通過することを認めた。

「手間を取らせた。もう行ってよい」

 男は守衛に浅く礼をして石畳の上を慎重に歩いていく。文輝も問題がないのであれば役所へ向かおうとするが「小戴(しょうたい)、まぁ水煙草でもどうだ」という守衛の声に呼び止められた。小戴、というのは愛称で「戴家の坊ちゃん」という意味になる。水煙草は煙草の名を持っているがその実、ただ香草の香りを付けただけの水あめで、季節に合わせた効能を持っているものが売られている。晩秋から冬にかけては体を温める性質のものが一般的に流通していた。早朝の寒さに水煙草は諸手を挙げて歓迎出来る提案だったので、文輝は一服だけなら、と承知して門前に残ることを選んだ。
 守衛が器用に水煙草を取り分けるのを見ながら、文輝は呟く。

「しかし、こんな早朝に仕立て屋が中城で何の用件なのでしょうか」

 中城に住まうのは国主と王族だけだ。直系を外れた王族は臣籍降下し、公族と呼ばれ市井で暮らすことになっていた。出仕すべき場所に住んでいる王族の朝は中城で最も遅く、あと一刻ほどは眠りに就いているだろう。当代の国主である朱氏景祥(しゅし・けいしょう)は首府の外で育ったという経歴から王族にも関わらず朝が早いことで有名だ。
 主上の命でしょうか、と重ねて呟けば守衛は呆れた顔をした。

「なんだ、小戴。お前は気が付かなかったのか?」
「何に、でしょうか」

 これだから若い者は困る、といった風情で非難され、文輝は困惑する。守衛はそんな文輝に構うことなく水煙草を丸めた棒を差し出した。ありがとうございます、言って文輝はそれを受け取る。守衛はその間、顔色一つ変えずに「九品は皆性善説で生きているのか?」などと言ったりもした。

「お前のとこの二番目もそうだったが、もう少し人を疑うということを覚えねばならん」

 どうして父である戴将軍に似なかったのだと暗に責められたが、文輝からすれば小兄(しょうけい)は十分すぎるほど利発だ。外見、性格、ともに母親に似て柔和で人としての徳を持つ反面、武略にも強い。駆け引きの腕も並以上で将軍位を得た時期は戴家において秀才の類である大兄(たいけい)より幾らか早かったほどだ。大兄自身、小兄が将軍位を得た春には苦笑を零している。父に似て剛毅で融通の利かない自分では無理だっただろうと賞賛を送ったのを文輝は憧れの思いで見た。
 外見だけは父方の祖父に似てある程度の魅力のある文輝だったが、性格は母そのもので他人を出し抜いてまで出世しようという欲がない。自分の手が届く範囲の功でいいと文輝自身も周囲も認識しているから、世間からは時折純朴などという評価をもらう。
 その最たる例が今だ。
 守衛が見抜いた何をかは文輝の目には映らなかった。
 彼が何を暗示しているのか全く見当も付かない。自らの暗愚を恥じ、それでも守衛が呼び止めたからには文輝に答えを知る権利があるのだと判じ、問う。
 守衛は正直はほどほどにしておくのだな、と笑ったがそれでも回答をくれた。

「小戴、あれは国主様の間諜だ」

 その思ってもみない答えを文輝は瞬間理解することが出来なかった。
 この世界で暮らすものは皆、環を持つ。
 環に刻まれる色は六色だ。武官の赤、文官の緑、商人の青、工匠の黄、農夫の黒、そして流民の白。それ以外は決してあり得ない。
 それでも、その六職以外の職があることは初科で習うから知識として知っている。知っているだけで理解はしていなかった。
 間諜の環があるとすれば何色だろう、と考えて馬鹿な発想だと胸中で打ち消す。そんな色があれば間諜という存在の意味が成り立たないからだ。環はときに金銭の代わりとしても使われる。関所を通るにも当然必要だ。その環で誰の目にも間諜だと察せられて何を秘密裏に知ることが出来るだろう。そこまで考えて、間諜の職色など到底存在し得ない、ということにようやく気付く。
 ということはあの綾織の青の環には偽りがある。守衛はそれを見抜いた。それが守衛の職務だから当然と言えば当然だが、文輝には雲上の出来ごとのように思える。

「小戴、お前もいつかは将軍位をもらうのだろう? 貴重な発見が出来てよかったではないか」

 守衛は次の正月が来れば四十を超えると世間話で聞いた。四十で守衛の職を受けるのがやっとだと彼自身が言っていた通り、この年から内府(ないふ)の上級職である典礼官(てんれいかん)を目指すのは事実上不可能だ。守衛の環に埋まっている貴石は文輝のものよりずっと小さく安価な紫水晶で何の後ろ盾もないことを意味している。東部氏族の出身で首府の守衛が務められるのならば十二分だと彼は言ったが文輝には彼の小さな強がりにしか聞こえなかったことをよく覚えている。
 同情をするのは容易い。生まれたのが九品の家だったというだけで文輝は大粒の青玉を授かっている。文輝がその貴石の価値の通り、戴の本家を継ぐ可能性は限りなく低いが、このまま順当に行けば分家が認められ、安定した将来が待っている。それを引き合いに出して上からものを言うのは簡単だ。恵まれているのは事実なのだから誰にでも出来る。
 それでも、安易にそうしないだけの矜持を文輝は両親から教わった。
 驕るものは決して久しくない。九品が名家足り得るのは自らの足もとを支える諸官があってこそだときちんと教育されている。
 だから、文輝は敢えて問うた。

「どうやって区別しておられるのですか?」

 自ら思考し、解に辿り着く努力をしたが、今の文輝には間諜の環がないことを知るのが限界だ。先達の知識、経験則を知るのには価値がある。自分の目に映るものだけしか信じられないようでは文輝の将来は暗いままだ。
 守衛は問うた文輝に苦笑しながら、それでも一応は答えをくれる。

「仕立て屋の手に刀剣だこは出来んだろう」

 環を取り出して示させたのは手のひらを垣間見る為だ、と暗に言われ、文輝は守衛が何を観察していたかを知る。本物の服飾商人ならば手のひらにたこなどある筈もない。あるのは利き手の指先の針たこぐらいのものだ。
 それに気付かなかった愚を認めたが、可能性と戦いたかった文輝は反論を口にする。

「護身術を学んでいるのかもしれません」

 その反論がこの上なく蛇足で、墓穴を掘ったと気付いたのは守衛が溜め息を吐いた瞬間だった。浅慮だ。もっと熟考してから言葉を吐かなければならない。それを痛感したが既に遅い。守衛は初科で習う常識を呆れたように説いた。

「小戴、岐崔の商人に課せられた律は覚えているか?」
「……『商、もってこれに佩刀を禁ず。守欲すれば鈍のみを許す。また武に学ばんと欲すもの、兵部の許求むるべし』ですね」

 商人が刀剣を持つことは許されていない。護身術を学びたいのならば鈍器――棒術のみを認める。棒術以外の武術を学ぼうとするものは右官府兵部――軍部の管理をしている役所だ――の許可を得て、武官の誰かの指導を受けなければならない、という軍学舎に通う十の子供でも知っている常識を改めて認識させられて文輝は穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
 更に守衛は言う。

「小戴、お前は本当に何も気づかなかったのか?」

 だとしたらお前には将たる才がない。そこまで言われると羞恥と後悔は焦燥に変わる。
 文輝は必死に先ほどのやり取りを思い出した。
 そして。

「橙色の瑪瑙の環ではまず布鞄を買うだけの財がありません」

 貴石は家筋と共に資本の大きさを示す。流行りの布鞄は決して安い品ではない。中科三年目の文輝の俸禄ではひと月分が軽く飛ぶ。文輝がそれを持っているのは戴家にそれだけの余裕があるからで、自ら買うだけの甲斐性はまだない。その安くはない鞄を売っているのは他ならない綾織の商人である服飾商だ。鞄の価値を知らない筈がない。男の持っていた環の貴石では自らの為にそれを買うことは叶わないだろう。そんなことをするような商人は金銭感覚が破綻していると暗に広めて回るようなもので、信頼を損なう。だから、先ほどの男が真実綾織の商人であるのならば布鞄を持っている筈がない。
 一つ目の違和の正体を知った。
 文輝の答えに深く頷いた守衛は出来の悪い教え子に説く顔で二つ目の違和の解を求める。

「それで?」
「その高価な鞄に入れるだけの書を買う余裕は綾織の商人にはありません」

 文武官が持つ書はいずれも高価だ。だから、より高価な布鞄を買ってでも保護しようとする。中科の文輝たちは国から教本としてそれらを支給されるが、二十代半ばの商人の男に布鞄に入れる価値のある高価な書をくれてやる奇特なものはいないだろう。綾織の商人に必要な学は商法と目利きをする為の最低限の知識だけだ。大枚をはたいて書を購入してまで知らなければならないようなことは存在しない。
 そして、その事実もまた一つの結論を雄弁に語る。
 布鞄の中身は書ではない。
 二つ目の違和の正体も知った。
 同時にではあの膨らみの正体が何だったのかを知りたい気がしたが、文輝は結論を焦るような性質ではない。守衛の問いに答えていけば自ずと知れる。
 だから、文輝は守衛の言葉を待ちながら、三つめの違和の考察を始めた。

「そうだな」

 まだあるだろう。眼差しで問われて文輝は記憶の糸を手繰った。
 多分これが最初に得た違和だ。そして文輝がこれから武官の社会を生きていく為にはっきりと認識しなければならない根源的な問題でもある。

「仕立て屋が私とぶつかって、少しよろけるだけ、で留まるのなら私には鍛錬が足りておりません」

 文輝は武官だ。朝夕の職務を以外に与えられた自由時間は軍法の自習と槍術の鍛錬に充てている。初科の頃から文輝は鍛錬が好きだった。研鑽を積んだ分の結果は模擬戦闘に返ってくる。得物は何でも十人並みに扱えたが、長槍が最も得意で、修科を終えた後は騎馬兵を志願するつもりだった。つもりだったが、当然文輝には実戦経験はまだない。だのに警邏隊で十七にしてはよく出来るという評価を得て慢心していた自分に気付く。
 別に何も無官の民を転ばせねばならないとまでは思っていない。
 相手が本当は無官ではなく、間諜――武官が最も警戒しなければならない刺客にもなる存在だったのだから落ち度はないということも出来る。それでも、文輝は己を恥じた。
 先ほどの間諜が少しよろけたのが演技だったということを見抜けないほど認識が不足している。それだけではない。国主の間諜を務めるものが広い門の下で誰かと「不注意で」ぶつかるわけがないのだ。文輝は武官のお仕着せを着ている。一見して武官とわかる相手にぶつかってきたのが意図した行為でない筈がない。どういう理由で、何の利があってそうしたのかはわからないが、文輝は間諜に「試された」のだ。そして守衛はそれを即座に理解したから渋い顔をした。
 文輝は次の春には中科を終えるが、まだまだ学ばねばならないことがある。
 そのことを守衛は暗に示した。それが彼の配慮であることを疑わなければならないほどには幼くはなかったから素直に頭を下げる。
 守衛は苦笑して下げた文輝の頭を軽く叩いた。

「小戴、人にものを尋ねるのならそこまで思考してからにするのだな」

 世間は俺ほどに優しいとは限らん。守衛の言葉に文輝は自らの境遇が恵まれていることを改めて知る。戴家は九品の一つだ。品格があり、同時に財も縁故も持つ。ときにはそれが妬みの材料になることを文輝も知っている。初科にいた頃から明確な理由もなく敬遠されることは決して珍しいことではなかった。
 九品のうち、武家は五つだ。その中に文輝と同じ年に生まれた男子はいないが、女子はおり、初科で一度だけ同じ組になった。彼女も文輝と同じように周囲からは一線を引かれた存在で、多分同じように不条理を感じていただろう。それでも文輝も彼女もお互いに同情をしなかった。西白国においては女性でも将軍位を得ることが出来る。将軍位を志すのに傷の舐め合いをするような弱さは必要ではない。八つにして二人ともがそれを理解していたから、必要最低限の交流は持ったが、お互いを特別扱いしようとはしなかった。
 中科三年目の文輝は警邏隊の下働きで従八位上。彼女の方が文輝より一つ位が上で工部(こうぶ)――武官を動員しての土木工事を管轄する役所の案内係を務めている。位は正八位下だが、二人とも中科であり、まだ仮の官位だ。俸禄は正規の半額しか支給されないし、このまま役所に残ってたとして、同じだけの官位を授けられるとは限らない。
 それでも。彼女も九品だ。修科へ進むことはもう決まっているようなもので、あと半年もすれば文輝たちは再び同級になる。それまでにもう一度会って話がしてみたいと不意に思った。
 今なら、彼女と意味のある会話が出来る、だなんて無責任なことを思う。その思いをくれたのはあの間諜と守衛だ。
 だから。

「水煙草、ありがとうございました」

 生姜が練り込んである水煙草を口にしたおかげで秋の終わりとは思えないほどの冷たい風にも耐えられる。文輝が仕事をするのに大いに手助けとなった、という体で礼を言うと守衛はその裏の本音も見抜いたのだろう。それでも彼は大らかに笑って陽黎門をくぐる許可をくれた。文輝は軽く会釈して門の中へ駆け込む。
 運命の岐路が足音もなく迫っていることを文輝はまだ知らない。
 岐崔の一日がゆっくりと始まる。

(お知らせ) 「それは、風のように」初稿17話まで追加

※更新のお知らせ
 「それは、風のように」の初稿全17話を追加しました
 手直しが済み次第、改稿と差し替えます

※今後の作業予定
 「それは、風のように」の設定資料集仮置き場を中心に更新します
 追加してほしい項目がありましたら、お気軽にお知らせください

(お知らせ) MEMOを新しくしました

※お知らせ
 MEMOが新しくなりました
 今後はこちらで呟きやお知らせを投下していく予定です

※進捗報告まとめ
 Alice本体とテキストページをレスポンシブルデザインに変更しました
 今まで使っていたMEMOは「それは、風のように」の設定資料置き場になりました

※今後の作業予定
 イラストリンク用のアイコンを作ります
 tumblrに置いている「それは、風のように」の初稿を引っ越しします